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あと八十四本... 「はないちもんめ」

 一か月前、美咲の母親が入院した。


 その理由を詳しくは知らなかったが、もともと遅く生まれた美咲に初めて兄弟ができるとなれば、たいていの人はその理由をどことなく察した。それに加えて、早産の可能性があったらしいが、美咲はぴんとこなかった。

 それよりも、自分の事は二の次で、生まれてくる赤ちゃんの事ばかり話して気にしている事にいらいらしていた。友達からもみんな、妹や弟ばかりずるい、という話ばかり聞かされていて、それで余計に居た堪れない気分になった。赤ちゃんが生まれたらもっとそんなことになるのだろうか?


 入院以来こうして病院に様子を見に来てはいたが、真っ白な病院の中は、美咲にとってすぐに退屈なものに変わってしまった。そっと待合室にまで降りて、隅の本棚の近くの椅子に座って、初めて見るようなタイトルの少女マンガ雑誌を読み始めた。シリアスな絵柄のファンタジーを読み進めると、それだけで急に自分が大人になった気がした。

 しばらくそうして何号かを読んでいると、不意に目の前に影が落ちた。


「ねぇ、お見舞いにきたの?」

 その声に顔をあげると、見知らぬ女の子が立っていた。

 くすんだピンク色のパジャマを着て、こっちを見つめている。


「そうだよ。あなたは患者さん?」

「うん。あんたはお見舞いの人でしょ」

「どうしてわかったの?」

「だって、向こうから来たじゃん」

 彼女がそう指さした先には廊下があった。それに、待合室に来てからゆうに三十分以上が経過している。その間に何人もの人が呼ばれては帰ってきていた。

「ねぇ、名前は?」

「美咲」

「ミサキちゃんかぁ。あたしは由梨」


 由梨と名乗ったピンク色のパジャマの女の子は、そう言って美咲の隣に座り込んだ。その日は土曜日の夕方で、ほとんど人がいなかった。そろそろ診療時間も終わりのはずだった。

 由梨は美咲よりだいぶ小さく見えたが、二人は同じ年だった。体調のいい時にはこうしてこっそりと一階のマンガコーナーへやってくるのだと言った。


「上の階には本は無いの?」

「あるけど、難しい本ばっかり。つまんないからこっちに降りてくるの。ミサキちゃんは誰のお見舞いにきたの?」


 美咲は正直に赤ちゃんが生まれる事を話した。


「へー! おめでとう、きょうだいかぁ。あたしも欲しいなぁ、いいなぁ」

「良くないよ。パパもママにつきっきりだし」

「ふぅん、そうなんだ。でもそれより、もうちょっとミサキちゃんの話を聞きたいな。あたし、ずっと病院にいたから」


 美咲と由梨はしばらく話し合った。

 幼稚園の事、家の事、テレビのヒーローの事、いやな男の子がいる事、幼稚園で育てているチョウチョの幼虫の事、大雨で家の中にまで水が入ってきた事、マンガの事、アニメのヒロインの事。

 待合室の大人たちもそれほど気にならなかったのか、隅で話し合う二人には目もくれなかった。たいてい由梨が何かを訪ねて、美咲がそれにこたえるというのが定着していっていた。


「ねぇミサキちゃん。一緒に遊ぼうよ」

「大丈夫なの?」と美咲は聞いてから続けた。「何がいいの?」

「はないちもんめ」

「でもそれ、大勢でやる遊びだよ」

 何人か子供がいないか美咲は探してみたが、いたとして今度は場所がない。

「できるよ。いつも病院の中でやってるから。座ったまんまでやるんだよ」

「そうなの? どうやって」

「まずはね、最初の歌を歌うの。かって嬉しいはないちもんめ」

 由梨が歌いだしたので、美咲はちょっとぽかんとしてから続けた。


 まけてくやしいはないちもんめ

 あの子がほしい あの子じゃわからん

 その子がほしい その子じゃわからん

 相談しましょ そうしましょ


 二人はひそひそと歌い上げていた。美咲はこっそりと周りを見回してみたが、誰も二人の事を気に留めるような者はいなかった。

 美咲が最後を歌い終えると、由梨はにっこり笑った。


「わたしはねーー、ミサキちゃんのきょうだい、欲しい」


 美咲はちょっと噴きだしそうになった。まだ生まれてすらいないのに、と思った。でもあまりにも由梨が自然なように言うから、たぶんまだ此処にいない子の事をやり取りして、自分たちは極力動かないようにするんだろう。はっきりと言葉にしたわけではないが、美咲はそう思った。

