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あと五十九本... 「笑う」

「あのねぇ、そんなに小汚く食べないで。虫が出たら困るでしょ。それに最近、ご近所さんの家にもネズミが出るのよ」


 私は夫が食べているドーナツの、小さな砂糖菓子がテーブルに落ちるのを見逃さなかった。

 前々から何度も言っているのにこうなのだ。夫は溜息をつきながら、テレビに向けていた目を私に向けた。


「……あのな、ちょっと落としただけで神経質すぎじゃないか。皿の上で食べるようにはしてるし、それにこうして紙に包んでも、どうしたって落ちるものはあるだろ」


 夫はそう言いながら、ドーナツの紙ナプキンに包んだドーナツを見せる。


「こっちにやらないで、床に落ちたらどうするの?」

「お前はちょっと潔癖気味なんだよ」


 そんな屁理屈を言いながら、夫はテーブルの上に落ちた砂糖菓子を一粒拾い上げて皿に落とした。こういうのは見つけたら即座に言わなければならない。夫はそれを気にしないからだ。私は夫の行動を見届けてから、隅に置いてあった除菌ウェットティッシュを渡した。


「拭いて」

「ああ、ありがとう。でもまだ食ってるから」

「あなたの手じゃないわよ。テーブル。今すぐね」


 私はテーブルに砂糖菓子が落ちた辺りを示した。


「それはちゃんと捨ててね。また落ちたらすぐに拾って拭くこと。あなたの手は後で石鹸であらってちょうだい。新しいのを使ってもいいけど」


 夫は何も言わずに私を見ていた。


「返事は?」


 私は聞いたが、夫は溜息をつくだけだった。まるであてつけのようにテーブルをごしごしと拭いた後ようやくモゴモゴとわかったよ、と呟いた。

 まったく、これだから綺麗好きじゃない人は。

 まるでネズミみたいだと思った。そう思うと、夫の姿がますます小汚いネズミに見えてきた。私たちは結婚して半年ほどだったが、あのときの幸せは嘘のようだった。こんなにも綺麗さを無視する人には思えなかったのだ。


 ネズミみたいなひと。


 私は溜息をついてキッチンに戻った。ネズミは嫌いだ。ネズミの生態など知りたくもないが、どこかに巣でも作られたらたまったものではない。もしどこかにネズミの毛でも紛れ込んでいると想像しようものなら、今すぐに全て捨ててしまいたい気分になった。

 大体、あの人はネズミの怖さを知らないのだ。

 私のネズミに対する恐怖は、田舎の祖父母の家に遊びに行ったときまで遡る。私は小汚い田舎になど行きたくなかったが、その頃の私に拒否権などなかった。暗く、土と埃にまみれた農具や用途のわからぬ物にまじった土間には近寄りたくもなかった。それなのに、あの祖父母ときたら普段使う自転車をそんなところに入れているのだ。トイレに至っては外に別で立っていて、夜に行きたくなった時などは一度外に出ないといけないのも辛かった。パジャマが汚れそうだったし、何より前時代的なつくりのトイレには大きな虫や羽虫なんかがたかってきて嫌だった。そもそも、腕にとまった蚊を叩くのも、皮膚が汚れるから嫌なのだ。虫はそれ自体が汚い。

 虫も嫌いだったが、何より祖父母の家ではトタトタと天井で走る音がするのが嫌だった。不意に足元を走り抜けていくのもそうだ。家に置いてあったスイカを齧っているのを見たときは、なんて卑しい生き物なのだと嫌悪した。それ以来、私はネズミが嫌いになった。

 だが、それは切欠にすぎない。

 当時私はマンションに住んでいた。作り立ての綺麗なマンションだったし、母も虫が入るのを嫌ってあまり窓を開けなかったのは有り難かった。だが、田舎にしかいないと思っていたネズミが出たという話を聞いたときは、ショックで動けなかった家の中のどこかでトタトタと音がした時は身震いしたし、とうとう家の中に入ってきたネズミが、買っておかれたケーキを喰い散らかした時は卒倒するかと思った。母がネズミ取りを仕掛けたり、マンションの住人たちとの協議に出かけたりしていたが、私はそんな事よりも早くネズミをどうにかしてほしかった。

 田舎の汚いトイレや、農作業で土にまみれた祖父母の姿、光にたかる蛾、縁の下の小汚い猫、そして庭に置かれたネズミの死体。それらの記憶が結びつき、私はますます汚いものを嫌悪するようになった。

 あるとき、ペット・ブームで、ハムスターが流行った事があった。私は当初ハムスターという生き物を知らなかったが、初めてテレビで見たその姿に仰天した。ネズミにそっくりではないか。そんなものを飼う事が理解できなかった。友人がハムスターを飼っていると言った時、私は彼女との友人関係を抹消した。そんな汚いものを家に入れている者を友人と呼びたくなかったからだ。彼女は泣きながらどうして、と言い続けたが、私は汚いから嫌いだと主張し続けた。みんなが彼女の味方になった。みんな汚らしいのだ。私はそれ以来元友人たちを無視した。向こうも無視していたから、ある意味で正常だったに違いない。汚い生き物たちと触れ合うぐらいならその方が気楽だった。

 その後も地下鉄にネズミが出没したと聞いただけで、私は地下鉄に近寄るのも嫌になった。地下鉄の乗り場なんてただでさえ暗くて汚いのに、そんなものまで出てはたまったものではない。それでもなんとか地下鉄でネズミに出会わなかったのは幸運だ。

