⑤心の刻印/四ツ塚防衛戦 後編
菊重は、呼び起こされた恐怖と絶望に怯えて、雨ノ辻を大盃で薙ぎ払った。しかし、その腕はみしりと音を立てて、柳の枝に絡めとられてしまった。その枝は、驚くことに自身の身体から生えている。
「フフ…これが妾が異能、宿柳絮!」
そうーー狐塚・杉塚の担当の、菊重・薫子・鶯梅は、依然として窮地に立たされていた。
トラウマを呼び起こし、抉る雨ノ辻。菊重はその術中に嵌り、思うように異能の力を使えていなかった。そして心の奥から育った恐れは、一気に芽吹いて育ち、柳の枝となって菊重を物理的にも雁字搦めにする。
「くっ……千輪咲ーーーッ!」
蒼白になりながらも、菊重は踠いて柳から逃れようとする。しかし、彼の異能の力はうまく発動できない。
(あ……駄目や……胸が、苦し……)
そのうち、菊重は恐れに飲み込まれ、踠くことすら諦めて、ずるりと崩れ落ちる。冬の冷たく鋭い空気が、重く肺に突き刺さって息ができない。
薫子は、ひっと息を呑む。鶯梅は筆を取り出して、また宙に神代文字を書く。しかし彼の異能の発動の遅さは、この状態ではかなり致命的だ。
「宿柳絮!」
そして、魔の手は薫子と鶯梅にも忍び寄る。雨ノ辻は、薫子を見てニタリと笑った。
「ああ……違う、私は……」
檜扇で振り切ることもできず、薫子はみるみるうちに闇に呑まれていく。そして、柳の枝が彼女を縛る。この一帯を覆っていた幔幕も消えてしまう。
「桜子……」
暗い目をした薫子の横で、青い顔をした鶯梅が、何とか神代文字を書き切った。
「ーー魁五福」
遠くから季節外れの鶯の声が聞こえて、鼓の音がポンと響いた。その音に、三人の恐れやトラウマは霧散した。身体を縛る柳の枝も、恐れの養分と共にたちまちに消え去った。
「……薫子、桜子が憎いならそれでいい。お前の荒魂を否定するな!ここで恐怖に負けずに、俺の隣で存在を証明してみせろ!」
鶯梅の叫びに、薫子は確かに頷く。そして、檜扇を雨ノ辻に向けて開く。
「ーー櫻陣幕!」
薫子たちの後ろに、扇に桜の家紋が入った陣幕が現れる。強風が吹き荒れ、圧倒的物量の桜吹雪が敵に向かう。
「おおおお!」
薫子は武者の雄叫びのように叫ぶ。陣幕の異能の力で奮い立たされた心で、雨ノ辻に桜吹雪をぶつけた。
その後ろから、菊重が躍り出る。
「おおお!一文字ーーッ!!」
光でできた巨大な一文字菊の切っ先を、槍のように閃かせる。雨ノ辻はその猛攻にも傷を負う。
「よくやった、酒向!」
突然の形勢逆転に思ったように動けないようだ。その背後から、鶯梅も襲い掛かる。
「くっ……小癪な……鬼呼・茨木」
雨ノ辻がそう唱えると、地中がボコボコと不気味に膨れ上がる。そしてそこから、襤褸を着た十数匹の鬼たちが現れた。
その中の一匹は、体長2メートルはあるかというぐらいに大きい。鬣のような赤毛に、澱んだギョロリとした目、黄ばんで尖った牙、アンバランスな細い身体と出張った丸い腹、大きな手と足、長く伸びた鋭い爪ーー恐ろしい姿だった。絶望的な状況だ。
「……薫子、酒向!鬼たちを頼む!俺はこのでかいのを殺る!」
雨ノ辻はおかしそうに笑った。
「羅城門の鬼に一人で立ち向かおうなぞ、思い違いも甚だしい!宿柳絮!」
再び、恐れの奔流が三人を襲う。
立ち向かわねばならないのに、恐れが三人に全てを放棄しようと囁きかける。
(死のうーー)
生きようと懸命に身体を動かそうとしても、悪魔の囁きは身体の動きを鈍くする。どこか遠くで聞こえる、怒号と恨み節、そして蔑む声。
三人は、柳の枝に全てをからめ取られ、もはや鬼に引き裂かれるのを死んだ目で待っていた。
しかし、突然淡い光が天から舞い降りる。
美しい女だった。
