あと六十本... 「出来すぎた話」
大概、怖い話というのは出来過ぎた話が多いものだ。
私はそう切り出した。私はもちろん幽霊など信じてはいない。妖怪や妖精、その他の類に関しても同様だ。結局のところ、そういった架空のいきものたちは、夜闇の中の未知の恐怖に名前をつけたに過ぎない。闇の中で蠢く正体のわからないモノは、私たちの不安を増幅させる。偶然に耳にし、目にする、意味のわからない物に対する恐怖。あるいは、目の錯覚からくるものもある。そういった恐怖や不安を軽減させるために、私たちはそれらの現象に名をつける。それらが幽霊となり妖怪となり、はたまた妖精となって存在してきた。ただそれだけにすぎない。そして、信仰のもとに作られた札が、恐怖のもとを断ち切ってくれると信じている。
一つ話をしよう。例えば、出かけていった温泉宿で夕食を終え、ぼんやりとテレビを見ていると、不意に小さな揺れに見舞われる。特に影響はなかったが、ふと見ると部屋にかけられた額縁の一つが傾いてしまっている。仕方ないと額縁を直すと、その裏から一枚、ひらりと御札が落ちてきた。文字だか絵だかよく意味がわからない御札だが、それが剥がれた事で何となく部屋の空気が重苦しくなった気がする。なんだか嫌な気がする。御札は剥がれてしまったので、明日女将にでも説明しようと、適当なところに置いてしまう。その夜、布団の中でうとうとしていると、急に体が苦しくなった。目線だけしか動かせない中、じっと自分を睨みつけるような影がある。恐ろしくて恐ろしくて、気を失うように眠ってしまい、翌朝汗びっしょりで目が覚める。よくよく見てみると、その影は消えた額縁の辺りから見ていた。そして朝食時に仲居にわけを話すと、以前ここで死んだ者がいて、それ以降幽霊が出るというから札を貼ったという。それ以来幽霊は出ていなかったが、昨日の揺れで剥がれたのが原因でしょう……とまぁ、こういうわけだ。
怖い話というのはこんなものだ。出来過ぎた話が多いのだ。そもそも、人死にの出た温泉宿で、偶々揺れによって御札が落ちてくる確率はどんなものだというのか。私は一笑に付した。彼はいつも通り、私の話を平素通りの神妙な顔で聞いていた。怖い話というのはそういうものだ、と。偶然が重なって起こった話を、少し背筋が凍るような恐ろしいものを、楽しむために話すのだと言った。肝試しというのがあるでしょう、あれはキャアキャアワアワアいいながら楽しむのが目的なのだ。怖さを楽しむのが目的。そう穏やかに続けた。
彼――雨宮教授は、現実主義者だ。研究熱心で、若い頃に細君を亡くして一人息子と二人になっても、ただ研究に打ち込んだ。だからこそだという人もいるが、私はそうではないと解釈している。彼は、私が主張する、恐怖を軽減させる作用としての妖怪や幽霊も、それはそれで重要な役割なのだと言った。それ故にそういったものたちに魅了されるものもいるのだし、そもそも見えないからいないなんて事を一生懸命に調べるより、どうせならいるかもしれないと思う方が楽しいじゃないかと笑ったのだ。
私も笑って、まぁそうだろう、きみもそういった怖い話を知らないかと言った。彼はふと考え込むような顔をすると、ではこのような話はどうだ、と前置きしてこんな話をし始めた……
「今から数年前、とある少年が体験した出来事だ。少年と言っても小さな子供ではなく、中学生か高校生あたりを想像してほしい。まぁ、私の息子と同年代と思ってくれ。彼が経験した出来事らしいのだがね。ちょっと前置きが長いが、此処も重要だから聞いてほしい。
ちょうど時期は夏の休暇、学生風に言うと夏休みの時期だった。彼は母親を亡くしていた。父親も生活の為に家を空ける事が多かった。ちょうど私たちのようにね。
