あと五十五本... 「おかあさん」
僕の母親という人は、子供の頃から酷い人だった。
反面、とても悲しい人でもあった。
父親がほとんど家に帰らず、帰ったら帰ったで金の無心をして口論を繰り返す。そんな家庭だった。
父親から受けるストレスを解消するように、ちょっとでも気に入らない事があればすぐに僕を叩いた。瞬間的にビンタが飛んできて終わる事もあったが、枕やクッションでヒステリックにはたかれ続けて息が出来なくなりそうなこともあった。
けれども、そうやって僕を打ちのめしたあとは、必ず僕を抱きしめて涙を流しながら謝るのだ。
ごめんねぇ、駄目なおかあさんでごめんねぇ。
母親は確かに僕を愛していた。長年にわたって歪み続けた母親は、甘美な声で、僕の荒みきった心を支配した。
でも、僕も母を愛していた。
道を踏み外さずに済んだのは、その自覚があったからだ。内気で友達もいなかった僕は、母との時間が大半だった。母一人子一人の家庭を支えるのがどんなにか大変なのは子供心にもわかっていた。一時期、母の負担を減らそうと極端に離れ、母の話も聞くだけに徹した。僕はやりすぎた。母はある日、親を馬鹿にしているのかと僕を無茶苦茶に殴った後、ごめんね寂しかったのよ、と僕を撫でた。
それ以来、僕は母を寂しがらせない程に離れすぎず、いつまでも甘えるなと言われない距離を測り続けた。
その頃までは母にも時々恋人がいたのだが、たいていが長続きしなかった。振られた事がわかった時には「やっぱりアタシにはあんただけよ」と、子供の良さを説いた。僕はそんな母を憎みきれなかったし、好きなようにしてもらいたかった。特に、父のような男になるなと再三繰り返した。
高校は母が進学を望んだのもあって、公立へと進んだ。その頃になると、父親も家に寄りつかなくなっていた。今何をしているのかさっぱりわからず、女と逃げたか、それでなければ死んでいるのだろう。僕は父に会おうという気すら沸かなかった。
高校でも友達を作るのに失敗した僕は、やっぱり母のところに帰ってきた。虐められもしなかったが、誰かと仲良くした思い出もない。僕は空気のような存在だった。いてもいいが、いなくても特に気にならない。ある意味幸福だった。進学せずに仕事をすると告げると、母は、そう、とだけ言った。
僕は工事現場の仕事に入った。
仕事はきつかったし、一番ひょろかったのもあってボロボロになりそうなほどこき使われたが、それでも給金はきちんと支払われた。封筒に入れられた給与明細のコピーを手に、僕は家に帰った。母さんは十何人目かの恋人と幸せそうなのろけ話をするのが最近の日課だったが、どうも振られたらしく、家で飲んだくれていた。
なにか保管できるものは無いかと適当なものを探していた時、母さんが目ざとくそれを見つけて、僕の手からそれを掻っ攫った。
「まぁまぁね」とそっけない声で漏らす。
「あたしね、欲しい服あったの。ね、いいでしょう。パーッと使いましょうよ。あいつね、奥さんと別れるって話だったのに」
「いや、でも、…聞いてほしい事があるんだ」
その頃の僕らは、古いアパートの1階に住んでいた。僕は母さんのためにも、もっといいマンションに引っ越すべきだと思っていた。
途端に、母さんの顔が曇った。
「は? …何よ、アンタ、あたしの子供のくせにアタシに立てつこうっていうの?」
アルコールが入っているのか、母さんが激昂するのは早かった。
「こんなはした金くらいで、偉くなったつもり!?」
首元を掴まれ、ぎゅ、と首が締まる。ばしんと叩かれると、髪が振り乱された。古い伝承に出て来る、鬼婆のような姿が目の前にあった。見たことのあるような、無いような姿だった。母さんが僕相手に激昂する機会は減っていたからかもしれない。
一体母さんをこうしたのは誰なんだ。