 あいつらは何でも喰い尽くす。何より嫌悪し、何より汚い存在なのだ。

 私は自分を奮い立たせるために、戸棚に隠したチョコレートを口にした。


 結婚後、一軒家を借りるときも、私は木の近くや花壇がある場所を避けた。家自体は少し汚かったが、そういう場所にあったのがこの家だけなのだから、とにかく掃除を徹底しようと心に決めた。だが、近くに公園があったのは不覚だった。近道ではあるが、木々が生えていて少し暗い。そういうところには虫もいる。最悪だった。

 私のストレスは極限に達しようとしていた。引っ越したいと一度申し出たが、さすがにまだ引っ越すのは難しいとの事で、諦めさせられた。私はただ綺麗な場所に住みたいだけだ。それを邪魔するのか。


 私は次第にイライラがつのってきた。何故、こんなにも整理整頓に無頓着な人たちばかりなのだろうか? 子供たちの声がうるさい。公園を横切ると、ぐずる赤ん坊の鼻を拭いてやる母親が目に入った。子供といえど他人だろうに、他人の鼻を拭くのがそんなに嬉しいのか。ジャングルジムにのぼる子供たちを何故母親たちは叱らないのだろう。鉄錆のにおいがつきそうだ。ブランコに座るのも意味がわからないし、ボールを蹴って遊ぶのも意味がわからなかった。

 私は家に帰ると、気を落ち着けるために買ってきたケーキを食べた。きちんと残さぬように、テーブルの上に落ちないように気を付けて食べ続ける。箱は夫に気付かれないように分解して、燃えるゴミの中に紛れ込ませておいた。これなら気付かれない事もあるまい。まるで自分がネズミになったようで惨めだった。最近はこうしてイライラを解消するために食べる事に走るのが多かったのだが、その度に罪悪感と嫌悪にまみれた。

 私はネズミではない。


 だけど、ネズミの笑い声が聞こえた気がした。


 あくる日、マンションの住人たちに回されたコピー紙に、ネズミの話題があった。近所でネズミが出ているから気を付けろというものだった。どうやらゴミ捨て場にも出没したらしく、マンションの住人の何人かが近々どうするかの会議を開くらしい。個人宅でできる対策などもいくらか書かれていたが、もっと根本的な事を書いてほしかった。

 ネズミ、ネズミ、ネズミ。本当に嫌になる。いやしい生き物。

 夫は私のストレスの理由を察してくれない。それどころか、ただ綺麗にしようという私の思いを根本から無視しようとしているに違いなかった。「落ちたらちゃんと拾うし、こぼしたら拭くよ。当然だろ。お前が気にしすぎなんだよ」等と言ってはいたが、きっと口だけに違いないのだ。夫はどこか悲しい顔をして、首を振った。そんなものでは私は誤魔化されない。

 みんな汚いのだ。

 私はおやつ用に買ってきたクリームパンを貪った。5個目を食べ終えた時、ぽろりと膝の上にパン屑が落ちる。はっとして、パン屑をゴミ箱に捨てた。膝の上に小汚いものが乗っている感触がぬぐえず、私は食べていたクリームパンをそっと包んで燃えるゴミに紛れさせた。私は幼い日に、あの田舎の家で食べられたスイカを思い出していた。

 いやだ。

 これじゃ私が。

 私は。


 私は部屋に残されたケーキの箱を前に、どうするかを悩んだ。このマンションにもネズミはいるのだろうか。最近では去年のスカートも入らなくなってきてしまった。新しい服を買わなければ。ダイエットでもするべきだと思うが、そうすると自分の汗で部屋が汚れるかもしれない。汚れるのはいやだ。でも、ケーキを貪り食う私は汚くないのか。

 私は食べ疲れた反動からか、それとも嫌悪感からか、テーブルの上に腕をおいて眠り込んだ。


 はっと目が覚めたのは、オレンジ色の光がベランダから差し込んでいたからだった。

 時刻は四時半をまわっていて、そろそろ夕食の支度をしなければならなかった。夫はいつ帰ってくるのだろう。ネズミみたいに帰ってくるに違いない。ドブネズミのように汗を垂らしながら。私はそれを思うとぞっとした。半年もたたない結婚生活だが、離婚も視野に入れた方がいいのかもしれない。最近、子供の話をするのも、私を汚そうとするからだろう。私はあんな汚いものの母になどなりたくない。

 置きっぱなしにしていたケーキの箱を掴もうとした時、箱が開いているのに気が付いた。まずい。いくら室内とはいえ、開けっ放しになっていては悪くなってしまう。食べきってしまわないと。

 キィキィと笑い声がする。


 私は手をひっこめた。なんだ、今のは。

 まさか、ネズミ?


 それなら、ネズミごとどこかに捨てないと! なんてことだ。どこから笑い声がするのだ。まるで私を……私を……。


 私は意を決して、そっとケーキの箱を覗いた。


「ひっ」


 私は小さな悲鳴をあげた。


 小汚いいきもの。食い荒らすいきもの。

 あの小汚いネズミ。

 何もかも喰い尽くす汚いネズミが。


 ネズミがちらりとこっちを見た。私の顔だった。

 人面のネズミが、ケーキを小汚く喰い尽くしていた。


 ネズミが、にたりとわたしの顔で笑った。

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