彼はその日、偶々遅く起きる事になった。父親も忙しい朝の時間に起こすような事をしなかったから、残していった朝食を食べて洗濯機のスイッチを入れると、テレビを見たり課題を片付けたり……、何処かへ出かける気にもならず、その辺の学生と変わらぬ行動をしていたわけだ。昼頃になって、ふと庭に水遣りをするのを忘れていたのを思い出した。外へ出てホースで水を撒いていると、家の前を友人が通りかかった。お互いの存在に気付いて声をかけると、どうも友人の従兄弟が怪我をして病院に担ぎ込まれたので、今から電車で見舞いに行くのだという。やぁそれは大変だと、他愛のない話を手短に話をした後に、気を付けてとかなんとか言って友人を送り出した。その背を見送り、中断していた水遣りも終わってさあ次は何をしようかと思った時だった。後ろで自分に声を掛ける者がある。
振り返ると、そこには中年の男が立っていた。男は、見るからにどこにでもいそうなサラリーマンという風体だった。タラタラと流れる汗をハンケチで拭きながら、どこか焦ったようだった。営業に来たという態度でもなく、道でも聞かれるのかと彼は近づいた。
「ここは、……さんのお宅でしょうか」
男は相変わらずおどおどした態度で聞いた。呟かれた名は、彼の父親の名前だった。父親は仕事で、まだ帰る時間でもない。知人であるならそれは知っているはず。不審に思いながらも頷くと、男は以前父親に大変世話になったのだと言って、くしゃくしゃの名刺を差し出した。それは確かに父親のもので、この男は何にしろ父親を訪ねてきたのだとわかった。残念ながら父は仕事でいないのだと説明すると、男はそれまで以上にそわそわとし始めた。どうしても急ぎの用事で、話がしたいのだ。頼むから家の中で待たせてもらえないか。とな。彼はもちろん困った。相手は年上だし、勝手に追い返すのもどうかと思われたのだ。
ただ、父親を訪ねてくる人々はそれなりにいたから、父親の判断に任せる事にした。彼は水遣りをやめ、男を家に通した。冷たい茶を出し、父親に電話をかける。
何度か鳴り続ける、父親の携帯電話。だが、何か用事でもあるのか、何度かかけ直して見ても一向に電話に出ない。彼は仕方なく、男に言った。残念ながら、父は電話に出ません。また後でかけ直してみるが、と言いかけた所で、男は決心したように口を開いた。
なんと男は、「では、君で構わない。どうか話を聞いてほしい」と言い出した。彼は自分では話がわかるかどうかわからない、と慌てて言ったが、男は構わずに話をつづけたのだ。
男はこんなような話をし始めた。
男はごく普通のサラリーマンだった。三十代の後半を間近に控えても未だ独身の身で、同じ企業に勤め続けてはいたが、うだつの上がらない平凡さを兼ね備えていた。毎日毎日が同じことの繰り返し、朝起きて会社へ行く準備をし、朝食を食べて満員電車に揺られてオフィスに着くと、変わらない椅子に座って変わらない業務をこなす。昼になると食堂で同じようなメニューを頼み、午後の仕事をこなすと、少しだけ残業をして家に帰る。男は特にこれといった趣味もなく、休日に釣りに行こうと誘いあうアウトドア連中や、年甲斐もなくアニメや小説の話で夢中になる者たちすら横目で見ながら、ひとりで生きていた。飲みに行こうと誘う者たちを断り、遅い夕食を外で食べると、家に帰って缶ビールを一缶開ける。真面目だが目立たない生活を送ってきた。テレビの中ではお笑い芸人が視聴者を笑わせていたが、彼自身は何が面白いのかさっぱりわからなかったのだ。
そんな同じような日々を男は送っていた。その日、同期に入った同僚の昇進が決まった。以前から囁かれ、決まってはいたのだが、その日正式に昇進が言い渡された。美人ではないが献身的で料理の上手い妻がいて、もうすぐ二人目の子供も生まれる同僚。絵に描いたような幸せに、華々しく人生の階段を駆け上がっていく同僚の男を羨ましいとさえ思った。反対に男は焦った自分はこんなにも真面目なのに、何がいけないのか。ひょっとしたら、そろそろ後輩が自分の上司になるかもしれない。そんな僅かな不安もあった。
昇進祝いの席に行くのは正直嫌だったが、それでも同期であり、行かないというのも気が引けた。拍手と賞賛は同僚に向けられ、偶に酒を注いでくれる後輩たちも、男を見る目はいささか微妙なものだった。同情と憐憫。軽蔑と嘲笑。あるいはそんな視線を送られるのはまだいい方で、空気のように扱われた。
