表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

森に眠れ

作者:

 もう限界だった。彼の事を嫌いになったわけでは無かったが、愛想が尽きていた。彼のことをちゃんと愛し分かり合いたいと、そう思っていた。しかし、全ては思うようにならずに徒労に終わり、私たちはまた別々の人生を歩むことになる。いや、もしかすると今までだって、同じ道など歩いていなかったのかもしれなかった。すぐ隣り合った道を並んで歩きながら、その道は一度たりとも交わらなかった。そんな気さえしてくる。


 彼に出会ったのは、大学のある講義だった。その講義の後に、机に一冊のノートが忘れられているのに気が付いたのだ。受講生がかなり少ない講義だったために、いつもその窓側の席に座っていた男子生徒だろうと言う事は容易に想像がついた。黒猫のようなような雰囲気の学生だった。来週の講義の時に返してやろうと思って何気なくノートを開いた私は目を見張った。それは黒板の写しなどではなく、日記だった。細かく几帳面な印象の字でびっしりと埋め尽くされたそのノートは、異様な雰囲気を醸し出していた。他人の日記を読むという行為に後ろめたさを感じながらも、私の好奇心がそれを止めさせなかった。そしてそれを読むにつけ、ますます私の興味は大きくなった。今では内容もぼんやりとしか思い出せないのだが、ひどく抽象的で厭世的な内容で、「このままでは僕はダメになる」とか「今日も何もせずに一日が終わった。僕は何のために生きているのか分からない」とか、そんなことが書いてあった。私は、その日記の持ち主を笑う事は出来なかった。その内容は、私が抱えていたものと似たり寄ったりだったからだ。持ち主は、この日記を読まれることを嫌うだろうということは、想像に難くなかった。私はそのノートを、その席の下の目立たないところに置いて、その場を立ち去った。その日の帰りに寄った時には、そのノートはもうなくなっていた。

 

 そういうことがあってからしばらくして、大学三年の秋、私がバイト先に選んだ本屋に初出勤すると、そこで彼が働いていた。お互い面識はあったものの、会話もしたことがなかった私たちは、そこでお互いの名前と専攻を知った。それから、バイト仲間たちと遊びに出掛け、二人で会うようになるのに時間はかからなかった。そこに、あのノートの存在が影響していたのは言うまでもない。会話をする前から、私は彼に対して勝手な好意や親近感を持っていた。彼の方からも、いつからか好意を感じるようになった。しかし、私のそれの方がはるかに大きかった。私の一言で、私たちは付き合うことになった。

 それからの日々は、幸せであるとともに常に悲しみが付き纏った。私がそうであるように、彼は人の愛し方も、愛され方も知らない人だった。私なりに相手を理解し、愛そうとした。なるべく彼の言葉に耳を傾け、優しく言葉をかけた。しかし今にして思えば、私たちは、自分の開示すべきところを開示せずに、開示しなくてよい事ばかり開示した。それは、一緒に居るのに他人なのと一緒だった。メッセージのやり取りをして、会って、一緒に食べて、お互いの体を知ってからも、私たちはやはり他人だった。むしろ、体を知ったことは良くない方に働いた。彼の肉で私の隙間が塞がれば、何もかも満たされたような気持ちになった。私たちは、言葉で埋まらないその溝を、体を繋げることで埋まったように錯覚した。しかし、いつもそこには微かな悲しみが混じっていた。それが偽りであることも、不毛であることも、どこかで分かっていたのだ。次第に私たちから会話は減って、会うたびにすぐ体を繋げるようになった。そうしていなければ、何もかもがはっきりしてしまう。それを、お互い何となく恐れていた。


 私たちは、大学を卒業した。私は就職し、彼はフリーターになった。卒業する少し前から、彼の内面は荒み続けていた。私でさえも近づくことのできない日があり、会話ができる日でも、彼はひどく憔悴していた。あの日記に書いていたのと同じようなことを、彼は日々捏ね繰り回していて、それを私に投げかけた。しかし、私だってそんなものの答えは持って居ようはずがなかった。真摯に答えようとしてもどうしても曖昧模糊として、禅問答のようなやりとりが続いた。そのうち、私の方も疲弊し始めた。私は私で、新しい環境に、日々神経をすり減らしていた。メッセージのやり取りも間が空くようになり、会う頻度も少なくなった。たまに会っても、ろくに会話が出来ず、ただ体を繋げて、言葉少なに別れた。


 そうして別れはやって来た。別れ際、彼は私に「別れたくない」と言った。それだけが救いだった。しかし私は彼を捨てた。関係は、もうどうしようもないところまで来ていたのだ。お互い疲れ切っていた。広い河川敷に彼を残して立ち去るとき、涙がこぼれるのを止められなかった。




 その後、私はしばらく感情が無くなったように働いた。数か月が過ぎ、彼のいない毎日に慣れ始めた頃、それは見つかった。引き出しの中から出てきたのは、小鳥の形をした陶器の箸置きだった。いつか彼と暮らした時に使おうと思って買った物だった。願掛けのような気持ちで買ったものだったが、ついにその未来は訪れることはなかった。私はそれを捨てる気にはなれなかった。

 ある休日、私はそれを鞄に入れて、電車に乗った。鈍行列車で、県境の森を目指した。始めて来る場所だった。森は、巨大な生き物のように大地に這っていた。登山道を外れて、迷わないように慎重に進んだ。よく晴れた日だった。葉の隙間から差してくるいくつもの光芒が、夢のように美しかった。それらは、苔の上に様々に模様を作っている。森の中は、湿った土の匂いのする空気と、木々のざわめきと、鳥の鳴き声で満たされていた。自殺名所として有名な森とは思えないくらい、そこは平和で、生命の美しさで輝いていた。何か、私の中で死んでいた感情が、蘇ってくるような気がした。私は、崖になっているところまで辿り着いて、立ち止まった。眼下には、新緑の森がずっと続いていて、遠くには春に霞んだ山が見えた。私は鞄からそれを取り出した。仲睦まじい番の小鳥。未来を夢見たまま、一度もそれを知ることの無い小鳥たち。私は、それを掌に握り込むと、渾身の力を込めて投げた。二つの点は、放物線を描いて緑の海に消えていく。少しの後悔と、少しの悲しみが、胸を締め付ける。しかしそれ以上に、私の心は晴れやかだった。この深い森で、あの小鳥たちは眠り続ける。人知れずずっと、あったかもしれない未来を夢見て。そしてこの森が、今も、これから先もずっと、ここでこうして横たわっている。あの小鳥たちを抱いて。そう思うと、私は心の底から安堵した。

 私はそのまま家路についた。そして、その森には、二度と行くことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