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あと八十本... 「つまさき」

「僕はねぇ、生き残りなんだよ」


 室井吉雄はそう言って自嘲気味に笑った。

 何もかもを諦めたような生気のない顔に、赤木順一は嫌悪感を覚えた。そこには少しばかりの同情心と、優越感も含まれていた。赤木が室井を部屋の中に招き入れてしまったのは、二人が高校時代の友人だったという、ただそれだけに尽きる。

 だった、というのも、大学に入って以降はもとより、社会人となってからもまったく音沙汰が無かったからだ。長男だという理由でいまだに実家住まいでなければ連絡もつかなかったろう。電話を取った時は懐かしく思ったものだが、家にやってきた彼のくたびれたスーツと表情を見た瞬間、何とはなく彼の現状を悟った。

 しばらく昔話に花を咲かせた後、室井は赤木の近況を尋ねた。赤木からすればそれを自分から尋ねるのを躊躇したのだが、むしろ室井の方から尋ねてきた形になった。

 赤木は仕方なく、今の自分の立場を示した。そういえば、昔の友人を頼ってネズミ講や宗教に勧誘するものもいるな、と思いながら。だから、どこの業種にいるとか、そこそこやっているが金は無いとかそういう事を話した。それでも室井は羨ましそうに聞いていた。

 この男はいつからこんな目をするようになったのだろうと赤木が思った頃、先のような言葉を室井は吐いたのだった。


「僕はね、一度飛び降りたんだ」


 室井がなんでもない事のように言うので、聞き逃してしまいそうだった。


「……は?」

「飛び降りだよ、飛び降り……。二年くらい前だったかな、僕はある場所で飛び降りたんだよ」

「一体どうしたんだよ」


 わざとらしいと自分でも思いながら、赤木は尋ねずにはいられなかった。今すぐにでも全部聞き出したいという気持ちを押し隠した。当時、室井は友人の一人ではあったが、それほど目立つ生徒ではなかった。目立ちすぎず、かといって気になるほどでもない。空気のような存在と言えばいいのか、よく言えば平凡な男だった。

 そんな男が飛び降りたのだという。自分より”下”がいるという思いは優越感すら覚えたが、そんな自分の心境さえ室井にばれていやしないかと、赤木は少しばかり居心地の悪いものを感じた。ひょっとしたら面倒な事に巻き込まれたのではないかという思いも。


「笑わないで、……いや、怒らないで、聞いてもらえるか」

「え? ……あ、ああ。約束する」


 妙な物言いをした相手に、赤木は曖昧に答えた。

 室井は口を開き、ボソボソとした声で淡々とこんなような話をし始めた。


「この話をするには、僕が子供の頃から抱えている妙な癖の事から話さなくちゃならない。赤木とは友達だったけれど、今まで一度もこの話をしたことはなかったね。……いや、僕は赤木以外にも、誰にもこの話をした事がなかった。

 きみが初めてという事になる。


 ……僕がこの危険を伴う恐怖を快感として戯れるようになったのは、高校生の最後のあたりだった。ちょうど僕らが受験の真っただ中にいた時の事だね。

 といっても、兆候は子供の頃から存在していた。それが開花しただけのことだ。その頃の僕は、コンクリートの塀や花壇を囲むレンガの上に乗って遊んでいた。ただそれだけだった。

 なんと説明していいかわからないが、自分が落ちるギリギリのところに踵を乗せ、つま先を空中に飛び出させるんだ。かかとにしっかりと重心を置いて、時には片方の足を宙にあげて、地面までぽっかり空いた空間へと差し出す。きみだって、柵もあるような絶対に安全なところにいるときに、おっかなびっくり空中に片足を差し出してみたような経験はないかい?

