あと六十九本... 「長い髪の毛」
子供の頃の事だ。
霧歩市。
そこそこ名の知られた所ではあるが、その隅々まで知っている人間となると、地元民しかいない。車が行きかう表通りと違って、一歩奥に入れば、古い街並みと家屋が残る、そんな場所の事だ。
みんなその老婆の事をサナダのババァと呼んでいた。
最近なら知ってるか、戦国武将の……そう、真田幸村、その真田と同じサナダ。由来を知らない子供たちは、みんなサナダムシとか思ってたけどね。自分もそうだった。
今にも崩れそうな濃い茶色の木造の一軒家に、サナダのババァは住んでいた。石造りの囲いには小さな庭があったのだろうが、そこに所せましとガーデニングとも庭園とも程遠い木々が植えられていた。鬱蒼と茂った小さな林は曇ったガラス戸の引き戸の玄関を尚更暗くしていた。時期になると花なんかも咲いていたが、小さな子なんかはそこを通るのを気味悪がっていたものだ。
実際そこに住んでいたのも、こう言っては何だが気味が悪い老婆だった。腰が曲がりそうな老人というのはよくいたが、馴染みの駄菓子屋のばあちゃんみたいな人懐っこいタイプではなかったし、かといって、なんだかんだいって好かれるようなタイプでもなかった。人嫌いで滅多に家の外には姿を現さず、外に出たら出たで、真っ白な長い髪を垂らし、化粧もしないしかめっ面でいつも親の仇のように通りがかりを睨みつけ、老いと古着と尿の臭いがまじりあった僅かな悪臭が鼻をついた。歯並びの悪い口から出る言葉は掠れ気味で、まだ歯はあるのに、入れ歯を抜いた話し方みたいだった。頭の方は……ひょっとしたら、今でいう認知症気味だったのかもしれない。
とにかくそんな風だったから、怖い物知らずの子供たちはいつもサナダのババァと呼んで冷やかしていた。一種の肝試しというか、度胸試しのようだった。それでも、どこか気味の悪いものを感じていたに違いない。今ならそう断言できる。女の子たちなら怖がる事も簡単だけど、特に男の子は臆病よりも蛮勇である事を好むからだ。けれども根柢にある気味の悪さを、笑いで吹き飛ばすために揶揄していたのだ。
大人たちは大人たちで、「ババァなんて呼んではいけない」などと叱りながら、自分達も気味悪がっていた節があった。本当にサナダのババァは困った人物だった。郵便配達員とサインがどうのこうのみたいな小さな事で揉めて、最終的に糞尿の入ったバケツを引っ掻けたなんて話もあった。家の周りにある木の枝を包丁で切り取って、道路にそのまま捨てたりとかね。枝が当たりそうになった通りがかりが文句を言いに言ったら、手に持ってた包丁を持って追いかけだしたらしい。
一つだけ意外に思ったのは、結構な小金を溜めこんでいるという噂だった。あれだけ自分の身の周りを小汚くしている人がひと財産もっているだなんて、考えられなかった。当時はお金持ちなんて、噴水のある庭の大きな家に住んでいて、かしこまった服を着た美形で上品っていうような、アニメで見るようなイメージがあったものだから。
偏屈で金に煩く、気に入らない事は何がなんでも我を通す、頭の固い老人の悪い部分ばかりをかき集めたような性格だった。
そんなサナダのババァだけれど、寄る年端には勝てなかったらしい。ある時からぱったりと姿を見なくなったと思ったら、どうも家の中で一人で死んでいたらしい。心臓だけは強そうだったから、これは意外だった。
見つけたのは近所の新聞配達員で、数日経っても新聞が回収されないのを不審に思って最終的に警察に連絡したそうだ。妙なにおいが外まで漂ってきていて、やっとの思いで中に入ると、廊下でうつぶせになったサナダのババァを発見したらしい。
