① ベッカライのリスさん
春のお引っ越し。
新しい街にやってきた私。わくわく。
まだ誰も、私のことは知らない。私もまだ、誰のことも知らない。
リスさんが店主のパン屋さん「ベッカライウグイス」で繰り広げられる、
個性豊かなご近所さんのほのぼの物語。
引っ越してきてまだ間もない頃だった。
私は、まだ知らない、初めての道を散策していた。
午前から午後へと移りかけるなかで、ぽっかりとできた狭間の時間に、陽は熱を帯び始める。まだ灰緑の小さな木の葉は初夏の予感を呼吸しながら、春を楽しんでいた。
この街の春は、訪れるのが遅いことを私は知っていた。底知れぬほど長く続く冬に、ふと雪解けの気配を人々が感じたときから少しずつ、春は辺りで憩い始める。冷たい空気と強い風の中で、ごく遠慮がちに、だが確実に季節はうつろう。春は、めくるめく夏とは違い、穏やかに辺りを包んでいく。優しい吐息に触れられた植物たちが、ほんの僅かに雪の残る地面から顔を覗かせ、春は始まったばかりだった。
私は、小さな氷に変わって煌めく雪と柔らかに焦げた地面と球根の芽を辿りながら、新しい季節を連れてきた街の空気を吸い込んだ。
引っ越しをしたことはめったになかった。だからこの四月の風は、私の心にまで吹き込んで、ずっと気づかずにいた感覚を呼び覚した。
生きることは鮮やかに瑞々しい。
住宅街を歩く人々はまばらだった。
幹線道路を一本中へ入ってしまうと、車通りも静かなものだ。飾りレンガの広い歩道が続く街並みに、交差点には信号もあるが、人も車も少ない。新参者がきょろきょろと辺りを見回しながら歩いても、誰も不審には思わないだろう。
私は、のんびりと家々の庭や表札を見ながら探索を進めた。植物だけでなく、私は珍しい名字が好きだった。
勘野さん……、久須美さん……一方井さん……。これは、なかなかの収穫である。でも、この街に私の名前を知っている人は誰もいない。私も、誰のこともまだ知らない。知らない街は、歩道についた傷や、手入れのされた跡さえも気になってしまう。それは、街の人々の癖や気質の一つに思えた。
春が訪れたばかりだというのに、午後になると、急に気温は初夏の匂いを醸成し始めた。もう、僅かばかり残った雪は今日中に溶けてしまうだろう。軽く汗ばむのを感じ、私は上着を脱いで腕に掛けた。緩やかになった風が、耳元の汗を拭っていく。
私には、とくに行く当ても時間の制約も目的も、何もなかった。ただ、通り過ぎていく風の心地よさと、吹かれる髪がかすかにたてる音を聞きながら楽しんだ。
ほどなくして、行く手に小さな公園が現れた。
スミレやクロッカスや、そんな小さな花や名もなく地面に繁茂する花を見つけることは嬉しい。地面を探して、目立たない水色や紫の野生種のスミレを発見すると、私は人知れず微笑んだ。
私は、公園に足を踏み入れることなく、外の歩道を歩いた。街路樹の根元に伸びつつあるオダマキや、おびただしい数の顔を出している土筆に驚きながら、どんどん先へと進んだ。
カフェを営む住宅や、大正か昭和かと時代を見紛う造りのよく手入れをされた住宅、真っ白なユキヤナギを敷地いっぱいに溢れさせている庭や、まだ葉も少ない蔓の這ったアーチと真鍮のテーブルセットが置かれた庭を通り過ぎて行く。地域の探訪は、日常がそこにあるはずなのに不思議な場所に迷い込んだ気持ちにさせられた。
「ふぅ」
少し、疲れると、息を吐き、また大きく息を吸った。
私は、街路樹の、まだほんの小さな若芽が地面に落とす木蔭の下で背を反らし、美しい青い空を覗いた。それは、水色の深い環礁だった。
背筋が伸びると、それまでとは違うものが見えてくる。少し遠くに目をやると、向こうの奥の歩道に、薄い桃色の溜まりを見つけたのだ。あの辺りに桜があるのだろうか。私は、近づいていった。
車通りの少ない車道を横切る。この街には、以前私が住んでいた場所に植生していた桜は、ほとんど植わっていないはずだった。寒さが厳しいので根付かないのだろう、そう思っていたが、何を杞憂として何を推測とするのか、現実は、いつも目の前に開けていく。
「……桜」
