④土蜘蛛の民/船岡山の戦い 中編
暗闇。
前後左右上下全て分からない中、僕は暗闇から伸びた手に引かれていく。
苦しい。
僕はがぼり、と大きな泡を吐いた。
ーー全て分からない?
いや、分かるはずだ。
僕は分かろうとしなかっただけだったんだ。
僕がもがけば、頬や手に泡が当たる。そこで僕は、光の当たらないこんな場所でも、僕を掴む手が、どこに連れて行こうとしているか分かった。
(僕は、生きな)
僕は、泡と共にもがいて上を目指す。しかし完全に思うがままに浮上するには、僕を引き摺り下ろそうとするこの手が邪魔だった。暗い水底から伸びている、青い月明かりに照らされた黒い腕。僕は、半年前に見た悪夢と同じように、それが濁った目をした継父・庄右衛門のものだと思って覚悟を決めた。
(僕は、水面に出た時の景色を知ってる。温かい空気も、目指す灯台も、追う背中も分かってる。でもーー僕は、もう、一人で泳いでいけるざ……!)
僕は、黒い腕を掴み返して、暗闇から乱暴に引き上げた。宿敵である育ての親には絶対に負けぬと力んだけれど、思ったよりも簡単に引き上げられて、僕の方が拍子抜けしてしまった。そして、幽霊のような虚な瞳と目があった。青白い顔を見て僕は思わず、がぼりと海水を飲み込んだ。
自分だ。
自分の死体だ。
僕はパニックになって、空気を吐き切り、息ができなくなる。わけがわからないまま溺れる。
(死ーー)
死ぬ。そう思いかけて、ふと信じられないくらいに静かな気持ちで、僕は水の天井を見上げた。
(誰も助けてくれん。分かってたはずなのに、心の中じゃァまだ、他の人に寄しかかってたが。僕は、僕自身で、何をしてでも這い上がらなあかんのにの)
僕は、自身の死体を引き寄せる。そして、その冷たい唇に自分の唇をあてがった。死体に、それも自分のものに口をあてがって魂を晒すなど、背筋がぞわりとして泣きそうだった。しかし今この状態で頼れるのは、他ならぬ自分自身しかいなかったのだ。
(あれ……苦しく、ない……?)
不思議と息をするたびに、引き寄せた自分の死体が温かくなっていく。そして、自分の死体だと思っていたものは、キラキラと煌めいて僕の口へと吸い込まれていった。海中だというのに呼吸ができて、身体中が温かく、不思議な活力に満ち満ちる。頭もはっきりとして、異能の力も胸の内で燃えている。僕の全身から、光が放たれている。
ーー敵の術は、菊重の心を蝕むもの。菊重が自身と向き合い、それを破ったことで、更に異能の力を得たのだ。
(「菊に盃!」……)
冷静になった僕は、月明かりが差す水面を見て、次に暗い水底を見た。そして、暗い水底に泳いでいくことに決めた。宿柳絮の幻想に怯えた前回には気付けなかったが、この恐れの種が雨ノ辻の技である以上、ある程度雨ノ辻と繋がっていると思ったのだ。実際に潜っていくと、海の奥底に近づくにつれ、沢山の人の遺骸とすれ違った。
ーーさしずめ、宿柳絮の餌食になった者たちの、精神の墓場だな
僕は「菊に盃」の言葉に、こくりと頷いた。
そして闇の底に辿り着いたとき、一人の長髪の男が、刀で胸を一突きされた姿で沈んでいた。菊重は、一つだけ様子の違う遺骸を疑問に思い、底に降り立って近づいてみる。
ーー美吉野芳春……!しかしあれは……呪縛霊のようなものだな
「えっ……?!」
僕は慌てて男に駆け寄る。男は血の気を完全に失った顔で目を見開いて、乱れた長い髪を海中に漂わせながら、仰向けに倒れていた。ーー確かに、薫子と桜子の父親だ。しかし、屋敷の写真で見た姿と違い、惨い遺骸となっている。淡く美しかったであろう、桜鼠色の着物には、既に黒い血がたっぷりと染み込んでしまっている。その身体には、柳の枝がしっかりと巻きつけられていた。僕は胸に刺さる刀を引き抜こうとしたけれど、何故かびくともしなかった。
薫子と桜子が知れば、どんな思いをするだろうか。僕は柳の枝を切って何とかできないだろうかと、枝に手を触れた。
(ーーッッ!!)
