あと八十五本... 「図書館」
まだ僕が若かった時の話だ。
当時、胃潰瘍で入院した事があったんだ。壁にあながあきかけていていたらしくてね。いや、あいていたのだったかな…、まぁとにかく、黒岩総合病院って知っているかい、今はもう無い病院なんだけれど、そこで入院していた。その入院中の時だったのだけれど、妙な夢を見たんだ。
僕はその当時から本を読むのが好きでね。でも当時は貧乏でなかなか本も買えなかったから、よく図書館に出向いて借りていた。中央図書館の近辺に住んでいたから、ちょくちょく自転車で借りに行ってたんだよ。
区立のものより広くて綺麗で、地下には広い自習室と一緒にちょっとした喫茶店があって、そこでよく昼飯を食べていた。あそこのスパゲッティはおいしかったなぁ。
話が逸れたけれど、今は内視鏡だのなんだのって、それほど大きな手術でもなさそうだけれどね。当時はまだ開腹手術と言って、お腹を開いての手術でね。どれくらいかかったかなぁ、二か月かそこらは入院と言われたかな。実際もう少しいたような気がするけれど、とにかく家にあった何冊かの本を携えて入院生活に挑んだんだ。
ところが、やっぱり入院しているとやる事がない。今のようにケータイだのパソコンだのあればまだマシだったのかもしれないけれど、それでもテレビを見るか本を読むかしかない。その本もすぐに読み終わってしまってね。何度も読んでいるうちに段々とやる事がなくなってしまった。親に言って何かもってきてもらえれば良かったんだけど、うちにある本もほとんどは読んでしまっていた。
胃も痛かったけれど、退屈も耐え難かった。もう何度読んだかわからない、すり切れはじめたような本を毎日手にとって毎日を過ごした。病院にも小さな図書室――というよりは図書置き場のようなものがあったけれど、本棚が一つきりあるような小さなスペースだった。置いてあるものも医学関係のものがほとんどで、糖尿病の警告やそれぞれの腎臓病の違いが書かれた小冊子が大量に置いてあったり、まぁ自分が病気になっている時に余計に気が滅入るかもしれないと思って、一度訪ねてみたきりだった。とにかく退院したら一番に図書館に行こうと思ったものさ。
そんなある日の事だった。昼間についうとうとしてしまった僕は、ある夢を見た。ぺたぺたと病院の廊下を歩いて、今までまったく通った事もない突き当りのドアをくぐるんだ。そこは裏階段のような場所で、暗いから僕はあまり利用していなかった。人もあまり通らないし、やっぱり不気味だったからね。
でも夢の中じゃそこは違った。ぱっと出た場所が、見慣れた図書館でね。ははぁ、これは図書館に行こう行こうという想いが強すぎて、ついに夢にまで見てしまったのだなと思ったものだ。何しろ今出てきた場所というのが、カウンターの隣にある奥まったドアで、たぶん司書や働いている人たちの専用入口みたいなところだったからだ。職員専用扉とでもいえばいいのかな。僕自身は一介の利用者にすぎないから、そんなところは通らない。開いているところを一度見たけれど、衝立が置いてあってあまり見えないようにしてあった。
そんなドアから僕は出てきたわけだ。普段は入れもしないのにね。でもそのまま、記憶の図書館の中をぶらぶらとしたよ。それがねぇ、何度も行っているだけあって、ほぼ中央図書館そのままだった。
くすんだ赤色のカーペットは僕の足音を全部吸収してくれた。懐かしい感触だったね。僕が胃の痛みで転がりまわってからというもの、かなりご無沙汰だったから。新刊のコーナーを抜けると、茶色く変色した古い本のあの独特のにおいもそのままだった。平日の昼間から来ている人たちといえば、家でゴロゴロしているのを追い出された暇なおじさんたちか、レポートや研究に追われる学生たちだけだった。
彼らは僕の存在になど気付きもしないようだった。僕は彼らの隣をすり抜けて、日本文学だとか、海外のミステリーだとか、そういう小説類だのが置かれている場所に辿りついた。ぐるりと見回すと、僕の頭はどこに何が置いてあるかを完璧に記憶しているようだった。それで、ここの間の本が借りられているとか、こっちの本が別の棚に置かれたままになっているだとかいうことを一つ一つ確認していった。
僕はそれからまたぶらぶらと図書館の中を歩き回ったあと、出てきたドアへと入り込んだ。どうして普段の入口から出なかったのかはわからないけど、夢の中だし、出てきた場所から戻るのはその時は当たり前の事だった。僕の視界は一瞬にして図書館から病院の廊下に戻り、密かに抜け出したのを恐れる患者のようにこそこそと病室に戻った。そうしてベッドに戻ったところで目が覚めたんだ。
その夢は一度だけではなかった。寝ている間、幾度となく僕は病院の廊下を歩き、図書館へと抜けた。そして今日はあの本が無いだとか、テレビで話題だった本が入ったとか、そういう事を逐一確認して、自分の妄想と想像力を可笑しく思ったものさ。
そうして、ついに手術の時が来た。僕は手術室に運ばれ、麻酔を打たれた。もうあっという間だったよ。そんな時にも僕はあの夢を見たんだ。気がついたら図書館にいて、いつものようにぶらぶらとしていたよ。
ところがだね。ふと僕は思ったんだ。そういえば夢の始まりはいつも病院の廊下から職員専用扉を通って図書館に来ていたとね。それなら、と僕はいつもと違う、普段使っている正面玄関から出てみようと思い立ったのだ。
僕はいつも出る専用扉とはちょうど真向いにある正面玄関へと向かった。
そこは二重扉になっていてね、二つともガラス張りだったんだが、不思議な事に外は真っ暗というより真っ黒だった。夢の図書館がこれだけ鮮明なのに、どうして外だけがこんなにおぼろげどころか突き抜けて真っ黒なのかと、とても不思議だった。一枚目の扉を開けて玄関口に出ると、催し物やポスターが貼り出された掲示板が見えた。そこも真っ黒だった。何も貼られていないんだ。傘立てに何もないのはいいとして、せめて休館日くらい貼り出されているのは覚えているかと思ったのにね。なんだか妙だった。
とうとう僕は怖くなって、夢の出口である職員専用扉から抜け出した。どうせあの夢はまた見ると思ったからね。その時にふと目を覚ますと、両親の心配そうな顔があった。どうやら手術が終わって、しばらく目を覚まさなかったらしい…。
それ以来、不思議な事に図書館の夢を見る事はなかった。まぁ手術も終わったし、回復に時間はかかるだろうけれど、傷が塞がれば退院できると思っていたからね。
…不思議なのはここからなんだ。
いやぁそれがさ、退院して、久々に図書館に行ったんだよ。
そしたら、なんでも図書館に白い服の幽霊が出るって噂が広まっていてね。それが、入院着にそっくりだっていうんだ。よくよく話を聞いたら、病院の入院着みたいなものを着た幽霊が、時折図書館の中をうろうろしていたらしい。それも決まって、最後にはカウンター横の職員専用扉から消えるっていうんだ。
若い男で、ちょうど僕のような背格好だったという。おかげで図書館ができる前は病院だったんじゃないかとか、間違った噂までたっていたよ。
職員さんたちの中には恐ろしがって、帰り際の夜にその扉を抜けるのを怖がったというんだね。それが、ちょうど僕があの夢を見ていた頃と見事に合致していた。
どうも僕は生霊になったまま、実際に図書館に行っていたらしい。
あのまま、元の扉を通らずに帰ろうとしたら、どうなっていたのだろうね。




