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あと八十一本... 「鏡」

「あの病院の事? よく覚えてますよ」


 おばあちゃんはそう切り出した。

 将来看護婦にでもなろうかな、と話したのがきっかけだ。今は看護婦ではなく男女あわせて看護士というのだが、おばあちゃんのおかげでいまだに私の中では看護婦だ。単純にその時は、おっとりとした祖母が昔そうだったというから、自分でもなれるんじゃないかとか、まぁ世の中の看護士のみなさまには至極失礼な事を思っていた。

 おばあちゃんだって長い年月の間におっとりと落ち着いただけで、現役次代はバリバリに働いていたらしい。だが、普段の大人しい物腰からは想像もつかなかった。


 そんな風にぽろっと言ってしまった私に、おばあちゃんが聞かせてくれたのはとても不思議な話だった。

 おそらく言いたい事というのは、病院というのはね人の生と死に密接にかかわっている場所で、もし看護婦になるつもりなら、彼らの生きざまを見なさい。と、そういう言葉に集約されていた。けれどもそれに伴って話してくれたのは、死ぬ人を寒気でわかる…わかってしまう、同僚の看護婦の事だった。

 私は、ひょっとしてそれは祖母自身の話だったのではないかとも疑っていた。でも、おばあちゃんにはおばあちゃんの人生があったわけで、私の知らない友人がいたとしても不思議ではない。私は考えるのをやめて、話を終えたおばあちゃんに言った。


「確か、総合病院だっけ?」

「ええ、そうよ。今はもう無いのだけれどね」


 私は何か無いかと思い出したが、微妙な心地だった。

 黒岩総合病院。

 もう無いとはいうが、実は建物自体はまだ残っている。買い手もつかないまま放置されているのは有名だ。そのうえ、時々肝試し感覚で誰か忍び込んでいるらしい。友達の友達が、更に友達の友達に聞いてきた……、なんていう信憑性の無いような話でも、中は落書きだらけになってしまっているというのはしっかりと伝わってきた。


「あそこってまだ買い手がつかないのかなぁ、なんかたまり場になってるらしいし、早く見つかればいいのにね。変な噂も立ってるしさ」

「変な噂って、何かあった?」


 怪訝な表情で聞いてきたので、私はちょっと言いよどんだ後、考えてから言った。


「あそこ不良のたまり場になってるって言ったでしょ。その理由がさ、今も幽霊が出るっていう噂があるからなの。元が病院だったからっていうのもあるんだろうけど、結局肝試しの延長なんだよ」

「あそこに幽霊ねえ……」

「手術室に何か出るとか、あと病院で死んじゃった人の遺体を置いておくところ……、なんて言ったっけ、遺体安置所だっけ? あそこで御念仏が聞こえたとかね。もっとわけわかんないのだと、ほら、確か裏庭に昔の古井戸が残ってるんでしょ。あそこから、お姉ちゃん助けてーって声がするとか……」

「美香ちゃん、その話誰に聞いたの」

 

 おばあちゃんが急に鋭い声を出したので、ちょっと驚いてしまった。


「誰っていうか……知らないよ、よく言われてる噂だし。友達の友達から回ってきたり……。おばあちゃん、知ってるの?」


 姿勢を正してから聞くと、おばあちゃんはちょっと躊躇った後に口を開いた。

 それは、こんな話だった。


 その病院には、一人の女の子が入院していた。

 もともと体の弱い子だった。最初は通院だったのが、一度入院させて治療に専念させてはどうか、という意向があった。彼女には妹が一人いて、二人はお見舞いに来る度に仲良く話しているのが目撃されていた。


 妹は五歳離れていて、病弱な姉と違って元気な子だった。それでも姉妹仲が悪くないように見えたのは、きっとその後の事があったせいだった。


 入院の初日に二人でベッドで眠っていたり、その後もお見舞いに来る度に姉が病院であった事を少し怖く怪談風にアレンジして妹に話す、という具合で、看護婦たちは苦笑しながらも仲睦まじい様子にほほえましい気分になっていた。


 確かその時はもう学校に通っていたのかな、でもそれでなくても、病院の地理の関係上、二人はなかなか会えなかった。そのうえ両親も入院費の事で共働きをしていたから、余計に。