帰り際、昇進した同僚と一緒の方向に帰る事さえ苦痛だった。二人きりでの帰り道はやや重苦しく、小馬鹿にしたような態度は男の劣等感を更に増長させた。酒も入っていた事もあり、やや口論をした事も覚えていたが、車道を通る車の灯りが妙に明るかった事以外は、記憶になかった。どうやって家に帰っていたのかも思い出せない。きちんと夜着で眠っていて、一体どうしたのかわけがわからなかった。
男がいつも通り会社に向かうと、件の同期の昇進が決まったのだと言っていた。そんな事はもう知っている。昨日、昇進祝いがてらに酒を一緒に飲んだじゃないか。男はどこかいらいらしながら、話し合っている同僚たちを横目に、仕事をしようとした。
だが、何かがおかしかった。この祝福の仕方は、まるで昨日そのままではないか。男が奇妙な目で見つめていると、同僚の一人がそれに気付いた。「……さん、昇進が正式に決まったみたいですよ」――男が知らないと思ったのか、同僚が丁寧にそう教えてくれた。
「お、おめでとう」
男は担がれているのかと思いながら、昨日と同じ言葉を吐いた。ありがとう、と簡単な言葉を返され、同期はそれ以上絡んではこなかった。昨日と同じだった。男は昇進祝いの酒の席に誘われた。行ってみると、ほぼ昨日と同じだった。
いったいどういう事なのかわからなかった。ここまで来ると、もうかつがれているとかそういう次元ではなかった。何もかもが、台本通りのように同じだった。後輩が酒を次ぎにくると、同じような視線で見られた……。
男は途中で席をはずし、早めに帰った。誰も男が席を外した事を気にしなかった。何人かは軽く手をあげたが、それだけだった。いったいどういう事なんだ。
男は家に帰って眠りにつき、朝起きると足早に会社に向かった。早くきたメンバーが話をしている。同僚の昇進が正式に決まった事を話していた。
一日が繰り返していると気付いたのは、その時だった。信じられなかったし、どうにも自分の頭がおかしくなったようにも思われた。だが、これは現実だった。さすがに二日も三日も続くと、いつまでやっているのかと疑問に思えてくる。
一体どうしたらこの悪夢のような一日から抜け出せるのか、男は頭を悩ませた。何をしても一日が巻き戻ってしまう。いったいなぜ。
そんな日が七日続き、男はいつもと違う事をしてみてはどうか、と思いついた。それまでも少しずつ変化はあった。祝いの席に行かなかったり、反対に行ってみたり。さすがに同僚を罵る勇気はなかったが、ひょっとして何をしても一日が撒き戻るのではないかという予感があった。
まず男は、会社に行かない選択をした。携帯電話が鳴った時はドギマギしたが、そのままぶらぶらと街中を歩いた。平日の昼間は人も少なく、未知の世界だった。そして一日が巻き戻った。昼間から酒を煽っても同じだった。動物園で時間を潰したり、カラオケで一日を過ごしてみたものの、同じ事だった。男は更に大胆になっていったが、やはり時間は巻き戻った。テレビで見る日付はいつも同じで、結局はその日の朝に戻ってしまうのだ。
そんな事が更に七日続いて、男は段々とこの世界が虚しく感じられるようになっていた。それは結局、何をしても、明日に続くことがない。会社をサボろうが、犯罪をしようが、何かにちょっかいをかけようが……、それは永遠に囚われたようだった。男は徐々に、何故こんなことになったのかを考え始めた。
ふと考え始めると、男は奇妙な事に気が付いた。一日が巻き戻るのは、いつも同じ時間だった。いったいこの時間に何が起こったのか思い出そうとしたが、記憶はやや曖昧だった。確か飲み会が終わって、そろそろ帰る時間だっただろうか……。
仕方なく、男は最初の日と同じ行動をする事に決めた。もうとっくに知っている。会社に向かうと、昇進の決まった同期が、同僚たちに囲まれて話をしていた。輝かしい未来。男はそれを横目に見ながら、いつも通りの事をした。本当にいつも通りだった。もうだいぶ長い事、いつも通りだった気がする。そして昇進祝いの席に誘われた。指定された居酒屋の名前はもう知っていた。
男はいつものように食堂で昼食を終わらせ、午後の仕事を早めに終わらせると、同僚たちの後ろについていった。
後輩が酒を次いでくれる。運命の時が一時間後に迫ってくる。
