ベッカライウグイス④ 初夏のデニッシュとリスさんの結婚会議
ベッカライウグイスを羽鳥さんが旅立ち、シューさんが来訪。
そして、店主リスさんの結婚会議は開かれる!
春は酣を過ぎ、初夏を迎えようとしていた。
ソメイヨシノには、小さな実が下がり、色づくのを待っている。私は、ベッカライウグイスからの帰り道、陽を透かして鷹揚に揺らめく葉の中に、鳥の喜ぶさくらんぼを眺めるのが楽しかった。
濃く薄く、世界のあらゆる緑が輝き、あるいは不透明に重なり合う。葉擦れの音が、耳元にざわめく。
街路樹の下には、ルピナスが伸び出し、色彩を溢れさせた花を咲かせた。それは、のぼり藤と言われるとおり房を上に登らせ、降り注ぐ光をすべて反射させて眩しい。黄色も赤も青も、オレンジやアプリコットや紫も、様々な色の房は成功した魔術のようで、一つの花房が虹を乗せたように色づいているものさえあった。
お尻をむくむくさせた蜂とすれ違うことも増えた。蜂が蜜を集める姿は、見飽きることがない。生き物は季節の階に憩い、額に差す陽光に気づいて微睡みから醒める。
このところ、リスさんと私は、初夏に新しいペストリーを売り出そうと、あれこれ考えては試作を重ねていた。
ペストリーの主役は、クロワッサン生地とクリームとフルーツである。理想は、少し旬を先取りしたフルーツを使うことだが、それではやはりコストがかかりすぎてしまう。さくらんぼ、びわ、メロン、桃……それらは初夏に黄金期のフルーツだが、旬に達しても価格が高い。では、どんなフルーツでまだ淡い夏の味を表現していけばいいのだろう、私は頭をひねった。
そこでリスさんは、甘夏柑を候補筆頭にあげた。甘夏柑ならばピールも利用できるし、果肉もたくさん利用できる。甘酸っぱい爽やかな風味は夏の始まりへの期待に相応しく、色彩も鮮やかだ。
私は、尊敬の念を感じつつ、リスさんに賛同した。
午後2時を回り、お客さんの訪れが落ち着くと、リスさんと私は、工場で楽しい実験を繰り返した。
ほんの少し柔らかめに作ったカスタードクリームには、甘夏ピールを細かく刻んだ物を混ぜ、上に載せる果肉のコンポートには輝くナパージュをこぼす。この季節になると、リスさんはナパージュに粉寒天を使うのだと教えてくれた。私は、リスさんの配合通り、鍋でナパージュを煮た。そこに、オンラインショップから取り寄せたばかりの甘夏のリキュールを加える。甘夏づくしである。酸味と甘味をふわっと湧き立たせた湯気が、鍋を覗く私の顔を包み、あまりの幸福感にリスさんを振り返った。リスさんは、分かるよ、という表情で二度頷いた。
本当ならば、甘夏ピールは4、5日かけて作った方がいいのだ、とリスさんは言った。
「今年の3月に、みずほさんが作ってくれた『いよかんピール』ならあるのだけれど……」
私は、綺麗に瓶詰めされたいよかんピールが冷蔵庫に保管されているのを知っていた。熱湯消毒した瓶詰めをさらに冷蔵保存するとは念入りだ、と思ったが、食品を扱う場合そのくらいがいいのかも知れないと思う。
「でも、いよかんと甘夏はやっぱり違うから、今年は即席にするしかないわね。……売れ行きを見て、お客さんたちが気に入ってくれたら、来年の分をみずほさんにお願いして作ってもらうわね」
私は、頷いた。
リスさんは、昨日作った甘夏ピールの砂糖煮を、細かなみじん切りにしてごく少量をカスタードクリームに混ぜた。あまり多すぎては、せっかくのカスタードクリームが甘夏味に変わってしまうから、配合は大事だった。
正方形に切ったデニッシュ生地を、一度、三角形に折って、包丁で切り込みを入れる。再び開いて、向かい合う角同士を、切り込みの内側で合わせると、ダイヤ型といわれる形になる。真ん中に四角い窪みと、それを囲う生地の土手ができるわけだ。その窪みフォークで穴を開けておき、小さく切り取ったシートを乗せ、さらにアルミでできた豆をざらざらと載せる。そうすると、焼いたときに窪み部分は膨らまずにできあがる。そこにカスタードクリームと甘夏のコンポートを載せ、ナパージュをかけると、宝石のようなデニッシュの完成である。
「うーん……」
リスさんは、美しいデニッシュを見て小さくうなった。
「どうしました?」
何があるというのか私は疑問だった。
「なんかね、……足りない」
えっ。何が……。
私は、完璧な焼き上がりとしつらえのデニッシュを手のひらに載せたまま、じっと見つめた。
あっ!