 妹さんは土曜日の午後に連れられてきていた。母親が定期的に医者と話をしている間、二人は仲好く怪談を話したり、聞いたりしていた。その様子はなんともほほえましいもので、看護婦たちはそっとその時間だけは二人きりにしてあげようと、なんとなく部屋に入るのを避けた。

 もともと回診の時間からは外れていたし、何かあれば向こうから言ってくるだろうと思っていた。できるだけ毛布は必要でないかとかいうようなことは、その時間が来る前に尋ねるようにしていた。

 いつしか看護婦たちの中で、土曜日のその時間だけは部屋に近づかないというのが、決まりごとのようになっていた。

 そんなある日の事だった。

 いつもの土曜日、その時間。

 部屋の前を通りかかった時に聞こえた楽しそうな笑い声に、ふと湧き上がった悪戯心から、そっと部屋を覗き見た。

 どんな光景があったか。


 そこには、鏡を見つめたまま怪談を語る女の子がいた。


 最初、看護婦には彼女が何をしているのかまったくわからなかった。けれどボソボソと話しこまれる様子から、彼女が誰かに語り掛けるように、鏡に向かって怪談を話しているのだとわかった。

 いつものように。

 妹に語り掛けるように。


 見てはいけないものを見てしまった感覚にとらわれて、看護婦はそっとその場を後にした。そういえば奥さんも旦那さんも最近は見かけない、という事に気が付くと、何かぞっとするようなものを感じた。


 後で聞いたところによると――それもあくまで噂の域を出ないという話だったが――、入院を決めたのは母親の意向だったが、入院費の事や共働きの現状、その他にも夫婦の意向にズレがあったようだ。ストレスがあったのか、どちらともなくノイローゼに近くなり、彼女がまだ入院しているというのに二人は別居状態になってしまったというのだ。妹は父親に引き取られ、ついに病院にすら来られなくなってしまった。それはあまりに突然の事だった。母親だけは偶に来ていたようだが、やはり日々の忙しさに追われてそれほど頻繁には来なくなっていた。

 それでも入院費だけは振り込まれていた。それが原因でもあったのかもしれない。

 そして、そんな状態になってもなお、いつもの時間には楽しそうな声だけが聞こえていた。看護婦たちは二人が会っていない事に気が付かなかったのだ。


 最初は寂しさだったのかもしれない。


 妹が来ない事に気付いた彼女は、手鏡の中の自分の顔を妹に見立てて怪談を話し、自分で感想を言う、という一人芝居をし始めたに違いなかった。そして妹が来なくなってからというもの、毎週欠かさずそれを続けていたのだ。

 彼女はそれ以外にはごく普通の反応を示したし、土曜日のその時以外にはそんなことはなかった。おかしな言動をする事もなかった。それでも土曜日のいつもの面会時間になると、鏡を取り出して妹に見立てて話をしていた。

 担当の看護婦はどうしようかと少し話し合った。実害がないのなら放っておけばいいのではないか。精神科の方に掛け合うかどうか。でもどうやって彼女にそれを伝えればいいのか。

 答えは出なかった。


 それとなく、看護婦の一人が鏡を取り上げてみる事になった。といっても無理やりにではなく、綺麗な鏡だねとか、規則でこういうのは危ないからとか適当な事を言って持ち去ってしまったのだ。彼女はそれで納得して頷いた。

 本当に、土曜日になると妹がやってくると確信しているようだった……。


 そして土曜日がやってきた。様子を見る事を任ぜられた看護婦がおっかなびっくり部屋を覗くと、彼女は鏡を探す事なく本を読んでいた。

 いささかほっとして今日は妹さん来ないねぇ、と何となく声をかけると、そうなの、忙しいのかなぁ。などという答えが返ってきた。

 そして次の週、その次、と土曜日がやってきたが、彼女は平然としていた。看護婦たちはほっと胸をなでおろした。


 そして、きたるべき土曜日がやってきた。


 その日、病院は騒がしかった。

 何もかもが重なっていた。患者同士の小競り合いや煩く会話する見舞客、入院していた老人が粗相をした、なんていう日常茶飯事に加え、手術がいくつも重なっていたり、おまけに交通事故で撥ねられた男性が運ばれてきた。更にその男性の奥さんも同じく入院中で、見舞いに来る途中の出来事だったようだ。奥さんに付き添っていた姑が、看護婦から連絡を受けて真っ青な顔で説明を聞いていた。

