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ステテコマン

作者: 城里田 圭

空が高い。

 思わず顔を上げると、ツバメがすいっと視界を横切ったところだった。眩しい日差しを鋭角に切り取って、水平線へと消えていく。蒼い海面が砕けたガラスを散りばめたように反射し、ホログラムとなって目に焼き付いた。

 その場所は、海を見下ろせる丘の上にあった。アプローチを登り切ると、梢を揺らす風が、汗ばんだ体に優しく吹き付けた。並んで歩いていた彼女が帽子を押さえ、こちらを見て小さく微笑む。

 僕がプレゼントした真珠のブローチが、薄い胸元で輝いた。彼女の白い歯は、それに負けないぐらい眩しかった。その柔らかな眩しさは、僕を穏やかな気持ちにさせた。白はおかやんの好きな色だったからだ。

 細い砂利道を少し歩く。遠くで汽笛が聞こえ、長く耳に残る。時間がのんびりと流れていくようだ。

 海を背景に、目的のものが見えてきた。歩調を変えずに近づくと、僕は軽く頷いて「ここや」と、立ち止まった。

 おかやん――。最近暑い日が続くけど、そっちはどないや? あんじょうやっとるか。

 僕はその場にしゃがみ込み、蒼穹を見上げた。


 

 子供の頃から僕は、おかやんの顔を見ると口癖のように言っていた言葉がある。「何でおとやんなんかと結婚したん?」だ。その度に、おかやんは寂しそうに笑って答える。「愛しとうからや」そうして照れてそっぽを向く。ずっとわからなかったが、そのときおかやんは、素の女に戻っていたのだろう。

 あそこに毛も生えて声変わりもし、おかやんより背が高くなる頃には「さっさと離婚した方がええんとちゃうん?」などと、お節介を言ったこともあった。一応僕はおかやんとおとやんの息子なので、そういった問題に首を突っ込む権利はあると思っていた。そしてその思いは、長く心の中に抱いていた。おかやんが、可哀想だったからだ。

 僕が物心ついたときから、家計を支えていたのはおかやんだったと思う。おとやんは何をしているのかよくわからなかったし、昼間からステテコ姿でごろごろしていることが多かった。そのくせ夕方近くなるとふらりと出かけ、僕が起きている間に帰ってくることは稀だった。

 おかやんの仕事場は、近所のスーパーだった。鮮魚売り場で魚を捌いたり、パックに詰めたりしている。小さな体に分厚いゴムの前掛けと長靴が不釣り合いで、そんなおかやんの姿を見るのが、なぜか恥ずかしかった。

 僕が保育園に入れてもらえるまでは、じっとしない僕を背負って働いていたらしい。泣き喚いたり暴れたり、何より重いから、華奢なおかやんには大変だったに違いない。職場仲間の目も気にならないわけがない。店長さんの理解があったからよかったものの、やはり相当迷惑をかけたと思う。だから保育園に預けられるようになったときには、ほっとしたはずだ。送り迎えの苦労など、魚の鱗を剥がすぐらいのものだったろう。

 だけど一度よっぽど慌てていたのか、長靴を履き替えず頭には三角巾をしたままで保育園に迎えに来たことがあった。その姿を見た先生が「くすっ」と笑ったとき、僕の小さな胸に冷たい風が吹き込んだ。初めて知った、憎しみという感情だった気がする。

 友達のお母さんはみんなきれいで、化粧までして迎えに来るのに、スーパーを抜け出して来てくれるおかやんは生臭かった。決して嫌いなにおいではないけれど、友達がいる保育園では嗅ぎたくなかった。保育園には、普通のお母さんの姿で来てもらいたかった。誰も知らないけれど、本当のおかやんはみんながびっくりするぐらい美人なのだ。

 僕をアパートに送り届けると、おかやんはすぐ仕事に戻っていく。 寂しくて「おかやん、いかんといて」と泣いても、おかやんは眉を下げながら「働かなごはん食べられへんやろ」みたいなことを言って、後ろ髪を引きずられるかのようにドアを閉める。外まで漏れる僕の泣き声が、辛かったんだと思う。鉄製の階段を駆け下りる足音は、いつも演歌のメロディのようにもの悲しく鳴るのだった。

 おかやんが陽のあるうちに帰ってくることは、まずない。僕はいつも窓の傍にいて、狭い路地を見下ろしている。そのうち窓の外が真っ暗になって、鏡のように光りを通さなくなる。情けない僕の顔が、そんなガラスに映し出されるのを阻止するのは難しかった。

 まだおとやんでもいてくれたなら、心細さは感じなかったろう。あんなおとやんでも、一応は大人なのだ。僕は子供だったから、誰かに頼らなければいられなかった。不本意だとか意地だとかいう語彙を身につけたのは、もっとあとの話しだ。

 なのにおとやんはというと、てんで頼りにならない。毎日昼過ぎまで寝ているくせに、保育園から帰ってくる頃には家にいない。ワンカップの瓶だけが、テーブルの上にいつも一個乗っかっていた。 狭いアパートの部屋に籠もったアルコールのにおいは、大人になった今でも鼻腔に残っている気がする。僕の体が酒をうけつけないのは、きっとそのせいだ。

 お腹が減って、それを通り越して眠くなる頃、おかやんが帰ってくる。ドアを開けるおかやんがまず確かめるのは、おとやんの履き物があるかないかだった。あることなど滅多にないが、癖になってしまったのだろう。だから溜め息を吐いて框に上がるのも、毎度のことだった。僕はこの溜め息の意味が、ずっとわからなかった。

「文哉、遅なってごめんな。すぐご飯作るからな」

 おかやんの第一声は、決まってこれだった。その声を聞くと、僕は泣きたくなるような安心感を覚えた。今まで感じていた寂しさや心細さは、部屋の埃と一緒におかやんの開けたドアから吐き出され、代わりにおかやんの纏う微かな生臭さが気の抜けたアルコールを追い払う。だから僕は、仕事などで田舎の漁師町なんかに立ち寄ると、必ずおかやんのことを考える。残念ながら、日本酒のにおいでおとやんを想うことはない。

 ご飯のおかずは、スーパーでもらってくる残り物の干物や佃煮が多かった。僕は、おかずに文句をつけたことは一度もなかったはずだ。でもおかやんはよく謝った。

「明日は肉食べさせたるからな」そう言って悲しそうな顔をするが、僕はおかやんと一緒に暖かいご飯が食べられるだけで満足だった。

 僕は小学校に上がる前から、一人で風呂に入っていた。食事が済むとすぐに入浴しなければ、子供の寝る時間なんてあっという間に過ぎてしまう。おかやんが帰ってくる前に火をつけるのは禁止されていたので、ご飯前にさっぱりすることは諦めるしかなかった。でもおかやんこそ、先に風呂を使いたかっただろう。この習慣は、僕が中学生になるまで続いた。

 風呂に入っている間に、おかやんは洗い物を済ませ、布団を敷いてくれる。歯を磨いて布団に潜り込む頃には、台所に移動させた卓袱台に、ゴム靴貼りの内職の用意ができている。長いゴム布のロールを、二等辺三角形のてっぺんが平らになった型に合わせて線引きし、それに添って鋏で切っていくのだ。切り取られた三角形のゴム布の先に、ゴム糊で絆創膏のようなものを貼り付けていく。おかやんの作業はここまでで、あとはこれを靴工場に送り、何度かの工程を経て子供たちが学校で履く体育館シューズができあがる。

 神戸市内の学校では、全ておかやんの作った靴が使われているに違いない。だっておかやんがゴム布を切るスピードは、尋常じゃなかった。あの大きなロールが、一晩でなくなってしまうのだから。

 夢うつつの中で、ゴム布に鉛筆で線を引く「シャッシャッ」という音が、心地よく響く。そうして眠りにつくのが好きだった。

 これだけおかやんが働いても、うちは貧乏だった。思うに、おとやんが全部使ってしまうからだろう。ギャンブルをしていたかどうかは知らないが、飲み代だけでも相当なものだったのではないか。毎日のように夕方出かけるおとやんが、仕事をしていたとはどうしても思えないからだ。

 


 おとやんの悪いところなら、いくらでもあげつらうことができる。例えば、おとやんは家の中ではいつも半袖シャツにステテコというなりで、それは真冬でも変わらない。重ね着をするとくつろげないというのが、おとやんの言い分らしかった。

 薄着が好きなのは、おとやんの勝手だ。でも神戸だって冬は寒い。戸締まりをしっかりしても隙間風が入ってくるようなボロアパートだったから、夜など部屋の中でも息が白くなることもあった。それでも僕やおかやんだけならたくさん着込むので、炬燵一つあれば間に合う。というか我慢した。なのにおとやんは、昼間でも勝手にストーブを焚いていた。僕が学校から帰ってくると、誰もいない部屋が無駄に暖かいのだ。おそらく出かける直前まで、がんがんに火を燃やしていたと思われた。

 まだ消されていればいい。ときどき、着きっぱなしのときがあった。そんなとき、僕は暑いぐらいの部屋の中で、体を芯から震わせた。子供だった僕は、どうして震えるのかわからなかったが、多分怒りのエネルギーが熱を奪っていったのだろう。その灯油代があれば、おかやんに冬物のセーターでも買ってあげられたのにと、成長してからどれだけ悔やんだことか。

 おとやんはこっぴどい暴力こそ振るわなかったが、理不尽なことでよく怒った。たとえば雨が続いて洗濯物が乾かず、その日履くステテコがなかったりすると「お前はそれでも主婦か」と、おかやんを詰る。かといって部屋の中に干しっぱなしにしていると「鬱陶しい」と文句を言うのだ。

 冷蔵庫にビールが切れていると「気の利かんやっちゃ」などとほざいて飲みに出る。掃除する間もないおかやんに代わって僕が部屋を掃いていても「どこに目ぇつけとる。隅んとこ、汚れたままやろが」尻を叩かれる。自分はなんにもしないくせに、感謝するということがない。

 こんなこともあった。僕が小学三年生のときだった。どうしても欲しかったグローブを買うために、血の滲む思いで貯めていたお小遣いが、いつの間にかなくなっていたのだ。

 おとやんの仕業だということぐらい、子供にだってわかる。泣いて抗議すると「男がそれぐらいのことで泣くな」と頭をぐーで殴られた。

 そんな僕を見て「そのうちおかやんがこうたるから」と、おかやんは慰めてくれた。だけど僕は、その「そのうち」が絶対にこないことを知っていた。給食費さえまともに払えないのは、学校全体でも僕を含め二、三人しかいない。グローブを買う金があれば、おかやんのことだ、必ずそちらに廻すだろう。おかやんは、最低限の社会の義務を果たすため、毎日必死で働いていたのだ。僕はその境遇を、ちゃんと理解していた子供だった。

 借金取りのような人が、押しかけて来たのもこの頃だ。チャイムが鳴るので外に出ると、顔に傷痕のある、いかにも怖そうなおっちゃんが立っていて「僕、おとうちゃんかおかあちゃんおるか」と訊いてきた。

「うんん、おれへん」腰を退きながら応えると、おっちゃんは「ほな、部屋で待たせてもらおうかのう」僕の承諾も得ずに上がり込んできた。昔は今と違って大らかだったのだ。

 おっちゃんは卓袱台の前に胡座をかき、狭い部屋をぐるりと見回した。宿題を済ませていた僕は、いつもの指定席、路地を見下ろす窓の下に膝を抱えて座り直した。

「僕、いっつも一人で留守番か」おっちゃんは、顔に似合わず僕に気を遣ってくれているようだった。僕が黙って頷くと、ちょっと渋いような表情を作って「しゃーないおとうちゃん、おかあちゃんやのう」と言った。こんなやりとりがあったことさえ、自分でも信じられない。でも本当のことだった。借金取りのおっちゃんだって、人間くさかった。僕が子供だったから、そう感じただけではないはずだった。

