って、言って?
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暴力行為、出血描写等があります。
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好きって言って。
君が誰よりも一番大事だって、どうかそう言って抱き締めて。
わたしがここに居てもいいと、囁いて欲しい────。
*****
わたしが夏天と初めて逢ったのは、五年前の冬のことだ。
わたしは村の男の子に追われていた。
「待て、こいつ! この、クソ餓鬼‼︎」
それまでの数週間というもの、ろくに栄養を取っていなかったわたしの足はフラフラだった。それでも村から森まで必死に走ってきて、ここまで来ればなんとか逃げ切れるかと思ったのに、背後から伸びてきた腕に髪を鷲掴まれて力任せに引き倒された。凍った地面に張り巡らされた太い木の根へ強か肋骨を打ち付けたせいで、瞬間息が止まる。小柄なわたしより頭二つ分も大きなその少年が馬乗りになり、襟元を片手で掴んでくると同時に反対側の手でわたしに容赦の無い平手打ちをくらわせた。
「よくもうちの兎に手を出しやがったな。タダで済むと思っているのか! 冬の蓄えが台無しだ!」
冤罪だった。いや、彼の家の兎小屋にわたしがいたのは事実だ。けれど柵を破って殺戮の限りを尽くしたのはわたしではなく、おそらくは本物の狼。飢えきったわたしはその痕跡に惹かれて侵入していたに過ぎない。そこでこぼれ落ちていた欠片の一部を手に佇んでいるところを、迂闊にも家人に見咎められたのだ。
「わ、わたしじゃない……」
「嘘をつけ!」
パン! パンパン!
葉を落とした木々の間にわたしの殴打される音が響き渡る。
痛い。怖い。涙で視界が歪む。
この子は何故そんなにわたしを憎々しく見るのだろう? 兎泥棒だから? それだけ?
生まれて初めて我が身に突き付けられた暴力に怯えて、せめて顔を庇おうと前で両腕を交差したら、今度は首が捥げそうなくらい激しく揺さぶられた。
「お前の口には血がついてるじゃないか。兎を食った証拠だろ!」
「これは……」
「森の魔物め! そんな目でこっちを見るな!」
魔物と呼ばれて身が竦む。
その時のわたしにはまだ、他人に蔑まれた経験が皆無だったのだ。
「この性悪!」
さらに強烈な一打を与えんとして振りかぶった少年の右腕を、誰かが掴んで止めた。少年越しにわたしに見えたのは、白い縁取りのある墨染めの衣から伸びた清潔感のある大きな手だけだった。
「そのくらいにしておきなさい」
若いけど落ち着いた男の人の声。
「森中に騒ぎが響いていたから駆けつけてみれば……こんな小さい子相手に見ていられない」
「あんた、誰だよ⁉︎ 邪魔するな。俺はなぁ、兎泥棒の魔物を懲らしめているところなんだから!」
わたしを押さえつけていた少年は機敏に立ち上がって振り向き、相手の拘束を振り払った。わたしや少年より十ほども年上だろうか、黒の長袍を纏って朴訥とした感じの青年がそこにいた。
「魔物魔物って……この子からはちゃんとヒトの気配がするよ」
「そんなはずない! 村の皆が噂してた! 通りすがりのあんたに一体何が分かるって言うんだ?」
「魔物退治なら私の本職だ」
それを聞いて、強腰の少年が僅かに躊躇った。
「本職って……え、まさかあんた、道士様……?」
「そう。この先に古い道院があるだろう?」
「……デタラメ言うな! あそこはもう何年も人のいない廃墟だ」
「それで派遣されてきたんだよ。今日からは私の住処だね」
わたしは起き上がる気力もなくて二人の会話をぼうっと聞いていた。疲弊した身体に冬の地面が冷たい。ここまで逃げてくる間のどこかで靴を片方失くしてしまっていた。わたしは無意識に手足を縮こめて、少年の視界から外れるよう切に願った。
