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あと六十四本... 「サッカーボール」

 私と憲明は典型的なサッカー少年だった。

 佐藤憲明――それが彼の名前だ。


 私たちは多くの時間をサッカーに費やし、ボールと共に日常を過ごした。それはテレビの中で活躍するアニメの主人公の影響もあったが、それ以上に純粋にサッカーというゲームが面白かった事に尽きる。

 休み時間になれば、我々は競ってクラスのボールを手にした。下駄箱に置かれたピンク色と青の色あせたボールの一つは、常に我々の物だった。グラウンドでボールを互いに奪い合い、設置されたゴールに入れ合うだけで喜び、体育でサッカーをやるとなれば、その時間を楽しみに過ごした。

 そんな物知らずな時期はすぐに過ぎ去り、三年生になると地元の少年サッカークラブに入った。憲明の方から誘ってきたのだ。


「なぁ、区の運動場でさ、少年サッカークラブがあるんだけど、知ってるか」

「サッカークラブ?」

「うん。練習厳しいらしいけど、サッカーできるんだよ」

「そうなんだ」


 私はまだ、クラブに入るかどうかを迷っていた。


「今度の休みに見学行くんだ。一緒に行かねぇ? っていうか、行くだろ?」


 そんな事を言われてしまえば、行かないわけにはいかなかった。私たちは揃ってクラブの見学に行き、半ば強引に憲明に誘われる形で――クラブに入った。母親同士もウマがあったようなのは幸運だった。

 そこでは中学生くらいまでの少年たちが、休みでも練習に勤しんでいた。今までの遊び半分とは違い、筋力づくりのトレーニングや、何よりもルールや礼儀などを厳しく教え込まれた。コーチは厳しい人だったが、それ以上にサッカーが楽しかったのだ。

 休みの日でも家の中でトレーニングをし、朝にはランニングを兼ねて近所を走った。とにかくサッカーをしたい一心だった。それに何より、小学校の一クラスという小さな枠組みの中から早期に外れた私たちは、同学年よりも色々な世界を知ったと思う。

 私と憲明はぐんぐんと頭角を現した。憲明の方がサッカーは上手かったが、私の方が追随する形で実力をつけていったのだ。五年生にあがるころになると、クラブに所属していた中学生相手でも物足りないほどになっていた。


「将来はサッカー選手になりたい」


 私たちは当たり前のようにそう口にした。

 お互いが良き友であり、お互いが良きライバルだった。

 地元のプロサッカーチームとの交流と称した稽古をつけてくれた時は、素直に感動した者だ。クラブのシャツに書いてもらったサインは一生の宝物になった。

 他のサッカークラブとの練習試合でも、私たちは積極的にペアを組んで攻めた。そんな時にはいつも行う決まり事があった。


「やったな」

「おう」


 そんな言葉と共に拳を突き合う。

 それが私と憲明の暗黙の了解になっていた。


「お前たちならいい選手になれるかもしれないな」


 私たちを指導していたコーチは、本気でそう言っていたに違いない。どこまで本気だったのかはわからないが。

 中学三年になると、少年サッカークラブでは満足できなくなった。もちろんそれ以上に受験と、なにより年齢の問題がある。クラブに所属できるのはあくまで中学生までだった。私たちは毎年の物よりほんの少し豪勢な見送りを経て、クラブをやめた。だが、高校に入ったら必ずサッカー部に入るのだという野望を持っていて、少なくとも私はサッカーができない間もトレーニングを欠かさなかった。

 私も憲明もスポーツ推薦があるのではないかと期待した。周囲ももちろんそう思っていたのだが、憲明の家では普通の高校に入ってもらいたかったらしく、このまま入学試験に挑む事になった。

 反対に、私はスポーツ推薦で有名校に進学した。私と憲明は離れ離れになったが、お互いに家を知っている事や連絡先の交換を約束しあった。


「このボールにさ、お互いサインしとこうぜ。後でぜってー価値が出るから」


 卒業式の日、憲明は笑いながら自分のボールを出した。


「いいな、それ。書いとこう」


 私たちはプロになれると信じて疑わなかった。二人とも、地元では負け知らずだったサッカー好きに過ぎない。それでもいつかプロチームのユニフォームに袖を通すのが夢であり、私たちはその夢を現実にする為に動き出していた。私は憲明のボールに、憲明は私のボールにサインを終えて、いつかサッカー部同士で戦う事を誓い合った。


 高校一年生となった私は、私立高校のスポーツ特待生として順調なスタートを切った。特待生とはいえすぐには試合には入れず、最初の内はボール拾いや基礎をやらされた。私もそんなものかと納得していたが、特待生というだけで私は標的となった。


「特待だからっていい気になるなよ」


 なってなどいない。部活の最中だけでなく、すれ違いざまにもヒソヒソとあからさまな嫌味を耳にした。私は陰湿な言葉を無視したが、それがまた気に障ったらしい。

 陰湿さは次第に激しさを増していった。他の部員と違って私だけ延々と基礎トレーニングをやらされていたのはまだいい方で、違う時にはスパイクを隠され、延々と探し回る羽目になった。結局はロッカーの後ろに隠されていたのを見つけたが、窓に向けて自殺でもした後のような恰好で放置されていた事もあった。本来、一年生がやる片付けを全て押し付けられたり、ロッカーの中身を全てゴミ箱に入れられた事もあった。徐々にエスカレートした嫌がらせに、スポーツ特待生を取り巻くデメリットを、私は後から知ったのだ。

