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あと七十四本... 「いつまでもあなたを見てるわ」

 古錆びたような色の赤い列車が、暗闇に沈む裾野を横目に通り抜けていく。


 コンパートメントに仕切られた車内は、他に誰もいないかの如く閑散としていた。列車は先ほどの駅を発ったばかりだったが、乗客の喧噪と笑い声は遠く幻想のようで、僕はボックス式になった六人掛けのコンパートメントを一人で占領した満足感と、少しばかりの寂しさを感じていた。


 僕は住み慣れた土地を離れ、新天地へと向かっていた。生まれた時から数えて二十七年住んだ土地だ、そんなにも長く住み着けば愛着もある。無かったといえばそれは嘘になるだろう。嬉しい事も悲しい事も、良い事も嫌な事もすべてあの土地で起こった。それでも、執着するほどでもないと気付いたのはつい最近の事だ。僕は変化を望むような性格ではなかったが、期待はしていた。新たな生活への不安が無いわけではないが、そういったものがないまぜになったような心地だった。


 目的の駅につくまで、途中で買った文庫本を片手に暇をつぶす事にした。何の事はない、日本の作家のベストセラー作品だ。最近映画化されたばかりで、余計に注目が集まったらしく、駅のホームの売店なんて場所でも売り出されていた。僕は本をそう読む方ではない。話題性だけで選んでしまったおかげで、面白いかどうかは読んでみなければわからなかった。椅子の座り心地はよかったが、それだけでは暇は潰れないのだ。普段は活字を読まない生活が祟ったのか、最初の1ページを読もうにも、なんだか構えてしまって仕方が無かった。それでも暇つぶしはこれしかないのだから、これで我慢するしかない。通路で人が通る気配を感じながら、僕はそこに書かれた文章を真剣に読み進めた。

 2、3ページも読んだところで、もう一度通路から人が通る気配があった。足音が立ち止まり、僕は自然と顔をあげた。


「ここ、いいですか」


 大人しそうな女性だった。

 清潔そうな白いワイシャツにピンクのスカートを履いていた。肩に茶色の鞄をかけていて、コンパートメントの入口で突っ立っていた。他に空いている席はなかったのだろうか。他のコンパートメントを覗く用事もなかったし、きっと先ほどの駅で乗ってきた人たちがばらけて座ったのだろう。


「どうぞ」


 僕は向かい側の席を示して言うと、女はありがとうと答えて、僕の斜め向かいに座った。年の頃は僕と同じくらいだろうか。濡れ羽色の胸元まで伸びた髪は白髪一つなく、きちんと整えられていた。服装は明るめだが、どこか暗い雰囲気を持っていた。陰気なのか影のあるタイプなのかまではわからなかったが、正直なところ、相席よりも一人で座るのを好みそうだった。こう言ってはなんだが、僕の好きなタイプではない。言ってしまえば苦手だ。暗くてうつむきがちで、何を考えているのかわからない。そういう女性は苦手だった。僕は明るくてハキハキした女の方が好みだったから、余計にそう感じたのだ。

 僕は途端に気まずくなった。このまま一人だったのなら、まだ人の目を気にする事もない。例えるなら、足を伸ばそうが手を伸ばそうが、本を読もうが眠り込もうが僕の自由だ。だが、そこに人がいるとなると違う。他人の目があるというだけで何となくきまりが悪いというか、本に目を落としたものの、何となく気になってしまって仕方が無かった。僕は何とかプロローグだけでも読み切ろうと思ったが、何とも言えない居心地の悪さに本を閉じてしまった。それから本を隣に置くと、代わりに外の風景に顔を向けた。何故だかわからないが、見知らぬ女と二人きりというのは案外気を使う。向こうの方でゆったりと流れていく川を見ながら、そんな事を考えていた矢先だった。


「あの……、ご旅行ですか」


 声をかけてきたのは、意外にも女からだった。ひょっとしたら彼女も居心地の悪さを感じていたに違いない。荷物の少なさから見ても旅行とは思えないが、ただ席が一緒になっただけの知らない男に声をかけるというのはどんな気分なのだろう。


