❶愛の唄/ジョーカー登場 前編
※京都編
都の空が赤く染まり、日が落ちる。
都の音楽喫茶、カフェー・ピボワンヌには、今日も紳士淑女が音楽を楽しむために集まっていた。
電気を落とされ、ランプの明かりだけがついた店内。そこに、薄いドレスを着た女が現れる。店内から、パチパチと拍手が起こった。そして、マスターがピアノをゆったりと演奏し始める。女は、すうっと大きく息を吸い込むと、甘く優しい声で、唄う。戦争のない平和な時代の、短く淡い恋。その後の悲劇的な戦いに儚く散る、強く勇敢な若い命の輝きを、異国の言葉で優しく甘美に歌った唄だ。
歌い終わると、暫くの沈黙の後に雨のような拍手が送られた。再び電気がつけられると、カフェー・ピボワンヌにはレコードの針が落とされる。そして、客は音楽を肴に酒と料理を楽しむのだった。
蝶は歌い終わってから、カウンターで気怠げに煙管を咥えていた。煙管には金具に牡丹の装飾があり、若い女が持つには目立ちすぎるものだ。これは蝶の父親のものだ。歌を歌うことが生業の蝶がタバコを蒸すことは、本来やめたほうがいいことだが、彼女は既に中毒に陥っていた。
(愛する者が無いあたしが、愛を唄って人気になるなんて…本当におかしな世の中やわ。やんなっちゃう)
蝶はそう思いながら、肺に行き渡らせた紫煙を、ふうと細く吐き出す。そこに、一人の細身の男がやってきた。
「や、お嬢さん。さっきの歌、凄く上手やったわ。お隣、座らせてもらっても?」
「物好きなお方やね。お好きにどうぞ。」
その返事に、男はうーんと首を傾げ、しげしげと蝶の姿を見る。
「やっぱり……!君、名取商會のお嬢さんや。お珠ちゃん!違うかい?」
蝶は思わず煙に咽せ、涙目で隣の男を見る。コートに身を包んだ、紳士的な様子の男。ループタイまでなんかして、いいところの人のようだ。一体そんな知り合いがいただろうかと、咳が落ち着いてから男の顔を見る。
「やあ、僕のこと、覚えてるかい?な?」
芝居がかった薄い笑みで笑う、中性的で、優しげな垂れ目と口元の黒子が特徴的な、この男。確かに、蝶には見覚えがあった。
「玉坂の家の、藤嗣坊ちゃんやないですか……!」
蝶ーー否、名取 珠は驚きつつも、嫌な感じに身を竦めた。
「なぜ、藤嗣坊ちゃんがここに?今、何してはるんです?」
「何でもしてるんよ。僕は美しいものが好きやからねぇ。僕が美しいと思ったんは、何でもーー何でも手を出してるんよ」
藤嗣のズレた答えに、珠は思わず困惑した。
「絵画、書道、武道、何でも手を出して、何でも受け入れとったらな、カフェー・ピボワンヌという喫茶店に、歌姫がいると聞いたもんやさかい。一体どんな美しさなんか、覗きに来たっちゅうことや。な、お珠ちゃん。ぜひ僕のピアノに合わせて、一曲唄っておくれや」
「えっ?!い、今ここで?ーーあ、あと、私のことは蝶と呼んでくれはる?!営業妨害や」
「ごめんごめん。やあ、マスターさん!僕にピアノを弾かせてくれません?是非この歌姫と、セッションをしたくてなァ!」
「あ、ああ……」
マスターは引き気味になりながらも、特に断る理由も思い付かずに了承した。
「じゃ、早速いこか!僕の好きな、あの曲はどうや?ほら、君とよく聞いた……」
「す、すぐ歌えるけど……」
「素晴らしい!」
藤嗣はピアノに向かうと、試しに一節を弾いてみる。聞き覚えのあるそのメロディーに、歓談中だった客も、皆歌姫とピアニストに注目する。店内の電気がまた落とされる。
重厚な和風のワルツに合わせ、珠のよく通る声が響く。美しい元来の自然を尊び、神の尊さを讃えるこの唄は、ちんどん屋が行脚する時に演奏されていて、多くの人が知っていた。
そんな新鮮な新しい時代の唄も、悲しみと切なさを表す曲に変わってしまっていた。珠の透き通る声と藤嗣の感情的で哀愁漂うピアノによって、まるで失われていく自然と神への信仰の鎮魂歌のように、日本人の心をかき乱すのだ。
唄と演奏が終わると、盛大な拍手によって二人は迎えられた。藤嗣は珠の手を取ると、役者のようにお辞儀をしてみせた。