「リスさん、見てください」
私は、手のひらの甘夏デニッシュを、冷却用のショーケースに入れた。
ショーケースの中には、暖色の蛍光灯が灯っている。
そこにちょこんと入ったデニッシュは、輝くように美味しそうだった。綺麗なとろりとした甘夏色が光っている。隠されたクリームは、食べてみないと分からない甘夏ピール入りである。
「素敵ですよ!」
私は、太鼓判を押した。
「う~ん」
リスさんは、難しい顔をしている。
「デニッシュは、お菓子ではないんだけど、お菓子でもあるじゃない?」
私は、少し首を傾げた。
「ケーキやタルトよりも実用的っていうか、でもやっぱり綺麗だったり華やかだったりするのも必要なのよ。満足度として」
そう言われればそうである。
「でも、コスト面もありますし、やっぱりタルトのようにふんだんに装飾するのは……」
私も考えながら言った。
「そうよね、そうなのよ。どうしたらいいかしらね……」
私たちは、今日の実験でできあがった、それは美味しい甘夏ペストリーを食べながら休憩し、コーヒーを飲んだ。
カランコロン
そこへ、みっちゃんがやってきた。
私たちは、甘夏デニッシュを手に持ったまま、ショーケースの奥のスツールから立ち上がり、
「いらっしゃいませ」
と声を合わせ、みっちゃんを迎えた。みっちゃんもお客様のひとりである。
「あ、りすちゃん。三多さん、こんにちは。まだ帰ってなくてよかった」
私は、軽く首を傾げた。何か用事なのだろうか。
みっちゃんは、私たちの手元をのぞき込むと
「それ、いいね。ぼくのもある?」
と注文した。
リスさんと私は、茶目っ気を出し、笑いながらみっちゃんを見た。
「う~ん。どうしよっかな~。まだ試作品だから……」
私もリスさんに倣った。
「う~ん。みっちゃんもお客さまだし、お客さまはみな平等じゃないと、あとで赤間さんに、いいな~って言われちゃうかも」
赤間さんとは、ベッカライウグイスの常連さんのひとりで、近所のおしゃべり好きなマダムである。
みっちゃんは、娘のようなリスさんにからかわれ、ご満悦である。もちろん、その要求は引っ込める。
「うん、そうだよね。じゃぁ、そのチーズロールにしようかな」
みっちゃんは、ショーケースに残っていたチーズロールを指さして、カウンターへ向かっていった。
私は、チーズロールと、先ほど入れたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、みっちゃんの元へと運んだ。
「ね、三多さん」
「はい?」
「もし都合がよければなんだけど、今日、これから残れる?」
私は、みっちゃんの突然の申し出に、思わずリスさんを振り返って見た。リスさんは、ショーケースの奥から少し困った顔をしてこちらを見ていた。なんだろう……。しかし、みっちゃんがそう言うのなら、私のここでの仕事についてなのかもしれないしと思い、私は二つ返事で了承した。
「大丈夫です。残れます」
夕暮れ時、ベッカライウグイスのショーケースが空っぽになると、リスさんは、カウンターのダウンライトを落とした。その瞬間、店内は、昼間には見ない景色と空気に変わった。
この時間帯にいるのは、羽鳥さんの送別会以来だった。
いつも午後3時に仕事終わりを迎える私は、とうに帰宅している時間帯であった。
ベッカライウグイスのパンは、午後3時を過ぎると、あらかた売れてしまう。だが、たまにそうは知らずにやってくるお客さんが来てくれたときのために、午後5時近くまでお店を開けている。そんなお客さんは残念そうに残っているパンを一つ、二つ求め、リスさんはお詫びにコーヒーや焼き菓子をごちそうするのだった。そんなリスさんの人柄をたいていのお客さんは気に入っていて、後日、パンのたくさんある時間帯に再び訪れ、そうして常連さんは少しずつ増えている。リスさんは、焼くパンの数を多く売れ残らないように、だが足りなくはないように、毎日記録を付けて管理している。