 おっちゃんは、息詰まるような空気が嫌いらしかった。おとやんの残していったワンカップの空き瓶を手に、ぷかぷか煙草を吸いながら「僕、腹減ってへんか」「僕、おっちゃんが何か作ったろか」などと黙っていない。僕は仕方なしに「おかやんが帰ってくるまで、なんもいらん」と応えた。おっちゃんは「さよか」小さく呟いて、さらに怖い顔になった。

 おかやんが帰ってきたとき、部屋の中は真っ白に煙っていた。おかげでおかやんのにおいがわからなかった。僕はその悲しさと安堵が入り交じり、ぽろりと涙を零してしまった。

「おらぁ。こんな時間までこんまい子独りでおいといて、何しとるんじゃ」

 目を丸くしているおかやんに向かって、おっちゃんは怒鳴り声を上げた。おかやんが「すいません。どちらさんですか」と問いかけても「可哀想や、思わんけ」と、一人で怒っている。「借金も返さんと、子供ほったらかして夫婦で遊びくさってからに。許さへんど」

 ようやくおかやんは、おっちゃんの正体に気付いたようだった。あっと小さく叫び「すいません。もうちょっとだけ待って下さい」拝むように頭を下げた。

「おかやんを虐めるな。おかやんは朝から晩までずっと働いとるんや。僕にご飯食べさせてくれるために、一所懸命働いとるんや」

 僕は、無我夢中でおっちゃんにしがみついた。おとやんが怒られるならいい。おかやんが誤解されて詰られるのは、我慢ならなかったのだ。

 おっちゃんは驚いたようだった。「なんや、あんた。今まで仕事しとったんか。昼間の仕事やって聞いとったけど、もう九時やんけ」

「うちの店、閉店が八時ですから、後始末してたらどうしてもこんな時間になってしまうんです。文哉には可哀想やと思ってるんですけど、仕方ないんです」おかやんの声が震えていた。

 僕はおっちゃんの腰にしがみついたまま、何かを叫んでいた。ただ、ただ、おかやんが可哀想だった。おかやんは悪うない。おかやんは頑張っとう。そう訴えたかったのだ。

 そんな僕を引きずって歩き、おっちゃんはおかやんの前に立った。

「ちょっとあんた、手ぇ、見せてみい」

 おっちゃんが、おかやんの手を取った。おかやんは手を見られるのが恥ずかしいようだった。引っ込めようとしたが、おっちゃんの力にはかなわなかった。

 おっちゃんは、じっと見入っていた。しばらくして「わかった。もうちょっと待ったるわ。そやからあんた、あんまり無理せんと、たまには体、休めるんやで」そう言って僕の腕を外し、部屋を出ていった。出ていきしなに顔だけ振り返り「僕、おかあちゃん、大事にしたりや」そして目尻を下げた。厳つい顔がさらに強ばったようにしか見えなかったが、笑ったんだと気付いたときにはすでに足音が階段を降りていた。

「ありがとうございます。ありがとうございます」おかやんは涙声で、何度も何度も表に向かって頭を下げていた。

 多分おっちゃんは、駄目な借金取りだったんだろう。でも僕たちにとっては、神様のような人だった。成長してからもおっちゃんの顔は忘れていない。怖そうな人を見る度、顔に傷があるか確かめてしまう。そのせいで危険な目に遭ったことも少なからずあった。

 このときの借金がどうなったのか、僕は知らない。おっちゃんに会ったのはこの一度きりだったし、おかやんは何も言わなかった。おそらく頑張って返したんだと思う。そこにおとやんの頑張りがあったのかどうか、確認することはできなかった。



 僕は、引っ込み思案で寂しがり屋だったが、友達には恵まれた。僕ほどではないにしても、他にも貧乏な奴らはいっぱいいたから、それが理由で虐められることはなかった。だから学校では、楽な気持ちでいられた。

 それに僕は、少々運動神経もよかった。子供、特に小学生の頃は、スポーツのできる奴は絶対的な人気者になれた。口下手なのを補って余りある体育の好成績は、気弱な僕をぎりぎりのところで助けてくれた。身軽ではすっこい体に生んでくれたおかやんに、感謝するのみだった。

 小学四年生のクラス替えで一緒になった男子は、気のおけない奴らばかりだった。僕たちは、日曜日になると近くの広場に集まって、よく野球をした。グローブを持っていないのは僕だけだったが、みんな気持ちよく貸してくれた。その代わりと言ってはなんだが、いつも宿題の答えを教えてあげた。一応僕は、クラスで一番勉強ができたのだ。

 学校の傍には、猫の死骸が浮いているような小さな川が流れている。その河川敷が、軟球で野球をするにはうってつけの広場になっていた。僕たち小学生にとってはほどよい広さだが、もっと上の年齢になるともの足らないのだろう。整備をされているわけでもないので、無数のでこぼこもある。だから場所取りで泣かされることはほとんどなかった。

 その日も、梅雨空の合間を縫った久々のお天気に、僕たちは喚声を上げながら走り回っていた。雨上がりの河川敷はぬかるみもあって走りにくかったが、靴が汚れるのを気にするような奴は一人もいなかった。

 僕が二塁打を打って、地面に書いたベース上でズボンの埃を払っているときだった。堤防を兼ねた道路を歩いている、ステテコ姿のおっさんと目が合った。おとやんだった。たまたま早く起きて、暇つぶしの散歩でもしていたのだろう。早いといっても、もう昼過ぎだったけど。

 僕はすぐさま目を伏せたが、遅かった。

「おーう。やっとるな!」

 おとやんの嬉しそうな声が、河川敷に駆け下りてきた。僕以外の全員がおとやんに視線を向け、同じようにあんぐりと口を開けた。やくざのようなおっさんがこっちに歩いてくるので、驚いているのだ。

「文哉! お前ヒット打ったんか。やるやないかい」

 ホームベースのところまでくると、おとやんは僕に声をかけた。それを聞いて逃げようかどうしようか迷っていたみんなは、このおっさんが僕のおとやんだと理解して、戸惑うように僕たちを見比べた。

「よし、次は代打、おっちゃんや。さあ、ピッチャー、投げてみぃ」

 おとやんは、周りの空気もおかまいなしに勝手にバッターボックスに入ると、ちょうど打とうとしていた友人のバットを取り上げ、ピッチャーに先端を向けた。

「おとやん! あの、今、試合中なんや」困惑しているピッチャーに代わって、僕は声を張り上げた。恥ずかしい気持ちがあったから、おとやんの怖さなど忘れていた。

「あほぅ。そやから代打やとゆうたやろがい。わしがバッティングの手本を見したろ」

 おとやんは、さっさと投げい、とピッチャーを恫喝した。ピッチャーもやけくそになったようで「おりゃっ」と気合いを込めた一球を投じた。

 奇蹟のように、ボールはストライクゾーンに吸い込まれていく。まるでおとやんが呼び込んだようだった。

 僕たちならとっくにバットを振り出しているタイミングでも、おとやんは動かない。そのまま見逃すのか、と思ったとき、びゅん、という風切り音が僕の耳にまで届いた。ほとんど同時に、ばしん! と布団を叩いたような衝撃。僕でさえ背筋が伸びるほど驚いたのだから、ピッチャーやほんの近くにいたキャッチャーなど、脳天をかち割られたようなショックを受けたに違いない。

 ボールは、僕の遙か頭上をあっという間に越えていき、すぐに見えなくなった。

 僕たちは、誰も声を上げられなかった。ただただ呆気に取られて、いつまでもボールが飛んでいった方を眺めていた。

「おう。よう飛んだの」

 片手を帽子の庇のようにおでこにあてたおとやんが、暢気な口調で「ホームランやな」と言った。我に返った僕は「おとやん。ボールなくなったやんか。あれ、友達のボールやのに」弁償する金などないから、猛抗議をした。

「軟球の一個や二個でがたがた言うな。そのうちバケツいっぱい持ってきたる。それよりボール、もうないんか。今からわしが、お前ら特訓したる」

 それからのことは、あまり思い出したくない。おとやんの特訓は、星一徹も真っ青になって裸足で逃げ出すぐらいハードだった。僕たちは汗と泥にまみれ、涙と鼻水を流した。おとやんだって、ステテコに雪駄履きという格好だったから足など真っ黒だ。でも嬉しそうだった。おとやんがあんなに楽しそうに笑っている顔を見たのは、このときが初めてだったかもしれない。だから僕は泣きたいぐらい疲れたけれど、おとやんのためにもう少し頑張ってやるかという意識もなくはなかった。

 結局全員がへとへとになってぶっ倒れるまで付き合わされ、ようやく解放されたときは、お日様が真っ赤になって怒っていた。最後まで元気だったのは、中年のおっさんであるおとやんだけだった。 どこにこんな体力があるのだろう。これだけ元気が有り余っているのなら、土方でも何でもすればいいのに。そう思ったが、口にはしなかった。

 帰り道、みんなから浴びせられる恨めしそうな視線の中、僕は飴玉のように溶けてしまいたいと思った。でも一方で、野球の上手いおとやんをちょっぴり誇らしく感じたのも事実だった。子供なんて何か一つでも自慢できることがあれば、大概のことは許せてしまうものなのだ。僕がおとやんに抱いていた不信感ややるせなさは、おかやんというフィルターを通しての無理解からくるものだったのかもしれない。おかやんの側に立ってでしか、おとやんを見ていなかった。そこは反省しなくてはいけない、と。

 今までおとやんに遊んでもらった記憶がなかったから、たった一度、しかもむちゃくちゃしごかれただけだというのに、不覚にも僕の胸にちらりと甘い気持ちが湧き上がったのだった。



 ――やはりその考えは、間違っていた。

 その夜、一緒にしごかれた友達の母親が、友達を連れてアパートに怒鳴り込んできた。どうやら突き指をしたらしいのだった。病院にいったというその指は、包帯でぐるぐる巻きにされ、フランクフルトのように太っていた。

 応対に出たのは、仕事から帰ってきたばかりのおかやんだった。わけのわからないまま、血相を変えて口から唾を飛ばすおばさんに、ぺこぺこ頭を下げている。僕と友達はおばさんの剣幕に押されて、ただただ縮こまっていた。

 なのに珍しくうちにいたおとやんは、畳に寝転がってプロ野球の中継を見ながら、鼻くそをほじっているだけだった。

 そんな姿は玄関から丸見えなだけに、おばさんの怒りに油を注ぐことになる。沸騰したやかんのように興奮したおばさんは「奥さんを働かせて、自分は昼間っから子供相手に野球ですか。しかも小学生にしごきやなんて。まったくええ大人が、恥ずかしいと思いませんか」おかやんの肩越しに、おとやんに向かって吼えた。

 その声を聞いて、おとやんがテレビから視線を外し、おばさんを睨みつけた。おばさんは思わず後ずさりする。おとやんは「にやっ」と笑うと、くるりと背中を向けて豪快なおならをかました。

