ある欠落の喪失
※こちらの作品は、所属していたサークル『なんかつくろく部』で行われた『お題となるシーンをどこかに挿入して作品を書く』という内輪企画にて、書かせていただきました。
小学生の頃、ぼくらの国は隣国からの侵攻を受けていて、戦争という非日常的な二文字が常に身近にあった。
そんな多くの人たちにとって暗い時代、ぼくは二回も入院したことがある。一回目は左足の複雑骨折──まだ開戦して間もない頃、突然遠くで鳴り始めた砲撃の音にビックリして階段を踏み外したという間抜けな要因によるものだった。
入院中、軍人である父親は姿を見せなかったが、過保護な母親は毎日のように見舞いに来てくれた。ぼくとしてもそれはとても喜ばしいことだったのだが、一つ面倒な要素があった。
同じ病室の、向かいのベッドにいる女の子が、母が来るたびに、ぼくらをまるで親のかたきであるかのように睨み付けてくるのだ。
嫉妬が理由だということは何となく気付いていた。彼女の父親が見舞いに来ることはあまりなく、しかも親子仲が芳しくなさそうなことが、遠目にも察せられたからだ。
気の毒だとは思ったが、それはぼくには関係ないことだった。だから、親子水入らずの時間を悪辣な視線によって邪魔してくる彼女のことが、そのときからもうあまり好きではなかった。
一度目の入院中に彼女と口をきく機会はほとんどなかった。二つ質問をされただけ──ぼくの入院している理由とその期間について。いずれの回答に対しても、彼女は不機嫌になっていた。
***
やがてぼくは退院し、元の退屈な学校生活に復帰した。
ぼくの学校では、下校前に学年ごとに校庭で集合し、各々の斑に分かれて帰宅するのが通例だった。その場で例の病室の彼女を見かけることが何度かあったので、自分と同窓であることを知ったのだが、その頻度はまちまちだった。
どうやら彼女は一旦は退院できたものの、週に数度程度しか登校していないようだった。
ある日の下校前、校庭で彼女を見かけたとき、泣きそうな顔をしていることに気がついた。そして、思わず話しかけてしまったのが運の尽きだった。
内向的なぼくだ。普段ならそんなことはしなかっただろう。だが彼女の表情は、今にもどうにかなってしまいそうなほどの禍々しい悲しみを内包しているように見えて、当時のぼくを落ち着かない気持ちにした。そして、あろうことか『よく知らない他人に話しかける』なんていう奇行に走らせたのだ。
『大丈夫?』とか『どうしたの?』とか、そんな月並みな文言だったと思う。
せきを切ったように話された。彼女は自分の病状が良くないことや家庭環境の少し複雑な状況──物凄い早口だったので詳細はあまり頭に入らなかった──をまくしたてながらワンワンと泣き出した。どう対応したら良いのか分からなくなるほど凄い勢いだった。
軽率に話しかけるんじゃなかったな、と後悔した。
やがて教員から声がかかる──要約すると、『何、女の子を泣かせてるんだ』といった内容の台詞。
それは今思い返せば半ば冗談のような口調だったのだろうが、当時のぼくは過剰に臆病で、『先生から怒られた』というショックと周囲の視線が集中することへの緊張でどうしたら良いか分からなくなり、パニック状態に陥って泣き出してしまった。
校庭で、同級生や教員たちから囲まれた状態で号泣する二人の児童。正直痛々しい光景だったと思う。
それからというもの、彼女は学校に来ると必ずぼくの元を訪れては散々愚痴った挙げ句泣くようになった。そのたびに、ぼくも周りから向けられる非難やからかいや奇異の目によってもたらされるストレスで号泣していた。
彼女が登校する日は憂鬱で仕方なかった。
ある日、何故毎度毎度ぼくの元で泣くのかと訊いてみたことがある。すると、
「だって、一人で泣くなんて惨めだし。世界中で自分だけが不幸な境遇にいるみたいで。でも泣き虫の君なら一緒に泣いてくれるでしょ?」
こんな身勝手な答えが返ってくるのだ。
ぼくは別に、彼女に同情して泣いているわけじゃないのに。
「同情なんていらない。わたしと同じところに来てほしいの」
迷惑だからやめてほしいのに。
「それが良いんじゃない。辛さを感じてるのが自分だけじゃないって思えるから」
ぼくは彼女が大嫌いになった。
***
さて、二回目の入院の話。
彼女と出会ってから数ヵ月後──彼女が再入院によって全く学校に姿を現さなくなった頃のこと。何とぼくも彼女と同じ病を発症してしまったのだ。それは名前を言っても誰にも伝わらないようなマイナーな難病で、物凄い確率だった。嫌な星のもとに生まれたものだと我ながら思う。
病室はまた、奇しくも彼女と同じ。
彼女はぼくの惨状に狂喜した。
彼女は、隣で自分と同じ苦痛を感じている人間がいることを確認する度安心していた。
ぼくの前で彼女は、苦しみながらもよく笑った。綺麗な顔で、けれどそれに似合わない汚い笑みで。
それからは地獄の日々だった。
