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あと七十六本... 「水たまり」

「マジかよ、いい加減にしてくれ」


 ジュンは声に出してそう言ってしまっていた。もうそろそろ我慢ならない。多少の雨漏りはあると聞いていたが、これほどひどいとは思わなかったのだ。


 天井から垂れたと思われる水は、壁には染みを、そして床に水たまりを作りあげていた。


 ジュンは二か月前にこのマンションに引っ越してきたばかりだった。年の離れた中学生の弟と妹のいる、うるさい家からようやく解放されたのだ。二十歳になったことと合わせて、大学へ向かう時間短縮と就職の事前準備という名目で、大学二年の夏休みを利用してここに引っ越してきたのだ。

 マンションは五階建てで、それぞれ五部屋ずつ。築十数年とそこそこ古い物件ではあるが、1Kにも関わらずバス・トイレ別で、そのうえ二万円でおつりがくるという中々いい値段だった。そのうえちゃんと冷暖房もついていて、探し出した時は小躍りしたほどだ。それまで物件情報の雑誌など読んだ事がなかったが、これは掘り出し物ではないかと自負した。

 実際に見てみた感想も悪くはなかった。外観も一人用のマンションとしてはそこそこの大きさで、十数年経っているとはいってもまだ綺麗だった。部屋の中も一人で住むには充分だったし、どうせ就職すればまた違う所へ行かねばならないとも思っていた。初めて部屋を探したにしては上出来だと思ったものだ。だから、部屋によっては多少雨漏りすると言われた時も、そうは気にならなかった。


 しかし、ここまでとは思わなかったというのが実情だ。

 そもそも、マンションの上に五階建てだというのに三階で雨漏りするものか、と先輩や先に一人暮らしをしていた下宿先の友人に尋ねると、なんでも屋上のすぐ下の階だと雨漏りもあるらしい。途中階であっても、どうやら雨どいや亀裂から壁を伝ってしみだす事があるらしいと聞いた。それにしたってこれは無いだろう、と思ったが、家賃や設備の事を思っても優良物件には違いなかった。


 雨漏りの場所はベランダ側の右手の隅で、雨が降ってしばらく経つと、ある時から一定の速度で水が落ち始める。そして気が付けば下に水たまりができているという惨状になるのだ。天井と壁の隙間から落ちてきているらしく、具体的にどこから落ちてきているのかわかりにくかった。

 おまけにただの水ならともかく、建物内を伝ってきた水は汚水のようで嫌なにおいも発していた。加えていつの間にか床に水たまりができているのだから憤懣やるかたない。雨漏りの水を避けるために、部屋の配置まで考え直さなくてはならなかった。せっかく備え付けられているハンガー掛けもこれでは意味がなかった。


 一度他の住人にも聞いてみようかと思ったが、そこまで交流があるわけでもなかった。聞くチャンスはなかなか訪れず、二、三年の辛抱だと思って住んではみたが、ここ一か月ほどで水の量がどんどん増えている事に気が付いた。ひょっとしたら、どこかに入っている亀裂が大きくなっているのかもしれない。壁紙はどことなく変色してきた気がするし、どことなく常に湿気たようなにおいがして、やがて晴れていても気分が重くなっていった。

 おまけに――…。


(不気味だ)


 壁の変色だけならまだいい。徐々にはっきりとしてきたその染みは、まるで手を横にだらりと垂らした人型のようにも見え始めたのだ。もちろん気のせいだというのはわかってはいた。かといって変に怖がるのもおかしいと自分の理性が言っていた。

 けれども一度そう見えてしまうと人間というのは不思議なもので、ますますそう見えてくるのだ。床から2メートルほど、ちょうど上を向いた目線の先にある縦に楕円形に近いものが頭で、楕円形の下から続くのが首と胴体。そしてその先は三つに分かれ、胴体に見えるものの両端が手、そしてその下はまだ見えない下半身に繋がっているようだった。

 せめて隠してしまえれば良かったのに、とジュンは思った。大き目の姿見でもあれば良かったが、男の一人暮らしにそんなものはなかった。


「一度、見てもらった方がいいんじゃないか」


 相談に乗ってもらったジュンの先輩は、話を聞いた後にそう言った。


「ちょっと部室に……、ああ、俺が兼部してる方。演劇部の部室な。確か使わないで置いてあるバケツがあるんだよ、小さいけど。それやるから、とりあえず応急処置として置いとけば?」

