④自愛と視線の先の愛/重陽の節句 前編
ーー異能の力。
それは、強い力を持った神に選ばれた者が使える、特異な能力。
「神和警邏団」の多くは、今から200年以上頃に生まれた「一番初めに作られた花札」の付喪神による異能の力を得ている。
多くの人に愛され、日本人の感性に強く結びつく形で生まれたこの遊戯は、付喪神としての個を確立せずに、人に宿って生き続けてきた。
宿主が死んだ時、花札は宿主の血族や、その周囲にいるものの中で、最も気に入った人間に宿る。
酒向菊重は、少なくとも物心ついた時には、「菊に盃」の異能の力を手にしていた。それが誰から受け継がれたかは、誰も教えてくれなかった。
ーー確かに、教えてくれる者は誰もいなかった。だが彼は、異形のものを発見した時に、自然とその力を発揮した。
「ーー禊夜露!」
ちょうど今、夜闇に蠢く目玉の化物に浴びせた水の刃のように、その清められた酒の力で穢れを払い、敵をなぎ払う。水の刃に触れた化物は、次々と破裂するかのような勢いで身体が切り裂かれ、削がれていく。
今彼の異能の力は、初めて発動した時と比べて、とても強力なものに仕上がっている。それはひとえに、彼が「神和警邏団」の一員として、異能や「人ならざるものたち」の知識を蓄え、訓練と実践を積んできたからだ。
背後に気配を感じた菊重は、咄嗟に左に避け、右手の大盃ーー自らに宿る菊札の付喪神に、心の中で呼びかける。
(……いくよ)
「ーー千輪咲ッッ!!」
星のような光が、半球状に夜空に浮かぶ。敵が思わずそれに気を取られる。刹那、まるで矢の雨のように、光が敵を一斉に貫いた。
光の矢ーー否、菊の切花の形をした光に貫かれた妖と敵たちは、苦しそうに呻いた。しかしその光がぱっと霧散すると、妖らの敵対心も共に消え去ってしまった。そして興味がなくなったかのように、暗闇の中に帰っていく。敵たちは、そのまま倒れて地に伏した。
「……ふう……っ」
菊重が思わず息をついた瞬間、菊重の懐に飛び込んでくる影があった。ねずみの妖だ。
(南無三ーー……!!!)
菊重は思わず避けようと身を捩るが、足が縺れる。反応が遅れた。ねずみの妖は、今にも菊重の腹を食い破ろうと、その口を大きく開くーー
「ギエーーーーーッ!」
菊重は思わず目を瞑ったが、恐る恐る開いてみる。ねずみの妖には、ざっくりと細身の刀が突き刺さっていた。そのまま、妖は淡い光を放って消えた。
月光に照らされてぬるりと冷たく光る刀を、闇から現れた筋骨隆々な男が、ぴっと血を飛ばすように払った。そして、赤紫色の鞘に戻す。彼の後ろには、ねずみの妖を操ったと思われる男が倒れていた。
「油断すんじゃねえ。ーーが、なかなかやるようになったじゃねえか。菊重」
「先生……。ありがとうございます」
菊重が先生と呼んだこの男は、菊重の戦いの師匠であり、同じ「神和警邏団」の仲間である、八橋嘉吉だ。つまり当然異能の持ち主で、「杜若に八橋」の花札をその身に宿す。豪放磊落として気持ちの良い男なのだが、派手な半纏に腹掛と股引姿ーーまさに江戸男といった服装に似合わぬ髪型をしたり、刀を3本も提げたり、珍妙な結び方をした派手な手拭いを、あちこちにつけたりする、近寄りがたい変人ーー昔風に言うと傾奇者だ。
「一つ言うならーーお前は独りよがりすぎる。今すぐには無理でも、少しずつ周りを見ろ!見るだけでいい。見ることができるようにならなけりゃ、次に進めんぞ」
「周りを、見る……。」
「見ることは、愛だ。皆誰しも、沢山のモノに見られている。そのことも感じてみろ!」
(意味が分からんが。僕にどうしろと……??)