 おそらくみんなは落ちるか落ちないかの瀬戸際でうまく渡りきる事を遊びの中心にしていたんだろうけど、僕は違った。


 僕が違う遊びをしている事に多分みんな気付いていた。ただ、そこで僕が無上の喜びと快感を得ているのは気付いていなかったんだ。周りのみんながそういった遊びを卒業していく中、僕だけは時折この遊びを続けたから。

 けれども、僕だけの密やかな一人遊びは、多少のうしろめたさの中で廃れてしまった。中学にあがるころになると、そんなことはついぞ忘れてしまったんだ。中学、高校と僕はそんなことを忘れて、勉強に打ち込んだ。両親が煩かったからね……。高校の頃の僕を覚えているかい? きみと会ったのは三年の時だったけれど、毎日毎日同じ事を繰り返して……特に大学受験の頃になると、僕もまた親の期待に応えようと色々とやったよ。頭に入ってこない数式と年号にいらだって、覚えられない自分を責めたりした。

 そんな時だった。

 僕はふと、歩道橋の階段の一番上で立ち止まった……。

 下を眺めながら、その最上段からつま先だけを少しずつ空中に投げ出してみた。これ以上やると落ちてしまうというところまでね。

 バカバカしいと思うだろうか。

 でも僕にとっては、それは日々の鬱憤が恐怖とないまぜになって、なにかすっきりしたような気分になったんだ。想像できないかもしれないけれど、それはそれでいい。

 普通だったら大声を出したりとか物に当たったりとかするけれど、僕にとってはそういうのと同じ次元だったんだよ。


 それ以来、僕は何かあるとその遊びをした。もはや僕にとってそれは懐かしさに浸るような遊びではなかった。恐怖と危険のぎりぎりのところで均衡を保つ、僕自身が人生を生きる事と同義だったんだ。

 あと少しで、この足が落ちてしまうという恐怖。背中に走る緊張。それがたまらなく気持ちよかったんだ……」


 室井はそこで一度言葉を切って、茶を飲んだ。


「……それが話か?」

「いいや、本題はこれからなんだ」


 息を吐き出してから、室井は続きを話し始めた。


「もうここまで言えばわかるかもしれないけど、僕は大学に入ってからもそれを続けた。大学ではサークルにも入ってなかったし、基本一人だったからね。その頃にはストレスがどうとかではなく、完全に自分の趣味になっていた……。あまりにも無頓着な僕を見かねたんだろう、ゼミの教授に言われてボランティアでも始める事にした。僕が選んだのは、そう、NPOの自殺防止団体だ。特に、飛び降りのね。

 ……酷いと思うかい?

 でも僕にとっては、それは、僕の――僕の”性癖”を満足させるのを兼ねていたんだよ。それにこれはとても良い事であると自分に言い聞かせていた。今思えば下に見ていたんだ。そこまで思いつめる人々の事を見下して、救って心を癒してあげないといけない存在だというようにね。そうして僕の性癖を正当化していた。そして、自分自身を安心させていた。誰かを救うための理由をどこに求めようといいじゃないか、とね……。

 僕はボランティア団体の中でも熱心な若者だと思われるようになっていた。何度も見回りと称して、恐れもせずに橋や崖に近づいていくからね。ただ実際、橋や崖の上で今にも飛び降りそうな人を説得するなんて機会はほとんどなかった。学生だから授業だってあるし……本当はできるだけそんな人々には関わりたくなかった。説得なんかは先輩たちに任せて、僕はその後ろで話を聞くだけだった。……皮肉な事に、それがある意味良かったみたいだけれど。


 僕は自殺者の心境が知りたいとかなんとか言って、理由をつけては橋や崖の上に行った。僕は大学では理工学を専門にしていたけど、人の心には興味があってね。実際それは嘘じゃなかったし、多少なりとも誰にでもあると思う。だからきっとそこに行けば自殺をしてしまう人たちの追い詰められた気持ちがわかるんじゃないか、なんてことを言っていた。