「お偉い道士様だか知らないが、あんたの目は節穴か⁉︎ こいつの一家は村を追い出されて森に住んでいたんだ。今は両親共に死に別れて一人みたいだがな。そんな奴が窃盗以外の何の目的で人んちの家畜小屋に入り込むって言うんだ? おかげでうちの兎は全滅したんだぞ!」
「……つまり、こういう訳か? 君達はこの子が村八分の末に孤児になって貧窮していると知りながら、手を貸さずに放置していたと?」
低い声での指摘に少年が一瞬怯む。それでも分は自分にあると思ったのだろう、すぐに気を取り直して、断罪するように人差し指をわたしの方に突き付けてきた。
「それがどうした! だいたい、当たり前の人間がこんな見掛けをしているもんか! それだけでも普通じゃないって分かるだろう」
黒衣の青年は、地面に横たわるわたしを見て二、三度目を瞬いた。
「驚いた、本当に……禍々しい程の美貌とは……」
茫洋とした表情は、けれどすぐに痛ましげな眼差しに取って代わられた。
「だが、まだ子供だ。それに、棒のように細いし、顔色も悪い。とても君のうちの兎を全て平らげたとは思えないな」
大丈夫かい、と言って青年がわたしの手を引いて立たせてくれている間に、少年は唾を吐いて走り去って行った。木立に彼の姿が消えてほっとする。青年は自らを周夏天と名乗った。
「君、字は?」
「紫、薇……」
「紫薇か。いいね。とても良く似合っている」
字は両親からの数少ない贈り物の一つだ。少年に殴られ続けたわたしの両頬は今や熱まで持ってズキズキと疼いていたけれど、初めて字を他人に褒められたことで、単純に嬉しさの方が大きくなった。
「おいで、紫薇。まずは君の靴の代わりになりそうなものを見繕うとしよう」
そうやって夏天は出逢ったその日のうちに、爸爸と媽媽を亡くしてぽっかり空いたわたしの心の空隙へ、するりと滑り込んできたのだ。
「よう、紫薇」
森の奥で薬草を摘んだ帰り、わたしは村の若い男数人に囲まれた。心の中だけで顰め面をする。あまり人の来ない道筋を選んだつもりだったけど、待ち伏せされていたようだ。去年、わたしが十五になった辺りから、こういう事がたまに起こるようになって警戒していたのに。
「こいつの目、近くで見ると本当に血みたいに紅いんだな」
「何持ってんだよ。貸せよ」
「薬草? ハッ、お前にはこんなもの必要ないだろ」
籠を取り上げられて中身を地面にぶちまけられた。下卑た笑い声があがる。丸一日掛けて採取した貴重な薬草だったが、わたしは抵抗をしない。口も利かない。下手に反応するとからかいが長引くからだ。早く飽きて立ち去ってくれればいい。
「そんなものより、なあ、俺達と」
「そいつに構うな!」
輪になっていた男達が背後をザッと振り向いた。わたしの正面、彼らの輪の向こうから、一際体格が良く目つきの鋭い男がこちらを睨みつけている。
「寒」
「何だよ、怒るなよ、冗談だって」
「暇潰しにからかって遊んでいただけだろ」
後から来た男は、男達より明らかに格上なのだろう。手負いの獲物をいたぶっているようだった彼らの態度から、余裕が失われた。
「お前ら、迂闊に近寄ると呪われるぞ」
男はそう言って、呆気なく彼らを追い払った。その場に残ったのは、わたしとその男の二人だけだ。
なんだろう。じろじろ見られているのは同じなのに、先程までとは全然違う感覚で凄く居心地が悪い。
「躾がなってないな。礼もなしか」
わたしは助けて欲しいなんて言っていない。
そう思って黙って立ち尽くしていると、片腕を急に掴まれた。
「細い腕だ。少し力を入れたら折れてしまいそうだな」