「あ、ああ、引っ越すんですよ」と、僕は戸惑いがちにそう答えた。

「そうなんですか。引っ越すという事は、もうお戻りにはなられない?」

「は? ……ああ、前の土地に、ですか? ええ。もう家の方も引き払ってますし、僕が向かうだけです」

「……あ、変な言い方だと思ったならごめんなさいね。私、あまり人と話すのは慣れていないから。でも、もしよろしければ、暇つぶしにでもお話しませんか?」


 女の方からも、なんとかこの気まずい空間を何とかしたいというような意思は感じられた。だが肝心の女も話し上手ではないらしい。単語の選び方も何となく微妙に感じられた。


「はぁ……、いいですが……」

「本は、何をお読みになっていたの?」

「本ですか? 聞いた事はないですか。映画化もされてますから、タイトルぐらいは聞いたことがあるはずですよ」


 僕はタイトルを見せながら言ったが、女は申し訳なさそうな顔で知らないとだけ答えた。自分から振ったのに、そこで話をとぎらせる女に呆れてしまった。それ以上の話の発展もなかった。

 女がすまなそうな顔をしたので、僕は仕方なくかぶりをふって答えた。


「まぁ、いいですよ。暇つぶしには買ったんですが、僕も普段から活字を読んでないから、慣れなくて」


 そう言いながらも、既に僕はこの奇妙な女と話すのにじれったさを感じていた。今後もまた提供する話題を間違えるのはもちろんの事、僕からすればトンチンカンにしか聞こえない答えしかないのだろうと半ば確信していた。じれったさというよりは、鬱陶しいような、関わり合いたくないような気分だ。

 女の雰囲気も関係しているだろう。うつむき気味で、じっとこちらを見つめる彼女は、初対面にも関わらず独特のうざったさを感じていた。もっとも、ハキハキとした明るい女性の方が好きなのは僕の好みの問題だ。暗めの女性を貶めるのは良くない、と僕の理性は言っている。けれども、どうしても好きになれない――…意味なく嫌ってしまうような、そんな嫌悪感があった。

 僕はこれ以上あまり話していたくなかったが、女の方は僕のその空気を感じ取らなかったらしい。空気の読めなさもきっと理由の一つに違いなかった。

 女は話題を探すようにしばらく視線を彷徨わせていたが、ふと気づいたようにまた話しかけてきた。


「どうして引っ越されるんですか? お仕事ですか」

「はぁ、そんなようなものです」

「愛着とかはなかったんですか」

「あることはありました」

「でも、引っ越されるんですね」

「はい」

「引っ越すまでに考えたりはしたんですか?」

「そりゃまぁ、場所を決めたり、仕事先との位置なんかは見ましたけど……」


 女との会話は終始こんな調子だった。

 よくよく考えてみれば、ただ話下手な女がここまで僕と会話したがるのはどういうわけなのだろう?

 それに対して、僕は段々と苛々してきた。早く席を変わりたくもなってくる。だいたい、気が付かない女も女だ。同時に、どうしてこんなにも苛々とするのか僕は原因を探り始めた。この気分は前にも感じた事がある。確かこういう女だったはずだ。


「それで……ええと、このあたりは電車がよく通っていますよね」

「はい」


 僕はうんざりしながら答えた。もういいですか、と言ってしまいたかった。


「私も、電車は好きなんですよ」

「そうなんですか」


 私も、とはなんだろう。まるで僕までも含まれたかのような言い方だが、それは否定はしなかった。ただ、僕もです、というような事はしなかった。

 けれども女の一言で、ふと思い出しかけた事があった。何か引っかかる事がある。僕は適当な相槌をうちながら、何とかその記憶を引きずり出そうとした。


「子供の頃住んでいたところが、その……近くで走っているところで。あ、もちろん鉄の柵というか、網みたいな――ああいうの、なんていうんでしたっけ――とにかく人が入れないように柵はありました」


 僕は自分の思い出を振り返りながら、ふとその光景を夢想した。うつむきがちの女が、鉄網の向こうをじっと見つめている様は剣呑にしか思えない。

 思い浮かべた場所は、自然と自分の知っている場所だった。覚えがある。


「私の近所は、田舎で……。普通の町という感じだったんですが、店も昔から続いているものが多かったり、道路と歩道が一緒だったり……、そういうところだったんです。一歩離れると、田んぼやあぜ道がありました。それで、その、近くに――その、電車が走っていたんです、大きな田んぼがあったり、広いところを。人通りもなかったので、よく遊んでいました」


