迷いはひらりひらりと宙を舞い、やがて。 (竹野きひめ×無明) 共通部2
都合が……つかない?
そんなはずは、無い。
今朝、奥様はきちんと私にお嬢様の予定を話してくださった。
静音のさっきの動作、つまりそれは彼女側から断った、のだろう。
ご都合がつかなかったんですって
その言葉と共に送られた何かを期待する視線をルームミラー越しに私は見た。
何も互いに言えない薄い沈黙が車内へと立ち込める。
白い手袋を嵌めた両手はハンドルへと軽く置いていて、それをそっと撫でるよう指を動かした。
静音が何を望んでいるか分からない程、私は子供じゃない。
彼女より十近く年が離れているのだ。
簡単に言ってしまえば、したい、のだろう。
ただ、それはあまりにもリスクが大きすぎる。
そういう事を考えるのはあまり好ましくは無いが、令嬢としての静音の価値は、そこにある薄い一度しか破る事の出来ない膜にすら、あるのだ。
いつか静音がどこかきちんとした御方とご結婚される際に、それが在るか無いかは決して小さな問題ではない。
その上、私は静音に対しその責任を取ってやる事が出来ない。
どんなに静音が私を想い、私が静音を想った所で、所詮、主と従の関係を超える事は出来ないのだ。
「どうしたの。……どうする?」
私の小さな主は手持ち無沙汰に、また、私が贈った蝶の形の小ぶりな髪飾りを細く白い指で弄びながら、ちらりとこちらを見た。
ああ、そんな目をしないでくれ。
私だって、私だって――本当は……。
「よろしいのですね?」
何に対してなのか明確にしないまま、最後の従者としての言葉で告げる。
静音はそれに手を止め伏せていた目をそっと上げた。
鏡越しに私を見つめる目には一切の迷いが見受けられず、そこにあるのは期待という物だけだった。
「良くなかったら、言わない。むしろ覚悟を決めないといけないのは、貴方よ。だから……貴方がお決めなさい。ただ……」」
静音はそっと笑みを浮かべ言葉を止める。
首をそっと傾けるながら口を開き、女の黒髪に留まるきらきらと光る蝶が本当にひらりと舞っているように、見えた。
「蝶はいつまでも同じ花には留まらない。次の甘い蜜を求めて、ひらひら、飛んでいくのよ」
ふふっと笑いながらいう静音の言葉は残酷なほど真実で事実で、そして挑発的だった。
静音は私が仮に彼女を抱いたとしても、彼女自身は何も咎められないのを良く分かっている。
ただの我侭なのか、冗談を言っているだけなのか、それとも。
ただ、私は、お嬢様の従者なのだ。
不意にそれを思い出し苦笑してしまう。
あの時、お喜び頂けるのならば何でもすると誓ったのだと、ゆっくりと口を開いた。
「ああ、そうだね、分かったよ。……行こうか」
それだけ出来るだけ抱えている欲望も感情も想いも乗せずに告げてから、そっとアクセルに乗せていた足を踏み込んだ。
走り出した車内は何も無かったように静かで、けれど、私は互いの呼吸する音すら聞こえない程に胸が高鳴っていた。
静音がどんな顔をしているのか、期待と不安で見る事が出来ない。
一線を越えてしまえば、たった、一度で終わるとはとても思えないのだ。
それが分かっているのに、私は、静音を抱こうとしている。
十近く離れた少女に恋焦がれるなんて。
お側に居るのがこんなに幸せだなんて。
毎晩のように馳せていた想いが、今、現実になろうとしている。
その先にある情熱と快感と言い知れぬ不安と恐怖が、私の体に手を伸ばしていた。
高宮の言葉とともに、私たちを乗せた車はするりと滑り出した。高宮の丁寧な運転で揺れるはずのないシートが揺れている。それは私のしつこいほどに脈打つこの心臓のせい。血が湧き上がるほどに熱くなっているのがわかる。
ふと髪飾りに触れてみる。その際に一緒に触れた頭皮は僅かに蒸気を上げて火照っていた。
これはさっき思わず口走ってしまった言葉のせい。
蝶はいつまでも同じ花には留まらない。
なんてことを言ってしまったんだろう。これでは私が欲しがりみたいではないか。いや、実際に欲しい。怖いけど、欲しい。
ずっと。
そう、ずっと思っていた。あの腕で抱かれたら、どんなに幸せだろうか。視線を絡めるだけじゃ、接吻を交わすだけじゃ、それだけじゃ行けないところへ行ける。きっと行ける。
ずっとそう考えていた。
あの腕の中で眠れたら、私は本当にどこまででも昇っていってしまいそう。なんの恐怖も、不安も抱かず。きっとあなたはそんなことを私には感じさせないはずよ。
高宮はさっきからずっと黙っている。黙ってハンドルを回して、信号に捕まるといつものように私と視線を合わせてくれる。そのいつもの仕草に私は気づかれないように息を吐く。よかった。
でも、何でだろう。
高宮の目を見るたびに、私の身体が今にも弾けて前へ飛び出しそうになる。
何でそんな目をするの?