ぎり、と掴む指に力を入れられる。痛い。これは後できっと痣になるだろう。でも顔に出して相手を喜ばせるつもりはないから、無表情に徹する。この五年でそんな事ばかりわたしは上手くなってしまった。
「そんなに白い肌で、紅い唇で。男を誘っているのか」
言い掛かりも甚だしい。
肌が白いのは昼でも薄暗い森の中で暮らしているからだし、唇が紅いのはこういう時悲鳴を漏らさないように強く噛み締めているからだ。
わたしの事はほっといてくれないだろうか。
「……相変わらず可愛げのない奴」
そのまま無反応でいると、男はようやく指を離し唾を吐いて村の方へ去って行った。
少し待ち、人気が消えたのを確認してから、わたしは散らばった薬草を集める。踏みにじられて駄目になった幾束かを除けば、充分役には立ちそうだった。
「良かった……」
わたしは一安心して夏天の住居へと向かう。時間は掛かるけど村人と行き会わないよう迂回路を選んだ。
森を抜けて小一時間ほど進むと、丘の上に古びた道院が見えてくる。苔生した石造りの階段を登って行くと、
「紫薇」
呆れたような声音で字を呼ばれた。名前は知らないけど、村の女性だ。手に鍋を持っている。
「森に引き篭もっているはずのあんたが、こんなところに何しに来たの。村の男衆に目を付けられたくなければさっさとお帰り」
上から降りてきた彼女は、わたしの籠の中の薬草に気が付いたようだ。
「それは周道士に? 殊勝な心掛けだこと。でも忠告しとくけど、そのお綺麗な顔で道士を誘惑しようとしても無駄よ」
「そんな訳ないでしょう!」
思わず声をあげてしまった。
道士は生涯不犯の誓いを立てている。誰もが知っている事実だ。
「周道士はなかなか体調がお戻りにならないみたいだけど……あんたが不幸を呼んでいるんじゃないの? 呪われた魔物め。道士がお優しいからといってあまり関わり合いにならないで頂戴」
わたしは返事をしなかった。……出来なかった、とも言う。
端から快諾など期待していなかったと見えて、中年女性は鼻を鳴らしてわたしの横を通り過ぎた。わたしも数歩進もうとして背中にじっとりとした視線を感じる。まだ何か言い足りないのかと振り返ったが、村の方へ降りて行く彼女の後ろ姿はもう小さくなっていた。
「いらっしゃい、紫薇」
階段を登り切ると建物からすぐに夏天が出てきた。
今日は少し顔色が良いようだ。
「いつも敏いわね」
「君の気配は見誤らないよ」
この五年、わたしは夏天を訪れる際に出迎えられなかったためしがない。呼び鈴を鳴らさずとも常に彼が気付いてくれるからだ。
「ああ、薬草を摘んできてくれたんだね。こんなにたくさん、大変だっただろう。ありがとう……っと……」
籠を見た拍子にわたしの腕の痣に気が付いてしまったようで、夏天が片眉を上げた。掌をかざして残された気配を読み取ろうとする。
「これは、寒の仕業だね? 彼は五年前からずっと紫薇にちょっかいを掛け続けている。気になって仕方が無いんだな。君は年毎に益々綺麗になっていくから」
あの男はそんな字だっただろうか。
……どうでもいい。覚える気も興味も無い。
「わたしのことが嫌いなのよ。別に構わないけど」
ふふ、と夏天は口の端で笑った。
「なに? 夏天、なんで笑うの」
「彼も不憫だなと思ってね。まあ自業自得か。……痛くない? 紫薇」
「平気よ。気にしないで」
それでも夏天は内出血に効くという軟膏を塗ってくれた。包帯を巻かれながらふと卓上を見ると、椀に羹を注いだ形跡があった。野菜出汁の良い残り香がする。
ああ、あの女性はきちんと配慮してくれているのだな、とわたしは思った。道士である夏天は宗教上の理由から肉類を一切口にしないのだ。滋養の高いものを食せばもっと体調も回復するのだろうに。
