幕後
萌は目を覚ますと、枕元の時計を確認した。
06:45 7/4 thu
いつもより少し早く眠ったぶん、いつもより少し早く目が覚めたようだ。萌はベッドから起き上がると、洗面所におりて、すっかり温くなった水道水で顔を洗った。
リビングは無人で、流しには二人分のコーヒーカップとパン皿がつけてあった。昨夜、父さんたちは朝が早いと言っていたから、もう出かけたのだろう。夏希は朝練。冬眞がこんな朝早くに起きてくるのはありえない。萌はパジャマの上からエプロンをつけると、自分のお弁当と冬眞のブランチ、楓と自分の朝食をつくるために、冷蔵庫を物色した。まだ時間に余裕があるし、昨日の天ぷらも残っているから今日は冷凍食品に頼らなくてもすみそうだ。
萌が仕度にとりかかると、楓が起きてきた。
「・・・・・・・おはよう」
「おはよう。父さんとかあさんは今日も朝はやいんだって」
「うん。知ってる」
おにぎりをにぎる萌の後ろで、テレビがつけられる。なにが面白いのか、楓がつけると必ずNHKか教育になる。
若草家の朝食は基本的にトーストだが、萌は久しぶりに聞いてみた。
「パンとごはん、どっちにするー?」
「・・・・・・パンでいい。そんなにごはん、余ってるの」
「ううん。そういうわけじゃないけどね」
萌は食パンをトーストにかけ、目玉焼きを焼きながらレタスをちぎり、そういえばオレンジが残っていたはずだからデサートに切ろうかと思っていると、楓がおずおずと台所にはいってきた。
「わたしもてつだおうか?」
「いいよ。慣れてるから。座ってて」
反射的に答えてから、萌はハッとなった。父さんが再婚したころ、楓は何度か手伝いを申し出てくれていたが、こうして断り続けているうちに、楓はなにも言ってこなくなったのだ。
萌は楓の目をみた。
楓も萌の目をみていた。
目と目があうと、楓がいった。
「わたしも手伝う・・・・・・ね、ねえさん」
「ありがと。じゃ、お皿とって、レタスならべて」
「うん」
うなずく楓をみて、萌は急に思い出した。
断片的に、断片的に。
あれはひょっとして―――――、
「楓ちゃん。昨日、変な夢をみなかった?」
「みなかった」
「そう」
萌は焼けたトーストを皿に移し、目玉焼きを二つにきって、楓の用意した皿にもりつけた。後ろのテレビからは、偉そうな学者の知らない言語と、それを訳す声が聞こえてくる。
「でもね」
楓がいたずらっぽく笑った。
「楽しい夢なら、みたよ」
「そっか。いっしょだね」
萌もいたずらっぽく笑った。
その日の朝食は、きっと今まででいちばん盛り上がった。どこまで覚えているとか、あのときは恥ずかしかったねーとか、
時間いっぱい、姉妹でおしゃべりをした。時間がくると、楓は「いってきます」と元気に小学校に登校していった。
萌は、しばし悩んだ末、学校へいった。
いつもどおり、時間ぎりぎりで萌が教室に入ると、教室の後ろで男友達とだべっていた背の高い異邦人と目があった。明るいブロンドヘアと、透き通ったアクアマリンの瞳、白磁の肌。けれど、もう憧れることはないだろうなぁ、と萌はしみじみ思った。
萌が小さく手をふると、ブラッド君はびっくりしたように目を丸くしてから、ヒーローの微笑みをかえしてきた。それは初めてのものをみた時の反応で、ブラッド君は夢のことをおぼえていないのだなぁ、と萌は心の底からホッとした。
萌が自分の席につくと、トモダチがワラワラ集まってきて、ブラッド君に手をふったことについて驚き半分にからかってきた。そんなに親しくないトモダチは、ほぼスッピンの萌をみて「うわっ、小学生みたい。ロリカワ?」と微妙にひいた。別のトモダチは「アキバ系?」と微妙にバカにした。別のトモダチは「狙いすぎ?」と微妙に呆れた。沙織は「個性だよね」と微妙にほめた。
