5章 消えた時間
家族と言える人達が居ないこの家の中は、音楽も無く色も無く温かい飲み物も香りも漂わず、静かで空虚で生物は私だけかと笑香には思えました!
心はもぬけの殻で、笑香が動かない限りは庭も外の世界も同じようになって、死の世界みたいに虚ろに目に写ります。今日は季節のいつかさえも、分からなくなる…黒い空が重そうにいつまでも続き、とうとう重さに耐え切れず落ちる雫となり滝となった朝方、小さな小鳥の鳴き声が聞こえ笑香が声の先、ベランダから見える広い庭と畑の方向を見ますと、薔薇の木陰の奥…小さく茶色く何かあるようで、ビニールコートにサンダルを突っかけ走りました。
置いた記憶もない見たこともないダンボール箱が、
濡れて崩れそうにあります⁈急に鳴き声が大きくなり、小さくなり、又大きく…生き物?小鳥?漏れる声は助けを求める小動物、犬、猫みたいな!恐る恐る箱の上部をそっと開き覗くと小さな毛糸玉があります??動かない?
良く見ると生後一月程の子猫です!震えてる!毛先が立ってプルプル波打ちました。「寒いのね、ョショシもう大丈夫ょ!家においで」笑香は抱き上げ上着の中へ、息づくその子猫の顔を上にしそっと入れました。
抱かれた腕の中から私を見上げてニャーと猫声で鳴き眼を閉じます!縋り付き全てを私に委ねて!家に駆け込みタオルを取り、シャワーでサッと洗って拭きドライヤーで乾かすだけでフワモコ猫がパッチリ目で見つめてくれて…。
涙が急に溢れ毛玉猫に降る、それでも私を見上げて…。
私達はいつも一緒の家族となり、風呂もトイレもドアを開けて横にいて、ある時から便座に乗るようになりました。
片時も離れないので、外出時に小型犬用ハーネスで自転車の前カゴに入れてみました。逃げもせずじっとしてまわりを見回し、それから…どうするのこれから…と言うように丸い目で私に問いかける。私は言葉にして「ねぇ私、知りたいなぁ猫が見る世界はどんな風になっているのかしら?人間であるならとても嬉しいのにね。」その丸い目の猫に手を伸ばすと顎を乗せてくる!道を行く人々は時折私達を振り向いて猫と私に声がけしてくる。「おとなしいのね?逃げないのでビックリ?犬みたいに首輪にハーネス嫌がらず偉いねぇ?」久しぶりに笑顔になれるのは猫が来てから
☆良く甘え寝る時には用意した猫ベッドに行かず…並んで寝ますがまるで赤ちゃんみたいに、小さな寝息をたて、思わず誰かしらと思う。ざらつく舌で私の手や顔を少し舐めて、自分の毛並み手入れ、それから横になるのです!
名前を付けてあげないと、出会いは梅雨入り前、良くわかるようにツユと名付けました!
盛夏に産まれた娘に真夏と名付けた夫やお義母さん達の気持ちが理解出来ます!また夏が来る季節は繰り返す
大好きな夏が来ると娘が一つ大人になったと嬉しく…心が躍るようで花火の音が聞こえる気がします。
ところで猫はいつ誰が庭に置いていったのかしら?
でもそんなことは、もうどうでも良いかと猫の背を撫でながら笑香は、モーツァルトを聴き香りを楽しみながらコーヒーを飲んで…庭先を見る。
ツユは上目遣いに私を見上げてコーヒーが自分に落ちてこないように少し身を引きます!それが可愛いから撫でる手に力が入ってしまう!猫は又身を引く…。
♢母と娘♢
スラリと伸びた長い足が横に現れたと思うや否や、影までも美しいまま軽やかに私を追い抜いていく2人組。
後ろ姿の背中へ滑らかに揺れる髪はモデルの様な女性たちのモノ、思わず見惚れため息が漏れました。
「人形見たい、綺麗」
多くの人々が行き交う駅前通りショーウィンドウには、
重そうな袋を抱えてバッグを持つ小太りな女性が此方を見ています…。その髪は乱れ、お腹は妊婦みたいで、まるで像のような足首…それは紛れもなく私、笑香です。私は小さく首を振る、モーツァルトもブルーマウンテンも、もう似合わない…。
駅から病院迄5分と僅か、前を行く2人の揺れる髪を追うように早歩きする!その足先が陽の光を受け赤く煌めく。
私の剥がれたペディキュア。煌めく2人組の手入れされて輝く足先…自分の為に重くなる心はご法度、イケナイ事。
病院前薬局で日用品を買い、隣のコンビニで食料品などを買う!密封され、変質しない安全な食品。高カロリーで高タンパク質を当日用として毎日買う。そして向かい側に建つ総合病院に向かう!向かう心は何時も重くて暗く…。
面会者カードを下げエレベーターに乗った時点からは、身体も急に重くなり頭痛までもしてきます。
病室にいる患者を見舞うたび気分が滅入る!患者は娘…。
私の大切な娘が突然、病魔に侵されて入院したのです。
私達親子は3年もの長い年月を会うことなく過ごし
娘が病気になって、入院するからと電話がきて3年ぶりの、久しぶりの再会そして入院……この変化についていけない心と体…様々なストレス症状として現われる。
私に出来る事…菌を持ち込まない、病人に最善の注意を払うのは当然だと分かりますが、独りが長過ぎたのか異常に気になり、自然な柔らかい笑顔、健康的な動きを鏡に向かって練習したり。手洗いしたのに通路でまた手洗い…洋服に付着した埃取り、病室前で又手洗い、ドアをノックし除菌しながら中へ入る!グッタリするのです…娘なのに。
「真夏ちゃんお母さんょ〜今日の調子はどうですか?大丈夫?」「変わりないわよ!同じ!眠いから寝かせて!」
「わかった! 用があったら声かけて ゆっくり寝てね」
何時も同じ口調の同じ言葉、目を閉じて素っ気なく…。
笑香は窓際にある椅子に自分のバッグを置き、埃を立てないように静かに品物を取り、個別にアルコールティッシュで拭くと患者の利用しやすいように、治療の邪魔にならない様に冷蔵庫や、台、棚、テーブルに置いたら最後に温かな丼、コーヒー、プロテインを置く為に食べやすいよう位置を考え変えたりする。娘が薬を綺麗に仕切り箱に並べてある。綺麗に整えられた病室を又アルコールで拭きながら部屋を出る。病気で弱った抵抗力のない体は、外からの菌に直ぐ侵されると聞いたものですから…
病院の無菌室にいて安心であるのに、安心出来ない自分がいます。ドアを後ろ手に閉めマスク、エプロンを外しゴミ箱に捨て手を洗う!