わたしの視線に気付いた夏天が説明してくれる。
「村の女性が時折差し入れを持ってきてくれるんだ。そこの入口で会っただろう」
「……ええ」
羨ましい。わたしの料理の腕はサッパリだ。
わたしも、薬草摘み以外にもっと夏天の役に立てたならいいのに。
「あれ、もしかして彼女に何か言われた? ……紫薇が嫌な思いをするなら次から断るよ」
「どうして? 夏天の体調を慮ってくれる良い人だわ。別に酷いことを言われた訳ではないし、わたしはなんとも思わない」
そう。本当の事しか言われていない。
「妬いたりしないんだね。はあ、紫薇は心も綺麗で困っちゃうな」
「キレイ?」
「いい子、ってこと」
夏天は慈しみの溢れる微笑みを浮かべると、幼子をあやすように、わたしの頭の上で掌をぽんぽんと動かした。
これは五年前にわたしを助けてくれた手だ。
同時に五年間、わたしを庇い続けてくれた手でもある。
こちらの善意を微塵も疑っていないその眼差しに耐えかねて、わたしは彼の前から一歩身を引く。頭上に軽く乗せられていた夏天の手はわたしの動きに連れて外れたが、落下の途中でクッと拳の形に握り締められた。
「……紫薇?」
訝しげな夏天の呼び掛けにも顔が上げられない。
だって本当は……わたしは全然いい子なんかじゃないから。
わたしが夏天以外の人の名前を覚えないのは、わざとだ。名前を知らなければ──個人を認識しなければ、誰だって同じ。わたしにとっては『村人』という仮面をつけた、有象無象なただの影にすぎない。だから誰がどんな事をして何を言ったのかなんて、いちいち覚えておいたりしない。そうすれば、わたしはその人に対して強い感情を持たずにいられる。憎まずにいられる。嫌われたって蔑まれたって、この心が痛むことはない。
決してわたしの心が綺麗だからじゃない。ただ、夏天以外の相手には心を凍らせているだけ。これ以上自分の醜さを思い知りたくないから。
元々わたしの狭い世界に存在た人は、爸爸と媽媽だけだった。
あとは皆、その他大勢の背景だ。
背景に話し掛けても返事が貰えなくて当たり前だし、晴天であっても上から水が降って来たら雨だろう。躓いて転んだって自分のせいだ。聞こえよがしの悪口だって単なる葉擦れの音でしかない。
傷付かない。平気。だって背景だもの。何をされたって辛くなんかない。
五年前からそうやってわたしは自分の心を鎧ってきた。
だから爸爸と媽媽がいない今──わたしの唇が呼ぶのはもう、夏天の名だけ。でもそれで充分だ。
夏天が。
ただ夏天一人が、傍にいてくれさえすればいい。
この気持ちが夏天の為にはならないと分かっているのに、離れてあげられない。彼が体調を崩しているのはわたしの所為なのに、夏天の優しさに甘えている。わたしは狡くて卑怯だ。
夏天が考えているようないい子ではとっくになくなっているわたしだけれど、彼の瞳の中でだけはまだ爸爸と媽媽のいた頃の純粋な子供に戻れるような気がする。自分の事を普通だと思っていた、あの頃のわたしに。
だからどうか、淀んだわたしの心根を夏天には知られませんように。
「……今日は帰る」
「紫薇? 食事をしていかないのかい?」
「まだあまりお腹空いていないの」
嘘だった。実際は空腹で今にもお腹が鳴りそうだった。さもしいわたし。夏天の為に薬草をと考えながら、多分どこかで期待してここを訪れていた。そんな自分が恥ずかしい。
持参した薬草を籠ごと夏天の胸元に押し付けて、殆ど駆け足でわたしは道院を出た。
──気付かないで。呆れないで。嫌わないで。離れて行かないで。お願い。
夏天だけが、わたしの全てだから。
それから三日程、わたしは丘の上の道院へ行かなかった。