 おばさんは、口をぱくぱくしながらおかやんに向き直り「な、長尾谷さん、悪いこと言わん。文哉君連れて、ここ出た方がええよ。どうせあんたの稼ぎだけで食べとんのやろ? そしたら二人だけの方が、よっぽど楽でしょうに。あんな男、ええ加減、愛想つかしたり」興奮のためか、声を震わせながらわめき散らした。

 僕もおばさんに同感だった。アパートへの帰り道、夕日が燃える中おとやんに抱いた感情は、やはり甘過ぎた幻想だと思った。所詮、これがおとやんの正体なのだ。子供に怪我をさせても謝りもせず、おかやんにその代わりをさせて恥じようともしない。しかも抗議に来た人に屁を引っかけるという無礼を働く。最低だ。

 なのにおかやんはおばさんを見据えると「治療費は、どんなことがあっても必ずお支払いします。そやけどうちの人をけなすんはやめて下さい。不器用な人やから、子供にどう手加減したらええかわからへんだけで、真剣に野球を教えようとしただけやと思うんです。それだけは、わかってやって下さいな」そして深々と頭を下げるのだった。

 おばさんは、おかやんの言葉に怯むような形で腰を引き「まあ、そっちがそう言うんやったら、別にそれでもええけどね。でももう二度と子供の遊びに首突っ込まんでや」と最後は部屋の奥に捨て台詞を投げ、ぷいっと帰っていった。後ろに続く友達が、すまなそうな顔をして僕を振り返ったので、かえってこっちが申し訳ない気持ちになった。

 そして僕の胸の内は、おとやんに対する怒りで真っ赤に燃えるのだった。



 夏休みになると、ばあちゃんの住むアパートに、一週間ぐらい遊びに行くことが常だった。おかやんのおかやんにあたる、ばあちゃんだ。おかやんのおとやん、つまりじいちゃんは、僕が生まれるずっと前に蒸発したらしい。その頃は「ジョーハツ」の意味がわからず、ただ死んだようなものだと聞いていたが、おそらくもうその通りになっているだろう。だから顔も写真でしか知らない。

 写真でさえ知らないのは、おとやんの方のじいちゃん、ばあちゃんだった。会ったことがないし、生きているのか死んでいるのかも知らない。おとやんもおかやんもそんな話を僕にしないから、僕も自分から訊こうとはしなかった。どうも訊いてはいけないような気がしたのだ。

 ばあちゃんのアパートは、大阪の大正区というところにあった。 昔は工場を持っていて大きな家に住んでいたらしいのだが、じいちゃんが蒸発してからはアパート暮らしを余儀なくされていた。年を取ると広い家は掃除が大変やからと、せいせいした表情で言うからそれほど悲しくはなかったのだろう。諦めかもしれないが。

 ただ、僕たちと一緒に住めないことは残念がっていた。うちも狭いアパート暮らしだったから仕方ないし、ばあちゃんは生まれ育った大阪から離れたくなかったのだ。

 僕は、小学一年生のときから一人で電車に乗って会いに行っていた。その前はおかやんも一緒だったが、そうそう仕事が休めないということでこんな形になった。

 子供一人の遠出など、よく許してくれたものだ。旅行などに連れて行ってやれないからという、せめてもの親心だったのだろうか。それともたんなる束の間のやっかい払いだったのだろうか。よくわからなかったが、僕はばあちゃんが好きだったので、それはそれでよかった。一人で電車に乗るという行為も、僕の冒険心をくすぐった。おかやんの帰りを待つ寂しさとは違う、自立を促す孤独。弱気になる心を諫め、奮い立たせるような魔力が、電車という乗り物にはあるのだ。

 たった一時間にも満たない旅だけど、乗り換えのときなどわくわくするし、がたんごとんと揺られている間、僕は少し大人になっている気がして誇らしかった。

 阪急の梅田駅までは、ばあちゃんが迎えに来てくれる。ばあちゃんは、あまり体が丈夫ではなかった。心臓が悪いらしく、少し歩いただけで苦しそうな表情を作ることがよくあった。だから最初のときはともかく二回目からは、迎えなど来なくていいと思っていた。でも人混みの中、ばあちゃんのか細い姿を見つけると、ほっとするのも事実だった。

 小学四年生のときの夏休みも、僕は大阪へ向かう電車に乗った。この日のことは一生忘れられない。僕の心に、ぽっかりと穴が空いてしまった日になった。



「文哉、こっちこっち。よう来たな」

 梅田駅に着くと、いつもの売店前にばあちゃんが立っていた。真夏だというのにばあちゃんは、迎えに来るときは必ず和服で、きっちりと帯を締めている。だから人混みの中でもよく目立った。

 ばあちゃんは最初に顔を合わすと、腰を落として僕と同じ目線になる。一年生のときはしゃがみ込んで頭を撫でられたものだが、四年生にもなると膝かっくんをするような、中途半端な格好になった。

「元気やったか。ちょっと見んまに大きなったな」

 さすがによしよしと子猫をあやすような真似はされなくなったけれど、今にも抱きつかんばかりの距離の近さに、僕は胸が痛くなった。ばあちゃんの体からは、線香のような埃っぽいにおいがするのだ。年寄りのにおいだった。年々そのにおいは、強くなる気がした。

 僕はそのにおいに、言い知れぬ不安を感じていた。寿命という線香が燃え尽きるまで、においを纏った煙は辺りに淀み、消えることはない。でも目が痛くなるほどけぶってしまう頃、線香は灰だけになる。そのときが近いように思えたのだ。

 ばあちゃんのアパートは、ここから環状線に乗り換えて十五分ほど揺られたところにある。僕の住む長田区に似て、ごみごみとした町だった。

 僕たちは、手を繋いで連絡通路を歩いた。ばあちゃんの手は、おかやんの手よりもごわごわ固い。このときで、おかやんはちょうど三十歳だった。おかやんは、ばあちゃんが三十五のときの子だと聞いたことがあるから、ばあちゃんもまだそんなに年寄りじゃない。なのにばあちゃんの手は、本当のお婆さんのように小さくしわしわだった。去年よりも、確実に年を取っている。幼いながらに僕は、ばあちゃんの体が心配だった。

 歩いている最中も、環状線に乗り替えてからも、ばあちゃんはひっきりなしに喋りかけてきた。学校のことや友達の話を聞きたがった。

「おかあちゃんとおとうちゃんは、仲良うやってはるか」

 ひとしきり僕の話題が尽きると、さりげなく家庭の話へと移る。しかしばあちゃんにとって、おかやんたちの夫婦仲が上手くいっているかどうかが、本当は一番の関心事なのだ。

「あ……う、うん」僕が曖昧に言葉を濁すと「おとうちゃん、やっぱりまだ働いてへんのか」悲しそうに、眉を下げた。

「なあ、ばあちゃん。おとやんは何で働けへんの?」かねてからの疑問を、思い切って口にしてみた。今度はばあちゃんが口籠もる番だった。「まあ、色々とあるんや」そうして何となくごまかされ、僕のもやもやは解消されないままだった。

 ばあちゃんの住むアパートまでは、大正駅を降りてから、さらに十分ほど歩かなくてはならない。入り組んだ路地を右へ左へと曲がり、臭いどぶが澱んでいる通路の突き当たりにある。

 路地には、あちこちに洗濯物が干してあったり、縁台がはみ出していたりして歩きづらい。そしておとやんのようなステテコを穿いたおっさんたちがたむろしていて、少し嫌な気分になった。

「そういや今日は日曜日や。テレビで吉本やっとるわ」

「別に見たない」

 急ぐ素振りを見せたので、僕はしっかりとばあちゃんの手を握り、後ろに引いた。ばあちゃんは「さよかえ」と目を細め、歩調を戻した。

 アパート近くまで来ると、出会う人は知り合いばかりのようで、ひっきりなしに声がかかった。人見知りする僕からすれば、信じられない。僕なんか、同じアパートに住んでいながら口を利いたことがない人もいるぐらいなのに。

「みんな、文哉のおとうちゃんみたいな人ばっかりやろ。そやけどええとこもあるんやで」

 ばあちゃんは諭すような声で言い、アパートに入っていった。

 ばあちゃんの住むアパートは、僕のところのような文化住宅ではなく、昔っからの下宿屋さんみたいな感じだった。入口で靴を脱ぎ、歩く度にみしみしする廊下を突き当たりまで行き、右手のドアを開けるとばあちゃんの部屋だ。ちなみに向かいは、汲み取り式の共同便所だった。

 部屋に入ると、ばあちゃんは帯を解いて普段着に着替えた。でも六畳のこの一間しかないから、僕はばあちゃんの肌着姿を目にすることになる。ばあちゃんは、一本だけ皿から零れたところてんのように痩せていた。知り合いもいっぱいいて、にこにこ笑いながら話もしていたばあちゃんなのに、何故か寂しかった。酢醤油のタレに浸かっているみんなとは、所詮離れた場所にいるんだという儚さがあった。摘んで皿に戻そうとすれば千切れ壊れてしまう、脆さがあった。そのうち食べ忘れられる、透明感。僕の知らないうちに溶けてなくなりそうな、幻が寒天になって固まった人だった。

 おかやんは、ばあちゃんの幸薄い儚さを受け継いだのだ。何となく、そう思った。

 その日の夕食はご馳走で、トンカツだった。しかも、黒板消しぐらい大きく分厚かった。この日のために、何日も前から節約をしていたのだろう。

「文哉、ばあちゃんの分も食べ」

 ばあちゃんは僕の食べっぷりを嬉しそうに眺めるだけで、自分はほとんど食べない。肉など、胃が受け付けないのだ。僕のためのトンカツだった。僕はそれがわかっているから、ばあちゃんを喜ばせるためにばあちゃんの肉も食べた。

「文哉、おとうちゃんは元気かえ?」

 食事の合間ゞにも、ばあちゃんはおとやんのことを聞きたがった。僕がおとやんの話をわざと避けているのを感じ取って、訊いてくるのだ。ばあちゃんは、僕がおとやんに対し抱いている畏れとか軽蔑とか憎しみとかいう複雑な心持ちを、全部わかっている。それを少しでも和らげようと考えているらしいのだ。

 不思議だった。おかやんは、ばあちゃんの娘なのに。自分の娘が、あんなに苦労を背負わされているのに。どうしてその張本人を責めないのだろう。おとやんに直接言うのが怖いのなら、僕に愚痴を零せばいいじゃないか。お前のおとうちゃんはあかんたれやなあと、不満を漏らせばいいじゃないか。そうしたら僕だって、納得できるのだ。おとやんを最低の男だと思うのは間違っていないと、自分を慰めることができるのだ。

 それともばあちゃんは、おとやんの悪口を言うと僕が怒るとでも思っているのだろうか。一応僕はおとやんの子供だから、おとやんと血の繋がっていないばあちゃんが遠慮している可能性もあった。

 だから訊いてみた。ばあちゃんは、おとやんのことが好きなのかと。

「ああ。大好きやで。文哉のおとうちゃんやねんから」

 その答えに、僕がわざとらしく溜め息を吐いて落胆した様子を見せても、ばあちゃんは戸惑うばかりだった。いや、戸惑うふりをするばかりだった。

「文哉は、おとうちゃんが好きとちゃうんか」

 おずおずといった感じで反対に問われたから、僕は思いきって言ってやった。

「そやかておとやん、働けへんし、おかやんに苦労かけとる」

 ばあちゃんは、少し目を伏せ、そして噛みしめるように言った。

「文哉に苦労や思われたら、辛いなあ」

 何だろう? ばあちゃんもおかやんも、大人たちは僕に見えないおとやんのいいところを知っているのだろうか。僕一人が何もわからずに、仲間外れにされているのだろうか。

 おとやんを嫌っているうちに、反対に自分が疎外されていく。おとやんを好きにならないと、お前を嫌うぞと迫られているようで、僕の心は落ち着かなくなる。

 僕は、ばあちゃんが好きだから、ばあちゃんを悲しませたくない。楽しそうにおとやんの話をすれば、ばあちゃんは安心するのだろう。だけどやっぱり素直には、おとやんを認めたくなかった。いや、断じてできなかった。

