1 犠牲となった聖女
──なら、私が犠牲となればよいのですね
彼女は暗闇の中で思いだしている。
絹のような金髪に澄みわたった空のように碧い瞳。美しさを隠すような質素なワンピース。
彼女──エルミーユはかつて"聖女"と呼ばれていた。そして、いまは"大聖女"として人々に崇められている。
実質的な死と引きかえに。
数年前、彼女をふくめた勇者パーティはついに魔王が住まう地へとたどりついた。人間が暮らす世界の果てにあるとは思えないほど荒れ果てた地には魔界へと続く門があり、そこから巨大な右腕だけをだした魔王は──右腕一本で勇者たちをあっという間に蹂躙した。
そして絶望を告げる。『人間がどれだけ強くなろうと我は倒せぬ』。
だれもが全滅を予感した。そのとき、聖女は瀕死になっている仲間たちの前に立ちふさがった。そして街の大図書館で得た知識を口にする。
『しかし、聖なる力を持つ者ならば門を閉じることが可能なのでしょう』
聖女の体を持ちあげようとしていた魔王の手が止まった。『面白い。門の"鍵"となった聖女は命が尽きるまで永遠に目覚めないと知ってのことか』
『はい。……わかっています』
勇者ははっとしたように顔をあげた。やめろエル、そんなのはダメだ、と地面に倒れながら叫ぶ。
『魔王を封印するつもりか!?』
『やめてエル、それはやらないって決めたでしょう!? 戻ってきて!』
剣士と拳闘士も血相を変えて叫んだ。
エルミーユは愛する仲間たちを振りかえり、優しく微笑む。
『守りたいんです、あなたたちがいるこの世界を。私の命と引き換えにしてでも』
いつでも明るい笑顔を見せてくれた勇者、父のように頼りになった剣士、まるで姉のようだった拳闘士。
聖女はこれまで一緒に旅をしてきた仲間たちの顔をひとりひとり見る。
たったひとり──。黒魔導士の彼だけは、この場にいないけれど。
(……でも、あのひとは私を嫌っていたから。ここにいたとしてもなにも言ってはくれないでしょうけれど)
エルミーユは魔王へと向きなおる。
『私は命をかけてあなたを封印します。魔王陛下、覚悟してください』
『……面白い』
聖女は禍々しい闇の門へと一歩ずつ近づいてゆく。
右腕しか見えていない魔王が、闇の向こうで愉快そうに笑った気がした──。
(そう……。私はみんなを……みんながいるこの世界を守るために犠牲になって)
「本当にそれでよかったのか?」
「……っ!?」
どこかから聞こえてきた声にエルミーユは息を呑む。
周囲を見回すが闇しか見えない。
「だれ……?」
闇の中に封印されてどれくらい経ったのか。時間の感覚がないからわからないが、おそらく数年は経過しているだろう。
自分の顔さえ見えない闇。ここで他人の声が聞こえてきたのは初めてだった。
「おまえが封印されたあと、やつらがどうしているか知りたくはないか?」
「……アレンたちのこと、ですか?」
勇者の名前をエルミーユは口にする。
太陽のように明るくて、努力家で、困っている人を見過ごせない彼にパーティはいつも引っぱられていた。
久しぶりに彼の名前をつぶやき、エルミーユは微笑む。
「……そうですね。私が魔王を封印し、平和になったあとの世界を見てみたいです」
「なら見せてやろう」
「きゃっ──」
闇から黒々とした羽をもつ大鴉が飛びだしてくる。
羽音を響かせて飛んできたそれはエルミーユの前に降り立つと、巨大な嘴を開けた。
中には目玉のように光る水晶玉。
「これがおまえが守った世界だ」
水晶玉は外の世界を映しだす────。
大都市・オウンバリーの教会には大聖女エルミーユの像が建てられていた。
人々はその前でひざまずき、世界を守った大聖女に感謝の祈りをささげている。
水晶玉を通してその光景を見たエルミーユは思わず胸を熱くした。
(外の世界では私はこんなふうに……)
「祀られている、だけならよかったがな?」
「え……?」
大鴉の声にきょとんとしたときだった。
だれかが開けはなされた教会の扉をくぐってやってきた。エルミーユはとっさに叫ぶ。
「アレン! ハナ!」
最後に別れたときよりもすこし大人びたふたりの姿がそこにはあった。
勇者アレンは周りを照らすような笑顔で民衆たちの喝采に応え、以前は男勝りだったハナは彼の隣でおしとやかに微笑む。