いつもならば、私が帰宅した後、リスさんは翌日の食パンとハードロールのミキシングを始め、発酵機に収納する。その傍ら、翌日分のカスタードクリームやチョコレートクリームを作り、足りなくなったフルーツの煮込みやナパージュを準備する。
「リスさん、コンポートのお手伝します」
みっちゃんが残って欲しいという夕刻まで、どうやらまだ時間がありそうだだったので、私はリスさんにそう言ってみる。リスさんは微笑みながら言った。
「ありがとうございます。でも、三多さんはもう仕事終わりだから、大丈夫ですよ」
そう言いながら、カウンターからこちらを伺っているらしいみっちゃんの方へ目をやって言った。
「みっちゃんが、三多さんにも話を聞いて欲しいっていうことなのね?三多さん、もう少しでみんな揃うから、休んで待っていて。こっちも、すぐに終わらせちゃうから」
そうして、みっちゃんと私は、窓辺のカウンターに腰掛け、二人でコーヒーを飲みながら、そっとリスさんを見守ることになった。
リスさんは、レジスターの置かれている、木製の大きな机の下から、踏み台を引っ張り出した。それを持って外へ出ると、『ベッカライウグイス』の小さな吊り看板を下げ、次に扉に掛けられたプレートをひっくり返してクローズにした。背が低めなリスさんには不可欠な踏み台と、取り外した吊り看板を持って、彼女は再び店内に戻った。踏み台を持った体が左右に揺れると、リスさんの尻尾のような長い巻き毛がふさふさとその背中で動いた。
リスさんは、踏み台を元の場所へ納めると、腰を上げ、小さな溜息を吐いた。それは、一日の仕事終わりが訪れた、ふっとした安心感から出たものかもしれないし、あるいは違うのかも知れない。
「そういえば、シューさん、今頃どの辺りでしょうね?」
私は思い出して、隣のみっちゃんに言った。
シューさんは、数日前、突然このベッカライウグイスを訪れ、我々を混乱に巻き込んだ後、観光をするのだと、これまた嵐のように去って行った。
リスさんからは、こちらに仕事があって来たのだが、その仕事まで少しだけ間があるので、周遊のためあちらこちらへと出掛けているのだ、と聞いていた。リスさんのパソコンに、豪快に食事をする写真を、何枚も送ってきているのを私は知っていた。そして、シューさんのことを思い出すと、まるで二つで一つの形のように、みっちゃんの名前が頭に浮かぶ。
虎男、と書く。
混乱の翌日に、私はさくらさんから教えてもった。みっちゃんは、およそ虎男という勇猛な外見からはかけ離れた人物だが、先日の様子からみるとそれほどかけ離れてもいないのではないか、と思う。
カランコロン
営業時間は終わっているが、私は
「いらっしゃいませ」
と言って反射的に体を伸ばし、扉から現れた人物を見た。
弘子さんだった。
「こんにちは。こんばんは、かな?」
「いらっしゃい、弘子さん」
リスさんが笑顔で迎える。そんなリスさんに、弘子さんは少し遠慮がちに言った。
「リスちゃん……、みずほさんから聞いたんだけど、シューさんと一緒に住むって、本当?」
えっ?!
私は、弘子さんの言葉を反芻した。
リスさん、本当?
リスさんは、目を見開くと、難しい顔をして言った。
「うん……そうかな」
私は仰天した。
リスさんとシューさんって、そういう関係なんだ……!ということは……。
私は、みっちゃんへ目をやった。みっちゃんの目が泳ぐ。どういうこと?今夜は、まさかリスさんの結婚会議なの……?!
ベッカライウグイスの夕暮れは、やがてありえない夜へと向かっていくのだった。
読んでくださる方々へ
本当に、ありがとうございます!
夜遅くに読んでくださったり、忙しい時間帯に読んでくださったり、
Upしてすぐに読んでくださったり、本当に感謝しかありません。
つたなく、足りないところの多い作品ですが、
読んでくださる方々と私自身のために書いています。
まだ、シリーズ設定などもうまくできないのですが、
これからも読んでくださると嬉しいです。
どうか、よろしくお願いいたします。




