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あと八十三本... 「かくれんぼ」

 お姉ちゃんは私の事をりっちゃんと呼んでいた。


「お姉ちゃん」


 そういって私はいつものように、面会時間ちょうどに姉の部屋で迎えられるはずだった。

 真っ白な部屋はいつも清潔で綺麗だった。殺風景と言えば殺風景だけれど、とても落ち着いている部屋だった……。

 いつもの道をたどったはずだった。お姉ちゃんの部屋に行く前にトイレに行って鏡を見て、髪をちょっと整える。そんないつも通りの土曜日のはずだった。


 お姉ちゃんだってきっと一緒だ。いつものように、面会時間ちょうどに私を迎えてくれる気持ちでいたのに違いない……。



***



 妹は我慢強く私が病気と闘っているのを見守っていた。それはお母さんやお父さんも同じだし、一人部屋だからって妹は騒がなかった。それに私は、こっそりと患者さんや看護婦さんたちの裏話をして、妹が退屈しないようにしていた。

 小児病棟の子供たちがゲームを巡って喧嘩になったとか。どこそこの患者さんが突然喋れなくなったと思って看護婦さんが大騒ぎしてたら、実は入れ歯をどこかに置き忘れてしまっただけだったとか。そんな話をたくさんした。


 他にも私は妹に色々な話をした。特に病院であった怖い話をたくさんした。

 私が入院した時、一度だけ本当に怖い体験をしたけれど、本当にあったのはそれだけだった。

 けれども、怯えて私を頼ってくれる妹の姿はとても愛らしかった。自分でも驚くほどに愛しいという想いが湧いて出てきた。

 私はそんな妹を手放したくなかった。

 いつも外に遊びに出かけられる元気な妹が、こんなにも怯えて私を頼ってくれる。そんな姿に今まで無かったような愛しささえ感じた。怖がりながらも病弱な私を好いてくれるのは嬉しかったけれど、それ以上に妹がようやく自分の物になったような気がした。


「これは本当のお話よ」


 そう言いながら私は妹に色々な話をした……、本当に色々な話を。

 でも、その日来るはずの妹は来なかった。妹を連れてくるはずのお父さんとお母さんも来なかった。二人の姿はここのところずっと見えないけれど、私にはどうでもよかった。とにかく、妹がいればよかった。

 それなのに、その妹までこの何回かずっと来ない。

 どうして来る事ができないんだろう?

 私はベッドの上で上半身を起こしたまま、ずっと考えていた。今日は調子が良いから、起き上る事もできた。ベッドから降りて探しに行く事もできそうだった。


 ひょっとして、先生に捕まって会いにこれなくなっているんだろうか?

 部屋の外をそっと覗くと、看護婦さんたちが忙しそうに走り回っていた。こういうときは、何かあった時に決まっている。たとえば緊急の患者さんが入って、手が空いている人たちが駆り出されたとか。たいてい私たちみたいな入院患者には何も知らされない。入院中のおばちゃんたちの井戸端会議で”何かあったのかしらねぇ”、なんてのんきに話されてる程度で終わってしまう。


 私はナースセンターの前をそっと通ったけれど、誰も私に関心を寄せる人はいなかった。見られていたかもしれないけど、堂々と通り過ぎれば大丈夫。それに、看護婦さんたちは忙しそうだった。看護婦さんたちはいつも通りに見えたけれど、独特の緊張感のようなものは漂ってきていた。やっぱり何かあったに違いない。

 私はナースセンターを通り過ぎて、トイレに向かった。


 妹はいつもトイレに寄って髪を整えてから私の部屋に来る。それがいつものパターンだった。電気をつけて中に入ると、手前から二つ分の個室が開いていた。奥の個室は閉まっている。

 ひょっとして今日は来てくれたんだろうか。

 手洗い場の鏡の前を通ると、妹の視線を感じた気がした。振り向く前に、ジャー、と水が流れる音がして鍵が開いた。


 ぱっと目線を向けると、入院患者のおばさんが一人、よろよろと手洗い場に来るのが見えた。私はがっかりして、入らないのかと不思議そうにこちらを見たおばさんを残してトイレを後にした。


 もう時間はとっくに過ぎていた。私は意を決して、下の階に行くことを決めた。

 入院患者の人でも、体調がいい人は売店に新聞や雑誌を買いに行くことはあった。だからパジャマや入院着の人たちが歩き回っていてもおかしくはない。妹も、前はよく売店でお菓子を買いに行く事もあったから、そこにいるのかもという微かな期待を寄せていた。