 それでもまだ、私のサッカーに対する情熱は続いていた。それもひとえに、いつか憲明のいるチームと対戦できるかもしれないという希望を見ていたからだった。

 だが結局、一年のうちはまったくといっていいほど試合に出場できなかった。夏休みが終わって暫くした頃、私は足を負傷したのだ。


「お前、調子乗るなよ」


 その日、私は唐突に肩を掴まれてロッカーの裏に連れて行かれた。

 建物の裏に叩きつけられると、私を囲むように部活の一年生たちが並んでいるのが見えた。


「お前、学費タダなんだろ。いい気になるなよ」

「え? こいつ学費払わずにサッカーやってんの」

「特待生ってそうだよ、学費タダ」


 私が言い返そうとすると、最初の一人が私の膝を蹴りつけた。思わず声が出ると、笑い声があがった。更に足を蹴られ続けたが、黙ってやられているわけではない。私は蹴った同級生の胸を叩き、引き剥がした。


「こいつっ」


 それが彼らの癇に障ったらしい。

 数人が私を蹴りつけ、殴りつけられた時には視界がぐるりと回った。バランスを崩し、地面が見えた時に叩きつけられたのだと気付いた。何やら怒鳴り声と罵倒とが耳に入ってきて、私はまだなんとか立ち上がろうと抵抗をつづけた。既に何を言っているのか理解が追い付いていなかったが、少なくとも私にとって心地よいものではないだろう。


「コイツの足、壊そう」


 一つだけ混じった、あまりにも冷ややかな声に、私はぞっとした。スパイクの凹凸が、試合中で負うよりも更に強い痛みを伴う。

 膝や腕を抑えつけられた後で、ギリギリと脛に力を入れられる。私も体力や筋力には自信があったが、何度も叩き付けられるスパイクの痛みや執拗な攻撃に、もはや声も出なくなっていた。


「おい、なんかヤバくないか」

「ヤバいって!」


 あまりの光景に、狂気すら感じ始めたに違いない。誰かがそんな事を言い始めた時には、もう私は動けなくなっていた。足の感覚が狂いはじめ、蹴られているから痛いのか、それとも既に壊れているから痛いのかわからなくなっていた。

 誰かがようやく止めた時にはもう遅かった。

 どれほど強く蹴られ続けたのかは自分でもわからない。上級生が騒ぎを聞きつけてやってきた時には、私の骨はもう折れていた。暫くの間に激しい運動は禁止された。

 サッカー部は私へのイジメ――もとい、暴行事件が元でその後関係がうまくいかなくなってしまったらしい。私の足を折る中心となった彼は私への悪口を言い続けたが、話によると、上級生からの練習の厳しさをうまく処理できず、矛先を私に向けていただけだと聞いた。何人かからは謝罪を貰ったが、ひどく虚しい気分になった。


 特待生は多くの場合授業料が免除される。それに加えて、特待生というだけで特別視される事への不満は、本人へのイジメという形で表に現れる。もっとも、それは部員たちだけの問題だ。

 もっとひどい事になると、スポーツができない程の怪我や、そういったイジメを苦にした退部等によって、そのまま退学処分にされたり学校を変わらざるをえない状況になるらしい。私もその例にもれなかった。私は浪人し、改めて私学ではなく市立の高校を受験し、入り直した。その頃には怪我も治ってサッカー部に入り直したものの、私はその時点で既に疲れ切ってしまっていた。

 たった一度の挫折で、と思うかもしれない。

 だが、それほどまでに私にとっては心の傷が大きかった。今まで経験したことのない謂れのない恨みを一身に受ける事に疲れてしまったのだ。


 私の部屋にはまだサッカークラブで入賞したときの賞状が飾ってあったが、それも徐々に他の物に圧迫されていった。それでも、中学卒業の折に交換した憲明のサッカーボールだけは手元に残していた。

 憲明。

 彼はまだ、サッカーをしているのだろうか。


 私は大学生になった。ごく普通の受験で入った大学は、サッカーとは縁の無いところだった。私は憲明への連絡をしておらず、サッカーを止めてしまったうしろめたさで余計にメールを送る事すらできなかった。

 いつか彼の活躍をテレビで見るかもしれないと思ったが、それらしき影はなかった。

 私はごく普通の恋愛をし、ごく普通のバイトをして、IT企業に就職した。あれほど人生を捧げるにふさわしいと思っていたサッカーから離れたのが、自分でも意外だった。親は暴行事件を経験しているせいか、何も言わずに私の進路を祝福した。

 これでいいのだ。

 だがそこまできても、私は憲明への連絡を躊躇った。メールや電話番号の変更が来ない事から考えて、今も同じはずだ。ひょっとしたら、もう私の事など切ってしまっているのかもしれない。

 私は同時に、恐れてもいた。今の私の状況を、サッカーを共に目指した親友に見られるのが恐ろしかった。


 そんな事も忘れてしまったある日の休日、私はぶらぶらと本屋に買い物に出かけた後、家の前で男に声をかけられた。彼は引き締まった体をしていて、私のとっくに筋肉が脂肪に変わってしまった姿とは違っていた。


「よお。覚えてないか? 俺だよ、憲明、佐藤憲明。ひっでぇなぁ、親友の顔を忘れちまったのか」


 佐藤憲明だって?

