漆黒を彩るは、黒い蝶の髪飾り (無明×竹野きひめ) 共通部1
程よい柔らかさのシートに深く背中を沈める。微かなエンジンの音とタイヤがアスファルトを滑る音以外、何も聞こえない。ふと、ルームミラーに目をやると運転手の高宮と目が合い、静音は僅かに口元を綻ばせた。
耳の上辺りに留めてある髪飾りに手を触れる。金属でできたそれは、頻繁に触れたせいか、仄かに温かみを帯びている。それに気づくと頬の辺りが少し熱を帯びるが、慌てて表情を平静に保ってみる。
「お嬢様……」
「静音って呼んでよ……。私達だけだよ? 約束したでしょ?」
静音がそう言ってむくれると、高宮の目が困ったように細められた。
「静音様、今日もご機嫌ですね」
高宮の目はすぐに前方に移される。順調に道を進んでいる証拠ではあるのだが、静音は心の中ではそれをよく思っていない。
「当然」
そう、この下校の車中は静音にとって至福の時である。学校の友達への気遣いや親の干渉から完全に切り離された空間だ。そして、何より。
「ふふっ」
静音がふわりと笑うと、高宮が不思議そうに視線を向ける。今は信号に引っ掛かってしまい、車は止まっている。そう、この信号に捕まった数分間。静音の心は一番満たされる。高宮との束の間の秘め事だ。
心は高揚し、身体はどこまでも飛んでいきそう。風に乗って飛ぶ蝶さながら。今日は黒いワンピースをベースにコーディネートしているから言うなれば黒揚羽。全ての光を吸収してしまうはずの翅の上に、七色に煌めく鱗粉を乗せ、優雅に舞い去っていく漆黒の蝶だ。
「その髪飾り、よくお似合いですよ」
よかった、と小さく呟くように付け加え、高宮は車を発進させる。この蝶の髪飾りは高宮が贈ってくれたものだ。前々から高宮から何か贈ってほしいとねだっていた静音に、先程車に乗り込んだ際に手渡されたものだ。
静音はそれをそっと受け取ると慣れた手つきでそれを今の位置に留めて、無意識にそれに触れていた。
高宮の言葉に、胸が踊る。車は静かに走っているはずなのに、静音の身体は規則的なビートを刻んでいた。
あなたは翅なの。高宮さん。
静音は目を瞑り、そう念じた。
私をどこまでも高く、遠くへ運んでくれる漆黒の翅。
だからどうか、ずっと私の。
身体が僅かに前傾する。高宮はプロの運転手。雇い主である親からも彼の運転の丁寧さには定評がある。
だから、それが彼からの無言の合図。目を開け、ルームミラーをちらりと一瞥。
言葉の無い秘め事を、静音たちは繰り返す。視線を絡める。それだけで、彼女の脳は甘い刺激に溺れていくのだ。それが決して、実を結ばぬ仮初めの行為と知りながらも。
荒々しく急ブレーキを掛けたそれは合図だ。
私とお嬢様だけの秘密の合図。
それを始めたのがいつだったか忘れるわけがない。
あの日。
あの日、お嬢様は私へ告げたのだ。
「私、高宮が好き。ねぇ、どう思う?」
それに酷く驚き、狼狽したまま普段なら絶対にしない急ブレーキを、ブレーキを咄嗟に踏んでしまった。
一回り近く違う幼い少女に、いや、少女に毛が生えただけのような御方が、バックミラーに映るその顔はすっかり大人になっていた。
いつの間に、なんて考える余裕は無かった。
それを見透かしたよう、妖艶に顔を歪めて笑いながらお嬢様は口を開く。
「良いのよ、言わなくて。だって、言えないでしょう?でも……同じ想いなら二人きりの時は静音、と呼んでちょうだい」
口元に右手をそっと添え、笑っている事を隠すのはそうやって教えられたからだ。
けれど、隠し切れていない赤い、熟れすぎたさくらんぼのような唇は誘うように、自分の名前をゆっくりと一文字ずつ、もう一度告げた。
ああ、私は今から奈落へ堕ちるのだ。
決して手の届かぬ、それなのにこんなにも近くに居るその人を想う気持ちを伝えるのだ。
それはずっと秘めていた物。
それはずっと抑えていた物。
けれど、これ以上どう隠していろと言うんだ。
他でも無い、私が御仕えするその方が、それを御許ししたのだ。
それは何て背徳的で甘美で……そして悪魔のような囁き。
バックミラー越しになんて、とても出来なかった。
失礼で、その上、とても切ない。
そんな風にしたら私の気持ちはきちんと伝わらないじゃないか。
車を寄せシートベルトを外し、そっと運転席と助手席の隙間からその人を見る。
私の大切な可愛らしく狂おしい程愛おしいその御方は、変わらぬ笑みを浮かべ、まるで何も言わなかったのだと言うようにただ、微笑んでらした。
「静音様」
一言、そう、たった一言で良い。
私が悪魔の手に堕ちたのだと伝えるにはそれだけで、良い。