薪になる小枝を拾ったり、動物を捕らえるための罠を見回ったり、夏天の身体に良さそうな木の実や薬草を探したり。生活のためにやらなくてはならないことはたくさんある。時折誰かに覗かれているような違和感を感じたが、夏天に会えない物寂しさがそうさせるのだろうと、わたしは苦手な繕い物に精を出した。
わたしの家は森の中にある。昼日中でも滅多に陽光の差し込まない、じめじめした場所だ。流れ者だった爸爸と結婚した所為で媽媽は村に居られなくなって、人の立ち入らない森の深部に住まざるを得なくなった。
それでも粗末で小さな家なりに、家族三人で暮らしていた思い出が詰まっている。道院で一緒に暮らそうと夏天が言ってくれたのも一度や二度じゃないけれど、村人の目もあるし、さすがにそこまでは甘えられない。わたし一人が住む分には過不足もないし。
五年間そう思って暮らしてきたわたしだったけど、深夜ふと目を覚まして、いるはずの無い他人に気付いた時には悲鳴が出た。
「誰⁉︎」
わたしはバッと寝台に身を起こして、年季の入った薄掛けを手繰り寄せた。
一体誰が、何処から入ってきたのだろう。物盗り? 盗られるようなものなど無いのに。
暗がりに目を凝らすと、扉口がこじ開けられていて、ぼんやりと立つ人の形が一人、夜闇よりもなお暗く見えた。
「紫薇、ああ、紫薇……」
数日前にも会った村の男だった。薄くなった痣の部分が鳥肌立ってピリピリとする。字は何といったか。夏天が何か言っていたような気がするが。
「──俺はもうお終いだ……何をしていても一日中お前の顔がちらつく。気が狂いそうだ」
男はブツブツ呟きながらわたしへ歩み寄ってきた。その目は昏く濁っている。
わたしは手元に武器になりそうなものを探したが、縫いかけの古着くらいしか見出せなかった。
「近寄らないで!」
出入口は男の向こうだ。窓からなら逃げ出せるだろうか。好機を見定めないと捕まってしまうかもしれない。
「紫薇、俺は……あの時、血溜りの中に立っているお前を見てから、魂がずっと捉えられたままで……忘れられない……呪われているんだ。これ以上もう抗えない。どれほど焦がれているか、当の魔物であるお前には想像もつかないだろうな……」
わたしの言葉など、男は聞いていないようだった。身勝手な己の言い分だけを、漏れた鍋みたいにだらだらと零し続ける。
「それなのにお前ときたら、夏天、夏天、夏天……周道士のことばかりだ。お前は俺のことなんて、どうせ字すら満足に覚えていないんだろう」
男は自嘲した。
足が縺れたのかもしれない。寝台の足元にまで辿り着くと膝から床に崩れ落ちた。酒に酔っているのか、あるいは正気では無いのだろう。
聞く耳も持たなさそうだが、その通りだと言えば逆上させるかもしれないと思い、わたしは沈黙を守った。
「……でも、あいつは駄目だ。あいつだけは駄目なんだ。お前とあいつは結ばれない。あいつの本職が何か知っているだろう。この村に来た本当の目的がお前ではないとどうして断言できる?」
心臓が氷の手で掴まれたような気がした。
やめて。聞きたくない。
ヤメテヤメテヤメテ。
「紫薇、頼む……一言でいい。俺を選ぶと言ってくれ。お前の為なら俺は──」
縋るように男が手を伸ばしてきて、わたしは反射的に縫い針を突き刺した。相手が痛みに怯んだ隙に、目くらましに古着を顔目掛けて投げつける。男から血の匂いがして一瞬くらりとしたけれど、わたしはそのまま脱兎の勢いで窓から飛び出した。
「紫薇……!」
もんどり打って叫ぶ男の声にも振り返らず、わたしは全速力で駆けた。必死だった。どんどん遠ざかって行く生まれ育ったわたしの家から、罵声と、色々な物をなぎ倒す破壊音が聞こえていた。
何も考えずにひたすら走って着いた先は、道院の丘だった。階段の途中で見知った姿に出会ったわたしは、安堵のあまり泣き出しそうになった。