 そうして僕はひとりで崖のギリギリに立って、ぞくぞくする感覚を味わった。目で、耳で、足で、全身で味わいつくした。興奮のあまりに何度も落ちそうになるのを堪えなければならなかった。極上の蜜を目の前にされたようだった。

 わかるかい。足のすぐ下に何もない空間が広がっている場所というのは、階段みたいに人が上り下りするために作られた場所よりももっと気分が良かったんだ。


 でも、そんなのはいつまでも続くもんじゃない。どれだけ気を付けていてもね。いや、気を付けていたからこそだ。

 僕はある時、市内にある……有名な崖に行った。名前は出さないけど、市内の有名な崖って言えばわかるんじゃないかな……。ほら、隣の市との境目の……滝の近く……いわゆる自殺の名所だよ。昔は結構騒がれたけど、今はさっぱりだよね。自殺を思いとどまらせる看板なんかも無い。思うけどあれ、逆効果なんじゃないかな。ここは自殺の名所です、よく飛び降りがあるんですって逆に宣伝しているようなものだよね。今は無いっていうけど、それでもたまにあそこで飛び込む人がいるんだ。たいていは市内の人じゃなくて、遠くからやってくる人だけど。たまに観光のふりをして、あそこに見回りに行くんだ。僕もそこに立ったよ。

 それでね。そこでとんでもないことが起こった。


 そうだよ。足を踏み外したんだ。


 僕は崖に立って、下を見下ろした。あそこは下で川が流れていてね。周りは本当に綺麗な場所だったよ。自然豊かで、里山っていうんだったかな、ちゃんと細部に光が入るように人の手が入れながら、きちんと自然と人間との線引きがされているところだよ。けれどもそこだけはどうしてか鬱蒼としていた。暗くて昼間でも薄暗くて、何か呼ばれるような気分になるんだ。少し離れたところからは滝の音も聞こえてきて、それがまるで大地の脈動のようにすら聞こえた。なんだか大地に還る事ができるような気がしたよ、ここで人生を終わらせたいと思わせるようなね。そんな不思議な魅力のあるところだった……死に対してね。

 知ってるかい、あそこにも怪談があるんだ。別に幽霊が出るとか出ないとか言っているわけじゃない……。昔、自殺が相次いだ時にまことしやかに囁かれたんだ。『あそこで飛び込むのなら、絶対に死なないといけない。生き残ってはいけない。もし生き残ってしまったら、死ぬまで呪われる』なんていうんだぜ。おかしいだろ。僕はそんな噂信じちゃいなかった。これっぽっちもね……。

 足を踏み外した時も、そんな噂の事は思い出さなかった。わかるかい、落ちるときって一瞬じゃあないんだ。今から思えば一瞬だったけれど、その時は浮遊感の中でやけにゆっくりと視界の中で川が近づいてきて、僕はそのまま水に叩きつけられた。自分の視界を一定に保てないから、眩暈を起こしたように思った。……少なくとも、僕はね。最大限気を付けていたつもりだった。突然足元が滑ったような感じだった。濡れているところには近づいてはいけなかったのに、僕はその光景に見入っていた……。もう少し足を踏み出してみたかった……。僕は欲望を抑えきる事ができなかったんだ。

 僕は一命をとりとめた。独りで向かったわけではなかったからね。後からやってきた同じ団体の先輩が、僕の姿が無い事に気付いたらしいんだ。そして、川に流されている僕を見つけてくれた。横に逸れていたのが幸いだったと言われたよ。僕は足を滑らせた事を認めた。まさか自分からそこに立ったとは言わなかったけどね。警察の人にも団体の人にも怒られたよ。

 退院した僕が日常に戻ると、ゼミの知り合いや教授が声をかけてくれた。しばらくはあの遊びも控えようと思ったけど、それは入院している間だけだった。ふと道で階段を見た時には、僕の中の衝動はそれほど強いものではなかった。別に嫌になったわけじゃない。あの遊びはもう精神に染みついてしまっていた。ただそんな気分じゃなかった、ただそれだけだった。