木々の経る時間は、私よりずっと永くすべての営みをさざめいてその場所に太い根を這わせていた。
私は、古いアスファルトを突き破った、まるで幹のような肌を持った根をそっと越えた。潤んだ陽を鏤めた風が、花びらのすべてを攪拌してはまた吹き止む。薄い花びらは、時間を刻まれた根の上に桜色の薄布を降りしきらせ、歩道にはそれが池のように吹き溜まっている。
見上げると、ひとひらふたひら、花びらは絶え間なく降り注いでいた。誰かが、この花の盛りの短い時間を厭いたことを私は思い出し、私は寂しくなった心をそのまま大事にしながら先の道を進んだ。
奥へ行くと、古い巨木の街路樹が、歩道を覆うほど枝を伸ばし、涼しそうな木蔭が続く路地に出会った。車道があるのに車通りはぷつりと途切れ、辺りは静かだった。車道に向いて、様々な形の住宅が行儀良く並んでいた。歩いていると、花壇の手入れをしている住人や、何かを手に持ち、訪ねてきたらしき人が横目に見える。住宅と並んで、昔ながらの小さな商店や、大きな窓の理髪店があった。通りすがりに理髪店の窓の奥に目を留めると、店主が見も知らぬ私に小さく頭を下げるのが見え、私も少し歩みを止めると軽く頭を下げた。平和な午後だった。
木蔭は、太い枝も細い枝もこぞってしならせ、すだれのように小さな葉を揺らしていた。所々、古くなりすぎたのだろうか、荒い波に削られた地層のような樹肌をした街路樹は、根元で切られ、白っぽい化石に変わってもまだあちらこちらに根付いていた。私は、様々なものが溜まっている、その化石の中にできた洞を観察して回った。かつて枝を伸ばしていたのであろう部分が、息を失ったカタツムリのように見えた。
程なくすると、その木蔭の道は途切れ、車道の幅がすぼまってカーブするその横に、深い黄緑色に塗られた建物が現れた。
はめ殺しの大きな窓と、古木で造られた重厚な細工の美しい扉。その入り口には赤く縁取られた緑色の小さな看板がかけられている。
『ベッカライ ウグイス』
ドイツ人の友人がいたので、そこがパン屋であることがすぐに分かった。私は、小麦を食べるのならば、香ばしいパンが一番好きだったから、吸い寄せられるようにして扉に手を掛けた。
ごつごつとした真鍮の取っ手は、無骨で冷たかった。片手で押すだけでは容易に開かなかったので、私は右肩に体重を掛けてぐっと扉を押した。
厚い扉が店内へ向かって開くと、扉の内側に張り出すように付いていた呼び鈴が、カランコロンと鳴り、ショーケースの向こうに見える小さな工場から、店主らしい女性が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
小柄で若く、目元が微笑んでいる人だった。
店内には、小麦の香ばしい香りと淹れたてのコーヒーの香りがほどよく混じり合って漂っていた。空気が、ほんのりと暖かい。
すぐに見渡せるほどの、ちょうど良い広さの店内には、私の他にもう一人、お客がいた。お客は、右手の奥のカウンターに腰掛け、こちらに背を向けて行儀良く腰掛けている。
彼の前には、壁一面の大きな窓が嵌められ、お客はその場所から見える風景を楽しんでいるようだった。
私は、店主に
「こんにちは」
と挨拶をし、店内をぐるりと観察した。
ずいぶん古く黒ずんではいるが、磨き上げられた腰板から上の壁は、薄いかぼすのような色の壁紙が貼られている。その壁には、美しい意匠の皿が、いくつも飾られている。コーナーには、ちょうど角を埋め込むようにカップボードが置かれ、食器の他に、かわいらしい小箱やクッキーの袋が飾られていた。
右手の一面を占める大きな窓に向かって、カウンターがしつらえられ、椅子が3脚置かれていた。ここでパンとコーヒーを楽しむことができるのだろう。先客は、湯気のでるコーヒーを傍らに、のんびり窓の外を眺めているようで、表情は分からなかったが、襟足の髪が所々白く、糊のきいたシャツが品良く見えた。
私は、視線をなだらかに滑らせると、目の前のショーケースに並べられたパンに目を移した。種類は多くも少なくもなく、楽しく吟味できそうだ。