 彼女はちらちらともの言いたげに僕を見た。けれども、だからなんだという話だ。僕は代わりに、適当な相槌を打って物思いに沈んだ。


 ……そうだ。あれは確か小学校まで遡る。

 僕は後ろから、今の夢想と同じように、ひとりの女の子を見ていた。

 あの子もそうだった。内気で、うつむき気味で、何か言いかけたかと思うとやめて、かわりにこっちの事をじっと見ながら察してほしいような顔をする。僕はそれがいやだった。

 隣に住んでいた、なんとかいう女の子だった。いわゆる幼馴染だが、隣に住んでいたというだけで、僕は彼女の御守を押し付けられた。小学生だった僕はもう女の子とは遊びたくなかった。その年頃だと、女の子と遊んでいると妙にからかわれたものだ。

 今となっては思い出の一つだったが、どうにも僕は郷愁よりも苛々としていた。僕は思いのほか彼女が嫌いだったらしい。

 確かもう引っ越しているから、既に名前も忘れてしまっている。


「そこに、よく行っていました。見るのが、好きだったので……」

「そうなのですか。僕の近くにも電車が通っていましたよ」


 彼女との最後の記憶もあまり明瞭ではない。僕はいつものように電車の近くまで遊びに行き、電車を見ていた彼女に気付かないふりをした。僕の遊び場に彼女がいる事が許せなかったし、普段から苛々していたのだ。そこで確か僕は、酷い事を言ったのだった。それからどうしたのか記憶にない。確か、隣のおばさんが引っ越しの挨拶にきたのは覚えている。


「うちの近所にあったのは、その、キリン草っていうので……」


 女がちらりと僕を見た。

 その目線が妙に記憶の中の女の子と重なったので、思わずぎょっとした。

 この、何かを察してほしいという目。

 記憶の中で、もの言いたげに電車の前で僕を見ていた女の子を思い出す。記憶の中では……僕は彼女をどうしたのだっけ?

 それ以上、記憶になかった。

 代わりに、引っ越しの挨拶で妙に暗く沈んだおばさんの姿を思い出した。


「どうかしたんですか」


 僕は苛々しながら言った。言いたい事があるなら言えばいいのに、察してもらおうというのがおこがましいのだ。いい加減うざいんだよ、はっきり言えよ。そう言ってしまいたかったが、僕はそう言えるほど子供ではない。

 だが不意に、ひょっとして同一人物なのではないかという疑念が、僕の中に湧き起こっていた。急に冷や汗のようなものが噴き出した。


「いえ……その……なんでもないです」


 女はそう答えたが、突き刺すような、非難するような目はそのままだった。

 強烈なフラッシュバック。

 確かあの日もそうだったのではないだろうか?


「本当は、あなたが引っ越す前に思い出してほしかったんですが……」


 女の声がぞっとするほど近くで聞こえた。慌てて女を見ると、妙に近づいて見えた。


「きみは、……お前は、誰なんだ」


 僕はあえぐように聞いた。

 なんて馬鹿な質問だ。


「忘れてしまったの? 私はずっとあなたを見ていたのに。ずっと」


 白い指先が迫る。枝のような細い腕はいつの間にか血にまみれていた。腐臭がぷんと鼻をつき、一人の女性だった彼女はいつの間にか子供に戻っていた。僕よりもずっと小さいはずなのに、僕と彼女は同じ大きさだった。


 ”いい加減うざいんだよ、言いたい事あるなら言えよ。お前の面倒みるのなんて、いやなんだからな。”


 そうだ、僕はあの日、そう言って彼女を電車のレールの上に突き飛ばしたのだ。

 あのころは子供だったのだ。女の子としゃべるなんて、いやだっただけだ。僕のせいじゃない。僕のせいじゃないんだ。

 電車に轢かれたあの子。女の子を見なかったかと言われた時、僕は当然のように知らないと答えた。

 すぐ目の前に潰れた頭があり、あの日の続きのように僕の前に現れた。

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