時期はちょうど梅雨の季節が終わって暑くなりはじめた頃だったから、とにかく死体は腐りかけて蛆がわいていたとか、糞尿塗れで酷い状態だったとか、臭いし虫は飛んでいるしで大変だったらしい。ちょっとした騒ぎになって、外には野次馬が集い始めて、やがて子供の登校時間までずれ込んだ。学校にも騒ぎが波及して、そこを通学路にしている子供たちは興奮した様子で話したもんさ。学校でも、帰った後でも、その話題がのぼった。
子供はいないみたいで、何日かするとその人の遠い親戚とかいう人がやってきていた。親戚内でも持て余していたらしく、どことなくほっとしたような表情をしていたと親が噂していた。まぁ実際のところは、溜め込んでいた小金を探していたなんて話もあったんだけれどね。
さて、話はここからだ。
通夜や葬儀、それから親戚がやってきたから、そのうちに家も取り壊されるとみんな思っていた。ところがだ。それから夏が過ぎて秋が来ても、家は残っていた。手が入れられない木々は住人がいた時よりも酷い事になっていった。もっとも、取り壊すだけでも結構なお金がかかるらしいから、すぐには取り壊せないのは今ではわかるんだけどね。
そうなると、今度は奇妙な噂が立った。
サナダのババァの幽霊が出るというのだ。
ありそうな話だろう。でも、不思議とそれをよく聞いたのだ。
夜中に家の前を通ると、不意に怒鳴り声が聞こえるとか、中を光が移動していたとかね。一時期なんて空き巣じゃないかと警察に連絡も入った。火をつけられたりしたら困るし、きちんと鍵をかけて見回りをしていたのにも関わらず、そんな噂は絶えなかった。悪戯な子供たちが肝試し代わりに忍び込んでいるんじゃないかという話もあった。
だけど、そんな話をされると余計に気になるのが子供という生き物だ。さっきも言ったろう、臆病よりも蛮勇である事を好むって。自分たちが勇者みたいな気分になるというか……、もちろん、怖がりの子も、興味を示さない子もいるんだけどね。ただ僕らは完全に、物語の主人公を好むタイプだったんだ。
そうさ、あのサナダのババァの家に行くことになっていたんだ。
夏の前は日も長かったけれど、夕方でも薄暗いその裏通りは、やっぱり不気味だった。
裏通りといっても、近くには古びた木工の作業場のようなところや、同じような誰が住んでいるのかわからないような古い家しかなかったからね。
生い茂った木々の間をすり抜けて、そっと裏口から忍び込んだ。裏口に行くのにも一度玄関先の庭を通ったんだけど、僕が最初に家を認識したときから、もっとひどいことになっていた。何の用途かわからない岩や使い古したジョウロが転がっていて、名前の消された郵便入れはすっかり古錆びていた。
何故裏口は鍵をかけていなかったのかわからない。以前にも忍び込んだ子供たちは知っていたのかもしれないね。まぁそれもあって誰かが忍び込んだんじゃないか、なんていう話も出たんだろう。
裏口の前に着いたときに、僕らは顔を見合わせた。
そりゃあまぁ、最初に入るのは誰だっていやだろう。僕らは互いを小突いたりしながら、結局ボソボソとジャンケンで決める事になった。
最終的に僕が負けて、裏口を開けた。中は小汚い台所に通じていて、しんと静まり返っていた。僕らがよく知る「家の中」とは根本が違った。一人で留守番しているとはまた違った重苦しさがあって、その空気に圧倒されたよ。
ある程度片付けられていたが、住んでいたその時のままだったんじゃないかな。老人が長い事住み着いていた事を示す、あの独特の加齢臭が染みついていた。小さな台所の真ん中にはビニールの敷かれたテーブルがあった。廊下に続く扉は開いていて、薄汚いイスを避けて奥へ進むと、床がギシギシと軋んで耳についた。