そうこうするうちにチャイムがなって、ホームルームが始まった。
授業中。
黄昏るように窓の外をみているブラッド君の頭のなかは、本当にあんなアニメやゲームのことでいっぱいなんだろうなぁ、と今ならイタいほどよく
わかる。もう萌の心に恋する乙女の気持ちは1ミリグラムも残っていない。でも、嫌いになったわけじゃ、けっしてない。ちょっとついていけないところはあるけれど。
お姉ちゃんが言うように、まずは近づくことからはじめてみようと思う。叶わない夢をみて絶望するよりも、できることを一つずつやっていけと、
さっきテレビで偉い人がいっていた気がする。
まあ、ブラッド君のことは明日からゆっくりと考えればいい。
放課後。
いつ降りだしてもおかしくない鈍色の空模様。
メールで待ち合わせていた駅に直接よると、他の姉妹はすでに集まっていた。
地下鉄に乗り、下りたことのない駅でおりる。
地上に出ると、図ったようなタイミングで雨がおちてきた。
萌たちは傘をさすと、大きな公園の裏手にある私立足立信愛女子高等学園をめざした。
学園につくと、ちょうど授業が終わったところなのか、屈強なガードマンが5人も警備している校門から、傘をさしたお嬢様たちが華やいだ笑顔で談笑しながら出てきた。その様子は背景に花でもしょっていそうで、萌の学校の生徒とは育ちが違う印象がある。
そんな一団に、萌は見覚えのある生徒をみつけた。とてもそういうことをする顔立ちにはみえないが、まぎれもなく、あの人たちだった。
許せない、と思った。
すれ違いざま、萌はわずかに傘を回して水滴をとばした。それは、あまりにもささやかな抗議だったので、彼女らは気をとめることもなく、にこやかに微笑んだまま歩み去っていった。
雨足がつよくなってきた。
何人もの生徒が出てきたが、まだ出てこない。もう帰ってしまったのだろうか。あきらめてメールしようかと話していると――――、
「あっ。あの子・・・・・・」
忘れたのか。それとも、隠されたのか。
眼鏡をかけた大人しそうな女の子が、通学鞄をカサがわりにしてヨタヨタと駆けて来た。その子は、萌たちが待つほうとは反対側に走っていったので、足の速い夏希がすかさずおいかけ、たちまちおいつき、その子に自分の傘をさしかけた。
傘を差しかけられた女の子は、びっくりしたというより怯えたような目をしたが、駆け寄ってくる萌と楓に気がつくと、声をつまらせた。
「かえでちゃん・・・・・・・もえさん・・・・・・」
「香澄さん、びっくりした?」と、楓が笑いかけた。
「会いにきたの。やっぱり、迷惑だったかな」と、萌がいった。
「そんな!」
香澄は勢いよく首をふった。それから、自分に傘をさしかけている夏希の顔、萌の顔、楓の顔、鷹揚に傘をふって近づいてくる冬眞をみて、香澄は両手で顔をおおった。
「どうしたの?」
「ご・・・・・・ごめんなさい・・・・・・びっくり、した・・・・・・から」
萌がハンカチを差し出すと、香澄は小さくうなずいてそれを受け取り、顔をぬぐった。冬眞が近づいて肩をだくと、香澄は冬眞に
しがみついて嗚咽をもらした。
往来で抱き合う姿に、出てくる生徒や通行人が何事かと興味深げにこっちを見たが、夏希がにらみをきかせると、すごすごと目を反らした。
しばらく、雨の音だけがつづいた。
ようやく顔をあげて眼鏡をかけなおした香澄に、萌は言った。
「夢の魔法がとけないうちに、あなたに会いたかった。きっと、明日になれば言えなくなるって思ったから」
「な、なんのようですか・・・・・・」
「ともだちに、なろうよ」
萌が笑いかけると、香澄はとまどった後、小さく微笑みをかえした。
それをみて、楓が、夏希が、冬眞が微笑んだ。
みんなで手をとりあって、萌がラストをしめる。
「わたしたち、ゆめなかっ!」