首吊りのイト
糸……繊維をまとめて捻ることにより長くつなげ、扱いやすい太さにしたもの。
意図……何かをしようと考える事。思惑。また、目指すこと。
※前作「僕のイシ、君のイシ」とセットにしてお読み下さい。
人間は忘れる生き物だ。
過去のことになればなるほど記憶は薄れ、消え、やがては忘れたということさえも忘れてしまう。
まだ生まれる前、母の胎内にいる時の夢。生まれてすぐに見る両親の顔。周りの様子。自分の感情。その時はきっと覚えているはずのことも、気づけばきっと思い出せなくなっている。
最後に残るのはきっと、忘れた想いの残滓だけ。
私はそれが怖い。忘れることでも、思い出せなくなることでもない。
消えて失くなった記憶が最後に遺していく感情の残りカス。忘れたことを「思い出せ」とふとした時に訴えてくるそれ。それを感じた時の喪失感。「憶えていたはずなのに思い出せない」という虚ろな感覚。
喪失感に耐え切れなくなって、一生懸命に頭の中を引っ繰り返しても見つからない、あのもどかしさ。忘れてしまった何かへの罪悪感。
酷く申し訳なくて、謝りたくて。けれど誰に、何に謝ればいいのかわからなくて。行き場のないこの焦燥は何処へ向かっていけば良いのか。
生活していてそれを感じる時、私はどうしようもなくなって、頭を掻き毟りたくなる。
いっそ脳みそをそのまま引きずり出して、直接探すことができれば良いのに。
早朝に外に出て、朝露の匂いを嗅いだ時。
誰からともなく、教室の中がすっと静かになる時。
布団の中、丸くなって目を瞑っている時。
夕食の一家団欒の中、暖かい中で幸せを噛み締める時。
喪ったはずの物が私の中で自己主張することが私は嫌いだった。
放っておいてくれ。消えたんなら、消えっぱなしでいてくれ。私をそこに引き留めようとしないでくれ。
私が「何も忘れない」と言うあいつに出会ったのは、それをはっきりと認識した頃だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「というか、君はちょっと繊細過ぎなんだよ。何だよ思い出せない喪失感って。そんなもん現代人は感じてないよ」
感じてたとしても、それこそ君が言うようにそれも忘れちゃうんじゃない?
そう続けてから、やれやれとても言うように彼は肩をすくめた。私は相談事を根本から否定されたことに不満を感じて、これみよがしに頬を膨らませた。
「……私が感じてることを絶対理解出来ないあなたに言われたくない」
「第一にその理解出来ないやつ筆頭に相談をする君もどうなんだって僕は思うんだけど?」
ムカついたので手頃な位置にあった何かを掴んで投げた。投げた後に察知したが、空中に飛び出したものは鉛筆削りだった。彼は「うわっ危なっ!」などと言いながら普通に避けやがった。当たれば良かったのに。
暴力に訴えるな、とは彼によく言われるが、彼にしか振るったことはないので問題ない……はずだ。
「こんなことやってたらそのうち訴えられるぞっていうか訴えられろ暴力女。裁判で負けろ」
「訴えられるとしたらあなたからだけだから大丈夫。勝つ自信しかない」
「余計に質悪い……」
お互いに真剣な顔で軽口を叩き合う。真剣と言っても微かに喜悦の色が混ざっているのはお互いに気づいている。
彼がげっそりとした顔で顔を逸らしたところでお開きとなった。今の所負け無しだ。これからも負ける予定は無い。
私から視線をずらして部屋の中を見回していた彼が、何かに気づいたような素振りを見せる。問い掛けてみると普通の答え。
「いや、あの窓に置いてある植木鉢、何? 前は無かったよな」
「あれは最近育て始めたやつ。お隣さんが譲ってくれるって言うからありがたーく貰ったの」
「物貰いすぎだろ。そろそろご近所さんに足を向けて寝られないんじゃないか?」
「いよいよやばくなったら逆立ちすることになるね」
「いやするなよ。まずそこまで貰い過ぎるなよ」
「既に手遅れです」
窓辺に置いた鉢植えには、彼には見せたことのない新入りが植えられていた。イカリソウというらしく、名前が面白かったので頂戴した。
因みに、前代であるシオンは同じく新入りであるアイビーに巻き付かれている。近くに置いておいただけで朝顔の支柱のようになっていた。
そんな場所を取るようなオブジェを部屋に置き続ける趣味は無いので、お引っ越しした。何気なくイカリソウを見つめている彼を眺めて、少しいい気味だと思い笑う。