見舞客や容態の軽い患者達が集う談話室で軽いランチをしますが、僅かな時間でグッタリした自分に叱咤激励もします!
人々の声を音楽に静かに味わう今日のランチはブドウパンにゼリーとコーヒー。
娘は病院食は美味しくないと言いますが、それでも完食してくれるのは嬉しくありがたい!料理にはお洒落な名前が書いてあり、使用材料にグラムも載ってます。病人用は薄味の料理で、レモンや薄味塩を振ってみるのも良いと看護師さんに聞きました!
「そんなことしなくていい買わなくていい。そのままの味で大丈夫よお母さん。」
娘は抗がん剤治療を受けています!味覚障害が起こるのはまだ先と思いますが……生きる為に必死に頑張って完食するのを見るのは辛くなります、胸が痛みます。
人間は多くの菌を体に持っているという、その中の悪菌を弱っている患者達に移さないように、異常に潔癖な振る舞いをすることも笑香は自分を傷つけてもいます。
…おかあさん〜はやく〜…思わず振り向いて、ベッドに横たわる娘が部屋から出ることはないのに元気な声を聞きたいと切望するのです!
談話室の一面は総ガラス張り、枠外は壁と続く。足下は緑の林が自然な公園、その先は地平の果てまで無機質なビル群が林立し聳え立つ。道路は継ぎ目のように細く、車はミニカー、人々は蟻のように見える!空は快晴、以外にも暑くなり上衣を脱いだり半袖で歩く人が多いみたいです!
春の終わり、梅雨前、夏の日中のように汗を拭く人々が多くみられる。働き蟻の休憩時間…ふと時計を見る…もう病室を出て1時間は経っているから娘も食べ終えたはずだろう。急いで病室に向かい時間の使い方を考えてみる!洗濯物があればいい。誰かが見えてると嬉しい!
私と娘の間にある空白の3年、それは私達に埋める事のできない溝をもたらし、仲良かった分、知ってる相手の、違う所作が許せないこととして浮かび上がる。
まるで最初から仲良い時などなかったかのように、お互いの顔を見ないようにし共通の話題を探したりするのです。
現在の私達には病気以外には繋がる糸が見えません。
楽しかった日々の会話は、色褪せた遙か遠い過去の物語。
気まずくぎこちなく、上手く話が続くことは無く病室での時間を動いて過ごすしかありません!
心は友人、知人、身内の誰かに助けを求めて、笑顔がでるのは病室の娘が笑顔でいる時だけ!
ドアを少しずつ開けます!娘が振り向いて笑ったので私も笑ってみます。
「真夏ちゃん何か良い事あったの?誰か来てくれた?」
「うん、さっきまで同級生がいたのよ!会わなかった?エレベーターの所」
「中学の?良かったわねー顔色も良くなってる」
「顔色?同じよ変わらない!同級生は部活仲間達、それ程の仲ではないと思うけど来てくれ嬉しいし!知ってるでしょ?」
娘はバレーボールの部活に入って、ユニホームやシューズを買い、夫を娘や彼女達同級生に囲ませ、まるでコーチのように写真に収めたのは私です。
「懐かしい…お母さんも会いたかった…エミちゃん、ケイコちゃん、カズちゃん、マイちゃん、ユキちゃん!覚えているわよ」
「凄いお母さん忘れてないのね。皆んな喜ぶと思う!ケイコだけは、名前に子があるって嫌がってたよね」
「皆んな体格良く大きかったわねー」
「大きくはない違うよ、背が高いのでそう見えたんだ。」
私の勘違いを娘が指摘し、でも共通の話題に懐かしく昔を思い出して、溝を見つけた娘の変化に気づく事なく話続けました!
「お母さん今日の親子丼は◯◯の?あそこのは美味しいからね全部食べた!」
「あら良かった!味覚が戻ったんだ?」
「味覚は元からあったわよ、病院のが美味しくないと言っただけ」
娘がプイと横を向き笑顔はもうなく。眼前がクラクラ揺れて歪んで息苦しくなってきました!勘違いなのか不味いは味覚障害と思い込んでいました!洗物を探し病室から出ると大きく深呼吸して、院内コインランドリーに向かいます。タオル、アルコールで除菌、洗濯機を回し階下に降りると、談話室から見えた公園に行く事にしました。
空を見上げ流れる雲を見つめて、私の子供の頃より昔から変わらない空に雲、蝉の声、地球上の自然に思いを馳せて、いつやら嫌な事は忘れてしまいました。
又向き合う事はせず逃げてしまいました。