僕の脳裏に、どろりとした黒い感情が流れ込んだ。酷い目眩がして、視界が歪む。その暗さと重さに思わず手を離し、訳もわからないまま胸を押さえる。脳の不快感が吐き気となって、一拍遅れて処理されてきた。
「……あんたの力ァ、借るざ。「菊に盃」……!」
ーーよかろう、菊重
「菊に盃」の清涼な異能の力が、黒い感情を中和してくれる。僕は深呼吸すると、意を決して再び枝に手を触れる。
(う……ッ)
再び酷い目眩がして、視界が歪む。頭が強く揺さぶられるようだ。意識が遠くに飛んでいきそうだ。
遠くで、女の悲痛に叫ぶ声と、男が静かに答える声がする。脳裏に浮かぶ、星明かりの下焼ける村。そして吐き気がするほど強烈な、鉄の臭い。「自分」は誰かの亡骸を抱きながら、髪を振り乱しながら男を睨みつけ叫んでいる。「自分」は女らしい。そして、睨みつける先には、簪で流れるような黒い長髪を纏めた男ーー芳春がいた。
芳春の静かな声に、女はなおも激昂して声を荒げる。涙が止まらない。視界の隅に、長い白髪がちらりと映る。女の心は今、悲しみと絶望と、諦めと怒りの感情の奔流に飲み込まれ、我を失っていた。否、「自分」が失われていく。
(「僕」が、呑まれる…?!)
僕は血の気が引く感覚を覚えながらも、激しく黒い感情の渦に、自分で考えることができなくなっていた。
殺ス……!殺シテヤル……!!
(あ……違う……!「僕」は、殺したくないざ……!!)
僕は必死で、女の思いを振り払い、僕自身の気持ちを思い出す。
(僕はお前じゃない…!芳春さんから、僕から、離れろ!!!)
ーー菊理媛命から借り受けた力、今こそ菊重に使わせてやる
自分の本当の目的を思い出した瞬間、「菊に盃」の声が、まるで自分自身かのようにはっきりと聞こえた。そして、僕の想いに応えて異能の力が発動する。否、異能の力により導かれているのは、自分の方だ。
僕に宿る付喪神も、力を貸してくれた神も、あくまで彼らの目的を果たす為に、僕を媒体ーーつまり「道具」として利用しているのだ。自分が意識していないだけで、本当は異能の力を使う時は、いつもこうだったのだと、僕は思い知った。
そして今、「僕の目的」と「神の目的」は完全に一致した。かつてない力が、僕の体をビリビリ震わせて走り抜ける。
(この酒向菊重を操るのはーー許さん)
「汚れを払い給えーー久久理払!」
パン、と小気味いい柏手を打つ音が響く。僕は女の幻影ーー雨ノ辻の記憶から引き剥がされ、海中の世界に引き戻された。
柳の枝に絡めとられ、胸を刀で一突きされていた筈の芳春の亡霊は、今は呪縛から解かれていた。雨ノ辻の記憶の中よりも老けていたが、黒い長髪を簪でゆるく纏めた、儚い雰囲気の美しい男だった。桜の花と同じく、風にさらわれそうな雰囲気のこの男は、僕に何かを伝えようと口を開く。
「……わ、る、い、ね…?……た、の、む、よ、……?まさか、薫子さんと桜子さんの、」
芳春はふっと笑うと、海の泡となって消えてしまった。いつのまにか水底の闇まで差し込んでいた光の柱に、泡は導かれるように上っていく。
「……待って!待ってください!!何か他に、伝えたいこととか……」
僕は必死になって、光の強い方へ上っていく泡を追いかけて泳いでいく。しかし、泡は何も話さない。
僕は、いつの間にか光に包まれていた。
菊重が目を覚ますと、薫子が菊重の前に立ちはだかっていた。
「ぐ……っ!おのれ……宿柳絮が、酒向伊織の息子に突破さえされねば……!!」
「はぁ……はぁ……酒向君には、絶対手出しさせへん……!お父はんの仇、取らして貰おか!」
ジリジリと睨みあい、再び二人は桜が舞う中武器を交える。菊重を、自身が召喚した天女と共に守っていた松鶴は、菊重が目覚めたことに気がついた。
「おや……?」
菊重の身体は、宿柳絮で痛めつけられた筈なのにも関わらず、異能の力に満ち溢れていた。「菊に盃」と二柱の水神の力、そして借り受けた菊理媛命の力を、最大限に引き出すことに成功したのだ。
「菊重君、君って子は…当に神と和を為し、その依代となる巫なんだね」
菊重は、笑った。
「僕はきっと……何にも無いし、何でもないだけなんですよ」
重たい身体を起こし、菊重は目を瞑る。皆の和を願う、優しい神から借り受けた縁の力を、「菊に盃」に引き上げてもらう。
「花札の異能の力の、その先ーー揃え、「花見酒」の役!久久理結!」
闇夜の中、菊重の姿が淡い光に包まれる。
「薫子さん!!」
菊重は薫子に叫びながら、手を掲げる。菊重の中の「菊に盃」が、薫子の中の「桜に幕」と呼応する。薫子は不安そうに視線を彷徨わせたが、ハッとした様子を見せてから、菊重と真っ直ぐ目を合わせてきた。
「これは……?!」
「くっ……小癪な……ッ!」
松鶴と雨ノ辻が、驚きに目を見開く中、菊重と薫子の視線がかち合ったところから、静謐な闇が広がっていくーー




