あと八十七本... 「ホテル」
その日は朝から雨が降っていて、暗い雲が街全体を覆っていた。
平日なのも手伝って、人通りはほとんどなかった。これで昼間だというのだから商売あがったりだ。そう思って、客がいそうな駅の周辺や大通りをタクシーでひた走っていた時だった。
「黒岩総合病院までお願いしたいんですが」
そのホテルの前で手をあげていた客はそう言った。
街中にあるそのホテルは、見たところそう豪華でもなく、ビジネスホテルといった風合いだった。入口の前から突き出ている透明な屋根は、おそらくタクシーを利用する客への雨避けもかねているのだろう。車道近くまでせり出していて、歩道の一部に影を落としていた。。
客は男で、服装は紺のスーツ姿。見たところ三十後半代ぐらいだ。ネクタイをきっちりと締め、髪もきちんと整っていて、どことなく表情は疲れた中年といったていだった。その客には悪かったが、とても営業や販売に携わる者にはとても見えなかった。
あるいはそれは、男の疲れたような表情に起因したのかもしれない。
「黒岩総合病院ね」
総合病院とはいったものの、その名前に聞き覚えはなかった。
このタクシー業界に入ったのはつい最近のことだった。リストラの波には逆らえず、どうしてもと上司に頼み込まれ、結局は首を切られたのだった。しかし、若い頃に第二種運転免許をとっておいた事が功を奏したか、運よくタクシー運転手への再就職が決まった。空きがあったのも幸いだ。
道に関してはまったくのど素人だったものの、ある程度有名な場所ならわかるようになっていた。たとえば病院はその最たるもので、最近では小さな開業医でも何となく場所がわかるようになってきた。
「すいませんが、まだまだ新人でしてね。もし差支えなければ、道、教えていただけませんか?」
「わかりました」
男は特に急いでいる様子はなさそうだった。
いったい何の用事があるというのだろう。しかし、むやみに詮索して嫌がられても、道中の空気が悪くなるだけだ。
「…次の信号、右にお願いします」
「はい」
指示に従い、車を右折させるために進路変更をする。ぼそぼそと籠ったような声だったが、特に不審なところはなかった。とにかく暗い客だったが、こっちも客商売だし、こういう客は稀にいた。傍若無人な客を乗せた時は目を白黒させたものだが、世の中にはいろいろな人間がいるという事を学び始めていたのだ。
タクシー運転手とは、ある意味で人の人生を垣間見る事ができる商売なのかもしれない。
しかし、とにかく話題を提供しなくてはと思っていたのもあるし、話上手のタクシー運転手への憧れも手伝って、何気ない会話を吹っかけた。
「お客さん、ここら辺の方ですか?」
「…いいえ」
「へぇー。それじゃあ、あのホテルに泊まってたとか」
「…はい。そうなんです」
「じゃあ、病院へは誰かのお見舞いですか」
「はい。…あ、そこを、左に」
男は暗い雰囲気はあったものの、聞かれたことには素直に答えてくれていた。それでも話下手なのか、それ以上の事は言ってくれなかった。
車は段々と大通りから離れていったが、通った事のある道もあったせいか、総合病院への道のりを覚えるのはわりと簡単そうだった。
地図を見るのは今でもたまに戸惑う事はあるが、それでも実際に通る方がはるかに頭に入る。結局、途中から話は中断され、男の説明を聞きながらその方向へ向かう事になった。重苦しい沈黙が続くよりははるかにマシだったが、それでもどことなく車内には妙な空気が漂っていた。
するうちに、また見覚えのある景色が目に入ってきた。
「お客さん、こっちでいいんですか?」
ふと不安になって、男に尋ねる。
「はい」
男がそう答えたので、しぶしぶ車を動かした。
どうも、道をぐるりと一周して、見たような大通りへと戻ってきているように感じたのだ。それも昼間でも人通りのある繁華街ではなく、今はことごとく店をしめているような裏通りを走らせている。裏通りといっても繁華街の一角ではあるだけなので、夜になれば人が増えるような場所だ。ただ雨と昼間のせいで余計に暗く見えて、どことなく寂れた印象を受けるばかりだった。
「次を、右へ」
男の指示に従って、まがった時だった。違和感はついに現実となった。
ここは、最初に男を乗せたホテルの通りだ。
仕方なくホテルの前に車を寄せ、一時停車して溜息をついた。
「お客さん、ここ最初のホテルじゃないですか」
言ってから、少しだけ非難めいた言い方になってしまったのを後悔した。
ひょっとして迷ったのだろうか。だから方角がわかる、最初の場所に戻ってきたのだろうか?
「…おかしいなぁ」
男の呟きが聞こえる。さっきまでよりもずっと籠ったような声だ。
「大丈夫ですか? もう一度向かいましょうか」
「おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ」
男はぶつぶつと同じ事を繰り返していた。
「病院につかないんです。おかしいなぁ、病院につかないんです。おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ」
「お客さん? あんまりふざけてるようだと警察呼びますよ」
「おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ、おかしいなぁ…」
「お客さん、このまま警察―――」
「おかしいんだ!!」
がつんと衝撃が走り、後ろからひどく冷たい手が首に絡み付いた。雨とはいえ明らかに体は冷たすぎた。異様な力と冷たさに、思わず手を振り回す。何度か手がドアや背もたれに当たったが、興奮の為か痛みは少なかった。
「やめてください!」
自分でも驚くような大声が喉からつきあがってきたあと、腕に何かが当たる感触があった。おそらく突き飛ばしたのだ。するりと手が離れ、鏡の中で男が席に戻りながら呻いているのが見えた。
「うううううっうう…」
とにかく警察に電話する事しか考えていなかった。そのまま後ろを振り向き、警察に電話するためにとっさに携帯電話を持った。
そこには――、誰もいなかった。
そんな馬鹿な。こんな一瞬で出て行けるはずがない。
ドアを開ける音もしなかったし、ただただウィンカーのカチカチいう音が響いているだけだった。
会社に帰って話をすると、教育係だった先輩と共に上司に呼び出され、注意を受けた。
どうも、あのホテルから黒岩総合病院に行くスーツ姿の男がいたとしても、乗せてはいけないと言われていたらしい。そしてそれを伝えるのを忘れていたというのだった。
でも、もし本当にその病院に行く客がいたとしたら、と訴えたが、それは無理な相談なのだという。黒岩総合病院もとっくに十数年前に既に廃業し、無くなっていると言われてしまった。
なんでもまだ病院が建っていたころ、ホテルからタクシーで病院に向かおうとした客がいたという。だが電話をした際に名前を名乗り忘れたらしく、他の客を先に乗せられていってしまう。仕方なく急いで別の場所まで行こうとしたところ、事故にあって死んだのだという。小さな記事とはいえ新聞沙汰にもなったらしく、実家近くで入院していた奥さんの見舞いに来ていたという事が言葉少なに書いてあったという。どうも妻の実家の世話になるのは断ったらしい。
…それから男を乗せる事はなかった。
タクシー運転手としての生活にも慣れてきた頃、運転手から民間に密やかに広がった噂が根を張ったのか、それとも別の理由があったのか、先日ホテルも潰れてしまったと聞いた。ホテルには悪い結果になったとは思うが、あのままでも良くはなかったと思う。
それにしても、あの客はホテルに憑いていたのだろうか?
それとも道に憑いていたのだろうか。
最近、別のビジネスホテルが場所を買い取り、立て直して新たなホテルとして営業を開始するそうだ。
もしそうなったらあの男はどうするのだろう。今はそれが少しだけ、気になった。