「……邪な電波を受信した気がする」
「いつから東京タワーになったの志恩」
「僕は電波塔じゃねえ」
◇ ◇ ◇
結局、私が恐れているものが彼に理解される事はなく、理解されるはずもないと確信していた。それで話すんだから、私も無意味なことが好きなのかもしれない。まあ、人間なんて大抵そんなものだろうけど。
彼は最初、苦しんでいたように思う。私はその「忘れない」という性質への羨望から彼に声をかけたが、彼にはその体質に対して、彼なりに思うところがあったらしい。
記憶の欠片に悩まされずに済むなんて、私からしたら羨ましすぎて嫉妬に走ってしまいそうだ。体を交換したいくらい。本人に言ったら断られてしまったが。
忘れたことなど何一つ無い。人間は記憶を思い出せないだけ。時間が経って風化するのは思い出ではなく、思い出し方の方だ。
だから思い出せないものの残滓が、ちょっとしたきっかけで浮かび上がってくる。そう友人は言った。
成程、確かに忘れているのが記憶の思い出し方、引き出しの開き方なら、日常生活での少しのきっかけで偶然開く事もあるのだろう。完璧に開かず、隙間から垣間見える物しか見えないというのが難点だが。
故人の言った言葉は後に残そうと思いここで紹介させてもらった。
人が相手に無理やり自殺をさせた場合、それは殺人になるのだろうか。それとも自殺になるのだろうか。命令か、強制か、脅迫かをして自分を殺させたのは相手だけど、手を下したのは自分だ。
友人はいじめを受けていたらしい。割と近くにいたはずの私が気付かなかったということは、犯人達の隠蔽がよっぽど上手かったのか、友人の演技が上手かったのか、それともただ単に私が鈍感だっただけか。
いじめを受けた挙句、殺されたらしい。私も聞いた話なのでよく知らないが、自室で首を吊っていたとか。訂正。首吊りをさせられたとか。
結局は自殺として処理されてしまった。
◇ ◇
友人が死んだ次の日。机の上に花瓶が置かれ、花が活けられた。定番の百合の花をクラスメイト一人一本買って、一人一人刺したらしい。「らしい」というのは、その日私が学校に来なかったせいだ。理由は黙秘させてもらう。
1クラス分の百合の花束の中に、数本違うものが混ざっていた。鉛筆だった。明らかに花瓶にはそぐわないものに顔を顰めてから自分の席についた。
その子と私は席が近いというか隣だったから、その子の机に背を向けない限り白色の花瓶が視界に入る。花に混ざった異物が見え隠れして何となく不快だった。
「気持ち悪い……」
花から漂う甘い香り、白で統一された中良く目立つ鉛筆、友人が居なくても滞り無く進む授業。その全てに出処の不明な不快感を感じた。色が混ざり過ぎて灰色になった感情が溜まっていくような、何にも言い表せない気持ち。
堪らず教師に許可を取り、保健室へ向かった。病院と同じ消毒液の匂いだったけど、それでも少しはましだった。
布団に潜り、意識を手放す直前。この混沌とした思いも、いずれは思い出となって私を苦しめるのかと想像した。鬱になりそうになった。
次の日に学校に行くと、教室の一角にごみ捨て場ができていた。元友人の席の隣にある机周辺。黒い中身入りのビニール袋やら家から持ってきたと予想される生ゴミやら虫の死骸やら猫の頭やらが大量に机に積み重なっていた。
というか、私の机だった。
それを認識した瞬間に、周りの状況がはっきりとわかった。絡みつくような嗜虐的な視線と、冷たい空気。肉食動物に囲まれた草食動物になった気分だ。
……まあ、正直どうでもいいんだけど。
少し前まで友人が座っていた椅子を掴んで、ごみ捨て場を横向きに薙ぎ払った。
肉が潰れる音や金属音が混ざった不協和音が教室中に響いた。直後訪れた静寂。
もう一振りしてごみを一掃すると、ごみタワーの天辺に乗っていた猫の頭が飛んできた。片手でキャッチして見てみると、目を見開いたまま死んでいた。断面はノコギリか何かで切られたのか、ぐちゃぐちゃだった。
耳の部分を掴んだまま観衆の方へ顔を向けると「ひっ」と悲鳴をあげられた。
失礼だ。その反応に、放り投げてやろうかとも思ったがやめる。椅子をそこら辺に置いて教室を出た。化物でも見るかのような目で私を見たクラスメイトは私が通ると道を開けてくれた。普段からこのくらい従順になれば良いのに。
「気分が悪くなったので早退します」
玄関へ向かう途中ですれ違った教師にそう告げてから学校を出た。