ショーケースの上には、焼きたての長い食パンが3本並べられ、売られるのを待っていた。店内の焼きたてパンの匂いの大元は、この食パンに違いない、と私は思った。皮の焼き色は薄く、大きな鱗を毛羽立たせている。美味しいに違いないという確信とともに、私は迷わず注文した。
「こちらを一斤ぶんお願いできますか?」
店主は、目元をさらにほころばせ
「はい。スライスいたしますか?」
と答えた。
私はやや考え
「5枚お願いします」
と返事をした。
店主は、にっこりして頷くと50センチ近くはあるであろう食パンを、少し焦げのついた手袋をはめた手でひょいと持ち上げ、こちらに背を向けた。
店主の一番の特徴は、その後ろ姿を見たときに初めて分かった。白い制帽の下に揺れる髪の毛だ。私は、こんなにたっぷりの綺麗な長い髪をした人を初めて見た。栗色がかった艶があり、ふんわりと空気を含んで膨らんでいる。背中まで届いた毛先は大きな巻き毛になって纏まって、まるで、ふさふさのリスの尻尾みたいだった。
食パンをスライスする機械は、このパン屋では使われていないようだった。店主は、リスの尻尾をリズミカルに揺らし、長い波形の包丁で器用にパンをスライスしていった。パンはきちんと等間隔にスライスされて並べられ、一斤分の透明な袋にきっちりと収まった。すごい技だな、と私は思った。
店主は、残った食パンの切り口を乾燥させないためか、一斤ずつの塊に切り分け、それを袋に入れ始めた。
私は、その間にショーケースのパンを選ぼうと思った。ショーケースは、温かいパンと冷たいパン用の二つに分かれており、どちらも見逃せなかった。
温かい方のケースには、トラディショナルなドイツパン、つまりハード系と、創作パンと言っていいのだろうか、色々な形や味のパンが並べられていた。
冷たい方のショーケースには、色とりどりのぶ厚いサンドイッチや、クリームやチョコレートの詰められたパンや綺麗に飾られたペストリーが並べられている。迷いながら、私はふと他のお客が選んだパンが気になった。
窓辺の席を見ると、彼はちょうど半分に割られたクリームパンを、しかもクリームがぽってりと落ちそうになっている部分がこちらに見えるように口に運ぼうとしているところだった。
「こちらでよろしいでしょうか?」
作業を終えた店主が、私の注文通りの食パンの袋を手に、こちらを振り返った。
「はい。あと、クリームパンと、ブレッツェルとクロワッサンを一つずつください」
クロワッサンは、大事である。それぞれの作り手の腕が現れるし、使っている材料の水準も計れる、加えてそのままでも調理しても美味しいという、新しいパン屋探訪には欠かせない品だ。
店主は、ショーケースを開け、注文通りにパンを取り出すと、木のトレイに乗せていった。
「以上でよろしいですか?」
私が
「はい、お願いします」
と頷くと、店主は、薄く小さな紙袋にそれぞれのパンを詰めていった。特にクロワッサンとクリームパンは潰れないように、注意深くだが慣れた手つきで、薄い紙の両端をねじって留めた。
私は、上着のポケットから、カードほどの大きさに小さく折りたたまれた、愛用の袋を取り出した。
それを見ると、店主は
「お入れしますよ」
と受け取り、小さな袋の底を広く空けると、丁寧にパンを納めてくれた。
「ありがとうございます」
私は、ショーケースの横にしつらえられたレジスターに移動し、料金を支払った。店主は、微笑みながら両手で袋の底を持ち、私に取っ手を持たせてくれた。そして
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
私は小さな出会いに満足し、店を後にする前に、ショーケースの向かいの壁に並べられた小さな焼き菓子コーナーで足を止めた。あまり種類は多くないが、淡い色のドラジェが可愛い。
窓辺のお客がこちらを振り向いた。
店主が、カウンターを出て、湯気の立つコーヒーサーバーを手に、お客の元へ向かい、私が、ドラジェの入った、小さな透明の箱を手にした時だった。
「ねぇ、リスさん、羽鳥さんが辞めるって本当?」