いったいいつの事なのかと思っている内に、あっという間に時間は過ぎた。居酒屋を出て、同僚たちが解散し、何人か一緒にいた者たちも散っていく。そして、二人だけになった。
「お前は同じ年に入ったのになぁ」――ちらちらと時間を確認していたために、何も答えられなかった。時間が迫ってくる。横では、同僚が酒の勢いで男を慰めるという名目で小馬鹿にしていた。
お前はいいな。こっちはこんなにもコツコツとやっているのに。お前が羨ましい。お前ばかりが、僕が手に入らないものを持っている。お前は、お前は――。
「どうしてだ」
泣きたいような呟きと共に、明るい光が差し込んだ。朝が来た。
男は思い出した。いや、目を逸らし続けていた現実は、もうわかっていた。平凡に真面目に生きて来た男が、唯一つ犯した事実。
「僕はね、もうとっくに知っていたんだ。あの日、口論から彼を突き飛ばした。そこへやってきた車が……あの車が……彼を弾き飛ばしたんだ。あれは事故だ。でも彼は動かなくなった。しばらく行って止まった車から出て来たドライバーが僕を信じられないものを見るような目で見たんだ。目撃者もいた。そして僕は逃げた」
男はそう続けた。男は下を向いて顔を覆っていた。
「あの”日”、僕は同僚を突き飛ばさなかった……だが、だが朝は来た。同じ朝だった」
男は顔を覆ったまま話し終えた。少年はただ圧倒されていた。これは男の作り話なのだろうか。彼が何を言ったものかと思案していると、男はようやく顔をあげた。
信じてくれなくてもいいんだと言った男は、どこか憑き物が落ちたような顔になっていた。誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。既に時刻は夕方に近くなっていた。男は急に立ち上がり、荷物を手にした。
「これからどうされるんですか」
「このループを断ち切る方法を、一つ試してみるんだ」
「……そうですか」
「……お父上に、よろしく」
返事はそれだけだった。男は静かに帰っていった。彼はどことなく不安を抱いたまま、男の背を見送った。明日もあの男は来るのではないか。そんな不思議な気分だった。
次の日に少年は朝起きると、急いで台所に向かった。そこには昨日と同じように父親が作っていった朝食があり、洗濯機は回されていなかった。しんと静まり返る家の中。テレビをつけようにも、夏休みという事もあって日付の感覚が無くなっていた。
そわそわとしながら、それでも庭に水をやらなければと思いだした。そして外へ向かってホースで水を出すと、……昨日の通りに友人が通りがかった。昨日の通りにお互いに気付いて、お互いに門のところまで歩み寄った。
どうしたんだ、と緊張気味に彼は言った。昨日と同じように。従兄弟が、と話しだした時は冷や水を被せられた気分になったらしい。
だが、その友人は続けてこう言ったのだ。病院にいるって話はしたよね、と。大した事はなかったけど、見舞いのケーキが残ってしまったから、良かったら食べよう、と――友人はニコニコしながら続けたらしい。
友人を家の中に入れがてら、朝から抜き取られずに残っていた新聞を引っ張り出した。
そこにはこうあった。昨日訪ねてきた男が自殺したという話だった。前日に起こった、事故――、事故と思われていた死亡事件の際、男が被害者を車の前に突き飛ばしたのを、ドライバーと他に何人かが目撃していた。
男は死によって自分のループを断ち切ったのだ。そのループの原因が、逃れられない罪の意識から来る、逃れられない運命によるものであったと気付いたときから、男の行く末は決まっていたのだろう。せめて逃げなければ。また違った結末もあったのかもしれない――」
彼はそこで話を切った。
「不思議な話ですな」私はなんとか続けた。
「そうでしょう」と、彼。
そこで、沈黙が暫く続いた。私はそれ以上何も言えなかった。この話は非現実的すぎる。
「では、今度はあなたの本当のお話を伺いましょう。この話の男のように、私を訪ねてやってきたあなたは、一体何があったのですか」
私は我知らず震えていた。そして、ぽつぽつと話し出した。男が少年に話したように、今度は私自身の話を。




