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あと七十二本... 「天井」

 また上の階の奴らだ。

 俺は溜息をついた。


 五階建てとはいえ安い賃貸マンションだからだろうか、壁は薄くて、隣や上の住人がちょっと大きな音をたてると筒抜けになる。さすがに普通の話し声なんかは聞こえないが、馬鹿笑いや大声をあげられたりすると顕著だった。

 その中でもここのところ頻繁に聞こえてくるのが、上に住んでいる子供の泣き声だ。正確には親の怒鳴り声もそこに含まれている。時には子供の泣き声よりも怒鳴り声の方が続く時がある。はじめのうちは子供のやったことを叱りつけているのだと思っていたが、どうも違うようだ。

 はしゃいだり部屋を走り回ったりという音はしない癖に、時には怒鳴り声と共に床に大きな衝撃があったり、窓の方、つまりはベランダからずっと泣き声がする事もあった。

 どうも子供の躾で片付けるにはあんまりな行為が行われているらしい。

 それが幾度となく繰り返されるものだから、此方も苛つくというより気が滅入ってきた。


 それとなくどんな人間が住んでいるのか窺ってみようと思ったが、なかなか機会には恵まれなかった。他の住人ともとりたてて話をするような仲ではなかったし、ああまたあの部屋の人ね、というような風潮があったに違いない。少なくとも俺が関知している間には児童相談所や役所の人間が来たという事もなかったし、来たとしても昼間はバイトに出かけているからないだろう。


 それでも、特にここ二、三日は酷かった。

 毎日のように子供の声でゴメンナサイと謝るのだ。実際はどんな声で話しているのか知らないが、頻繁に同じような時間帯に泣き続けた。一方で親の方は段々怒鳴り声を発する事もなくなってきていたが、時折発狂でもしたような声でわけのわからない事を怒鳴り散らしていた。一体何をされているんだと逆に不安になってくるほどだ。

 既に感覚がマヒしそうになっていたが、それでも、ひょっとしてそろそろ何処かそういう場所に電話した方がいいんじゃないかという思いだけは浮かんできた。こういう時っていったいどこに電話をすればいいのだろう。児童相談所とか、警察あたりが無難に思えるが、いったいなんと言えばいいのだろう? 上の階で毎日のように子供の泣き声と親の怒鳴り声が聞こえてきます、とかだろうか。


 そんな事が四日も続くと、さすがにこっちも苛々としてきた。一日バイトで疲れているというのに、夜中の同じ時間にそんな声がすれば寝入りも悪くなる。睡眠時間がとれなければバイトでの心証も悪くなってしまうし、いい加減どうにかしてほしかった。

 以前のようにドタンバタンというような衝撃は無いが、ただひたすら子供は泣き続け、親の方はごくたまに怒鳴り声を発する。そんな奇妙なサイクルが出来上がってきていた。

 六日目になると、掠れて聞こえる声が本当にうっとおしくなってきた。悪いのは親かもしれないが、子供だっていつまでも泣き続けていいわけじゃない。苛々は頂点に達しようとしていた。


 一週間経った七日目のこと。チャイムの音で目が覚めると、マンションの前が妙に騒がしい事に気が付いた。

 玄関の扉を開けると、見たこともない男が二人、警察手帳を見せつけた。


「上の階の住人の事で、お話があるんですがね」


 警官を名乗った二人の男は、手帳をしまいながら言った。


「どうかしたんスか」

「実は、上の階に住んでいたお子さんが亡くなっていて。何か気付いた事とかありませんか」


 俺は面食らった。苛々や眠気が一気に吹き飛んだ気分だった。

 それらしい心当たりがあるのでもう少し詳しく、と伝えると、虐待を受けていた可能性があると伝えてくれた。ペンを取り出してメモの準備をするのは、テレビドラマの中そのままに見えた。俺はあの怒声や子供の声の事を思い出し、やや興奮気味に答えた。先日までの苛々が嘘のようだ。そもそも警官が事情を聴きにくるというテレビドラマのようなシチュエーションなど、滅多にあるものではない。


「そうですね。この部屋、ちょうど真下でしょう。結構声とか聞こえてて。ここ一週間くらいは酷いもんで、ほとんどずっとかな、昨日も泣き声が聞こえたりしてたんです。そろそろどこかに伝えた方がいいんじゃないかって思ってたんですけど……そうですか」


 本当はうるさくてしょうがなかったのだが、俺の口からはそんな言葉がついて出た。興奮していたせいか、現実感はほとんどなかった。

 それと同時に、ほっとしたような妙な心地になった。もうこれ以上あの声に苦しめられる事はないのだと思うと清々した。もうちょっと早く対処していれば命は助かったのかなぁ、という、それこそテレビドラマの主人公のような心地になってきた。人は無責任だというかもしれないが、当事者からしてみれば遠巻きに無責任だという奴らこそ無責任なのだ。

 刑事たちはお互いを見合ってから、もう一度こっちを向いた。


「それは確かですか?」

「はい」


 俺は頷いた。


「…本当に?」


 もう話も終わりかと思っていたが、警官たちは何やら言いたげだった。 


「そうですけど。何か変な事でもありました?」


 好奇心に駆られて、俺は聞いてみた。

 警官たちは暫く思案したあとに、口を開いた。


「子供は、一週間前に亡くなってるよ」

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