窓際のお客が、店主に声を掛けたのだ。
私の手元がぴくりと止まった。お客は、確かにリスさんと言った。そしてそれから、とても重要なことを言った。
店主は、リスさんと呼ばれ慣れているようだった。気にするそぶりもなく、コーヒーを注ぎながら、頷いていた。
「そうなの。羽鳥さんのご家族の事情なのだけれど」
「そう……」
お客は、淹れてもらったコーヒーを啜った。私は、ドラジェを手のひらの上に乗せ、さらに焼き菓子を見つくろった。だが、それはただのそ振りで、気持ちは彼らの会話へ傾き、目はフルーツパウンドの断面から離せなかった。
「ご主人の単身赴任について行くことにしたそうなの」
「そう……」
お客は、カップをテーブルの上に置いた。
「……羽鳥さんには、長いことよくして貰ったね。送別会でもしようか」
彼は、まるで店のオーナーか、あるいは親のような言い方をした。店主は、彼に雇われているのだろうか、と私は思った。
そのときだった。
カランコロン、と勢いよくドアが開いた。私は、重たかった扉があまりに勢いよく押された瞬間驚いて、手のひらの上のドラジェを落としそうになった。
そのお客は、入ってきたときの調子とはまるでかけ離れた印象の、妙齢の女性だった。少しだけ白髪の交じった柔らかな髪を、肩の上で切りそろえ、落ち着いた水色のコートを着ていた。優しげな目をした彼女は、カウンターのお客と立ち話をしている店主に挨拶をした。
「リスちゃん、こんにちは!」
そして、こちらを見ているお客に向かって、
「やっぱり、ここにいた!みっちゃん~、聞いた?」
と言うなり、つかつかと私の横を通って彼の隣の席へ座った。
「羽鳥さんが……」
みっちゃんと呼ばれた彼は、頷いて静かに答えた。
「うん、昨日ね、聞いたよ」
女性客は店主に言った。
「私たち、送別会しないと……」
彼女も、この店の関係者なのだろうか、と私は思った。もう耳を澄ませているだけでなく、焼き菓子を選んでいる風情だけでなく、私の顔は完全に彼らの方を向いていた。
水色の女性客が言う。
「寂しくなるわね……。羽鳥さんは、……もう帰ってる時間よね?」
店主は答えた。
「ええ」
みっちゃんというお客が、女性のお客に言った。
「羽鳥さんは、早朝勤務でしょ」
「そっか……そうよね。私、羽鳥さんにめったに会わないものね……それより、リスちゃん、羽鳥さんがいなくなったら困るでしょ?次の人はもう決まってるの?」
私は動悸がし始め、手のひらのドラジェが拍動に合わせて揺れるのを感じた。
店主のリスさんは、ショーケースの中へ移動して、新しいカップにコーヒーを注ぎながら溜息を吐いた。
「これから、お店に張り紙でもしようかなと思って」
「貼り紙?求人を出すんじゃなくて?」
女性は水色のコートを脱ぐと、綺麗に畳んで椅子の背もたれに掛け、店主に聞きつのった。彼女は、水色のコートを脱いでも、下にもう一段階濃い水色のカーディガンを着ていた。
「新聞じゃ広告料がかかるけど、もっとなんていうの?よくポスティングされてる……」
みっちゃんは、彼女の言葉を引き取った。
「広報誌ね」
「そうそう、広報誌」
二人は、リスさんを見上げていた。
リスさんは、そんな二人の会話に慣れている様子だった。調子を乱されることもなく、落ち着いて答えた。
「そうですね。どうしても困ったら、そうします。それよりも、朝早い仕事だし、遠くから知らない人が来るよりも、どちらかというと距離的に近くの人というか、なじんでくれる人がいいなと思って」
リスさんの話に、みっちゃんと女性客は頷いた。
「そうね、リスちゃんがそういうなら、まずは貼り紙にしましょ」
「そうだね。早くいい人が見つかるといいね」
私は、意識せず、少しずつその話の輪に近づいていた。ドラジェとフルーツケーキの袋を手に持って。
リスさんは、淡々と続けた。
「……でも、無理そうだったら少しお店の営業を縮小しようかと思っているんです。そんなにお給料もだせないから、人が来るとも思えなくて。だから営業時間を短くするか、パンの種類を減らすかして……」
みっちゃんが、溜息交じりで言った。