「君の気配がしたから」
やはりと言うべきか、抱き留めてくれたのは夏天だった。月明かりさえもない闇の中、身一つでどれだけ待っていてくれたのだろう。今更もう驚きはしないけど。
「でもね紫薇。道士とはいえ異性の寝泊りしている場所へ、こんな夜更けに来るものではないよ」
「……前は一緒に暮らそうって言ってたじゃない」
「あれは子供の君に言ったの。今はもう十六だろう」
口ではそう言いながらも、当たり前みたいに夏天はわたしの背を抱いて自室に招き入れた。それからわたしが裸足なのを見てとると、たらいに湯と手巾を用意してわたしの足を丁寧に拭ってくれた。
「前にもあったね、こんな事……。今度は何があった?」
わたしは無言で首を横に振った。
黙秘したって夏天には簡単に悟られてしまうのかもしれないけど、気持ちがグチャグチャで何をどう言葉にしたら良いのか分からなかったのだ。
「……顔色が悪いな。ひとまず食事をしなさい」
俯いて押し黙ったままのわたしの顔を下から見上げてそう言うと、夏天は別の椅子を向かい合わせにして腰を下ろし、自分の襟元を大きく寛げた。確かに空腹は耐え難いまでに膨らんでいるし、話題が変わるのはわたしとて望むところ。わたしは一つ頷いて彼の正面に立った。
道院に焚きしめている香の薫り。
それよりも強く、夏天の匂いがする。
「……ねえ、夏天はわたしの気配を決して間違えないのよね?」
「そうだね。君は特別だ」
「それはわたしが他の人とは違うから?」
「出逢った頃はヒトとほとんど変わりなかったけど、今は……そうだな、もう少し混じり気が濃くなっているね」
そうなのか。きっと、夏天と時々こういう事をしているせいなんだろう。あの男がわたしのことを魔物と謗るのも、半分は間違いではない。
あの男の妄執が恐ろしいと思ったけど、よく考えたら、わたしの夏天への執着も似たようなものなのかもしれない。
だってもう、目の前の夏天の事しか考えられない。
わたしは夏天の両脚の間の座面に片膝をついて乗り上げ、身を寄せて開けられた彼の首筋に口付けを落とした。
爸爸だったら舐めるだけで全く痛みを感じないように出来たのに。あいにく、中途半端な存在であるわたしの唾液にそこまでの力はない。少しだけ疼痛を緩和させたり、軽く治癒を促したりする程度だ。夏天はわたしの為に毎回痛みを我慢してくれている。
「浅ましい、な……」
極々小さな夏天の呟きに、わたしの指は鞭で打たれたかのようにビクリと跳ねた。押し寄せる羞恥に居た堪れなくなり、そのまま立ち上がって掌で顔を覆った。
「ごめ……なさ…………」
夏天の身体のことを分かっていながら、それでも奪わずにはいられない。
大好きで大切な愛しい夏天。わたしにはもうあなただけなのに。
それでも、ううん、それだからこそ?
甘くて濃密で温かな赤い液体は、他の何にも替え難いほど芳醇で美味しい。
村の皆が爸爸やわたしを忌避したがるのも当然だ。ヒトは異質な存在を本能で嗅ぎ分ける。
どうしてわたしは夏天と同じヒトに生まれてこられなかったんだろう。
夏天の言う通り。
──わたしは卑しい獣だ。
「違うよ紫薇」
気遣うように、夏天が強張ったわたしの指を取った。そのままわたしを引き寄せて強引に太腿の上に座らせると、先程までと同じように自分の首に腕を回させる。それから、両手で頬を挟まれて視線を合わされた。
……何故だろう。夏天の瞳には、恐れていた軽蔑の色は浮かんでいない。
「浅ましいと評したのは私自身」
爸爸譲りであるわたしの紅い目。手は外してもそこをじっと見据えたまま、夏天は溜息をついた。
「だって、嬉しいから」
「夏天……」
それは、どういう意味?
