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あと五十八本... 「後ろ姿」

 その頃の私は、朝早くにジョギングに出かけるのが日課だった。

 いや、正確には日課にしようとしていた。


 色々な事に手をとられてだらだらと過ごしている間に、お腹がぽっこりと出てしまったのが理由だ。鏡に映る一回り大きくなった下腹に愕然としながら、これはいけないと一念発起したのだ。

 とにかくジムに行くようなお金はかけたくなかったので、早朝ジョギングという手段に出た。ジョギングといっても、最初の内は早歩きというか、腕を大きく振りながら歩くという感じで、少しずつルートや距離を伸ばしていこうという算段だった。ジョギングをしているような仲間が近くにいなかったので、私は独学でやるしかなかった。

 何か大きな目的を達成するには小さな目標が必要だ、と中学の先生に言われた事を実践し続けている(”実行”できるかは別だ)私は、一日おきのジョギングを一週間、次は二週間、そして一か月と小目標を掲げた。


 これがやってみるとだいぶ疲れる。

 有酸素運動がどうたらというわけで、呼吸を忘れないように意識するのもそうだし、この道は知っているとか知らないとか、結構脳味噌も使う。おかげで頭も良く回るようだ。いつもより早く起きるおかげで涼しいし、町の風景も違ってみえた。最初の内はゼェハァいうだけで何が楽しいのかわからなかったが、薄暗く、太陽が顔を見せ始める頃合いに坂の上に登って見下ろすと、まるで自分がとてもちっぽけになって雄大なものを見たような気分になった。

 それぐらいになってくると、同じようにジョギングをしている人も見かけるようになってきた。新聞配達員も時間によってはチラチラと見かけるのだが、別ルートを走っていると思われるおじいさんや、私のような若い女性なんかも走っているのを見かけた。朝早くのジョギングなんて、老人のようで恥ずかしいという思いはすぐに吹っ飛んだ。私はあの人たちにも負けているのだと思うと、すぐにあの人たちのように引き締まった体にならないものかと思ったものだ。


 それでもヒィコラ言いながら、時計とにらめっこで走る日々を続けていると、次第にジョギング仲間も増えていった。仲間と言ってもたいていは追い越す時・追い越される時に会釈をしたりといったもので、私が勝手に仲間意識を芽生えさせているに過ぎない。大抵同じ服装で走っているので、何度か走る内に覚えたのだ。

 中でも人気のない高架下では、青のラインの入った膝丈のランニングウェアを穿き、白いヨレヨレのシャツを着込んだ老人をいつも見かけた。いつも私より先にいるので顔はわからないが、膝下に見える焼けた足は健康的で、青いヨレた帽子からは灰色の髪がのぞいていた。他の人たちは走る速度もさまざまなので追い越したり追い越されたりがあるのに対して、その人だけはいつも追い越せなかった。もっともその高架下で追い越すような事もなかったが。


 その日も私はジョギングに出かけた。

 夏も終わったが、曇りの日が続いて朝晩は僅かに肌寒くなってきた。走っていると結局暖かくなってはくるのだが、家を出るときに何か羽織ろうか迷うくらいだった。

 家を出ると、深呼吸をしたりラジオ体操紛いの軽い運動をしてから、ゆっくりと走り出した。住宅街を抜け、左に曲がると高架下に入る。

 軽い足音がして、いつものあの老人が走っているのが見えた。

 ペースは同じにしないといけないのはわかっていたが、いつも前を走るその老人がどことなく気になってはいた。それに、高架下から出ると老人は左に曲がってしまい、私とは別ルートを行ってしまう。私は少しだけペースを上げて、老人に近づいてみる事にした。自分の足音が上がる。ジョギングというよりマラソンのようになってしまったが、それほどまでに老人との距離はあった。それとも今日はルートを変えて、老人がどの道を進んでいるのかを見てみようか。

 少しだけ老人には近づいたものの、私は悪戯心を起こし、老人を追って左に曲がった。


「…あれ?」


 けど、そこに老人の姿は無かった。

 確かに彼はそこに入ったはずだ。私はきょろきょろと辺りを見回してみたが、すぐに入れるような場所はない。そもそも、足音もなくなってしまった。

 どこへ行ったのだろう、と続いている道をしばらく行ってみたが、老人は見当たらなかった。私はつい立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回した。高架の反対側にはまだ開店前の古い飲み屋が立ち並んではいるが、どこか寂しい通りだ。曲り道などもない。ちらりと見てみたが、飲み屋も全て閉まっているし、どこかに入った気配もない。

 ふと、タッタッと後ろから走る音が聞こえてきた。

 足音は規則的で、かろうじてランナーかもしれないとわかる程度の足音だ。

 こんな道の真ん中に突っ立っていたら邪魔になる、と私は横に逸れた。その時にちょうど私の隣を後ろからきたランナーらしき影が通り過ぎ、私はしまったと思った。挨拶を交わすのに間に合わなかった。

 私はあわてて私の前に行ってしまった人影を見た。その人物は、急に走るのをやめて立ち止まった。青のラインの膝丈のランニングウェアは、あの老人だとすぐにわかった。いつ私の後ろからやってきたのだろう。

 声をかけようとする前に、老人は振り返った。


「振り返らなくてよかったな」


 顔は不気味に蒼白く、にたりと笑うと、そのまますぅっと虚空に消えてしまった。

 幻のように。


 それ以来私は、あの時間帯に高架下には絶対に立ち寄っていない。

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