黒く美しい長い髪に、白い着物、そして羽衣で宙に浮く女が、淡い光を纏って現れた。
女は羽衣を翻すと、鬼たちは呆気なく吹っ飛ばされた。そして、菊重たち三人の方を見ると、パチンとウインクをした。
「忌々しい。松鶴の天女め」
残った巨鬼は、天女に向かって殴りかかる。天女はひらりとかわし、羽衣を翻すが、先ほどとは違い巨鬼には通用しない。すると天女は、地に降り立って羽衣を剣に変える。そして、巨鬼に切り掛かった。
「ーーお柳さん」
黒い羽織を翻し、松鶴が杖をつきながら、辻の方から現れる。
「こうした形で、あなた達には会いたくなかったよ」
その瞳は、水と同じ深い青に染まっている。静かだが、普段の松鶴からは想像できない殺気を身に纏っている。
「妾の計画を知って、お前たちが邪魔しに来たの間違いだろう?ーー羅刹降・火雷!」
「はは、間違いない。参りますーー神待祝・高龗!」
雷神を宿した雨ノ辻と、水神を宿した松鶴が、しんと静まり返った空気の中で向かい合う。空は黒くて厚い雲に覆われ、雨ノ辻の横に雷が落ちる。耳を劈くような轟音の後に、雷鬼が佇んでいた。
松鶴が杖をつくと、水が迸り、巨大な水龍が現れ、鎌首を擡げる。両者は、都の端っこを舞台に争い始めた。
「……龍神、さまーー?」
宿柳絮から解放された菊重は、地面に転がりながら、ぼんやりと雷鬼と水龍の戦いを見つめていた。
ぐちゃぐちゃになった頭の中の隅で、懐かしい水の匂いを思い出す。目を閉じると、穏やかな水流の音と柔らかな秋の日差しが、つい昨日のことのように蘇る。そして、その時の穏やかな自然を、水を自らの中に感じる。
菊重は、大きく深呼吸をする。もはや、息苦しさは感じない。冬の冷たい空気は、頭の中を透明にしてくれる。
(ーー行こ。)
菊重は立ち上がり、襟巻を巻き直す。そして、直感のままに大盃を掲げた。
「ーー龍神白酒・十種勝利」
菊重は、自然とそう唱えていた。大盃からはどろりと濁った酒が現れ、彼はそれを飲み干す。すると身体中から恐れが消え去った。菊重は感覚で、この無敵の力は一時的なものだと悟り、大盃を持って駆け出した。雷鬼と水龍が暴れるのにも構わず、大胆に雨ノ辻に向かって走り抜ける。
「何?!」
菊重は驚く雨ノ辻の顔に向かって、大盃を叩き込む。怯む雨ノ辻に、菊重は蹴りを入れる。異能の力もわずかで、動き続けるためには肉弾戦をするしかない。
雨ノ辻に追撃し、勝敗を決してやろうと、菊重は肉迫する。しかし、柳の鞭が菊重の足を捉える。
「くっ……」
鞭を引っ張られ、菊重はバランスを崩してしまう。
(マズい、早よ何とかせんとあかんが。そろそろ異能が……)
「ぐっ……!!」
突然切れた全能感と、走り出した痛み。菊重は、這いつくばった状態で雨ノ辻を睨みつける。雨ノ辻は、鞭を引き寄せてから菊重を踏みつける。
「ーーっ痛う!!」
「クソ、お前だけでも!お前だけでも!!」
思いっきり何度も踏みつけられた菊重は、逃げることもできず呻くしかできない。
(駄目や……ほんとに、今度こそーー)
菊重がそう覚悟した時、突然大きな音がしたかと思うと、雨ノ辻が菊重を鞭から解放し、舌打ちして逃げていった。
何が起こったかわからないまま仰向けになっている菊重を、松鶴と天女が見下ろす。松鶴の瞳は、いつもの黒い瞳に戻っている。
「菊重君!大丈夫じゃーーなさそう、だね……」
松鶴は、ぐったりとした菊重を背負いながら、天女に人を呼ばせた。そして自身は、気絶している鶯梅と薫子の元までよろよろと菊重をおぶっていった。
漸く、長い長い夜が終わった。
こうして「神和警邏団」は皆、満身創痍の状態になりながらも、四ツ塚を守り切ることに成功したのだった。