 それなのに……、あの……、あの声が、聞こえたんだ。


 女の声だった。「どうして踏み出さないの」と言った。

 周りを見回したけれど誰もいなかった。その時は気のせいで片付けた。だが……だがそれ以来だ! それ以来ずっと女の声で、僕があの恐怖に塗れた遊びに使っていた場所を通る度に、ちょうど良い場所を通るたびに……女が後ろから言うんだ。


 どうして踏み出さないの。

 どうして踏み出さないの。

 どうして踏み出さないの。


 自分の頭がおかしくなったのかと思ったよ。病院ではまったく異常は見られなくて、幸運にも後遺症らしきものは見つからなかった。けれども僕が欲望に駆られる度に、女は僕へと同じ事を言ったんだ。その声はね、誰の声なんていうのかはわからない。ごく普通に問いかけるようにして僕に言うんだ。どうして踏み出さないの、とね。何度も。何度も何度も何度も!

 僕が一度、階段の上で下を見下ろして、足先を空中へ投げ出した時。やはり彼女は同じ事を言った。何度も何度も! 同じ事を訪ねてくるんだ!

 そして僕はあの崖の怪談を、ようやく思い出したんだ!


 …………。


 彼女の事はね、ひとつもわからない。ひとつもわからないんだ。ただこれが、生き残ってしまった者に与えられる呪いなんじゃないかな。なにしろ、彼女の声はもう僕があの欲望を露わにしない時でも急に現れるようになってしまった。階段を降りるとき、高い場所にいるとき、脚立に登っているとき。……そしてビルの上にいるとき。きっと恐怖で遊び続けた僕が憎いに違いない。僕が恐怖と遊び続けたせいで、抜け出せなくなってしまったせいで、死者を冒涜したように思ったのかもしれない。

 彼女は僕が飛び降りて死ぬまで声を掛け続けるんだろうね。


 彼女は今も僕と一緒にいるんだから……」


 室井はそういうと、顔を抑えて膝を抱え込むように腰を曲げた。

 赤木は何も言えなかった。ただつばを飲みこみ、旧友の姿に圧倒されるしかなかった。

 ――呪われているだって?――ありえない。


 赤木は室井の言った事について考えていた。おそらく彼の精神は、自分がやっていた事に少なからず後ろめたさを感じていたに違いない。それで幻聴に悩まされているんだろう。それゆえに精神不安定になってしまったに違いない。呪いなんていうのはありえない。そう言ってやりたかった。同時に、今すぐにこの家から追い出してしまいたかった。

 ――とにかく、心理内科にかかった方がいい。自分はカウンセラーや精神科医などではないのだから、彼にとってより良い治療法など思いつくはずもない。赤木がその結論に達したとき、室井は腰をあげてこう言った。


「すまない。取り乱してしまって。……もう大丈夫だ、変な話を聞かせてすまないな……」

「……ああ。だが、きみは混乱している。近いうちに病院に……」

「……これで失礼するよ」


 室井は赤木の言葉を遮ると、そう言って立ち上がって自分の荷物をひっつかんだ。

 玄関まで送るという言葉すら制して、彼は部屋を出て行った。慌てて立ち上がり部屋を出ると、室井は既に玄関で靴を履いているところだった。


「室井」


 声をかけると、少しだけ後ろを向いて頭を下げた。そしてそのまま玄関を開けて行くのを見た時、赤木はぎょっとした。

 玄関に掛けられた姿見の中に、室井の後を続いて出て行く女の姿が視えたのだ。女は室井と同じ距離感を保つようにして、そのまま外へと出て行った。

 赤木はもう一度鏡の中を覗き込んだが、そこにはもう何も映ってはいなかった。


 いつまでもいつまでも鏡の中を覗き込み、そして、離れた。

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