 そんな風に、病院内はいつになくばたばたしていた。

 だから、誰も彼女がその時間に部屋を抜け出していたことに気が付かなかった。あるいは彼女を見ていたのかもしれないが、鏡がなくなった事で”変な癖”がおさまったのだとしか思わなかった。

 彼女は探し続けていたのだ、妹を。鏡の中の妹を探して、院内を彷徨った。トイレや廊下に掛けてある鏡も見たかもしれない。いったいどうしてそこまで行ってしまったのか、誰にもわからない。


 彼女はひとけのない庭先にまでやってくると、ついに発見してしまった。


 それは病院の片隅で役目を終えた古井戸だった。

 古井戸は完全に乾いていたわけではなく、少し木陰になったところにあったせいなのか、雨が降ったりすると上の蓋から水がしみ込んでしまい、底に数センチほど溜まってしまうのだ。

 そして、覗き込むと自分の姿がぼんやりと見える。

 彼女にとって、それは大きな鏡だったに違いない。

 妹に見立てた鏡の中の自分、あるいは自分自身に見立てた鏡の中の自分がそこにいた。


”おねぇちゃんたすけて”


 悲痛な声を響かせながら、彼女の体は井戸の中へ落ちていったのだろう。


 私はその声が今にも聞こえてきそうな気がして、息をのんだ。

 おばあちゃんは湯呑に一口、唇をつけてから続けた。


「……その後ね」

「えっ?」

「その井戸の中に飛び込む人が増えたの。どういうわけかはわからない……。ただ、何か探し求めるものがその下にあるみたいにして、何人かが井戸の中に飛び込んだの。別にその女の子が呼んだんだとかは言わないわよ。閉鎖したのはそれから一年か二年後だし……、でも、その間も飛び降りは続いたし、井戸の埋め立て計画が進んでいた直後くらいの閉鎖だったみたいね。病院の閉鎖の一端を担ったのは確かよ」


 それきり黙り込んでしまった。

 私も、何を言っていいかわからなかった。なんという話だろう。今の話は本当なのだろうか。……それでも、病院で頻発する井戸への飛び降りに関しては、幽霊だのなんだので片付けられる問題じゃなかったんだろう。それが自殺にしろ事故にしろ、病院側への責任は問われる。今だってそんな事があれば、マスコミの恰好の餌食になる。

 多分それは事実なのだ。

 でも何故、彼らは井戸の中に飛び込んだのだろう。井戸の底に、そんなにも焦がれるものがあったのだろうか。彼女のように。意識の底にあったものを揺り動かされたのだろうか。無意識イドの中の死の欲動に向かって。


 重苦しい沈黙が流れて、私は何を言っていいのかもわからなくなってしまった。


「……あ、お茶無くなっちゃった」


 私はその余韻にも似た沈黙を、自ら破った。


「あら。新しいの淹れてこようか」

「いいよ、ちょっと欲しかっただけだし、朝淹れたのがやかんに残ってるでしょ」


 私はそこで話を終えて、席を立った。

 たぶん祖母も何を言っていいのかわからなかったのだ。台所に向かいながら、居間で気分にあわない芸人の笑い声が聞こえた。テレビをつけたに違いない。やかんのお茶を確認しながら、私はぼうっと考えていた。

 ひょっとしたら、看護婦たちの間でその姉妹の話が歪曲して伝わって、それで怖い話として残ってしまったんじゃないだろうか。そうに違いない。幽霊なんて、そんなことがあるわけがない。

 そもそも、その病院の裏庭にある井戸とは何なのだろう? 何故すぐに埋め立てなかったのだろう?

 その時は、答えは永遠に出ない気がした。


「ねぇ美香ちゃん、今テレビに出てるの、この俳優さんあなたの好きな人じゃなかった?」

「え、ほんと?」


 私は考えるのをやめて、祖母の声に急いで居間に戻った。

 祖母もきっと考えたくはなかったのだ。

 私は気にしていないふりをしてそのままテレビにかじりつき、黒岩総合病院の姉妹の話など忘れてしまった。


 この後、なんの因果か、私は黒岩総合病院に行く事になってしまった。本当は行きたくなかったのだが、どうしてもと懇願されて断り切れなかったからだ。そこで何があったかなど思い出したくはない。

 一つ分かったことは、あの子は今でもニセモノの妹として、姉を、自分自身を呼び続けている。


 あの井戸がなくなるまで、永遠に。

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