 売店は三階にある。隣には喫茶コーナーがあって、お昼ご飯をここで食べる人も少なくなかった。暇を持て余した患者さんたちが何人か売店の前のテーブルとイスが置いてあるところに座って雑誌を読んでいたり、お見舞いにきた人たちと何か食べながら談笑している事もある。

 今はお昼時はもう過ぎてしまっていたからか、お見舞いみたいな女の子が一人そこに座っているだけだった。

 私は売店の中に入ると、ぐるりと一周してから辺りを見回した。どういうわけか、迷っているふりをしながら見てしまった。妹を探しているのだから当然だけれど、なにも買うものがなかったからどことなく居心地の悪いものを感じたのもある。


 結局私は売店から出てくると、溜息をつくことになった。


 やっぱり妹は今日は来てないのだろうか。ううん、そんなことはない。今日こそ来てくれるはずなんだ。今日こそ……。


 私は次に図書スペースに向かって歩き出した。あそこに行くには別の科の患者さんたちの前を通る必要があるけど、特に不思議には思われないはず。

 図書スペースといっても、脳の病気はこんな風ですとか、一か所の病気でもそれぞれ症状が違うとかいうパンフレットが置いてあったり、全部そういった医学本だった。読んでもつまらなかったし、これなら一階の待合室に置いてあるマンガの方がまだ楽しかった。時々誰かが待ち人の少ないときに行っているらしく、そういう時は見逃されていた。

 私は足を延ばして一階のマンガスペースにまで行ってみたけれど、そこにも今日は誰もいなかった。待合室全体を見回しても、マスクをしたお兄さんやおじさん、足に包帯をしたお姉さんなんかがいるだけで、いつもと変わりなかった。


 またいなかった。

 本当にいないのだろうか?


 いや、違う。

 妹は来ているはず。来てくれているはずだ。

 私はそう確信していた。

 もうかくれんぼはやめにして、早く出てこればいいのに……。


 私は階段の行ったり来たりを繰り返して、疲れきっていた。

 元々それほど体が丈夫なわけじゃない。だからこそここに入院する事にもなったのだけれど。もう部屋に帰りたかった。

 それでも私はあきらめきれずに、患者さんがよく向かう裏庭に向かった。


 裏庭は患者さんがいつでも少し歩けるように整備してあった。外は暗く、雨でも降りそうな天気だったせいか、今は誰もいなかった。いつもより静かだ。

 向こうには花が植えられた小さな花壇があって、今の季節の花を咲かせていた。名前は知らないけれど、くすんだ白やピンク色の花が寂しく風にあおられ、虚しく揺れていた。すぐそばには手洗い場があって、その隣に古い井戸があった。

 井戸は昔、この病院を建て替える前からあったらしい。ちかくに手洗い場を作った事でお役御免になって、上に備え付けられた滑車やなんかは取り外されたらしいのだけれど、上に板だけを置いた状態で放置されていた。危ないからという理由でもうそろそろ潰す予定なんだという。

 ぴしゃん、と音がした気がした。


 私は不意にその下から声がした気がして、少しだけ板をずらした。

 ズズー、という重そうな音が耳に響く。思わず辺りを見回したけれど、誰もいなかった。


 その下には暗い空間が続いていた。ぞっとするほどの暗闇が続いていた。もう少しだけ板をずらすと、ようやく光が届きはじめた。

 その時、私ははっとして息をのんだ。


 いた。


 妹がそこにいた。


 私は知らぬ間に井戸の底に手を伸ばしていた。

 うっすらと溜まった水の底から妹が私と同じように、私に手を伸ばしている。

 まるで鏡合わせだ。


 いつそこに落ちてしまったの。


「おねぇちゃんたすけて」


 その言葉が耳に届いた。暗い井戸の底から妹が私を呼んでいる。呼んでいるに違いない。井戸の中に反響して、いっそう深く私の耳に届いた。どこから呼んでいるのかもわからない。


「おねぇちゃんたすけて」


 声は私の喉から出ていた。


 だけどそんなはずはない。妹はあそこから呼んでいるんだから、私の喉からするはずなんてないのだ。あれはきっと妹が、私の喉を通じて声を届けていたんだ。だから待ってて。行ってあげる。私が行かないと。


「おねぇちゃんたすけて」


 私はいつの間にか、井戸の中から空を見上げ、そこにいるはずのない自分自身を求めて声をあげていた。


 そういえば、妹は何故いつも一人で来ていたのだろう。

 何故、「私」はいつも一人で来ていたのだろう……。

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