外を通る車の音はせず、とても静かだった。傾きかけた太陽の光は少しも入らず、ただでさえ暗い家の中は余計に真暗だった。カーテンすらしまっていないのに。あれだけうるさく鳴いていたセミの声は一切聞こえず、聞こえるものといえば、僕らが床を進む音だけ。
一番奥には暗い玄関があった。その右側にはガラス戸の障子があって、たぶんそこが居間だと思った。
サナダのババァが廊下で死んでいた事を思い出すと、ぞっとした。今、自分がいるところで人が死んだんだという事を改めて思ったよ。そんな時だった。
居間らしきガラス戸の障子の向こうで、光がゆらゆらとしていたんだな。
今、見た? と誰かが言って、全員が同じものを見たのだと気が付いた。僕らは恐ろしいのを抑えつけて、好奇心と、弱味を見せたくない一心で少しずつ進んでいった。
さっきの光はなんだったのか。
本当に幽霊は出るのか。
僕らがギシギシと音を立てながら進むと、不意に障子の隙間が、開いたんだ。
見間違いなんてものじゃなかった。本当に恐ろしいと声すらも出ないんだな。映画みたいに悲鳴をあげることすらできなかった。
障子は徐々に開いていって、やがて全部開いてしまった。
奥の部屋から血走った目の老婆が現れた時、本当に心臓が止まるかと思ったよ。
そこにはサナダのババァが立っていた。僕らの方をじっと、あの見慣れたくもない視線が捉えたんだ。
歯並びの悪い口元から覗く殺意に、僕らは敏感に反応した。
この くそがきども め
何度も聞かされた言葉がに、反射的に殺されると思った。狭い廊下を裏口に向かって逃げ帰った。最後を走っていた僕が台所のイスに躓いて、友達がみんな早く早くと急かしたのは聞こえた。もう必死だった。
慌てて立ち上がって裏口に向かった時、ヒンヤリとした冷たい老人の手が僕の首根っこを捕え損ね、首筋を撫でていった。突き立てられた爪に痛みを覚えたよ。
裏口の扉を必死で閉めたまでは覚えているけれど、僕はその後の記憶がない。気が付いたときには家からもずっと離れたところで全員が放心していた。
そこまできてようやくあれは一体なんだったのか、冷静になって考える事ができるようになった。あれは幽霊だったのか、僕らの幻覚だったのか。一つだけ理解できるのは、僕らみんながあれを見た事だ。死んでしまったサナダのババァの幻覚を見、あの聞き慣れた声を聴いた事だけだ。
ただ一つ理解ができない事がある。
帰り道、僕はなんだか蜘蛛の巣がくっついているような、そんな気持ちの悪い感覚に襲われて、サナダのババァに触られた場所をそれとなく触った。
僕の首筋についていたのは蜘蛛の巣じゃなかった。僕の肩には、長い長い白い髪の毛が何本もくっついていたんだ。
引っ張り出した時は、声も出なかった。綺麗な白髪ではなく、栄養分が抜けてゴワゴワとした、老人特有の髪だった。
僕が触ったのは玄関の扉だけだったし、壁に肩をくっつける事もなかった。誰かに背中を触られた記憶もなかった。思い当たる事があるとすれば、サナダのババァに首を触られた、その時だけだった。
長い長いその髪は、サナダのババァの振り乱したあの白髪を思い起こさせた。
僕はその日の夜熱を出し、三日三晩寝込む事になった。両親は風邪でもひいたんだろうという事で納得していたが、後から聞くと、あの時のメンバー全員が熱を出していたらしい。
その後しばらくして、家は取り壊された。
取り壊される時はとんでもなくあっけなかった。落胆する程度にはね。でも、同時にほっとしていた。
今はなにが建っているのかはわからないけど……、でも、今でもあの近辺にはちょっと行き辛い。あの冷たい老いた手が、また僕の肩を掴むのじゃないかと思ってね……。