父か。それとも多くの恋人たちか。
それとも僕か。
母さんはそのまま僕をぶちのめしながら喚いた。
懐かしさと痛みよりも先に、母さんに話を聞いてほしかった。
違うんだ。聞いてくれ。
僕は苦しさと痛みに思わず手を払った。視界の向こうでどたん、と音がした。バランスを崩して尻餅をついたのだ。微かな呻き声がして、僕は咳き込みながらも視線をあげた。
ハッとした。
もはや僕は母さんより強くなったのだ。
男と女の、何より若さと老い。圧倒的な力を誇った母さんは、いまや僕より弱いものになってしまっていた。なんだか哀れに見えた。
僕が何も言えずに見ていると、血走った目が僕を見上げた。
「あんたも」
憎しみと愛情が入り混じった目だ。
「あんたもあたしを置いていくのか」
僕には母さんが必要だったし、母さんも僕が必要だった。
それはかけがえのない真実だったのだ。
「ごめんよ母さん、そんなつもりじゃなかったんだ」
話を聞いてほしかっただけなんだ。
僕はいつか母さんがそうしたように抱きしめようと思った。だが母さんは僕の頬を叩いた後、呻いた僕に激しく喚き散らした。その辺にあったものを僕に投げつけ、転がった僕を何度も蹴りつけた。そして大きく咳き込んだあと、ぜぃぜぃ言いながら部屋に閉じこもった。母さんは抱きしめてくれなかった。僕は部屋に入る気にもなれず、少しだけそっとしておくべきだという判断をした。
次の日、朝起きても、母さんは起きていなかった。仕事に行くかどうかを迷った末、僕は破れた障子ごしに「行ってきます」とだけ告げた。返事はなかった。
一日中、母さんの事を考えていた。ちゃんと起きたのか、家に帰る頃には機嫌がなおっているかどうかが重要だった。おかげで大事な器具を落としかけ、僕は何度も怒られた。
家に帰っても、母さんは出迎えてくれなかった。僕はしばらくリビングで座り込んでいたが、母さんは出てこなかった。どこかへ出かけていった気配もなく、急に不安に駆られて、障子を開けた。
母さんはそこにいた。
天井の梁からぶら下がって死んでいた。
首に括られたロープはミシリミシリと音を立て、重みで微かに揺れていた。
僕は叫ぶ事も忘れていた。
これは母さんの過ちなのか、それとも僕の過ちなのか。
いずれにせよ、たった一度の過ちが、母さんを殺してしまった。
声にならない声をあげ、混乱したまま母さんを下におろした。もう息はなく、生きていなかった。すり減った畳には踏み台が転がっていて、アンモニアの臭いがツンと鼻をついた。
僕が拒否したからか。僕がたった一度だけ手を払ってしまったからか。
母さんの精神がいつそこまで追い詰められたのか、気が付かなかったのなら僕の罪だ。
ひとしきり泣いた後、僕は畳を上げて床下に母さんを埋めた。本当ならもっと役所的な処理をしなくてはならないのだろうが、今の僕にはそんな事は思いつかなかった。
一度はそのまま畳をもとに戻したが、僕は仕事に行く気にはなれなかった。
静かになった部屋は、僕にとって異常だった。二十年ちかく二人だけで過ごした部屋から離れることもできなかった。旧型の携帯電話に仕事先からの連絡が引っ切り無しにかかってきていたが、どうしてもとる気にはなれなかった。
やっぱり母さんがいないと駄目だ。
僕はそうつぶやくと、もう一度畳をあげた。
土を掘りだすと、若い頃のままの母さんが横たわっていた。僕は微笑み、その隣に横たわった。崩れかけた骨。あのころのように、また抱きしめてくれるだろうか。自分に土をかけるのは難しかったが、上に残した片手で、土の上から抱きしめれば問題ない。きっと許してくれるだろう。
母さん。
母さん。母さん。母さん。母さん。母さん。
――誰もいない部屋の中で、誰の手も借りぬまま、畳が静かに元の位置に戻った。