そんな目で見られたら・・・・・・嬉しくなる。でしょ。
信号で止まりウィンカーを出せば車内にカチカチと規則正しい小さな音が響いている。
ミラーでちらりと見続けている静音はやんわりといつもより顔を桃色にしているのに気づいているのだろうか。
まるでそれを誤魔化すためだけのような、髪飾りや頭を撫で下ろす仕草にさえ、緊張の色が浮かんでいる。
目の前をトラックが少し速めに通り過ぎ、信号が黄色になったのだと知る。
予想通り視線の先のこちらの信号は、今、青になったばかりだ。
前の車がゆっくりと進み出し、私は最後のため息を小さく吐いた。
ここを曲がれば、それが、ある。
ああ、本当に良いのだろうか。
私なんか、が、静音を抱いてしまって良いのだろうか。
初めてを私がさせてしまって、本当に、良いのだろうか。
これ以上愛してしまって、好きになってしまって、より大切にしてしまって。
良いのだろうか。
もう一度ウィンカーを出し、車線からそこの敷地内へと入った。
後部座席の静音が小さく息を飲む音が聞こえる。
区切られたそこに車を停め、エンジンを切れば車内は、しんっと静まり返った。
降りるわ。
開けて。
早く。
怖気づいたの?
高宮。
その言葉、どれか、ひとつでも言ってくれと、私は願ってしまった。
けれど、いくら待てど、お嬢様からその言葉が来ることは無く、駐車場に入れてからだいぶ時をそうやって二人で過ごしてしまった。
「……あんまり遅くなると怪しまれる」
それは不意に、いつもより自信なく弱々しくぽつりと背後から響いた。
ハンドルに置いていた手をだらりと滑らせ、そのまま首と肩だけ振り返れば、制服の紺地のスカートを握り締めたまま俯く静音の姿があった
流れていく見慣れない風景を眺めながら、私の胸は不安と期待に踊っていた。
最初は、思っている通りの場所であってほしいと望んでいたが、いざその建物が見えてくると、とてつもなく怖くなってきた。
高宮がさっきから私の方を見ている。視線が私の俯いた頭に落とされているのがわかる。
「行きましょうか」
視線は決して合わさない。合わせられない。高宮の方は見ずに、私はそう言ってシートベルトを外し、立ち上がった。
運転席から同じようにベルトを外す音が聞こえ、ドアを開ける音と、靴底がアスファルトを叩く音も続けざまに駐車場に響いた。高宮は後部座席の方へ周り、ドアを開けた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
私は俯いたまま何も言えない。高宮もドアを開けたまま何も言ってこない。と思ったとき、柔らかに笑うように息が漏れるのが聞こえた。
「遅くなってしまうよ?」
思わず高宮を見上げると、彼は僅かに笑みを浮かべていた。その優しさに満ちた瞳に吸い込まれるように私はシートから腰を浮かし、差し出された彼の手を取った。
駐車場に足を下ろすと、彼は私の手を引いてその無機質な自動ドアへと向かった。
「どうしたの?」
突然足を止めた私に振り返って、高宮はそう言った。
わからない。
どうすればいいかわからなくて、彼の視線から逃れたくて、私は触れられた手をできるだけ優しく振り払い、彼に背を向けた。
立ち止まった静音の後姿があまりにもか細くて、ぞくりとした。
思わずそっと手をやんわりと添えてしまったのは、私の期待の現われだったのかも、しれない。
前に押し出す訳でなく、ただ、添えたそれに静音は私の顔を軽く顔を上げて見上げた。
それを見ながら一度、手を外し、そっと黒いスーツの上着を脱いだ。
脱いだそれを広げれば、静音は意図を得たように俯きながら両腕をそっと後ろへと斜めに上げる。
そこに腕を通してやり、肩まで上げてから、そっと耳元に口を寄せた。
「高校生は入れないからね。……行くよ」
背後から静音の手を素早く奪い、回り込むよう一歩踏み出せば、その背徳的な薄暗い空間への扉が左右に広がった。
ひやりとしているのは、上着を静音に着せたからじゃない。
本音で言えば、私だって、怖いのだ。
静音がホテルの入り口で足を固めたのは、それ、があるからだ。
本当に良いのだろうか、と、静音も思っているに違いない。
ちょうちょはどこかに飛んでいく。
そのたった一言だけが、私に、決断をさせた。
立ち止まった静音の後姿から見える髪飾りのそれが、今、背中に手を当てないと、手を取らないと、私が一歩踏み出さないと。
静音という蝶の翅をしっかりと二本の指で優しく捕らえていないと、どこかに。
どこか、遠くに行ってしまいそうな気がしたのだ。
私の届かない所に、静音が行ってしまうような気がした。
ロビーは薄暗く他の場所ならばもっと生き生きするであろう観葉植物ですら、後ろめたさを感じさせるよう佇んでいた。
その中で場違いなほど明るい、部屋の写真が映し出された大きなパネルの適当なボタンを押せば、がちゃりと鍵が落ち、端にある中が見えないカウンターから、小さな声で三階です、とやる気のない声だけが響いた。
一言も言わずに事を進める私に戸惑い、心配そうに見上げたその額に軽く口付けを落としてから、ロビーの奥のエレベーターへ向かった。
小さな狭いその中で性急に静音を求めたりなど、しない。
部屋に入っても、無理矢理になど、絶対にしない。
静音が愛おしくて堪らないという事を、静音はどれほど分かっているだろうか。
エレベーターの扉が開き、片手でその扉を押さえながら、私は静音を見下ろして口を開く。
「どうする?」
静音はそれに体をびくりと震わせてからゆっくりと顔を上げた。
いやあ、どもども。お久しぶりです、むみょうですよ。
今世紀最大のノリと勢いで始めた今作ですが、皆さん、言っておきます。色気むんむんです、ええもう。高宮がもうね、涎垂れそうなほどもうかっこいいっすよ。
というわけで共通部第二部を投稿しました次第でありますが、お楽しみいただけていますでしょうか。どこをどっちが書いているか、皆様はわかりますかね? んふふふふっふふふっふふふ。




