第1話 タマ
タマの歯が抜けた。
昨夜はお酒をしこたま飲んでしまったからと理由をつけて、朝のアラームを三回無視した。そうして私はスマホの時計がしっかりと十時を過ぎた頃、のっそりとベッドから起き上がった。
それは土曜日の朝のことだった。
おかしいなと思ったのは、私がまだ布団の中でモゾモゾとミノムシになっているにも関わらず、タマが朝ごはんの催促に来なかったから。
いつもであれば、私のスマホのアラームが鳴った後に、彼女特有のアラーム音が後を追うはずだった。
それは、いつもこんな具合に始まる。
「にゃぁ〜」と、猫撫で声が部屋の一角で上がる。大抵、その可愛らしい老猫の声に気がつくことはない。というか、耳に入ったとしても朝の微睡からは逃れることはできない。
その後、カッチリ十五分後。スマホのスヌーズ直前に、カンカンと猫皿が揺れる音が鳴る。どうせ、タマがご飯用の皿をいじくり回しているに違いない。大抵、私は無視を貫く。だって、催促する度にご飯が出てくるなんて……そんなの躾としてダメでしょう? 人生ってそんなに甘くはないのよ、タマ。
そして、それからさらに十五分。もう一度タマは鳴く。
「んごろにあゎあーーーんッ!」
この頃には、タマの堪忍袋が切れかかっているので、さっきまでのように猫を被った声なんてだしやしない。
だけど、私は知っている。これこそがタマの地声だ。
タマよ。私はね。あんたが四週間の時から面倒を見てるし、この十三年ずーっと一緒に生活してきたのよ。あんたの地声くらいわかってるんだから。
だから、私はまだ眠り続ける。と、言ってもこの時には脳は覚醒してしまっているから、ただ布団から出たくないという惰性なだけ。
それから、きっちり一分後。タマがベッドに上がってくる。
だけど、タマは猫だ。犬じゃない。
お犬様みたいに『ご主人様おきてください!!!』と、愛嬌いっぱいに顔を舐めるなんてことはしない。
タマは猫だ。合理主義者だ。
彼女はいたってシンプルだ。
布団の先端から、ちょっぴり飛び出た私の足の指。そこを目掛けてカプリ──と、ひと噛み。それだけで、私は一気に飛び起きる。
来る──とわかっているのに、いつも飛び起きてしまうのだ。
怪我をするほどの噛みつきではない。それはいつだって、至って優しい甘噛みだ。だけど朝一の刺激とは、寝起きで神経回路が鈍っている体には十分すぎるほど。
たったひと噛み。それだけで十分と、タマはもう知っている。
だって、私たちは一緒に十三年も生きているのだから。
こんな週末毎の小さな騒動は、決まって朝の八時に行われる。
それは、私たちの週末のカプリ。
そんなタマが、今朝はやってこなかった。
スマホは十時を過ぎている。
そういえば、彼女が「にゃあ」と言っただろうか? 猫皿のカンカンは?
ダミ声だって聞いていない気がするし、それどころさ、甘噛みだってされていない。
私は二日酔い混じりの頭を叩き起こして、アパートの部屋の中を見渡す。
すると、タマは部屋のすみっこで丸まっていた。
一瞬、嫌な予感がした。脳裏をよぎるのは、考えたくもない未来の彼女。
だけど、ベッドの軋む音のせいだろうタマがこちらに視線を向ける。
「なぁんだ……! タマも寝過ぎちゃったの? おはよう、ごめんね、ご飯にしよ」
私の声を聞いて、タマが私に歩み寄ってくる。
だけど、なんだか様子がおかしい。
タマの顔。ぷっくりと膨らんだ猫の口元から、白い何かが飛び出ている。
「タマ? 顔にゴミがついてるわよ?」
ベッドから降りて、タマへと一歩近づいた時、私はそれに気がついてしまった。
ゴミだと思った白いそれは、タマの歯だった。
「ッ──! タマ──ッ!?」
すぐさま駆け寄りタマの顔を調べる。
タマの上の前歯の犬歯。抜けかけている犬歯がブラブラと口から飛び出してしまっている。触ってみると犬歯は完全に抜けているわけではないようで、一部がまだ歯茎にくっついている状態だ。
ペットのキャリーのタマのお気に入りのタオルと私のハンカチを入れて、私は急いで家を出た。
転がり込むように動物病院へと向かう。
あまりに急いで飛び出したものだから、昨夜化粧を落とさないで寝てしまったままの顔は、マスカラが滲んでそれはもう酷い惨劇になっていた。(というのを、帰宅後に知ったわけだけど。)
病院に向かう途中に巡る思考は、最悪の中の最悪。
責められる可能な限り、私は私を責め続けた。
そうか、だからタマは鳴けなかったんだ。
こんな状態じゃ、猫皿をカンカンなんてしないよね。
私の足先を甘噛みできないって思った時、それでもあなたに助けを呼ばずにじっと待ってたの?
昨日お酒なんて飲まなければ、もっと朝早く起きていれば、アラームと同時にタマの元へと向かっていれば。
あぁ……どうしよう。
なにか、大きな病気だったらどうしよう。
精密検査をしますと言われて病院の奥へと連れて行かれたタマの診察は、結局、麻酔が必要になってしまって入院が必要だと言われた。
その日は、空っぽになったタマのキャリケースと一緒に家へ帰った。
家に帰ると、ぐしゃぐしゃのベッドとタマの毛玉と、空っぽのキャリーケースと朝ごはんを入れられることのなかった猫皿が目に入った。
いるのは私だけ。
タマはいない。
そうか。猫の寿命って人間よりも短いんだった。
どうして、そんな当たり前のことを忘れてしまったんだろう。
そしたらもう、我慢なんかできなくて。
私はそのまま泣き崩れた。
「もしも……タマがこのまま死んじゃったら……どうしよう……!」
家中のティッシュペーパーを使い尽くすほどに泣いて、結局足りなくなったから、バスタオルで涙と鼻水を拭いていると、泣き過ぎて酸欠になった思考がゆっくりとシャットダウンしてしまった。
私の意識を強制的に呼び起こしたのは、スマホの着信音だった。
どうやら四時間ほど眠ってしまっていたらしい。電話の主は、動物病院だ。
そのスマホの向こうには、私の望む結果は待っているのだろうか。
聞きたくない知らせなんて、舞い込まないで欲しいけれど。
その時の私の心臓の音は、きっと全人類の鼓動を掛け合わせても足りないくらいだったと思う。
お願い、お願い、お願い、お願い──と祈り過ぎたせいで、『もしもし』と言おうとしたその発音が「おね──しもし」になってしまったほどに、私は祈りまくっていた。
そして、獣医がゆっくりと説明を始めた。