 


 そういうわけで、ばあちゃんがおとやんの話を切り出す度に僕は黙った。そんな僕の態度に、ばあちゃんはしんみりと目を伏せ、小さく首を振った。

 食事が終わり、普段はあまり見ないテレビを見たり、宿題を片付けたりしても、まだ九時にならない。いつもは窓辺で蹲り、お腹を空かせておかやんの帰りを待っている時間なのに。余裕がありすぎるのも、落ち着かない気にさせた。毎回、ばあちゃんの家に来た日はリズムが狂って精神の安定が崩れるのだ。だからあんなことになってしまったというのは、言い訳なのだろうか。

「文哉、大福食べよか。食べたら銭湯いこ」

 ばあちゃんが大福を山盛にした皿を持ってきた。僕はまだお腹がいっぱいだったが、頑張って二個食べて風呂の用意をした。

 ばあちゃんの家に来て、ただ一つ憂鬱なのが銭湯だった。実は去年まで、僕はばあちゃんと一緒に女湯に入っていたのだ。それがどうにも屈辱で、できるなら行きたくなかった。でも汗をかいていたので、風呂には入りたい。ばあちゃんのアパートには、風呂が付いていないのだった。

 僕は、ばあちゃんに訴えてみた。「ばあちゃん。僕、男湯に入ってもええ?」

「ええっ? 文哉、一人であんなむさいとこ、入れるんか」

 確かにちょっと怖い気もした。

「女湯やったら、みんなに可愛がってもらえるのに」

 それが嫌なのだ。僕はきっぱりと「もう四年生やし、一人で入れる」と宣言した。

「そうやなあ。大きなったもんなあ。女の人にちんちん見られたら、恥ずかしい年頃やなあ」ばあちゃんは眩しそうに目を細め、一つ頷いた。「そんなら今日は別々に入ろか」

 僕たちは、桶を抱えて家を出た。五分も歩くと、昔ながらの暖簾がかかった銭湯に着く。いつもそこそこ混んでいて、この辺りは風呂の付いていない家が多いんだなと思わせた。

「ちゃんときれいに洗うんやで」

 風呂から上がったら休憩室で待っているように念を押され、脱衣所の入口でばあちゃんと別れた。

 ばあちゃんにああは言ったものの、知らない人ばかりの中で一人風呂に入るのは勇気がいった。目に付くのは大人ばっかりで、同じ年頃の子供は、偶然なのか一人もいなかった。

 目立たぬように隅っこで体を洗い、こけしのようにちんまりと湯船に浸かり、そそくさと上がって体を拭く。ばあちゃんが上がってくるまで、あと三十分はかかる。僕は休憩室の椅子に腰かけ、おとなしく時を流した。

 周りに目をやると、ばあちゃんの言う通り、おとやんのようなおっさんが多い。皆が揃ってステテコを穿き、大きな声で喋りながら煙草を吸ったり競馬新聞を読んだりしている。

 ステテコのおっさんたちは、やっぱり仕事はしていないのだろいうか。おとやんと同じように、嫁さんを働かせて自分は遊んでいるのだろうか。どうしてそんな男たちを、女の人は許せるのだろう?

 僕にはとても理解できなくて、ただぼんやりとおっさんたちの姿を眺めていた。

 そんな僕の視線に気付いたのか、一人のおっさんが「にかっ」と笑いかけてきた。半袖シャツの下から、竜の目が睨んでいる。慌てて目を逸らしたが、もうこっちに近づいてくる気配がわかった。

「おう、ぼうず。おっちゃんの顔に何かついとるんか」おっさんはどさりと隣に尻を落とし、僕の顔を覗き込んだ。近くにくると威圧感がすごい。おとやんと同じにおいがした。だから僕は何も応えられず、黙って下を向いた。

「なんや、元気ないぼうずやな。子供がそんなうじうじしててどうすんねん。どや、フルーツ牛乳でも飲むか」

 おっさんは、僕にお構いなしに畳みかけてきた。黙って首を振ると「子供が遠慮して、どないするんじゃ」頭を小突かれた。やっぱりおとやんと一緒だ。

 そこで待っとれと釘を刺され、おっさんは冷蔵庫に向かっていった。丸首のシャツから出ている盆の窪にも、観音様の頭らしき絵柄が貼り付いていた。それを見ると僕は動けなくなった。さすがのおとやんも、入れ墨まではしていないからだ。

「ほら、飲まんかい」のしのしと戻ってきたおっさんは、フルーツ牛乳を無理矢理僕の手に握らせ「ぼうず、独りか」自分も缶ビールを呷りながら話しかけてくる。

「いえ。ばあちゃんときました」

「ほう、さよか。ばあちゃんより先に上がってきたんか」

「多分……。ここで待っとけって言われたから」

「なんや。ばあちゃんと一緒に入っとったんとちゃうんか」

「僕、もう四年やし、女湯なんか入らん」

 おお、そら立派なこっちゃ、とおっさんは言い、うははと笑った。

「ぼうず、名前は?」

「長尾谷……文哉です」

「ナガオヤ? この町から阪急にいった奴と、同じ名前やのう」

「電車乗りにいったんですか」電車ぐらい、僕だって今日乗ってきた。僕は真面目に言ったつもりだったけど、おっさんは腹を抱えて笑った。

「ぼうず、お前おもろいやっちゃな。阪急いうたら、阪急ブレーブスのこっちゃがな。お前も関西人やったら、阪神か阪急か南海か近鉄か、どこぞ好きな球団があるやろ」

「あっ……。はい。阪神が好きです」

 おっさんは、そうかそうかと頷いた。「もう十年以上前になるかのう。長尾谷健次ちゅう、むちゃむちゃ速い球投げる奴がおったんや。甲子園にもいって、結構活躍しよったわ。高校出てから阪急に二位か三位で指名されて、プロになりよった。確かすぐ一軍に上がって、何勝かしたはずやど。そやけどいつの間にかおらんようになったの。今頃は、どないしとるんかのう」

「あ、あの……。ナガオヤ――ケンジって、今、ゆうたですか」

 嘘や。嘘やろ。僕の心臓は、爆発しそうに高鳴った。

 ――長尾谷健次。おとやんの名前だ。

 おとやんがプロ野球の選手やった。子供たちみんなの憧れの、プロ野球の選手やった。

 でもそう考えたら納得がいく。だっておとやんの野球の上手さは、半端ではなかったのだから。

 あんまり僕がぼーっとしていたからだろう、おっさんは「こら、ぼうず。せっかくこうたったフルーツ牛乳、はよ飲まんかい。ぬるなってまうやないか」と、急かす。

 味のわからぬまま無理に飲んでいると、ばあちゃんがやってきた。

「あれ、まあ、どうもごっそうさん。文哉、お礼ゆうたか」

 ばあちゃんはおっさんの入れ墨を怖がることもなく、優しい笑顔で挨拶をした。

「さあ、それ飲んだら帰ろか」

「ぼうず。おばあちゃん、大事にしたれよ」

 おっさんは飲み干したビールの空き缶を片手で握りつぶすと、その手を頭の上に掲げ、振り返りもせずに表に出ていった。



 風呂からの帰り、僕はばあちゃんに直球で訊ねてみた。

「――ばあちゃん。あの、うちのおとやんて、プロ野球の選手やったん?」

 ばあちゃんはびくりと体を震わせ、立ち止まった。「さっきの兄さんに聞いたんか」

「う、うん……」曖昧に返事をしてばあちゃんの顔を覗き込むと、困ったような表情を作って固まっている。どうやら僕には隠しておきたいことだったようだ。でもこれで、あのおっさんの言ったことは、本当なんだとわかった。

 おとやんがプロ野球選手だったなんて、今まで誰も教えてくれなかった。おとやん自身が言わなかったから、僕には知られたくなかったんだと思う。

 どうして僕に、知られたくなかったんだろう? 元プロ野球選手だなんて、格好いいじゃないか。黙っている必要なんか、ないはずなのに。 

「文哉。黙っててごめんな。あんたのおとうちゃん、今はあんなんやけど、昔はほんまにすごかったんよ。そやけどある事情があってな、野球ができんようになったんや。野球を辞めてからは頑張ってちゃう仕事しようとしたんやけど、うまいこといかんでな。そやから文哉、もうちょっと辛抱したってや。おとうちゃん、絶対ちゃんと仕事するから」

「なんで僕に教えてくれへんかったん? 僕だけ仲間外れやん」

 ばあちゃんが、眉を八の字にした。おそらく僕の顔もそうなっていたはずだ。

「ごめんな。文哉のおとうちゃんが、文哉には黙っててくれっていうんや」

 そやけど――と、なおも言葉を継ごうとする僕の口を塞ぐように「文哉のおとうちゃんは、昔のことでええ格好したなかったんやろなあ。それに、なんで野球を辞めたんやって、文哉は絶対訊くやろ?」

「それは……。そら、訊くわ。なんで辞めたん? おとやんが野球、辞めんかったら、おかやんはあんな苦労せんでよかったのに。もっと楽して、普通のお母さんみたいに化粧もして、手ぇもがさがさにならんで、長靴の代わりにきれいな女の人が履く靴、履けとったんや」話しているうちに、鼻の奥がきーんとしてきた。

「僕かて、僕かて、給食費払えんで、笑われたりすること、なかった!」目から涙が噴き出した。何故だろう? 泣くことなんか、ないはずなのに。だけど涙は止まることなく、あとからあとから溢れてくる。かっと顔が熱くなって、知らず駆け出していた。

「あっ、文哉! 待ち」

 ばあちゃんの声が追いかけてきたが、振り払って走った。とりあえず、落ち着く時間がほしかった。

 角を曲がったところで、歩を弛めた。ばあちゃんのアパートの灯りが見えたからだ。揺れて滲んで孤独な光りだった。

 袖で顔を拭い、空を見上げた。大阪の夜の空は、ところどころ墨汁を流したように汚い黒だった。都会のネオンが反射して赤茶けたところもあれば、工場から吐き出される煤煙が蹲り、どぶのように濁っているところもある。星どころか月さえ見えず、街灯の裸電球から下だけが、薄ぼんやりと煤けて狭い路地を浮き上がらせている。

 アパートの部屋から見下ろす風景に似ていると思った。何年も何年も、毎日毎日おかやんを待ちながら見ている窓の外。それはそのまま僕の心を表している。貧乏くさくて薄汚れた寂しさ。ガラスに映る僕の顔は、この町と、この路地と、このにおいと同じなんだ。

 おとやんの奴め。許さへん。

 ドラフトでプロに指名されるぐらいの選手やったら、契約金もぎょうさんもろたはずや。一軍で何勝もしたんやから、給料かて普通の大人よりいっぱいあったに決まってる。そやのに今こんなに貧乏しとるということは、調子こいて羽振りええとこ見せて、無駄遣いばっかりしたんやろ。結局は喧嘩かなんか悪いことしてクビになって、おかやんのとこに転がり込んだんや。

 おかやんが優しいのんに甘えて、そのうち働くって騙して、ヒモになりよった。昔の格好ええ自分しか見やんと、今の情けない自分は嘘や思とんや。

 そやから土方とか、日雇いとか、格好悪い思うからようせえへんのや。なんもせえへんと、おかやんに苦労かけとる方が、よっぽど格好悪いのに。

 おとやんの、おとやんのあほたれが!