「言ってくれる、紫薇? 君が欲しがる相手はこの先もずっと私一人だけだって」
あくまでも優しい夏天。まるでこの行為を自らが望んでいるかのように振舞ってくれる。
わたしはあなたの命の雫を啜るバケモノなのに。
言葉にするまでもない。わたしが欲しいのは夏天だけ。爸爸もそうだった。媽媽からしか血を貰わなかった。そして媽媽は幼いわたしと爸爸の二人へ自分の生命の源を与え続けた。
愛しい、愛しい相手にしか欲望を覚えない、この身体は呪われているのだろうか?
わたし達は、かけがえの無い家族や無二の伴侶をこそ、死の淵へ追いやってしまう。
『どうかお前は強く生きておくれ、愛しい女児──』
媽媽が死んだ後、半分がヒトであるわたしからなら血を貰えたはずなのに、爸爸は一度もそうしなかった。子供のわたしの血では絶対量が足りないという理由だけではなく、多分、愛妻に先立たれたことによって思うところがあったのだろう。
わたしには可能だからと、動物の血で命を繋ぐ方法を教えてくれたけど、純血の爸爸自身はヒトを襲わずには生きていけなかった。愛していない相手からの吸血は、素っ気ないただの延命行為だ。わたしと共にいる為にその道を選んだ爸爸の笑顔には、日を追うごとにどんどん辛そうな色合いが増していった。
近隣の村で餌を調達するのは危険だと言って、いつも爸爸は一人で遠くまで狩りに出掛けていた。そしてある夜──そのまま戻ってこなかった。
一人分の体温しか無い寝台の中で目を覚ました時、爸爸は媽媽と同じ場所へ逝ってしまったのだと、わたしには分かった。
残されたわたしは爸爸に教えてもらった通りに動物を狩っていたのだけれど、拙い狩猟技術と動物達の冬ごもりの時期が重なれば、栄養不良に陥るのも当然の帰結だと言えた。飢えのあまり兎小屋で血痕を舐めてしまったのもむべなるかな。
わたし達にとっては、動物とヒトとでは血の質が全く異なる。わたしの身体は、媽媽が死んでから夏天に出逢うまで成長が止まっていた。森で得られる動物の血だけでは、生きていくために必要なギリギリ最低量だったのだ。しかもそれはわたしが子供だったからで、おそらく今はもう生命維持に必要な最低ラインには足りないだろう。
わたしが生きていく為にはヒトの血がいる。
優しい夏天はそれを理解して、道士としての職務理念を曲げてまで、わたしに自らの血を与えてくれているのだ。わたしはそんな夏天の温情に甘んじている。愛しく想う相手にしか吸血欲望を抱かないという、わたし達の事情を素知らぬ顔で伏せて。
ああ、でも、夏天の事を真に想うのなら。わたしは選り好みをしないで無差別にヒトを喰らうべきなのだ。同じ赤い液体は夏天以外の人間にも漲っている。他のヒトからも吸血することにするならば、今は一点に集中している夏天の負担が劇的に減るだろう。頭ではちゃんと分かっている。愛しい相手を食い潰さずに済むように、わたしは食事のローテーションを組んだ方がいい。名も知らぬ背景に牙を立てたところで、なけなしの良心はもう痛まないのだから。例えばそう、今頃狭い我が家を蹂躙し尽くして帰宅でもしているはずのあの男とか──……。
「余所見したら駄目だよ紫薇。何を考えてる? 百日紅の花弁のようなその唇を他の男の肌に這わせることは、絶対に許さない」
おかしい。今のわたしの耳には夏天の言うことが、愛の言葉のように聞こえる。
この行為は夏天にとって、同情と崇高なる自己犠牲……でしかないはずなのに。