 私は目を丸くした。だが、その精悍な顔立ちには昔の彼の面影があった。面と向かって会っていたのは中学生までだったのに、我ながらよくもまぁ覚えていたものだ。


「憲明か! おお、おお、よく来たなぁ。とにかく、さ、中入れよ」


 私はどぎまぎしながらも嬉しさを堪え切れなかった。家の中に彼を迎え入れると、ソファとテーブルの置かれた来客用の部屋に案内した。あいにく妻の姿は一階には見当たらず、見つけたグラスにペットボトルのお茶を入れて出すにとどめた。


「今、何をしてるんだ?」

「普通のサラリーマンだよ。IT企業なんだけど、座り仕事が多くて。おかげで最近は腹も出てきて、女房に「昔と違う」なんて言われたりね」


 私はできるだけ穏便に言った。憲明は私の笑い交じりの近況を聞きながら、穏やかに頷いていた。私はとにかく喋りまくった。何から話していいかわからなかったからだ。

 やがて避け切れない質問が飛んできた。


「今、サッカーはしてるのか」


 言葉を止めると、どういうべきか迷った。私はじっと相手の顔、というよりも顔の斜め向こうを見つめたが、どうにもその穏やかさを見ていると、言ってもいいような気がしてきた。男同士の暗黙の了解というものかもしれない。

 私は包み隠さず話した。スポーツ特待で入ったものの、苛めという名の暴行を受けた事、怪我は治ったが、情熱が醒めてしまった事――。ぽつぽつと話すのに対して、憲明は近況を聞いた時と同じように緩やかに頷いていた。

 最後まで話し終わった後、憲明が口を開いた。


「俺も、似たようなものだよ。部活にも入ったし、いいところまで行ったけど――結局、プロにはなれなかった。上には上がいたんだ。――でも、社会人サークルって知ってるか?」


 私は言葉に詰まった。吹奏楽なんかだと有名だったから、聞いた事はある。憲明は、社会人サークルに誘う為にやってきたのだろうか。私は何か言いかけたが、そのすぐ後の憲明の言葉に耳を疑った。


「あそこでプレーしてた。でも、足を怪我しちまってな」

「足を?」


 驚いた。特に気になるところもないし、普通に歩いているように見えたからだ。

 憲明は微かに笑った。


「事故なんだ。相手の信号無視で――それで、足をやっちまった。お前もそうらしいけど、その比じゃなくてな」

「そうなのか?」


 じっさい、私はやや疑い深い目をしたに違いない。

 杖もないし、きちんと歩けているではないか。


「別にさ、子供の頃みたいに、サークルに入れとかいうつもりはないんだ。ただ、俺はさぁ、お前に気にしてほしくなかったんだよ。それに、サッカー好きだろ、今でも」


 私は、部屋の隅に転がる憲明のサイン入りボールの事を思い出していた。テレビの中継でも、新聞のテレビ欄でも、目に留まるのはもっぱら野球よりサッカーだった。最近では女子サッカーが盛り上がってきて、複雑ながらも嬉しかった事を思い出す。


「ああ、そうだ。サッカー好きだよ。お前もそうだろ?」


 内側から湧き起こってくる感情を抑えながら言うと、ソファにその姿はなかった。


「………憲明?」


 下手な悪戯をするような奴ではない。それに、足音もしなかったのに、いついなくなったというのだろう。困惑していると、急に電話が鳴った。驚いて廊下を見ても、そこに憲明の姿がなかった。ちょうど二階から下りて来た妻が、はい、と電話をとる声が聞こえる。立ち上がって周囲を見回したが、憲明はいなかった。

 妻の声が次第に神妙なものになり、やがて私を呼んだ。


「あなた、佐藤憲明さんって、あなたの昔のお友達よね」

「ああ、そうだ――今、そこに」

「今、佐藤さんの奥さんから電話で。事故で亡くなったって」


 最初、妻が何を言っているのかわからなかった。


「そんな馬鹿な」と言うと、妻は首を振った。

「昨日らしいの。古い友人だって話を聞いてたから、貴方の所に連絡してきたみたいだけれど――」


 憲明は今、此処にいたはずだ。それに、事故だって? もし事故があったとしても、それはもう治っているんじゃないのか。

 不意に後ろから、懐かしい音がした。

 ボールが床にバウンドする音だ。

 口から自然と声が出る。

 懐かしい音はそのうちに止まった。


 そこには、嗚呼。


 私のサインしたサッカーボールが、ソファの下に転がっていた。

 最期に、私に会いにきたのか。瞳から一筋、熱いものが流れるのを止められなかった。

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