 僕は河川敷で、おとやんにしごかれた日のことを思い出していた。すごくきつくて、くたくたになったけど、野球の上手いおとやんが何となく誇らしかった。だけど野球選手だったのだから、上手くてあたりまえなのだ。それよりも、そんなことでしか子供にいいところを見せられないおとやんが、どうしようもなく情けなく思えた。大人だったら、男親だったら、家族をちゃんと養ってこそ、子供から尊敬されるのだ。それがわからないおとやんは、最低の人間だ。そしてそんなおとやんの息子である僕は、とことん惨めだった。

 ばあちゃんのアパートの前で、ばあちゃんが追いついてくるのを待ちながら、考えた。

 これからは、おとやんを絶対頼らない。これまでだって頼ったことはないが、一応は大人で僕の親なんだからと一目置いてはいた。でも、もうやめた。おかやんは僕が守る。僕が早く大人になって、おかやんを守るのだ。

 落ち着くために、ふうーっと大きく深呼吸した。ゆらゆら瞬き、頼りなげだったアパートの灯りも、僕たちを迎え入れられるぐらいには力を取り戻していた。

 ――それにしても。ばあちゃんが遅い。僕が駆け出してから、五分以上は経っているのではないか。なのにまだ角を曲がってこない。

 胸騒ぎを覚えて、僕は走った。角のところまできて、立ち止まった。息を整えてからそっと覗くように首を伸ばす。薄暗い裸電球の下、どぶのにおいがする未舗装の路地で、土を舐めるように俯せになっているばあちゃんがいた。



 それからは慌ただしく時が過ぎていき、よく覚えていない。禍々しいサイレンの音。病院の、鼻につんとくる刺激。どこまでも続く暗い廊下――。ずっと夢を見ていたようだ。線香が燃え尽きるまでの、ところてんをすすり終えるまでの、儚い夢。

 いつの間にかお通夜が終わり、いつの間にか足の痺れる葬式をして、いつの間にかばあちゃんは骨になった。ばあちゃんは、僕の前から儚く消えてしまった。夢は、覚めた。

 葬式でのおかやんは、僕が見たこともない、子供の顔に戻っていた。ずるずると洟を垂らして、まるで漫画に出てくる虐められっ子のようだった。洟が垂れる前にハンカチで拭こうとするのだけれど、すでにそのハンカチもぐちょぐちょで拭いきれない。だから鼻の下がいつまでもてかてかと光っていた。

 そんなおかやんの細かな表情だけは、今でもはっきりと頭に浮かび上がるのだが、おとやんがいたかどうか記憶にない。どうしても弔問客に頭を下げたり、坊さんの読経を神妙に聴いたり、焼香をしたりしているおとやんの姿が現れてこないのだ。もしかしたら葬式の間中、僕はおとやんと同化していて、おかやんを見守っていたからかもしれない。

 ばあちゃんを殺したのは、僕だった。あのとき僕が走ったりするから、ばあちゃんは転んでしまったのだ。打ち所が悪かったのと、もともと体が弱かったせいもあって、ばあちゃんの心臓は簡単に止まってしまった。騒ぎを聞きつけた近所の人たちが、すぐに救急車を呼んでくれたけど、ばあちゃんは還ってこなかった。

 ばあちゃんの死は、娘であるおかやんが僕よりも早く受け入れたようだった。葬儀が終わって遺品の整理がつくとすぐに職場に復帰し、今までと同じように朝から晩まで働きだした。いつもステテコ姿のおとやんでさえ、まだ黒い服を着ているというのにだ。

 しかし、こんなときでもおとやんはおかやんを助けようとしない。かえって家に居づらいからか、出かける時間は前よりも早くなった。おとやんはそんな男だ。おとやんのことなんか、どうでもいい。

 それよりも、おかやんだ。仕事を終え、夜帰ってくると「お腹減ったやろ。すぐご飯つくるからな」僕に笑いかけるのも普段のままだった。そしてご飯を食べながらテレビの漫才を見て、笑い声を上げたりもするのだ。

 僕はおかやんが笑う度、ばあちゃんの想い出が薄れていく気がして、苛ついた。もしかしたら僕が死んでも、葬式の翌日には大口を開けて笑ったりするのではなかろうか。何ごともなかったように、仕事に出てご飯を食べて夜には内職をするのだろうか。

 あんまりだと思った。もしおかやんが死んだら、僕は気が狂うだろう。僕がおかやんを思うように、ばあちゃんはおかやんのおかやんなんだから、おかやんはもっと悲しみに打ち拉がれなければならないはずだ。なのにどうして笑っていられるんだ。ばあちゃんを殺してしまった僕を目の前にして、どうして笑える? どうして僕を責めない? おかやんにとってばあちゃんは、その程度の人だったのか。

「ごちそうさん!」漫才師が大ボケをかまし、テレビの中の観客と一緒になっておかやんが「あはは」と声を上げるのを遮るように、僕は箸を卓袱台に叩きつけた。

 おかやんはびくりと肩を震わせ「――何、文哉。全然食べてへんやんか」すっと笑みを退かせた口元は、ぴくぴくと痙攣するようにわなないていた。

「おかやん! 僕は――?」おかやんのそんな顔を見た途端、わだかまっていた気持ちは餅が破裂したように萎んでいった。

「文哉。お願いや。ちゃんとご飯食べて」

「おかやん」

「おかやんは女やから――」おかやんの顔が歪んだ。

「――おかやん……」

「おかやんは、弱い女やから――」おかやんの声が掠れ、ぺったんこの胸が大きく上下した。

 僕は……僕は一体、何をしているんだ。

 おかやんが、ばあちゃんの想い出を薄れさせようとしているのは、誰のためなんだ?

 精一杯気張って、僕を守ろうとしてくれているおかやんを追いつめ、あまつさえ不義理もんのレッテルまで貼ろうとする。お前は一体、何様なんだ。

 だけど――。もう一人の僕が言う。

 おかやんに守られれば守られるほど、僕は苦しくなるのだ。おかやんは弱い女で、守るよりも守られる立場の人だ。なのにこれまで小さな体と柔らかな心だけで、僕を包み込んでいてくれた。心身共に無理をして、僕のために生きてくれたのだ。

 そんなおかやんの支えだった人は、おとやんなんかじゃない。僕がそうであるように、最後に縋れるのは、たった一人の親しかいないのだ。

 そのばあちゃんが、僕のせいで死んだ。僕は、おかやんの支えを奪ってしまった。今のおかやんが漫才を見て笑うのは、つっかい棒を失った挙げ句の心の揺れに他ならない。悲しみに傾きすぎると、その反動も大きくなる。やじろべえは振れすぎて、バランスを失う。

 このままだと、おかやんが壊れてしまう。僕を守ろうとすると、おかやんは大きく揺れて地面に落ち、ばらばらに砕け散る。そんなおかやん、辛くて苦しくて、見ていられない。

 おかやん。壊れるぐらいなら、僕を責めてくれ。おかやんのおかやんを返せと、胸ぐらを掴んで振り回してくれ。泣いて泣いて泣き喚いて、どつき回して蹴り倒して、気の済むまで自分を発散してくれ。その方が、僕はよっぽど楽なんだ。

 ――おかやんは、弱い女なんだから。わかってる。僕はわかっている。だから僕が強くなる。おかやんに責められても我慢できる、強い男になる。

 僕のために無理矢理強がっているおかやんを救えるのは、僕しかいないのだ。

 そんなことを、僕はおかやんに伝えたかった。でも子供だった僕は、上手く口にできず、ただ涙を堪えて洟を垂れるだけだった。

 おかやんは、そんな僕の顔を見て、泣き笑いの表情を浮かべた。そして殴る代わりにぎゅっと抱きしめてくれた。強くかき抱かれたので、おかやんのぺたんこのおっぱいが顔に押し付けられ、微かな弾力が不思議な安らぎを与えてくれた。

 ただでさえ痩せて小さいおかやんの栄養を、赤ちゃんのときの僕が吸い取ってしまったから、以来おかやんのおっぱいはぺたんこだった。

 でもおかやんのおっぱいをへこましたことは、僕にとっては大事な大事な砂糖菓子のような記憶なのだ。赤ちゃんのときの記憶があるわけないから、誰かに刷り込まれただけだ。

 ばあちゃんだった。ばあちゃんは「文哉がおかあちゃんのおっぱいいっぱい吸うから、おかあちゃんのおっぱいぺちゃぱいになったんや」と、よく笑って言っていた。言われる度に僕は、気恥ずかしい安心感を覚えたものだった。僕はおかやんのおっぱいで大きくなったんだという安堵、幸せを噛みしめることができたのだ。

「ばあちゃん……」口の中で呟くと、涙が溢れた。おかやんの嗚咽も聞こえていた。弱いおかやんを守るどころか、僕は赤ちゃんに戻ったように小さく縮こまってしまった。おかやんの乳首をくわえたまま眠りたいと、真剣に思った。

 このときの感触を、成長してからも覚えているから、僕が好きになる女性はぺちゃぱいの人ばかりなんだろうと思う。

 僕はおかやんの胸に洟を擦りつけながら「おかやん、壊れんといて。おかやん、ばらばらにならんといて」ずっとずっと呟いていた。

 


 いつ頃からだったろう。ばあちゃんの一周忌は過ぎていたと思う。おとやんが夜も帰ってこなくなった。気が付くと、部屋からおとやんのにおいが消えていた。

 僕はおとやんなんかいない方がいいから気が楽だったけれど、夜中におかやんの啜り泣きの声を聞くと、無性におとやんに腹が立った。

 おとやんが出ていったと言っても、別れたわけではないようだった。月に一、二度、おかやんの仕事が休みの日には、ふらりと帰ってくる。

 スーパーの定休日は正月ぐらいしかなく、従業員は交替で休みを取るので、曜日は決まっていない。大抵は平日だから、僕が学校に行っている間にやってきて、晩ご飯を食べてからまたどこかに出ていく。

「そんなら、また」玄関でおとやんを見送り、こちらに振り向くおかやんの顔は、いつも酢を一気飲みしたように歪んでいる。僕はその表情が嫌いで、だからおとやんが「文哉、おかあちゃんを頼むぞ」とドアを開けるときも、そっぽを向いたままだ。おとやんが苦笑しながら出ていっても、卓袱台に戻ってきたおかやんがわざと陽気に話しかけてきても、僕は少しの間目を伏せている。それが子供の取るべき態度だと思っていた。

 おとやんが来ると、部屋の中が酒臭くなる。普段うちの冷蔵庫にはビールなんか入っていないのに、おとやんが来る日には必ず数本押し込まれている。どこにそんな金があるのか不思議だったが、考えてみれば今までは毎日飲まれていたのだ。おとやんがいなくなって、日々の生活に若干余裕ができた実感があったから、これまで飲み代に使われていた金は相当僕たちの生活を圧迫していたのだろう。