呼んだその愛おしい御方はくすくすと可笑しそうに笑い、ゆっくりと体を倒した。
その小さなか細く白い手が私の顎をぐっと掴み、そのまま……。
「高宮?聞いてるの?」
その声ではっとすれば、私の愛おしい小さい方は、相変わらず私が贈った蝶の髪飾りを弄っておられた。
「申し訳ありません。少し……考え事を」
それにふんっと鼻で笑えば小さく鼻歌を歌う。
それはかつて幼いころに聞いた童謡で。
ちょうちょ
ちょうちょ
なのはに とまる
なのはに あいたら
「あなたに とまる」
妖艶な笑みはあの時と何も変わっていなかった。
風に揺られたようにそっと私はかつてしたように隙間から顔を出す。
静音はそれに誘われた蝶のように顔を近づけ、私の唇へ熟れたそれを重ねた。
混じり合う舌は、まるで、私と言う花から静音という蝶が懸命に蜜を吸うようであった。
熱い。
眩む。
苦しい。
気持ちいい。
視線が絡み合うあの瞬間でさえ、脳内に電流が走り、身体が浮ついていくというのに。お互いを貪り合うこれは、私の許容範囲を遥かに越えて、私を快感の向こう側へ押し流していく。逆らうことはできない。逆らう気もないんだけど。
「た……か……」
唇から、舌から伝わる体温が愛おしくて、欲張りなことに行為を続けたまま名前を呼ぼうとする。でも、私の声はすぐに高宮に遮られてしまう。呼びたいのに、でも、こうやって箍の外れた彼の野蛮さに攫われるのも堪らない。
もっと。
もっと、あなたを。
もっと、私を遠くへ。
そして、あなたの傍へ。
目を瞑って念じる。静かな車内を、私達の立てる水音と衣擦れの音が包み込んでいた。その音ですら、私の耳殻と鼓膜を艶やかに愛撫し、胸の奥を高揚させる。
シートについていた両手を思わず高宮の肩に置いてしまう。決して離すまいと指先に力が入る。
もうダメ。
歯止めが利かなくなっていく自分に気づき、一瞬押し寄せてきた不安にさっと唇を離してしまう。すぐに少しの後悔と未練がふつふつと湧いてくる。もう一度、と開いたまま彷徨わせていた視線を高宮に向ける。私と目が合った彼は困ったように――これは彼の癖みたいなものなんだけど――笑って、諭すように私の頬を掌で包んだ。
「静音様……今日は浜田先生がいらっしゃる日です」
浜田というのは私の家庭教師の名だ。週に三日ほど来てもらっている。とてもいい先生だ。学校の教師なんかよりよっぽど教えるのが上手い。休憩の時の話なんかもとても面白いし、勉強が楽しく感じる。
でもね。申し訳ないけど、今日はそれすら億劫に感じるの。
私はそっと自分の頬に添えられた彼の手に自分の掌を重ねる。再び私達は視線を絡め始める。彼の瞳の中に、私は複雑に絡まった葛藤を見た気がした。
こんなに愛に満ちた目で見つめられたら、全部かなぐり捨てて応えたいじゃない。
私は後ろを振り返り、通学鞄に手を伸ばす。中を漁り携帯を取り出し、メール送信の操作をする。画面に送信完了の文字が浮かぶと、通学鞄の開いた口に向かって携帯を放り投げた。
「静音様。そろそろ出発しませんと、時間に間に合いません」
高宮の身体が、離れていく。
「いいのよ」
私の一言に、彼の動きがぴたりと止まる。私は一度高宮から視線を逸らす。心臓がうるさい。膝が僅かに震えているが、それを両手で抑え込む。
「浜田先生、今日はいらっしゃらないわ」
止められない。
望んでしまったから。
止まりたくない。
欲してしまったから。
どうか、止まらないで、あなたも。
「ご都合がつかなかったんですって」
一息吸い込んで、私はそう言った。そう言って口元に笑みを作り、高宮にもう一度視線を向ける。
あなたは翅よ。
だから、私には逆らえないはずよね?
むっちゃんがちっともやってくれないので、大忙しなのに、結局、編集をやらされた竹野です。
今回は、むっちゃんこと無明様との合作第一弾にお目を通していただき、ありがとうございます。
この作品は、竹野が大昔に書いたファンタジー作品の話が、メッセでなぜか盛り上がり、蝶を使っているという話から、無明様側から、第一発目をもらいました。
それに竹野が悪ノリし、続きを書いたことから、今回の合作に至ったのでございます。
合作しよーぜー!みたいなノリを、笑って受け入れてくださった無明様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
むっちゃん、早くちゃんとスランプ抜けられるといいねw
それでは、今しばらくお付き合いのほど、よろしくお願いします。
竹野きひめ