仲間の姿を見てエルミーユは表情を明るくするが、ふたりの左手の薬指に指輪がはまっているのを見てちくりと胸を痛めた。
アレンとハナは結婚したのだろう。エルミーユが犠牲となったあとに──。
いつでも眩しく輝いているようなアレンに恋心をいだいていたことを思いだし、エルミーユは目を伏せる。
『大丈夫、きみのことは必ず俺が守るから』
エルミーユができるのは怪我の治癒だけだ。戦闘能力は皆無に等しい。
そのことを気にして自分もなにか武器を扱えるようになったほうがいいのではと相談すると、アレンはそう言ってくれた……。
(……それだけで充分)
(こんな取り柄のない聖女をパーティに入れてくれて、優しくしてくれただけで……)
「なにをうつむいている?」
「え?」
「面白いのはこれからだぞ」
大鴉の言葉にエルミーユは水晶玉へと目をもどす。
そこでは信じられない光景が広がっていた。
教会の通路の脇でひざまずいている民衆たちから金を回収するアレンとハナ。
「なっ……」
目を疑ったが、寄付金を預かっているだけだろうと冷静になる。
そう考えたエルミーユの心を読んだように大鴉が「声も聞きたいか?」と言った。
革袋の中身を開け、舌打ちするアレン。
『おい、こんだけか? おまえんとこは先週も銀貨だけだったよな?』
『す、すみません……ですが、あの、うちには子供が三人もおりまして』
『だったらなんだよ? 俺たちは世界を救ったんだぜ? その勇者さまへの感謝がこれっぽっちっておかしいよなぁ?』
『ひいっ!』
アレンはみすぼらしい格好の男の肩を蹴りつける。
彼の怒りは収まらず、あわてて床に額をつけて謝る男の頭を踏みつけようとしたときハナが『やめなよ、アレン』と彼を止めた。
『このひとだって生活が苦しいんだよ。いじめたら可愛そうでしょ?』
『あ? よく見ろよ、ノルマには全然足りないだろうが』
『いいじゃんべつに、それくらい』
ハナはにっこり微笑む。
そして、救世主を見たような顔をする男にこう言いはなった。
『足りない分はこのひとの子供に払ってもらお?』
男は絶句する。
『お、いいなそれ』『ねー。子供は高く売れるもん』ふたりは仲睦まじく寄りそって金の回収を再会する。
『どうか、どうか子供だけは……っ!』男の悲痛な叫びを無視して。
「……うそ……」
水晶の前でエルミーユは立ち尽くした。
「嘘、嘘よ! あのふたりがこんなことするはずない!」
「信じるかどうかはおまえ次第だ」
さて、と鴉は楽しそうに続ける。「あの大男も見てみるか」
大男──戦士ドミニクのことだとわかった。
大柄な彼は身の丈ほどもある大剣をいともたやすく振りまわし、戦闘時以外でもその豪胆な人柄で周囲から頼りにされていた。
『俺のことを父親代わりにしてもいい』。エルミーユが孤児だと知り、そう言ってくれたこともある。
エルミーユは胸の前で両手をにぎりあわせた。
どうか彼は昔のままでいてくれますようにと願いながら──。
だが、
『大聖女、エルミーユの名のもとに』
水晶に映しだされたのは、小さな山奥の教会に美女を集め『通過儀礼』と称して夜な夜な女性たちを抱くドミニクだった。
『ドミニクさま……これで私も、エルミーユさまのようなお力が……?』
『ああ……。こうやって俺が毎晩聖力をそそぎこんでやりゃ、いつかはなれるだろうよ』
『嬉しい……』
信者の女性たちはだれもが恍惚とした顔をしている。
見ていられず「やめて!」とエルミーユは叫んだ。
大鴉は嘴を閉じる。
「なんだ。ここからがよいところだったのに」
「……あなたは魔王でしょう!?」はたと思いついてエルミーユは言う。「こうやって偽りの光景を見せて私の心を惑わそうとしているのですね。その手には乗りませんよ」
「聡い女だ。だが、愚かだな」
「……どういう意味ですか」
「この光景は」大鴉は嘲るように言う。「偽るまでもなく、現実世界で起きているということよ」
「嘘……っ!!」
「おまえが見ていたのは仲間たちの表の顔に過ぎん。いや、案外こっちのほうが本性かもな?」
「でたらめを──」
「そして」
大鴉は再び嘴を開ける。「この男の裏の顔も、おまえは知らなかったようだ」
「え……」
エルミーユは意表を突かれる。
そこに映っていたのは、冒険中ほとんど口を利くことのなかった黒魔導士。エリックだった。