 おかやんは、それでもおとやんがうちにいた方が嬉しいのだろうか。理不尽な文句をつけられ、こき使われるだけなのに、それでもうちにいてもらいたいのだろうか。

 いや、もしかしたらついにおとやんも、勤めだしたのかもしれない。給料取りになったのかも。でないと、恥ずかしげもなくご飯だけ食べに帰ってこられるはずがない。

 それでおかやんに尋ねたことがある。「おとやんって、どっか神戸とちゃうとこで仕事するようになったん? ちょっとは家にお金入れてくれてんの?」と。まだ単身赴任という言葉など知らない子供だった僕だが、家計に関してはおとやんよりもずっと気にかけていたのは確かだった。

 そんな僕に対して、おかやんは寂しそうに笑うしかなかったようだ。その顔を見ただけで、そう甘いわけがないと、期待した自分を戒められた。ただおかやんが可哀想なだけだったが、慰めの一つも言えなかった。

 


 僕が中学に上がる頃には、気弱なおかやんに対しても苛立ちを覚えるようになった。なぜ、あんなおとやんを待っているのだろう。なぜ、おとやんのいない生活を受け入れないのだろう。

 おかやんほどの器量を持ってすれば、女としても新しい人生を掴めるはずだ。そこに僕が入り込む余地がないならば、僕は一人で生きていってもいい。新聞配達ぐらいならできるし、授業料など奨学金でなんとかなるだろう。足らない生活費だけ出してもらえれば、あとはおかやんの人生はおかやんが好きなように生きればいいのだ。

 そんな、全然現実的ではないことを考えては、毎日一人で腹を立てていた。おそらくこれが、反抗期というものだったと思う。

 おとやんを殺そうと思ったのもこの頃だ。それまでの自分は、幼すぎてそんな思いを抱くことなどできなかった。嫌いだ何だと言ってはいても、心のどこかで繋がっていたい気持ちもあったのだろう。あの野球を教えてくれた日のことが、強烈に脳裏に焼き付いていたのだ。

 でも僕も成長した。現実が過去を凌駕した。もう大人しいだけの自分じゃない。そんな僕にとって、おとやんは単なる邪魔者だ。おとやんさえいなければ、おかやんも諦めがつくはずだ。だからおとやんがやってくる日、おかやんが買い物に出た隙に台所から包丁を掠め、密かに鞄の中に隠した。その日はたまたま日曜だったので、というよりも日曜を選んだのだが、僕はずっと部屋で勉強をしていた。おかやんを安心させるためだった。

 中学に上がったとき、おかやんは僕のために勉強机を買ってくれた。六畳一間しかないのに、おかやんの内職する机さえないのに、本棚や引き出しのついた机を買ってくれたのだ。なのに僕は「狭い部屋がよけいに狭なるやんか」と文句を垂れた。本当にこの頃の僕は、どうかしていた。精神が尖っていたのだ。

 鞄は勉強机の上に置き、素早く包丁を取り出せるように留め具は外していた。おとやんが来る時間はまちまちだから、油断はできなかった。

 小学校を卒業する辺りから、僕の身長は毎月二センチずつ伸びていて、自分でも笑ってしまうぐらい体格がよくなっていた。だけどまだおとやんと素手で喧嘩をして勝てるとは思えなかったから、包丁ぐらいはハンデとして持たしてもらっても文句はないはずだ。ましてや殺すという明確な意志がある以上、それを行う勇気の象徴としても必要な道具であった。

 僕の心は透き通っていた。一点の曇りもなかった。これから実行する行為が、人としていけないことだとか倫理に反するとか、そんな理由で揺らぐなど一切なかった。怖いという気持ちもない。その代わり、昴ぶる気持ちもない。冷静に、おとやんが部屋に入ってきてから包丁を取り出し刺すまでの行動を、頭の中で反芻していた。

 買い物からおかやんが帰ってくると、鼻歌を唄いながら料理を始めた。おとやんが来る日のおかやんは明るい。僕にはその明るさもしゃくに障った。

「ふみやー。今日はすき焼きやから」

 台所からおかやんの浮かれた声が聞こえた。オペラ歌手にでもなったつもりか、節までついていた。1DKの文化住宅だから、独り言でも聞き取れるというのに。

 ふっと苦笑を漏らしたすぐあとに、よろけるような足音がした。振り向くと、真後ろにおかやんが立っていた。

「な、なに、どうしたん?」

 おかやんの顔が、強ばっていた。「文哉。ネギ、切りたいんよ……」

「ああ、そう」僕の顔は歪んでいただろう。

「豆腐も切らなあかんし、白菜かて入れるんよ。すき焼き、文哉の大好物やもんねえ。おかやん、今日はええ肉こうてきたんよ。文哉にいっぱい食べてもらいたいから」

 まただ。またおかやんが泣く。おかやんはずるい。泣けば僕がいい子になるとでも思っているのだろうか。

 そのときドアの取っ手が、がちゃごちゃと回る音がした。僕がそちらに視線を飛ばし、腰を上げようとすると、おかやんが間に体を入れてきた。

「文哉、ふみや。ご飯食べよ。な、ご飯食べよ」

「おかやん、どいて」僕は立ち上がり、鞄の中に手を突っ込んだ。

「文哉。ネギ切らして」

 おかやんが足を縺れさせながら抱きついてくる。ふいをつかれた僕は、手に持った包丁を思わず薙ぎ払ってしまった。先端に微かな手応えを感じた。「あっ」と思ったときには、おかやんの二の腕の辺りに赤い筋がついていた。でもおかやんは力を緩めることなくむしゃぶりついてきて、勢い余ってそのまま二人、畳の上に転がった。 おかやんが僕に被さり、必死の形相で押さえつけてくる。その顔を見たら、僕の中で張りつめていたものが、ぷつんと音を立てて切れた気がした。なぜならばあちゃんが死んだときの顔と同じだったからだ。

「おい、お前ら、何しとんねん」慌てたようなおとやんの声が、玄関から聞こえた。

「あんた。お願いや。今日は帰って!」洟を垂らしながらおかやんが叫ぶ。僕の顔の上にぽとぽとと落ちたけど、何だか愛おしい温もりに感じて汚いとは思わなかった。冷たく強ばっていた心が、ゆるんとほぐれたように可笑しくなった。

 しかしおとやんは、僕の手に握られていたものを見て何があったか察したようだ。「ふみやー!」大声で叫ぶと部屋の中に飛び込んできて、しがみつくおかやんを引き離した。

「あんたー! 許して」

 おかやんの声が遠くに聞こえた。おかやんが離れた途端、もの凄い衝撃が顔面を襲い、一瞬気を失いそうになったからだった。

 おとやんに胸ぐらを掴まれたまま、僕はくらげのように脱力していた。すでに反抗する気力も萎えていた。このままぼこぼこに殴られて、死んでしまいたいと思った。

「やめて。文哉を殴るんやったら、私を殴って」

 二発目を殴られる前に、おかやんが僕たちの間に割り込んできた。強引に頭を抱きかかえられ、息が苦しい。

「お前……。腕は?」おとやんが、溜めていた息を吐き出すように言った。

「こんなん、掠っただけや。――あんたのときとは、違う……」

「――さよか……」ふうっと大きく息を吐くと、おとやんは立ち上がり玄関に向かった。束の間逡巡したあと「そんならまた来るわ」静かに言い置いて、ドアからそっと出ていった。その途端、おかやんの体から力が抜けた。そして子供のような大声で泣き、僕の胸をぽかぽかと叩いた。

「あほ! あほ! 文哉のあほ」おかやんの拳は柔らかく、気持ちよかった。いつまでもそうしてもらいたいと思った。気が付けば、僕の顔はべとべとだった。おかやんの鼻水は大量だなと感心したが、自分の目から流れた水の方が多いようだった。

 おかやん、わかった、もうええよ。おかやんが落ち着いてきたのを見計らって、そう声をかけようとしたら、ぷわっと洟提灯が膨らみ割れた。血が混じっているからか、マーブルチョコのような模様だった。日頃から自分はクールだと思っていただけに、まさか洟提灯を作る自分が考えられなくて、でも今こうしておかやんと二人抱き合って洟を垂らして泣いているのは現実なんだと思うと、たまらなく可笑しくなった。

 ぷっと笑うと、また洟が出た。啜るのが面倒になって、逆に大きく噴いてやると、牛の涎ぐらい大量に流れ出て、口の中にまで入ってきた。それがまた可笑しかった。笑うと頬の辺りが引きつるように痛かった。舌に鉄さびの味を感じるのは、鼻血だけではなく口の中も切っているのだろう。それで顔をしかめ、洟を噴き出し、笑い、痛いを繰り返す。一人漫才をしているようだった。包丁を持ち出したところから、すでに漫才だったのだ。

 僕の様子を見て、おかやんもようやく泣き笑いの表情を見せた。つーっと垂れた洟が僕の胸元に落ち、それを見て二人で笑った。笑って笑って大笑いすると、お腹が鳴った。

「おかやん、腹減った」

「うん。おかやんも減った」おかやんが、くにゃっと頷いた。

 おかやんはエプロンのポケットからハンカチを取り出すと、僕の顔を丁寧に拭った。涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃになったハンカチを愛おしそうにしばらく眺め、またポケットに戻した。そして自分の顔はエプロンでごしごしとやって、ふーっと溜め息を吐いた。その頃になって、おかやんの体が小刻みに震えていたのに気付いた。

「おかやん、腕の傷」おかやんの左腕に、赤ボールペンでなぞったような筋が走っていた。滲んだ血が擦れて広がり、痛々しい。とんでもないことをしてしまったと、ようやく思いがいった。

「大丈夫。こんなん、絆創膏貼っといたら治る。それよりごはん食べよ」

 おかやんはのろのろと立ち上がると、にっこり笑って手を出した。

「ネギ、切ってくる」 

 


 あの日以来、おとやんはおかやんの休みの日に帰ってこなくなった。連絡を取り合っているかどうかは知らないが、実質的に僕たちの家庭におとやんの居場所はなくなった。おかやんも吹っ切れたように、僕の前ではおとやんの「お」の字も出さなかったし、悲しそうな素振りも見せなかった。僕の望んだ通りになった。

 だから僕は、ある日おかやんに「なあ。もう離婚してもええんとちゃう?」真剣にそう勧めたのだ。

「そうやなあ。もう離婚しょっか」

 驚いたことにおかやんの口からも、そんな言葉が零れ落ちた。僕は少し動揺したけれど、表情を変えずにしっかり頷いてやった。ではおとやんに連絡をして、三人で話をしようということになった。やっぱりおかやんは、おとやんの居場所を知っていたのだった。

 何日か過ぎてから、おかやんは「来週の休みにおとやんが来ることになったから」と僕に告げた。僕はいよいよの展開に、胸が張り裂けそうになった。 

 自分が望んだことなのだ。どうせもうおとやんは、うちとは関係ないのだ。書類上の手続きだけで、何が変わるものでもない。

 おかやんだって、きっとこれでいいと思っているはずだ。間違ってはいない。僕は、間違っていない。ただ、そう自分に言い聞かせる度に、野球でしごかれたことが頭をよぎった。その記憶を振り払うのは、楽ではなかった。

 おかやんの休みが近づくにつれ、僕は平静ではいられなくなった。おかやんの方がよっぽど落ち着いていた。もう腹を括ったようだった。

 ところがその矢先、おとやんが倒れたと電話があった。唐突だった。持病があったとは聞いてなかったし、そんな素振りもなかった。もっとも家を出て結構経っていたから、その間に悪くした可能性もある。それとも――。