猫の頭は家の庭に投げ捨てた。あの怪物アイビーが栄養にしてくれるだろう。
血液と脳漿に塗れた手を洗ってから部屋に篭った。
一週間後、久々に学校に行ってみた。というか母に家を追い出された。何も言わずに引きこもるのは一週間が限度らしい。
夏らしくなってきた気温にうんざりしながら学校へ向かった。曇りの日は嫌いだ、熱が篭って蒸し暑くなるから。
教室に行くまでの道中で、散々怯えと不安の感情が混ざった視線に晒された。それだけでも大分だるいのに、教室に入っても同じ視線を向けられた。ドアをくぐった瞬間にクラス中が静まり返り、注目を受けた。
無視して自分の席に着く。一週間前の惨状が無かったかのように綺麗になっていた。
私に寄せられた大量のごみと一緒に、友人に手向けられた花束も消えていた。ついでに花瓶も。
こんなに簡単に消えるのか、と思った。人が死んだ証はたった一週間で時に流されていくのか。可哀想に、と友人の顔を思い出そうとしたが、霧がかかって思い出すことは出来なかった。
◇
人より長く彼女と過ごした私でさえ、顔をはっきりとは思い出せず、声なんて当たり前に忘れていた。人が消えたものを思い出すことは意外に重労働で、難しいことなんだということを思い知った。思い知らされた。
そしてまた、私の心にうっすらと降り積もる記憶の欠片。そのうち他のものに埋もれて、彼女の存在すら忘れていくに違いない。
私もこうなるのか、と考えて恐怖に震えた。死んで、消えて、忘れられて、そして何も残らない。私がここにいるという現実すら、未来には残せない。残らない。
誰かの記憶の残滓になって、時々その誰かの記憶を刺激するだけのものになる。そしていつかそれも消えて、私には何も無くなる。存在を認識される価値すらなく、そこに居たという証もない。
そんなのは嫌だ。私はここに居たんだから。私はここに居るんだから。喪いたくないし失われたくない。世界なんて大仰なものでなくていいから、誰かの心に残っていたい。
そこまで考えてから、ふと気づく。
ああ、私にはまだ残っているじゃないか。私のことを決して失わない愛しい人が。
意識せずに笑みが零れる。今までに無いほどの安心感に、固まった体が解きほぐされる。
彼の記憶に、私を遺そう。
◆ ◆ ◆ ◆
暗い部屋の中で目を閉じて、耳を澄ませる。光を遮断した部屋は、暗闇への恐怖よりも安心感が強かった。もう自分が喪われることはないと分かっているからかもしれない。
彼の記憶には、なるべく綺麗な形で残りたいから笑みを浮かべ続ける表情筋は無理やり抑えつけた。かなり体力を消耗した。
そんなことを考えつつ、動かす手は止めない。何度も練習した手の動きでも気を抜かずに、丁寧に丁寧にそれを作る。
美しさ、不気味さ、インパクト。全てを考慮して計画を立てた。彼の中で記憶が美化されることはないから、記憶そのものを美しくしなければいけない。だから、万が一にも私を忘れるなんてありえないように。私が消えないように。
最期の言葉だって考えて考えて考え尽くして決めて、少し長いそれを丸暗記した。口のマッサージもしたから噛むことも無いだろう。
チャイムがなる音がした。私には祝福の鐘のようにも、処刑時間のベルのようにも聞こえた。母の「秋音くん、いらっしゃい」から始まる長話をBGMにしながら彼を待つ。
作業もほとんど終わって、後は最後の仕上げだけだ。
私の死体を見て、彼はどんな顔をするだろうか。笑う? 泣く? それとも怒るだろうか。どれでも良い、どんな顔でも良い。感情を顕にしたということは、私が少しでも彼に何かを与えられたということだから。
部屋のドアが開いた。視界の端で、光が差し込んでくるのを確認した。彼に背中を向けながら手を動かし続けた。暗く、温度の高い部屋を見て彼の怪訝そうな顔を想像して、遂に抑えきれなくなった笑いが溢れた。
蒸し暑さからか、苦しくなる呼吸を誤魔化すように大きく息を吸い込む。半分ほど肺に入れた空気を出しながら、無理矢理に声を出す。
「閉めてくれる?」
忘れないでね。
私は、貴方の中に遺るために貴方の前からいなくなるの。
今回はお久しぶりにはなりませんでした(多分)、私です。
前作「僕のイシ、君のイシ」のアナザーストーリー、番外編、少女視点……まあいろいろ言い方はあるでしょうがその類のものです。
前回投げかけた質問の答え合わせのつもりで書きました。ちなみに友人には普通に予想されてました。
では、また逢う日まで。