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第2話 抜け歯




 タマの歯が抜けた。

 結論としては、それだけだった。


 タマは、無事だった。

 体のあちこちにガタはきているが、結論としては『ただの老化』だそうだ。


 獣医からその知らせを聞いた時の私の安堵感たるは相当なもので、自分でも、こんなに私の人生はタマに依存していたのか──と、改めて現実を投げつけられたほどだ。


 タマの歯は、結局病院の診察中に自然に抜けたそうで、獣医さんが綺麗に洗ってから私に返してくれた。


「なんか、ネイティブアメリカンのお土産さんコーナーにでもある野生の牙のアクセサリー見たいね」と、それは化粧品が置いてある棚の引き出しにしまっておくことにした。


「さ! タマ! 病院は疲れたでしょ? ご飯にする? あ、とっておきのおやつをあげようか?」


 私が話しかけてみても、帰宅後のタマは上の空だ。


 仕方ないのかもしれない。だって、タマは大の病院嫌いだ。

 疲労が溜まっているのだろうか。結局、病院から帰ってきた後のタマは、部屋の隅っこで眠るだけで、一切食事を取らなかった。




 異変が起きたのは、次の日からだった。


 はじめは、タマの毛が一気に抜けだしたこと。

 ついで、タマの下の歯の犬歯が抜けた。


 そして、タマはまっすぐ歩けなくなってしまった。



 それから、三ヶ月が経った。


 

 スマホのアラームが朝を告げる、今日は確か土曜日だったはず。

 昨日はどうしても切り上げられない残業ができてしまって、帰りがいつもより遅くなった。一秒でも早く家に帰りたい──その一心で、私は一晩中かかるだろうという仕事量を二時間の残業で切り上げた。

 疲労はなかなか抜けるものじゃない。アラサーの私にとってはなおのこと。

 スマホのアラーム音の前に起き上がることは、今日の私には不可能だ。


 開かけた瞳が再び閉じそうになるとき、「にゃぁ〜」と猫撫で声が耳を掠めていった。が、微睡が私の意識を強制的に断ち切った。


 カンカン……カンカン……。皿が鳴る。けれど、私の意識が疲労に撃沈。


 それからさらに、十五分後。

「んごろにあゎあーーーんッ!」

 タマがブチギレている声がして、私の夢が一瞬遮断される……けれど、春の木漏れ日が夢心地へと再出発の門出を祝う。


 そして、カプリ──。

「いった……!!! くはないんだよね……。タマ、ごめんね、寝過ぎちゃった。起こしてくれてありがとね」

 前歯の犬歯を二本も失ったタマの甘噛みは、もはやほとんど痛くはない。


 けれど、十三年も体に染みついた『甘噛みでも痛い気がする』という意識革命はなかなか確変を起こすことができずに、三ヶ月経った今でも、私は週末のカプリに飛び起きてしまう。



 それから私は、タマに老猫用のご飯を与え、水を新しくして、タマのご飯が終わってタマが座り込むタイミングを見計らって、タマのブラッシングをする。

 歯抜け事件の病院後に抜け出したタマの毛は、いくつもの円形脱毛を作ってしまった。しかし、数週間後には元通りになった。どうやら、猫も、ストレスを感じると円形に禿げるらしい。

 そうか。人間と同じだね。

 そうだよね、だって生きてるんだもんね。

 っていうか、君、本当に病院嫌いだよね。



 五分ほどブラッシングをすると、タマをトイレに入れてやる。


 綺麗好きだったタマが、上手にトイレに行けなくなったのは、歯が抜けてから一ヶ月が過ぎた頃だった。

 粗相をし始めた最初の数日は私も混乱したし、少しだけ苛立ったりもした。

 けれどすぐに、タマがトイレの中でバランスが取れなくなったのだと気が付いてからは、心配の方が大きくなった。


 それが、私に実感させた。

 タマはおばあちゃんになっちゃったんだって。


 まっすぐ歩けなくなったことを皮切りに、タマの老化は目に見えて進んでいった。

 歩く速度は不規則で。ヨタヨタと右斜め進路を傾けつつ進む。

 斜め歩きになっては、止まり。数歩歩いては、止まって寝転がり。

 歩くことすらままならないのだ。それまで華麗に飛んでいた猫ジャンプは、もう見られなくなった。タマがベッドの上に飛び乗れなくなったから、私はタマ用に小さな階段を作ってあげた。

 タマはよろけながらも階段を登り、それでも、私の足を噛みにくる。

 週末のカプリは、どうやら今でも彼女のお気に入りのようだ。


 猫じゃらしで遊ぶことは、もうなくなった。

 猫用ボールなんて、もうとっくに追いかけられない。

 トイレだって行けないし、大好きだった毛繕いも下手くそになっちゃった。


 それなのに、私が落ち込んで泣きそうな時は、何も言わなくてもまっすぐ私の隣にやってくる。

 よろよろ、斜め歩きで、止まり止まり、寝っ転がりつつ、それでも私の隣にやってくる。


 タマ、私が泣いてるのは、タマを失いたくないからだよ。

 ねぇ。わかってるの? あなたを想って泣いてるんだよ。

 わかっているのか、わかっていないのか。タマは私の隣で丸まり続ける。


 ねぇ、タマ?

 猫に翼があったらよかったのにね。

 そしたら、一生懸命階段を登らなくても飛んでこれるのにね。


 タマに翼があったらさ。

 よろよろ斜め歩きにならなくても、どこへでも部屋中好きなところへ飛んでいけるね。そうしたら、私の隣に飛んでくるのも楽になるよね。


 タマに翼があったら……。

 ねぇ、タマ?

 もしも、だよ。

 もしも、タマに翼があったら。

 もしも、天国にいっちゃう日が来たとしても、

 私のところに飛んで帰ってこれるでしょ。


 

 タマは、まだ私の隣で眠ってる。私が泣いているのがわかっているのだろう。

 私の体に寄り添うように、ピッタリくっついて離れない。



 ねぇ、タマ。

 今、辛くはないのかな?

 猫は痛いって言えないから。

 私はとってもバカだから。

 タマは私の言葉がわかるのに、私にはタマの痛みがわからないから。

 もしも、タマが本当は痛い思いをしているのに、私のために無理をしているのなら、やめて欲しいなぁ。

 タマには痛いおもいなんて、もうしてほしくないんだもん。


 だから、ねぇ、タマ?

 もう我慢できないよってなる前に、翼が生えたらいいのにね。

 

 

 あなたの痛みも老いも。

 全部、翼と一緒に飛んでいってしまえば、いいのにね。


「にゃぁ」とタマが鳴いた。

 大丈夫だよ──とでも言うように。


 「ニャァ」と私がタマに返す。

 大好きだよ──と伝えるように。




 タマは、この後、十年生きた。

 最期は、獣医もびっくりの大往生だった。


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