がははと笑う八橋。菊重は意味がわからず、首を捻った。
「お前の言うことは分かるが八橋、少しはきちんと説明する気はないのか」
そう言ってロングコートを翻しながら走ってきたのは、鹿島だった。鹿島もまた「紅葉に鹿」の異能の持ち主で、今日も戦いに参加していた。しかし、彼と八橋はウマが合わず、仲が悪いのだ。今も視線がかち合って、お互いに不快感が隠せないと言わんばかりの、渋い表情をしている。
「小言はいい。結果は出してきたんだろうな?」
「当然。俺は八橋と違って、用意周到、堅実をモットーに仕事してるんでねーー鹿十令、解除」
鹿島が右手だけ黒い手袋を脱ぎ、パチンと指を鳴らす。すると、何もなかった鹿島の背中に背嚢が現れる。菊重達がはじめに見た時よりも、大分膨れている。
「お偉いさんが欲しがってた資料は、この通り。隠密行動において、俺の右に出るやつはそういないっての」
鹿島の異能は、戦いよりも隠密行動に向いたものが多い。そのため、敵地に忍び込む危険な任務が多い。今日は敵の機密文書を得るために、異形に覆われた、とある家を無理矢理にでも突破する必要があったため、八橋と菊重が暴れていたということだ。
「フン。なら普通の人間に気づかれる前に帰るぞ」
「乱暴な戦いしかできない脳筋のお前じゃないんだぞ。俺とシゲには、そんな心配無用だっつうの」
「……い、いいから早く出ましょう!楓助兄さん、先生」
木枯らしが吹く中、喧嘩しながら三人は足早に屋敷へと向かったのだった。
「おかえりなさい。お仕事はどうでしたのん?」
安全な家までたどり着くと、桜子が出迎えてくれた。
「成果はなかなかじゃないか?とはいえ、小野姉弟たちのような強敵が出てこなかったからな……。思ってるほど重要な書類じゃないのかもな。それか、単に人員不足なのか」
「あらぁ……後者の方やとええなぁ。その背嚢は私が松鶴さんに渡しときますね。皆さんは、先にお風呂入らはったら?」
ニコリと笑ってそう言うと、桜子は菊重の肩を叩いた。憧れの女性との距離が近くなって、思わず菊重はどきりとする。
「ね。松鶴さんが、菊重さんが帰ってきたら、部屋に来るように言ったはったの。一緒に来て」
「は……はい」
キラキラと眩しい笑顔に、菊重はたじろぐ。風呂の順番を巡る喧嘩を始めた八橋と鹿島を放っておいて、二人は階段を上る。二階には、松鶴と鶯梅・美吉野姉妹の個室と、書斎や資料室がある。書斎の扉を桜子がノックすると、「どうぞ」という声が返ってきた。中には、書類を書いていた最中といった様子の松鶴と、書類を整理する鶯梅がいた。桜子の視線が鶯梅に吸い込まれ、瞳が輝く。
「失礼します、松鶴さん……鶯梅、さん」
この屋敷の皆は知っていることだが、桜子は鶯梅のことが好きだった。しかし、将来の「神和警邏団」の後継ぎになる鶯梅の立場を考えると、姉妹である薫子が彼と結婚するかもしれないと言われているのだった。
菊重は、桜子の視線を受け止める鶯梅の、石のような無表情を見るたびに、なんとも言えない気持ちになるのだった。
「おお、もうそんな時間か。お帰り菊重。桜子、それが例の……。」
「はい。その書類です」
「ありがとう。鶯梅、自分の書斎で先に目を通しておいてほしい。いいかね?」
「分かりました、義父上」
鶯梅は桜子から背嚢を受け取り、桜子と共に部屋を出ていった。松鶴は、菊重を応接用のソファに腰掛けるように促した。自身もその向かいに座る。
(松鶴さんの穏やかな目は好きやが、何だか落ち着かんのォ……)
「……菊重君。今日は、重陽の節句だね」
「あ……ええ。松鶴さん達は、今日の宴会に参加できるんですか?忙しそうでしたけれど……」
「ああ。少し遅くはなるけれど、大事なことだからね。皆で節句を祝うのは楽しみだ」
松鶴は、下がってきた眼鏡を直しながら、温かい笑顔でそう言った。
「それに、おそらく菊重君の誕生日じゃないか」
「うーん……」
菊重は、なんとも言えずに唸る。菊重に限らず、この時代には誕生日を意識する者は少ない。年をとるのは、正月に年神様から貰ってはじめて可能になると信じていたからだ。
更に、菊重は親とまともに話をしたことがなく、親のことも自分のことも何も知らない。勿論、自分が生まれた時のことなど全く聞こうとも思わなかったのだ。
しかしおそらく、菊重の名前は、重陽の節句とその別名・菊の節句から名付けられたものだろう。
「前の年も聞いたから知ってると思うけれど……私は皆の誕生日には、贈り物をしているんだ。君にもね」
そう言って松鶴は、応接机の上で風呂敷包を差し出す。
(贈り物……。)
菊重は思わず目を輝かせる。
「去年はまだ君のこともよく知らないし、お菓子にしてみたけど、今年は違うものにしようと思ってね。気にいるかな」
風呂敷包から現れたのは、藍色の襟巻と黒い革手袋だった。
「こ、これ……高かったんじゃ……!」
「そうでもないよ。それに、最近君は頑張ってるから、ちょっといいものをあげたくなったんだ。これを見て、君が頑張れるようになってきたことを、これからも思い出してほしい」
松鶴は菊重の元に行くと、わしゃわしゃと頭を撫でる。節くれた皺だらけの温かい手が、切りそろえられた頭を乱す。菊重は黙って、ずっと俯いていた。
「私達「神和警邏団」は人手も足りないし、無茶なことを言ってしまうことも多いと思う。追い込まれて、つい君にもきつい言葉をかけてしまうこともあるかもしれない。」
菊重は、首を横に振った。
「ちが……!僕が、好き勝手に怠けていたから……。松鶴さんにも……皆にも、よくしてもらっているのに……。」
「君は、ここで怠けられたから頑張れたんだ。もしまた頑張れなくなったら、ここに来なさい。私が菊重君のために時間が取れなかったとしても、ここで皆に内緒で怠けにおいで」
菊重は、目頭を学生服の袖で押さえて頷く。
「よし。じゃあ私は、早く宴会に参加できるように頑張るよ。菊重君も、好きなだけここにいるといい」
松鶴が肩を叩き、執務机に戻る。菊重は身体を丸め、応接用のソファで肩を震わせていた。