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あと八十六本... 「夜はお静かに」

 ――お姉ちゃんの事は今でも覚えている。


 私は姉の事が好きだったし、姉も私の事は嫌っていなかったはずだ。五歳離れた彼女は、周りからは不思議がられるほどに私の面倒を見てくれたと思う。

 思うというのは、姉との記憶はある日を境に途切れているからだ。

 泣きつく私の相手を来る日も来る日もやってくれていた姉との思い出は、私の中の「綺麗な思い出」として存在しているせいかもしれない。それというのも、兄弟や姉妹がそれほど仲が良いのは珍しいとだいぶ経った頃に言われたからだ。ひょっとしたら今でも一緒にいたら結果は違っていたかもしれないと、少しだけ考えてしまう。

 それでもあの頃の私は、姉の事が好きだった。


 そんな姉との最後の記憶は、あの病院のベッドで途切れている。


 詳細を聞いた事は無かったが、姉はいつごろからか既に入院していた。私はいつも決まった曜日にお見舞いに行く事になっていたから、単純な風邪だとかいうものでもなかっただろう。

 病院の位置は町から少し離れた閑静な場所にあり、まだ小さかった私は自分の足で向かうことができなかった。もしそんな頭があったとしても、自分で行くという選択肢に気が付かなかっただろう。お姉ちゃんに会いたいとぐずる私を、両親は困った目で見つめたに違いない。

 単に病院ならもっと町に近いところもあったけれど、小さい開業医ばかりだったというのもある。だから仕方のない事だった。とにかく入院設備の整った総合病院が、一番近くても車か電車を使わなければならないという場所にあった。


 一度だけ、母親と二人で病院に泊まり込んだ事がある。


「かえっちゃやだ」


 入院初日の事で、姉もさみしかったのだと思う。その後は次第に慣れていったのか、後にも先にも姉がそう言ったのは一度きりだ。ひょっとしたら私のいないところで母か父に告げた事はあるかもしれないが。

 母は当時携帯電話を持っておらず、一階まで連絡のための電話をしに行った。その間、少しだけ興奮した私は姉に何か色々な話をしたように思う。

 何しろ、病院とはいうものの、総合病院になど行った事がない。せいぜい近所の開業医のところで風邪を診てもらう程度で、見る物すべてが珍しかったのだ。消灯時間はとっくに過ぎてきていたのだが、そんな時間まで起きている事も私の興奮を助長した。


 姉と話す声も段々大きくなっていったのだろう。

 途中で姉が何度も唇の前に人差し指を立てて、静かにしなきゃ駄目だよ、と言っていた。

 そのたびに気を付けてはいたのだが、私の声は興奮でだんだんと大きくなっていった。


 その時だった。ふと何気なく話題が途切れた時に、廊下から、ぺたっ…ぺたっ…というスリッパの音が聞こえてきた。やたらとゆっくりと歩くようなその音は、最初は看護婦ではなくどこかの患者さんかと思ったほどだった。

 その音はやがて姉の病室の前で止まった。

 母が帰ってきたのだろうか。

 私は音の奇妙さに気付くまでもなく、椅子から飛び降りてドアに近づいた。


「りっちゃん」


 駄目、と聞こえたような気がしたが、私は構わずにドアを開けてしまった。

 姉の病室は当時一人部屋で、引き戸になっていた。ドアはカラカラと静かな音を立てて開き、目の前に白衣を着た女性の姿が飛び込んできた。

 看護婦さんだ、と瞬間的に思ったが、その顔を見上げた私は思わず後ずさりした。


「夜は、お静かに…お願いします…」


 その看護婦は、あまりにも生気がなく、冷たい空気を放っていた。

 諭すでもなく、怒鳴るでもなく、あまりに淡々と、看護婦らしからぬ重々しさをもってそれを言葉に出した。

 そして何より、その眼には黒目がなく、裏返っているかのように真っ白だった。ハァー、ハァー、という息遣いは聞こえてくるのに、まったく息をしているという気がしない。

 私は声が出ず、追いかけてきた姉を助けを求めるように見た。

 姉は、しぃっ、というように唇の前に一本手を立てた。


「すみません、もう寝ますから」


 姉はベッドを抜け出してくると、そっと私の肩に手を回して後ろへ追いやった。

 その看護婦はそれを聞いて、ようやく私から廊下へと顔を向けた。

 歩き方も尋常な遅さで、ぺたっ…ぺたっ…といつまでもスリッパの音が響いていた。

 姉は引き戸になっているドアを閉めると、しばらく黙り込んでから私に言った。


「お姉ちゃんと一緒に寝よう」


 私は震えていた。

 電気が消された部屋の中で、私は姉に抱かれて眠った。姉の病気が感染を伴うものでなかったのが救いだった。思えば姉も怖かったのかもしれない。お互いに怖いのを慰めあっていたのだ。それでも、またあのぺたっ…ぺたっ…という音が聞こえてきそうで恐ろしかった。


 次の日私は帰る事になった。

 母方の祖母が家に来てくれて色々と世話を焼いてくれたが、私は姉が怖い目にあっていないか心配だった。それからは決まった曜日に姉のもとへとお見舞いという名目で通ったが、あれほど恐ろしい目にあったのはあれが最初で最後だったように思う。それでも病院に泊まるようなことはそれ以降なかったから、あの看護婦に会わなかっただけのようにも思うけれど。


 姉に守ってもらったと感じてから、私は余計にお姉ちゃん子になったような気がする。それから姉と別れるまでの間、私は姉にべったりだった。

 もっともその話はまた別の話なので、違う機会にする事にしよう…。

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