「万が一にもそんな真似をされたら、この私だとて、何をしでかしてしまうか分からないよ……?」
落ち着けわたし。これはきっと、道士としての警告なんだ。村の者に手を出すな、でないと今までのように見逃していてはやれないという。
それなのに、わたしの胸は睦言を囁かれたみたいにときめいた。
馬鹿みたいだ。わたしの願望は容易く現状認識を歪めてしまう。魔物を狩る道士と、ヒトの血を啜る魔物。わたし達の間に、そんなこと起こり得ないのに。
夏天の心配は無用だ。
わたしが夏天以外の者を欲する未来などありはしない。ヒトの血を飲まずには生きていけない運命なら、その相手は夏天がいい。
もしいつか、止むに止まれず他者を手に掛ける事になったとしても──……夏天に終焉を与えられるのなら、わたしはそれでも構わない。
だから返事の代わりに、わたしは夏天の首筋へ、つぷりと牙を埋め込んだ。痛みを堪えるためだろうけど、その瞬間夏天の両腕がわたしの背中に回されて、抱擁に似た形をとった。
甘くて熱い血潮が喉の奥に流れ込んでくる。
これは命の味。夏天の。そしてわたしの。
愛しい夏天の一部が、今、わたしの糧となる。
「っ、紫薇……私は君を……」
優しく私の名を呼ぶ夏天の声は、苦悶の色を上手に隠していっそ甘く。
夏天、夏天、分かってる? こんなの、愚かな小娘が愛されてると錯覚したって仕方がない状況なんだよ。罪作りな夏天。残酷なほど優しい夏天。
「……いや。その前に紫薇、聞いてくれないか。私は君に告げなくてはならない事が……あるんだ」
夏天が何か秘密を抱えていることには薄々気が付いていた。その所為で時折わたしを苦しげに見ていることも。
何年も優しくしてもらったのだから、わたしは夏天の告白をきちんと聞かなくてはならない。夏天の優しさがたとえ罪悪感からくるものであったとしても。彼の心を雁字搦めに縛りつけている鎖を、わたしが取り除いてあげなくてはならない。
でも……でも怖い。
夏天が言い淀んでいるのが、もしわたしの考えている通りの話だったら。この村に夏天がやってきた時期が爸爸が消えて間も無い頃だったのは、ただの偶然じゃなかったとしたら。聞いてしまったら、わたし達の関係は一体どうなってしまうのだろう。
夏天へのわたしの気持ちが変わってしまうかもしれない。
もしくは、爸爸へのわたしの思慕を裏切ってしまうかもしれない。
そのどちらもがどうしようもなく怖い。
──知りたくない。真実などいらない。
わたしが聞きたいのはもっと別の言葉だ。
「お願い。今は言わないで……」
夏天の首筋に残る二つの赤い跡。わたしの牙が夏天につけたその傷を塞ごうと、わたしは舌を伸ばして拙い仕草でそろりと舐めた。夏天が熱い吐息を漏らす。
夜の闇の中、わたし達は一部の隙間も無いほどにぴたりと寄り添い、抱き締め合った。このまま溶けて夏天とひとつになってしまえたらいいのに。
まるで幸福な睦み合いみたいだ、とわたしは身の程知らずにも夢想して、酷く苦い涙を一粒だけ零した。
*****
だから、お願い夏天。
嘘でもいいから、好きって言って。
君だけが誰よりも一番大事だって囁いて、強く強く抱き締めて。
獣のようなわたしでもここに……あなたのそばに居ていいのだと、そう信じさせて。
あなたへ向けるこの想いだけが、辛うじてわたしを境界線のこちら側に引き留めているのだから──……。