 まさか、離婚を切り出されたショックからじゃないだろうな。そんな柔な男とは思えなかったが、意外に気は小さいのかもしれない。

 病院に駆けつけると、おとやんが休んでいるベッドの横には知らない女の人が座っていた。年はおかやんより若そうだったけど、おかやんほど美人ではなかった。口が大きく目も離れていた。しかしブスとも違う。外人のような派手な顔と言えばいいのか。あらゆる部分がくっきり際立っていた。

 体つきも、おかやんのように細っこくない。見るからにボリュームがありそうで、でもデブと言うには失礼すぎた。カーニバルでサンバを踊る女の人みたいな体型と言えば、わかってもらえるかもしれない。

 大きな胸を強調するように、谷間が覗ける服を着て、手首にじゃらじゃらと飾り物を付けていた。爪は長く、鮮やかな紫色をしていた。それが長い指に似合っていて、どきどきするぐらいすけべな感じがした。とにかく思春期に突入した僕には、刺激的な女性だった。

 中学生ともなれば、クラスにも胸の大きな娘や変に色っぽい娘もいる。しかしこの女性は、全く人種が違っていた。これまでの人生の中で、出会ったことのないタイプと言えた。

 ケバい化粧のせいか、病室が女くさかった。女は僕たちの顔を睨め付けると、ふて腐れたように脚を組み直した。太股までもろ出しの短いスカートが捲れ、赤いパンツがちらりと見えた。何気なくそれに目をやったおかやんは、無表情のまま僕を病室から出した。

 ドアを閉めて数歩離れた途端、部屋の中から「がたん!」と物が倒れる音が聞こえた。続いてチョークで書き損じたような、きいきい声。

 あの女がおかやんに手を挙げた。僕はそう思い、部屋に戻ろうとした。しかしよく聞くと、声は二人分だった。「この泥棒猫!」という台詞が耳に入ったときには、とても信じることができなくて、早くこの場から離れなければいけないと思った。

 その後、どう決着がついたのかはわからない。待合室のベンチに座っていた僕の前に現れたおかやんは、何ごともなかったかのように笑っていた。清々しささえ漂っていた。でも胸のボタンが一つ外れていたのと、右手の甲に引っ掻き傷がついていたのを見逃すことはできなかった。もちろんそれを指摘するような幼さからは卒業していたが。

 そして退院したおとやんは、そのまま我が家に帰ってきた。離婚の件は、うやむやになったらしかった。



 また昔のように、おとやんのいる生活が始まった。一つだけ変わったのは、おとやんの態度だった。傍若無人さが薄れ、よそよそしい遠慮が垣間見えるようになった。僕が包丁を持ち出したことや、おかやんに離婚を切り出されたことが、頭の隅にあるようだった。

 僕は何も言わなかった。言いたいのは山々だったけど、言えばまたおかやんが苦しむと思った。その頃は僕だってもう、男と女の何たるかぐらい弁えていた。あの病室にいた女が、おとやんとどういう関係だったかも想像がついている。そして女が発散していた妖しげなものが、おかやんにはないことを、認めないわけにはいかなかった。

 おかやん自身も気付いたはずだ。だからおかやんらしくない振る舞いに出たのだろう。

僕だって、あの女の下品そうな唇に吸いつき舐り回す己の姿を想像したのだ。そして一瞬見えたパンツを思い出しては、下半身に血が集まるような変な昴ぶりを覚えている。そんな自分に、おとやんのことをとやかく言う資格はない気がした。

 しばらく見ぬ間に、おとやんは老けていた。白髪が目立ち、目にも精彩がなかった。病み上がりだから仕方ないが、もちろん働かない。夜に遊び歩かなくなった。昼間の散歩もなくなった。近所の子供たちは、さぞ喜んだことだろう。

 一日中家にいて、ぼーっとしている時間が長くなった。酒も、嗜む程度になった。まるでおとやんの魂だけが遊びに出て、抜け殻がステテコを穿いているようだった。

 そんなおとやんを見るにつけ、僕は悲しいような情けないような気になった。今まで散々おかやんを泣かせてきたくせに、ちょっと調子を崩すとべったり甘えている。おかやんを捨てて遊んでいたおとやんが、病気になった途端に向こうの女に捨てられ、こっちに戻ってきた。おかやんの優しさに、ずっと甘えっぱなしなのだ、おとやんは。

 もう昔のように、おとやんなんか怖くない。あのときは殴られたけど、今なら喧嘩をしても勝てるような気がする。病人相手にそんなとことを考える僕も、情けない人間だった。

 もしかしたら、もの足らなくなっていたのかもしれない。腑抜けのおとやんは、おとやんではない。おとやんは、怖くても理不尽でも、強くあってほしかった。だからこそ、憎めもしたのだ。

 ふにゃけてしまったおとやんに、おかやんはつくした。僕の思いとは裏腹に、おかやんは幸せそうに見えた。どうして、こんなおとやんを大事にできるのだろう。おかやんの態度にも、僕はお人好しを見るような居たたまれなさを感じ、腹が立った。

 仕事もせず、酒ばかり飲んで、おまけに浮気までして、最低の男だったじゃないか。もう別れようとまで思っていたんじゃないか。おかやんの人生は、この男に狂わされたんだぞ。おとやんこそが、全ての元凶なのだ。



 だから二度目におとやんが入院したときに、おかやんに言った。僕は中学三年生になっていた。アパートの卓袱台で向かい合い、食後のお茶を飲んでいるときだった。

「もうええやん。おかやんはようやったよ。僕、中学出たら働くから、そしたら二人だけで暮らそうや。おとやんは今まで勝手してきたバチがあたっとんや。そやからほっぽり出されても、文句言われへんって」

 あいかわらず生活は苦しかった。酒代はあまりかからなくなったが、その分薬代に出ていったのだ。そしてまた入院。これ以上の費用負担は、誰が見ても不可能だ。だから僕の言い分は、至極まっとうなものだと思った。

「あほなこと言いな。おとやんは病人やねんで」なのにおかやんは、とんでもないと言うように首を振った。

「病気やからゆうて、甘やかし過ぎなんや。おとやんなんか元気なときでも、働こうともせんと遊んでばっかりやったやん。おかやんかて、もう別れるゆうたやないか」

 いつにない僕の厳しいもの言いに、おかやんは目を伏せた。何度も見せるその顔だったが、軽く目を閉じる睫毛の動きが、何かを堪えているように感じた。

「なあ――。おかやん」

「おかやんな、おとやんがおらんかったら、生きてられへんかったんや」下を向いたまま、おかやんが喋り出した。僕は、はっとして、おかやんの肩にかけようとしていた手を宙に止めた。おかやんの長い睫毛が見開いたからだ。

 おかやんは僕に打ち明けようとしていた。僕が大人になったと、ついに認めてくれたようだった。

「文哉には、今まで黙っとったことがあるんよ」

 僕はお茶を一口含んだ。おかやんは、おとやんが野球選手だったことを言うつもりだと思った。予想がついたので、わざと驚いてあげるぐらいのつもりでいた。ただ、生きていられなかったという言葉が引っかかった。

「おかやんのお父さん、文哉のじいちゃんやな、おっきな工場経営しとったんやけど、おかやんが高校生のとき、不渡り出してしもたんよ」つまり工場が潰れたということや――と、おかやんは薄く笑った。「お父さん、それで私ら捨てて逃げてしもてな。私とお母さんで途方に暮れてたときに助けてくれたんが、おとやんやねん」

「助けてくれたって……。それ、お金のことで?」

 おかやんは曖昧に頷いた。

「もしかして、おとやんの契約金、それに使ったん?」僕の言葉に、おかやんは目を瞠り、そして悲しそうに微笑んだ。

「なんや、やっぱり知っとったんや。ばあちゃんに聞いたん?」

 そうか。おとやんはおかやんのほっぺたを札束で叩きよったんや。そやからおとやんもおかやんも、ばあちゃんまでも、恥ずかしいて僕によう言わへんかったんや。そうや。そうに違いない。

「ばあちゃんが死んだ日、銭湯で知らんおっちゃんに聞いた。なあ、なんで僕に隠しとったん? おとやんが野球の選手やったって、別に教えてくれてもよかったやん。言われへんわけでもあったん?」そうやろ、おかやん。おかやんは、おとやんに金を出してもろたから、これまでずっと我慢してたんやろ? 本当はおとやんのことなんか、好きでもなんでもなかったんやろ?

「おとやんがな……」おかやんは、声を詰まらせながら話してくれた。「おとやんが、文哉には言わんといてくれって。文哉はプロ野球が好きやから、活躍している選手と今の自分が比べられたら恥ずかしいって言うんよ。野球を辞める前までは、格好よう投げてるとこ、絶対文哉に見せたるんやって口癖のようにゆうとったんやけどなあ」――おとやん、ごめん。もう黙っとるん、辛い。うち、喋るわ。約束破ってしまうけど、おとやん、あんな状態やし、ええよね――。そう呟いたおかやんのでっかい瞳が、ゆらゆらと揺れていた。

「おとやん、すごいピッチャーやったんよ。高校出てすぐプロ入って、翌年には一軍に上がって何勝もしたんやから」

「おとやんが野球選手やから、野球選手やったら金持っとうから、それで結婚したん?」

 おかやんとおとやんのなれそめなど知らない。訊いたこともなかった。でも今なら訊ける。訊かなくてはならない。

 僕の直接的な言葉が堪えたのか、おかやんは眉を下げて俯き、湯飲みを口に持っていくでもなく弄り回した。「おとやんとおかやん、同じ高校の先輩後輩なんよ。おかやん、野球部のマネージャーやった」

「ふーん」その頃からおとやんは、おかやんを狙っていたのか。おかやんなら、アイドルのような存在だったかもしれない。そう言うと、おかやんはとんでもないと首を振った。

「おとやんこそ、女生徒の憧れやったわ。そやからおかやんと噂になったとき、おかやん、みんなからやっかまれたよ」気のせいか、おかやんの顔に朱が射したように見えた。湯飲みを握る指が、忙しなく動く。落ち着かない。

 どうも想像と違う。質問を変えることにした。一番聞きたかったことを口に出した。

「おとやんはなんで野球を辞めたん?」

 下らない喧嘩をして怪我でもしたか、不摂生がたたって体を壊したか、それとも八百長がばれたか――。そんな言葉を期待していた。でないと、おとやんがいい人になってしまう。おかやんの様子から、嫌な予感がしていたのだ。おとやんは、おかやんやばあちゃんを救ったスーパーマンだった、などという答えで纏めてほしくなかった。

 だけど……。おかやんの顔がみるみる強ばった。唇が震え、目をしばたかせた。

「文哉を……」おかやんの目から、とうとう涙が零れた。「あんたを、守ろうとして……」

「ちょっ……」あまりに予想外の答えに、声が出せなかった。どういうこと?  