「確かに……羽鳥さんは、趣味半分、好意半分っていう人だからねぇ。でもリスさん、ここのパンが好きで、わざわざ遠くから足を運んでくれる人がいるわけだからね、それもまた大事だよ」
リスさんは、頷いた。
そんな二人を見て、女性客は、決心するように言った。
「よしっ!新しい人がくるまで、私がお手伝いに来るわよ!」
「ええっ」
心底驚いた顔と落ち着いた声音がまるで正反対な、みっちゃんが言った。
「さくらさん、パンなんて作れるの?」
さくらさんと呼ばれた女性客は、心外だと言わんばかりにみっちゃんを睨んだ。
「失礼ね!私は、器用よ!」
元気よくそう言われ、みっちゃんは、小さく何度も頷いた。
「そうだね、器用は器用だけど。それは、粘土の世界でしょ?」
「そうよ!粘土もパンも、細工的には同じでしょ?」
みっちゃんは、また頷いた。
店主のリスさんは、ショーケースの中から出て、さくらさんに湯気の立ち上るコーヒーを出した。
「なんとかなりますよ」
私は、耳殻をぱたりと塞がれたかのような動悸を感じて、その場に立ち尽くしていた。けれど、勇気を出して一歩踏み出さなければいけない、と思ったときだった。
リスさんが、私の方を見てにっこりと微笑んで歩み寄った。
「お決まりですか?」
私は、黙ってドラジェとフルーツケーキを差し出した。
けれど、黙ったままではいけない。いけない……。
「あの……」
リスさんが、私に向かって微笑んだ。
「あの……その……、求人についてなんですが、私でも応募できますか?」
みっちゃんとさくらさんは顔を見合わせ、リスさんは目をまん丸にして、小さく口を開け、私を見た。
こうして、私はベッカリーウグイスの職人見習い兼、店員見習いになった。
羽鳥さんが安心してご主人と共にお引っ越しできるように、翌日には履歴書を持参し、みっちゃんとさくらさんともうひとり、弘子さんという、関係者らしき三人の面接を受け、さらにその翌日の早朝から工場に入った。
引っ越してきた街で、新しい朝が始まる。
まだ暗い朝、小さな音のアラームが7分おきに鳴る。その三度目で、私は、重い目蓋を上げる。夜明け前の、色の分からないカーテンが、目に映る。私はむくりと起き上がる。しっかりと毛布にくるまっていたので、起き抜けの体はやや汗ばみ、体温は高い。そうするのが、私にとって最も良い寝起きだ。寒いとベッドが恋しくなる。
よたよたと歩いて、たった二か所しかない部屋のカーテンを開ける。まだ薄明かりが空を滲んだように染め出したばかりだが、私は細く窓を開ける。早朝の空気は、春でも冷たい。頬を吹き抜けた軽い風が、一息で肌から体温を連れ去り、あらゆる機能が目醒める。
身支度を済ませる間に、お湯が沸く。冷蔵庫からコーヒーの粉を出し、ドリップする。コーヒーの香りは、ただの香りではないと思う。農園や、太陽や、鳥や、人々のざわめきが融けている。沈殿していた液体の記憶を、温かな湯気が部屋の中に浮かばせて遊ばせる。私は腰掛けて、それを味わう。部屋は、満たされている。
再び、小さくアラームが鳴る。家を出る時刻だった。私はキッチンでマグカップとドリッパーを洗うと、洗面台へ移動し、髪を結ぶ。そして、コートを羽織ると、持つだけに準備されているバッグを手に持ち、この春に新調した靴を履く。静かに玄関のドアを開け、鍵を閉める。
誰も起きていない時間に、私はひとり、エレベーターを降りていく。
エントランスを越えて、湿った植物の露の匂いが立ち籠める、まだ暗い朝に、私は出勤する。
ベッカライウグイスは、昨日の夕刻のまま締め切られている。私は、小さな工場へつながるドアへ向かう。工場の窓からは、灯りが漏れ、小さな機械音が聞こえる。リスさんと羽鳥さんがもう仕事を始めているのだ。羽鳥さんが引っ越すまでの間、私は見習いであり、出勤時間や仕事内容も優遇されている。私は、白衣に着替え、結わえた髪を覆う帽子を被り、靴を履き替え、ひたすら手を洗った。
「おはようございます」
工場の扉を開けると、二人は手を止め、笑顔を向けた。
「おはようございます、三多さん」
ベッカライウグイスの一日が始まる。