 返事をする前に、聞きなれた父親が呼ぶ声がして、美咲ははっとした。


「ごめんね、もう行かなきゃ。また今度ね」


 美咲は置きっぱなしにしていたマンガを本棚にしまい、由梨に手を振った。父親のところまで椅子の間をすり抜けていった。


「また続きは今度やろうね」という声が後ろから聞こえた。


 それから美咲は由梨の事をすっかり忘れてしまっていた。美咲はなかなか病院に連れてきてもらえなかったし、父親も勤め先と病院を行き来するのに忙しく、余裕がなかった。

 ようやく病院に来ることができたのは、ある日の土曜日だった。美咲は出産後に来ることが決まっていた。だからその前に一度母親に会わせておこうという意図があったのだろう。けれどもその算段は、母親が急に産気づいた事で崩れた。それでも予定日よりずっと早いそれは、本当に急に起こった。

 トイレから戻ってきた美咲は、父親の慌てる声にどうしていいかわからなくなった。


「美咲はここにいなさい。お腹が空いたら、二階に売店があるから」


 父親は千円札を一枚渡して、バッグの中に入れるように言った。美咲には何が起こっているのかわからなかったが、とにかく大変な事が起こったというのは理解できた。父親は慌てていたようだが、それでも冷静に対処していく看護婦さんたちを見ると、少しだけほっとした。

 それでも部屋の中にじっとしていることはできず、美咲は部屋の外に出た。売店でジュースを買いその前の喫茶スペースで飲んだ。誰もいない事もあいまって、なかなか落ち着かなかった。その時、声をかけるものがあった。


「ミサキちゃん」

「……ユリちゃん?」


 由梨は以前であった時と同じピンクのパジャマだった。おかげできちんと記憶が戻ってきたのもあって、美咲は少しばかりほっとした。


「どうしたの?」

「あ……ママが、もう産まれそうだからって……今、看護婦さんたちが連れていって……」

「そうなんだ」


 それっきり由梨は黙ってしまった。

 外は雨が降りそうなほどの曇天で、電気がついているとはいえどことなく重苦しかった。そのうえ母親が早産だという現実は美咲にはぼんやりとしかわからず、何か話をする気にもなれなかった。大好きな母親が赤ちゃんと一緒に死んでしまうんじゃないか、そういった不安が美咲の中から湧き上がってきていた。

 由梨も何も言わなかった。

 てっきり美咲は、由梨が自分の事をなんとなく察してくれているのだと思っていた。美咲が顔を上げた時の、その笑顔を見るまでは。

 美咲はぽかんとした顔で満面の笑みを見つめると、少しばかりむっとした。


「じゃあ、この間の続きをしようよ」

「え?」

「はないちもんめ、相談するんでしょ」


 そう言って由梨は美咲の手をぐいと掴んだ。異様なほど冷たいその手に美咲はびっくりして、離そうとした。由梨の手はまるで同世代の、(しかも入院している)女の子とは思えず、その手はまた引き寄せられてしまった。


「……なに? なんか由梨ちゃん、変だよ」


 相談しようよ。そういった由梨の声はあまりにもぞっとするようなものだった。テープを逆回しにしたような声で、本当に由梨の喉から出ているのか疑ってしまうようなものだった。


 かって嬉しいはないちもんめ


 その声のまま由梨が歌いだして、美咲ははっとした。

 続きをやっちゃいけない。

 言われた通り、連れて行かれてしまう。


 美咲は急に怖くなって、由梨の手を思い切り振り払った。そしてそのまま走り出し、階段を駆け上って看護婦にぶつかるまで走り抜けた。

 由梨は追ってこなかったが、あの視線がいつまでも追ってくるような気がしてならなかった。看護婦は美咲に注意をしたが、腰が抜けたまま泣き顔になっている美咲を見ると、逆に何があったのか聞いてくれた。美咲は何も言えなかったが、顔見知りの看護婦が、入院している母親が手術室に運び込まれた事を言うと、それ以上は追及されなかった。


 早く帰りたかった。一刻も早く病院から出たかった。茫然としているところに父親がやってきて、ホイクキに入れられて云々という話を聞いたが、美咲は青い顔をしたままだった。


 美咲は家に帰されたが、まだ母親は帰ってこない。

 赤ちゃんの容体が落ち着いたら一緒に行こうな、と父親は言った。家には父方の祖父母がいて、父親と何やら話していた。

 きっとまた次に行ったら由梨に会うんだろう。そしてたぶん、相談しないといけないんだろう。美咲はそう思った。はないちもんめは相談が決まらなかったら、公平にジャンケンをすることぐらい知っていた。もしそこで負けてしまったら、赤ちゃんは「向こう側」に行ってしまうんだろうか。


 それはつまり……。


 美咲はじっと自分の手を見つめた後、この間まで自分だけのものだった大人たちの様子を見た……。

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