「それ、処分に困ってるわけじゃないですよね」

「今はゴミで出すのも大変なんだぜ? ……冗談だよ。いつ使ったのかはわかんねぇけど、今度はいつ使う事になるかわかんないんだ。だけど、ああいう小道具ってとっておかないわけにはいかないだろ」

「わからないでもないっすけど」

「それならちょっとぐらい、別に構わないだろ。それに、早く部屋変わった方がいいんじゃないか?」


 部室知ってるだろう、と付け加えると、先輩は先に行ってしまった。

 談話コーナーの窓から外を見ると、どことなくどんよりと曇っていた。まだ暗いというほどでもなかったが、夜になったら一雨くるかもしれない。ジュンは仕方なく、というより、雨漏り専用にバケツを買うのもどうかと天秤にかけた結果、帰り際に演劇部に寄っていった。

 手渡された小さなバケツを片手にぶらぶらと家にまで帰ると、外よりも陰鬱な気分が加速した。まだ雨も降っていないというのに、妙な暗さがあった。ジュンはバケツを適当な隅へ追いやると、来週提出のレポートに取り掛かろうと思った。雨は気になるが、レポートだけは出さなければ欠席扱いになってしまう。


(まったく、テストの時だけにしてくれりゃあいいのに)


 棚に置いたノートパソコンを、部屋の真ん中に置いたテーブル移動させる。せっかく設置したテレビを水たまりのできる位置に置くわけにいかなかったため、テレビを見れる位置になるとどうしても染みを背にする形になった。座り込むと、どうしても背後が気になったが、それでも、くだらないバラエティー番組を見ていた方が随分気が楽になった。

 夕飯は適当にカップラーメンでも作る事にして、教科書として指定された本とノートを照らし合わせながらレポートを作っていく。ジュンにとっては欠伸が出るようなつまらない講義だったが、それでも必修科目なおかげで、それなりの物を出さなければならない。

 外の暗さのせいもあってか、一度休憩にしてごろりと横になると、疲れもあってかそのまま眠り込んでしまった。


 どれくらい眠っていたのだろうか、ジュンにも見当がつかなかった。室内は真っ暗で、パソコンの画面もいつの間にか消えてしまっていた。静かなのはテレビも消えているからだろう。眠る時に邪魔だったので自分で消したのはすぐに思い出した。

 とにかく電気をつけなければ。そう、ジュンがわずかに手を伸ばした時、何かぬるりとした感触があった。


(うわ、雨漏りの水か。触っちまった)


 位置的にはちょうど自分の真後ろにあったはずだ。今は寝転がっているから、上半身のすぐ近くにあると。外では車が走っていたが、どうにも湿った道路を走る音がした。知らない内に雨が降ってきたらしい。


 それにしても、建物内を通ってきた水にしては妙だった。暗い中で何度か床に触れても、よくわからない。やはり灯りが必要だと、軽く手を振って立ち上がろうと前を向いた。開け放たれたカーテンの向こうから入ってくる淡い灯りに照らされ、壁の染みがよりはっきりしたように思えた。今や顔と思しき場所には三つの逆三角形に配置した点が見てとれる。今はもう下半身までくっきりと見えていた。二本伸びた足は床にはついていない。

 その染みに重なるように、男が虚ろな目でジュンを見ていた。腐り切ったからだからぽたぽたと落ちる体液は、雨漏りと重なって水たまりとなり、ハンガー掛けに括り付けられたロープは男の首に伸びている。


 男は首をつっていた。


 それからジュンが引っ越すまでそれほど時間はかからなかった。

 後から聞いた話によると、その部屋は事故物件と呼ばれる類で、首つり自殺のあった部屋だったようだ。借金がどうとか言っていたが、ジュンはそれを聞いていなかった。

 夏のある日、じとじとと雨の降る日に首を吊った男はあのハンガー掛けにロープを括り付け、壁にぴったりと沿うようにして死んでいたらしい。しばらく発見されなかったが為に腐りかけ、換気のされなかった部屋は妙に蒸し暑く、壁と床にはじっとりと染みがついていたという。

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