あと七十一本... 「自殺の名所」
気ままな一人暮らしというのも乙なものだ。
特にそれまで両親と一緒に暮らしていたのだから開放感はこれ以上ないものがあった。
三十路を過ぎてからの一人暮らしだったおかげで、色々と体に詰め込まなくてはならなかったが、それでも自分一人というのは自由にできた。思ったよりも楽にできたのが救いだ。
賃貸マンションとして選んだところは、新しい場所だったにも関わらず予想外に安くて助かった。マンションを選ぶのも初めてだった私は一緒に相談に乗ってくれた”一人暮らしの先輩”たる友人と首を捻ったが、特にこれといった理由もなさそうだった。駅や最寄りのスーパーまでもそれほど遠くもなく、他に比べても安いと感じる値段だったからだ。
強いていうならば、集合マンションだからか、ベランダからの景色がそれほど良くないといったところだろうか。外を見ると、此処と同じようなビルだかマンションだかが歩道の向こうに見えていた。さすがに気になるほどの近さではなかったものの、やっぱり外の景色は重視する人々が多いのだろう。
引っ越しを終えて暫くたつと、この生活にも段々と慣れてきた。最初のうちは不安だった夜の間も特に気にならなくなったし、炊事洗濯もそれぞれ試行錯誤の連続をこなした後、やがて手を抜くところは抜いたり、毎日やらなくてもいいのだと気付いたりした。ゴミの日や近所づきあいなども徐々に覚えると、ようやく心の余裕ができた。
こうして人は順応していくのだ、と哲学的な事を思っては一人でほくそ笑んだ。
そんなある日の事、休みの日に自宅でネットを見ていた時だった。何の予感があったのかはわからない。開けっ放しにしたカーテンの向こう側をふと見た時だった。
何かが落ちていった。
空中にいた逆さまの男と、目が合った。
スローモーションのように私の目を捕え、彼はそのまま地面に落ちていった。
一瞬何が起こったのかわからず、私は暫く放心していた。
飛び降りだ。
とんでもない物を見てしまったのではないか。
私はややパニック気味に、自分のとるべき行動に迷った。今のは目の錯覚だったのか、警察に電話しなければならないのか、とんでもないものを見てしまったと、誰かに報告すべきか。私は興味と恐怖を同時に感じながら、恐る恐るベランダに行き、そっと下を覗き込んだ。
そこには何もおらず、落ちた人もいなかった。
一体何が起こったのかわからず、ほっとしたのと疲れているのかと、とにかく私は茫然としたまま部屋の真ん中で座り込んだ。もはや何もやる気が起きず、早々にPCの電源を切った。
次の日、私はもやもやとした気分で仕事に出かけた。マンションの出入り口から出ると、角を曲がって裏の通りへと向かう。ふと気が付くと、すぐ目の前に昨日飛び降りがあったはずのマンションがあった。気になって、ちょうど自分が昨日のソレを目撃した地点まで歩いてみる。
もし本当に誰かが飛び降りたなら、この辺りが落下地点になるはずだ。
そう思うと、ぞっとした。
マンションの上を眺めてみたが、特に何も起こる気配はなかった。それどころか、太陽が強烈な視線を投げかけてきている。
「どうかされたんですか?」
あまりに上を眺める姿を怪訝に思ったのだろう。見回りの警備員のようなおじさんが私に話しかけてきた。
「ああ、いえ、すみません。なんでもないんです」
私はあわてて取り繕った。まさか昨日誰かが飛び降りる幻覚を見たなどとは言えない。
「ひょっとして、何か見ましたか」
おじさんは含みのある言い方をした。
「もしかして、このマンション、出たりします?」
私は両手を垂れさせ、おどけて見せた。
けれども、おじさんはどこか渋い表情で私を見ていた。
「……私は見た事がないから、よくわからんのですけどね。このマンション、この近辺じゃないぐらい高いでしょう。だから、時折そういう事があるんですよ。それだけならまだしも、誰かが落ちていくのを見たとか、落ちていく男と目が合ったとか……でも、下には何もいないとか、そういう事はよく聞くな」
「はあ……そうなんですか?」
そっけなく答えながら、私は既にここから離れたい気分になっていた。
「でも、そういった…なんだろうね、ユーレイみたいなのをよく見るのはあっちのマンションらしいよ。たまに、警察に報告が入るみたいで」
そう言いながら、おじさんは私の住んでいる向かいのマンションを指さした。おじさんはそのまま、なんで向かい側なのかなあ等と言っていたが、私にはもうどうでもよかった。
真相がどうあれ、それ以来この場所を引っ越すかどうか真剣に考えている。