「昔のおかやん、ほんまにあかん女やったん。育児もようせんで、泣いてばっかりおって、もう生きていくんが嫌になって、お前と一緒に死のう思たんよ」

 衝撃の告白だ。そこまで聞くつもりはなかった。心の準備ができていない。ちょっと待ってくれ。でも声が出なかった。

「その日もお前がぐずって、いくらあやしても泣きやまんで、頭がおかしいなってしもうたん。我慢できんようになって、気が付いたら包丁持ってお前のこと見下ろしてた」

 僕がおとやんを殺そうとした日のことを思い浮かべた。あのとき僕は、おとやんを殺すしか道はないと思い込んでいた。おかやんもそうだったのだろうか。

「そこにおとやんが帰ってきたんよ。おとやん、おかやんから包丁を取り上げようとして、そやけどおかやん、あほやから暴れて、おとやんの腕を刺してもた。おとやんが野球できんようになったんは、おかやんのせいなんよ」とうとうおかやんが卓袱台に突っ伏し、泣き崩れた。

 おかやんの震える肩を見ながら、僕は呆然としていた。

「あんたのときとは、違う――」僕が包丁を振り回したとき、確かにおかやんはそう言った。おとやんはその一言を聞いただけで部屋から出ていった。二人には、繰り返された歴史だったのだ。その中心に僕がいた。元凶はおとやんじゃない。僕の方だった。



 僕という存在は、一体何なのだろう? 僕さえいなければ、おとやんはスター選手になっていたかもしれない。おかやんはその妻として、いつまでもきれいなままでいられたのかもしれない。ばあちゃんだっていい医者にかかって、長生きできたかもしれないのだ。

 かも。かも。かも――。僕がみんなを不幸にした。僕が、僕が……。

 僕は頭を抱えた。体ががたがた震え、とまらない。震えは卓袱台まで揺らし、湯飲みを倒した。少しだけ残っていたお茶が零れ、なめらかな表面にアメーバのように広がった。その上を湯飲みが転がる。ころころ。ころころ。畳に落ちたときには、僕は女の子のようにしくしくと泣いていた。

「ふみやー。ごめんな。ごめんな。あかんおかやんやって、ごめんな」

 いつの間にかおかやんが躙り寄ってきていて、背中から僕を抱いてくれた。もう何度目だろう、おかやんに守られるのは。いつまでたっても僕は子供のままだ。おかやんと、そしておとやんの子供のままだ。

 おかやん。僕は生まれてきて、よかったのか。二人の子供でよかったのか。

 おとやんが野球を辞めてからずっと、休みなく働いてきたおかやん。赤ちゃんと言うには相当大きくなった僕をおぶりながらスーパーの仕事を見つけ、夜は内職までして僕を育ててくれた。そんな苦労をする必要があったのか。なあ、おかやん! 

 僕は、僕が許せない。だけど、自分ではどうしていいかわからない。生まれてしまったものは仕方ないし、今さらなかったことにするだなんて神様にだって無理だ。

 僕が死ねばいいのか。おとやんを殺そうとしたこの手で、自分を殺せばいいのか。おかやんだって、一度は僕を殺そうとしたんだ。問題ないじゃないか。

 ――いや、違う。そんなことをしたら、おかやんまで殺すことになる。ここまで僕を育ててくれたおかやんを裏切ることになる。僕の命は、もう僕だけのものじゃない。

 じゃあどうすればいい? 堂々めぐりじゃないか! 

「六甲おろしに鍛えたるー」

 背中がぴくんとした。空耳かと思ったのだ。でも「六甲おろしに」と、はっきり聞こえた。僕の好きなタイガースの球団歌だと思ったが、メロディーが違う。少しうら寂しいような、たとえるならおかやんが駆け下りるアパートの鉄階段の足音だ。

「我ら熱とカのますらおだ。白球飛ぶ青空に希望はもえる若き友どもよ。腕を組みいざ行けよ、光り輝やく勝利の道を」

 おかやんが口ずさんでいる。最初は小さな声で、だんだん大きくなる。そして気がついた。どこでだか、聞いたことがある。遠い昔の記憶だ。それこそおかやんのおっぱいを飲んでいた頃の、ぐずって泣いておかやんを苦しめていた頃の記憶だった。

「阪急ー阪急ー我らは阪急ブレ一ブス」

 歌い終わり、しばらくしてから「おとやん、クビになるまでは毎日お前にこの歌聞かせてたんよ」子守歌にもならへんのになあと、おかやんが洟をすする。 

 涙が止まらなかった。泣くのをやめると、おとやんを許すことになる。おとやんを許せば、僕は救われるのかもしれない。でも救われるためには、今まで生きてきた十数年を否定しなければならない。そんなの、そんなの、親の勝手と言うものだ。そんな勝手、僕は望んじゃいない。望んじゃ……いないんだ……。

 なのにやっぱり永遠はなかった。体だけはおかやんより大きく成長した月日も、たった一時間ほど流した涙が飲み込んでしまった。もうどれだけ絞り出そうと努力しても、涙がでなくなったのだ。その途端、ずっと背中に感じていたおかやんの温もりが、たまらなく愛おしく感じられた。僕が心底おかやんの息子でよかったと悟った瞬間だった。

 おかやんは僕の嗚咽が聞こえなくなったのを見計らってのろのろと体を起こし、テレビの上のティッシュを取って「ちーん」と洟をかんだ。そしてこちらを振り向いた顔には、照れたような笑みが浮かんでいた。

「――おかやん。おとやんの病気、ようなるよな」おかやんが口を開く前に、僕は掠れた声を振り絞った。さらに言葉を継ごうとした。「おとやんが退院したら、僕、僕……」駄目だ。これ以上はまだ――。

 おかやんはその先を求めようとはしなかった。ただじっと僕を見つめ、これまでの人生を噛みしめるように「文哉。おとやんとおかやんの間に生まれてきてくれて、ほんまにありがとう」そう言ってくれたのだ。

 ――僕は、救われた。生んでくれてありがとう、おかやん。そして、おとやん。

 


 おとやんが野球選手だったことを僕に教えなかったのは、おかやんを守るためだった。

 話を聞く前は、そういう結論に至ることだけは許せないと思っていたのに、なんだかとてもさっぱりした心持ちだった。おとやんの浮気相手と喧嘩したあとのおかやんも、こんな感じになったのではなかろうか。そう考えると、あのときのおかやんの顔が妙に生き生きとしていたのも頷ける。

「おかやん、弱虫やから、ずっとほんまのことが言えんかったんよ。そやからお前が包丁を持ち出したとき、神様はまだおかやんを許してくれてへんと思ったわ。いっそお前に刺されて死んだら、楽になれるんかとも考えた。でもあかん。お前に人殺しをさせるわけにはいかんもん」

 笑いながらおかやんは言った。そうだ。こんなこと、ただの笑い話じゃないか。深刻になる必要なんかない。おかやんは偉い。おかやんは頑張った。だから神様は許してくれなかったんじゃなく、僕にそろそろ本当のことを言えと促しただけなのだ。僕が大人になったと、認めてくれただけなのだ。もう大丈夫だ。僕はもう、大丈夫だ。

 そんな僕の心を見透かしたのか、おかやんは強烈な一発をお見舞いしてくれた。

「これだけは信じて。おかやんは、義務だけでおとやんの世話してるんやない。やっぱりおかやんにとって、おとやんは強いヒーローなんよ。浮気もされたし、幻滅したこともあったけど、それでも最後にはおかやんのとこに戻ってきてくれた。それだけで幸せなんや」

 その分、文哉には苦労かけるけど許してな。そう言うおかやんの顔は、マネージャーをしていた高校生のときに戻っていた。まだ恋愛経験のなかった僕は、おかやんとおとやんが腹立たしいぐらいに羨ましく思えたのだった。

 結局おとやんは家に帰ってくることなく、一月入院してそのまま死んだ。葬式で、喪主としてのおかやんは立派だった。でもおとやんが焼かれるときは、人目も憚らず号泣した。蒼穹に立ち上る煙に向かって「あんたー!」と叫んだ。おかやんのその姿は、殺風景な焼き場のコンクリートに滲んで、僕の顔さえもぐじゅぐじゅにした。

 後日、人から聞いた話では、おとやんは貯金していた契約金や給料のほとんどをおかやんの家の借金返済に充てたため、実家を勘当されたということだ。僕がおとやん方のじいちゃんばあちゃんの顔を知らないのは、そう言うわけだった。

 怪我をしてからも、復帰せんがために必死で頑張ったらしい。しかし非情にも翌年には簡単にクビになってしまった。野球だけが取り柄のおとやんには、そのショックは計り知れず、しかし口にすれば怪我をさせたおかやんを責めることになり、おとやんの苦悩は底深かったろう。新たな仕事を探す気力も失せ、酒に逃げてしまった。そんなおとやんを誰が責められる? おかやんは、僕にそう言いたかったのだ。

 でも浮気をされたのは、やはり堪えた。おかやんが別れようと口にしたのは、後にも先にもあのときだけだった。

 僕には今でも、ステテコを穿いて酒ばっかり飲んで、勝手に息子の小遣いまで掠めて、子供の遊びに首を突っ込んで、星一徹になってノックの雨を降らせる、そんなおとやんしか思い出せない。だけどおかやんの目には、おとやんは高校生のときから変わってない姿で映っていたのだ。悔しいけれど、おかやんにとって、おとやんはずっとスーパーマンだった。最高のヒーローだったのだ――。


 

「いい天気になって、よかったわね」

 帽子を脱いだ彼女が隣にしゃがみ、静かに手を合わせた。僕は「ああ」と生返事をして、深呼吸をする。微かに香る潮のにおいが清々しい。

 うん。本当に、よかった。

 おかやん。なんとなくわかった気がするよ。おかやんの心境が。

 僕はおとやんにはなれないし、またなろうとも思わないけれど、愛する人を守る気持ちは絶対に負けないつもりだ。約束する。必ずその人にとっての、スーパーマンになることを。

 おかやん。僕は来月結婚するよ。おかやんに負けないぐらい、素敵な人だ。おっぱいだって小さい。おかやんに会わせてあげたかった。きっと気があってたと思う。

 働いて働いて、僕を大学まで行かせてくれたおかやん。就職も決まって、やっと楽をさせてあげられると思った矢先、風船が萎むようにおとやんのあとを追っていったおかやん。

 おかやんのお棺の中には、おかやんが大事にしまっておいた、おとやんのステテコを入れてやった。一緒に焼いたから、きっとあの世でも、すぐに出会えたことだろう。ゆっくり休んでいて。僕は、大丈夫だから。

 彼女が傍らに置いていた紙袋を探り、線香を取り出した。火をつけると懐かしいばあちゃんのにおいがして、またもや視界が滲む。さっきから鼻の奥が痛くて仕方なかった。おとやんに本気で殴られた、あの痛みに似ていた。

「ほら、どうぞ」彼女が僕を促す。僕は手に持っていた花束を供えようとして、思いとどまった。ちらりとこちらをうかがった彼女に無理矢理笑いかけると、彼女の手を取って「一緒に」と言った。

 あのときおとやんは、包丁を振り回した僕に対し、男として対峙してくれた。おかやんを守る、対等の男として。だからあの痛みは、決して忘れることはない。おとやんがたった一つだけ教えてくれた愛の形だ。愛などという言葉を使ったりしたら、気恥ずかしいか、おとやん。

 彼女が小さく微笑み、僕の手を包み込むようにした。優しい温もりが胸一杯に広がる。

 そうして僕たちは、二人が眠るお墓に花束を供えた。おかやんの好きだったカスミ草と、それから白いカーネーションにトルコ桔梗。彼女が選んでくれた。

 ――おとやん。そっちでまで、おかやんを泣かせるなよ。おとやんはそっちの国でも、ずっと、ずっと、おかやんのスーパーマンでおらなあかんのやからな――。

 どこからか「六甲おろしに鍛えたるー」歌声が聞こえた。はっと顔を上げたとき、一陣の風が吹く。おかやんを抱き上げたおとやんが、颯爽と飛び去っていったように見えた。

 やがて蒼穹に吸い込まれ、僕は眩しさに瞼を震わせた。 了


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