「素晴らしい!お珠、素晴らしいで!」
「……やめてくらはります?」
「ーーおや、堪忍な。お蝶」
珠はぱっと藤嗣の手を離すと、舞台から降りる。
(坊ちゃん、馴れ馴れしくて嫌な気分や。昔もこんなお人やったっけ?どうやって接していた分かれへんーー)
「蝶、もう上がりィ。凄い顔してるで」
マスターに言われ、珠は表情をさらに硬くする。
「……マスター、甘えさせてもらいます」
「気をつけいな」
珠は慌てて裏に引っ込むと、藤嗣に掴まれた手を抱きしめる。着替えながら、珠は三ヶ月前のことを思い出していた。
(楓助ーーどうしよう、あんなに楓助を否定しておいて、私……)
睦月の七日、人日の節句の日、菊重たちが外に出て行ってすぐ、鹿島が真顔で口を開いた。
「……で、蝶子。話したいことがあるんだけど。」
「な……なによ」
鹿島は黙って、布団に横たわる珠を見つめていた。その甘く絡みつく視線に、珠は嫌な予感がしていた。こころが騒めいて、落ち着かない。なにも聞きたくない。珠は視線から逃げることもできず、首だけ僅かに動かして、目を逸らした。
「……怖い、か?それとも……」
珠の心を見透かすような、鹿島の言葉。珠は何も言えずに黙った。
「なあ、埒があかないから言うけどさぁ……俺、蝶子の事を大事に想っているから。ずっと……ずっと前から。」
珠は目をぎゅっと瞑って、鹿島の告白を聞いていた。珠の想像以上の、微かに震えた甘くて切ない男の声に、耳が蕩けて心がどうにかなってしまいそうだった。
「聞きたくないかもしれないし、俺も言うべきじゃないかもってずっと思ってた。けど、いざ死ぬかもしれないって時、俺は……」
「や……やだ、やめてや……!」
珠はこれ以上、鹿島の赤裸々な告白に耐えきれなかった。あの飄々とした鹿島の軽い声が、熱に浮かされたようになっているのを聞いていられなかった。
「聞きたく……ない……」
「でも、俺はーー!」
「嫌だって言ってるやん!」
珠は、自身が溶けてなくなりそうな恐怖に怯え、心のままに泣き叫んだ。叫んで、やりすぎたと珠は後悔した。
「ーーあ、ごめ……」
「……おっさんはよくて、俺はそんなに嫌なのか?なぁ……!」
珠は鹿島の、深く傷ついた声に焦る。
「ちが……ごめん!あたし、そんなつもりじゃ……」
鹿島を見ると、目から光が消えている。鉄仮面を被ったようなその顔も、普段明るい微笑をたたえている鹿島からは、想像もできない顔だった。
「ーーじゃあ、もういいから。だから、おっさんと同じように、俺も金の成る木として弄んでくれよ。」
「そんな……そんな酷いこと、楓助にできない……」
珠はもはや、自分でも何を言っているか分かっていなかった。ただ頭の奥が痺れるようで、喉がきゅっとしまって、藁をも縋る思いで感情を丸出しにしていた。涙目の珠と目があった鹿島は、頭を乱暴に掻いて目を逸らした。
「はぁ……じゃあ、初めっからそんな酷いことを人様にするのはヤメロ。馬鹿野郎が……」
重い溜息を吐いて、鹿島はお手伝いを呼ぶ。珠はすぐに、布団に顔を埋めた。
「何やってはるんです、鹿島さん!」
「……悪い。もう出てくから、肩を貸してくれ」
「はぁ……重た!……よいしょっと」
襖の閉まる音がして、珠は鹿島の座っていた場所をそっと覗く。もういないとわかっているのに、確認してしまった自分が嫌だと、珠は甘い溜息をついた。
鹿島を否定したあの日から、珠の胸にはちくりと甘い棘が刺さったまま抜けない。それでも、どうやって話しかければいいか分からずに、三ヶ月もの月日が経ってしまっていたのだ。あんな終わり方で、どう話の糸口を掴めばいいのだろうか。そもそも、珠自身に話をする資格があるのだろうか?
しかし、もうこれ以上男を落とそうと誘惑する気にもなれず、珠は空っぽの心で愛を歌い続けていた。
そんな時に、消したい過去が現れたのだ。
大阪に住んでいた時の、名取珠としての人生を知る男が。