症状が酷いときは二人して病室で泣きわめいていた。その構図はかつての学校でのものと同じだったが、今度はぼくらは同じ理由で苦しんでいた。
痛みを共有したぼくらは、苦痛とともに日々を過ごしていった。
当時の心情としては本意ではなかったが、ぼくらは常に一緒に居たと言える。
比較的体調が良い日も、彼女はぼくと行動したがった。
何度避け続けても、彼女は懲りずに付きまとう。ついぞ諦めてデイルームなどで、遠く鳴り響く砲撃の音を背景にダラダラ駄弁る、というのがいつも通りの光景になっていった。同年代の入院患者が他にいないことなども相まって、結局ぼくは彼女の絡みに折れて、共に時間を過ごすことになるのだ。
どうでもいい雑談の合間に、彼女はぼくがきちんと現状を苦しんでいるかを確認したがった。
「苦しい?」
「そりゃね」
「そう。わたしも」
などといった具合に。
正直鬱陶しかったが、それにも少しずつ慣れ始めていて、そんな自分が不愉快だった。
***
繰り返しになるが、当時のぼくは彼女を嫌悪しているつもりでいて、態度にも現していたと思う。彼女の方もそれを察していたはずだ。
実際、彼女がとてもストレートに訊いてきたことがある。
「君はわたしのこと嫌いなの?」
ぼくは頷いた──即答だった。
「どうして?」
「笑いかた」
前述したとおり彼女はぼくの前でよく笑ったが、それはとても汚れたものだったのだ。
「他人の不幸は蜜の味……みたいなのが透けて見えて、不愉快」
「だって安心するんだもん。隣で誰かが、わたしと同じように苦しんでると、独りじゃないって思えるから」
彼女は悪びれもせずにそんなことを言ってくる。その神経が到底信じられなかった。
「道連れが欲しいだけだろ」
「そんな言い方やめてよ。欲しいのは対等な仲間──友達なんだから」
どの口でそんなことを言うんだろう、と思った。
「その性格じゃ一生できないと思うよ」
「そんな。わたしたち、もうお友達でしょ」
「まさか」
否定したものの、正直、学校での人間関係が苦手だったぼくには、その関係がよく分からなかった。だから試しに、彼女にその定義を問うてみた。
「一緒にいて、笑顔になれれば友達だよ」
返ってきたのは抽象的で、やはり納得には程遠い答えだった。
「都合の良いことばっか言って。君しか笑えてないんだから一方通行じゃないか」
「じゃあ、君もたまには笑えば良いのに」
彼女は何でもないことのように言った。
「無理だよ。こんな状況で」
「わたしの不幸を笑えば良いよ」
「そんな悪趣味な」
「自分が不幸なときに他人の不幸を笑うのって、案外悪くないよ」
そう言って、彼女は突然ぼくの手を取った。
「せっかく一緒に居るんだから、二人で笑おうよ」
ぼくは彼女の奇行にまずは驚き、それから徐々に顔が熱くなっていくのを感じた。
「君だって独りじゃないんだから」
そううそぶく彼女は、珍しく普通の笑顔をしていて。
普通に笑ってれば可愛いのにもったいないな──などという感想を抱いたのは、口が裂けても言いたくなかった。
***
彼女は旅行雑誌を眺めるのが好きだった。
その日も到底行けるはずのない観光名所が印字された悲しい写真を眺めながら、ぼくに声をかけていた。
「病気治ったらさ、一緒に旅行とか行こうね」
「絶対行かないよ」
理不尽ともいえる誘いを断ったぼくの言は、しかし華麗にスルーされた。彼女はページをめくり続ける。
「世界は広いねー。病室でしか過ごさないのはやっぱり勿体ないよ」
「いや話聞けよ」
雑誌に向けられる笑顔は、普段ぼくに向くそれとは違い、純粋なものだ。ぼくは無造作な返事を意識しながらも、つい彼女の顔を盗み見てしまっていたことがバレないか少し心配だった。
彼女は視線を動かさず、釘を刺すように言う。
「だから、わたしより先に病気治しちゃ駄目だからね」
「……残念ながらそれはないよ。そもそもぼくら二人とも、完治することはかなり難しいみたいじゃないか」
数ヵ月先の命すら保証されていない身だ。運が良くても数十年単位の闘病生活が待っている。
「本気で言ってるの? 治らないなんて」
「先生だってそう言ってるだろ。大分濁してるけど」
「そこは治る体でいこうよ。ダメだよ、きぼーを持たななきゃ」
どの口でそんなキラキラした薄っぺらい言葉を吐き出してるんだか。
「それに、仮に退院できたとしても、それ以降君と会うことなんてないよ。ここから出たら、もうそれっきりの縁にしたいね」
キッパリと言ってやった──だが。
「いやーそれはないでしょ」
ぼくの拒絶を、しかし彼女は妙に自信のある口調で否定した。何だか出鼻をくじかれたような気分になったので、少しムキになって発言の根拠を問うた。
「何でさ?」
「だって君、こういう風にまともに会話できる人、家族とわたし以外にいないでしょ? わたし知ってるんだからね」
思わぬところで図星を突かれ、言葉が詰まった。
「……た、確かにそうかもしれないけど……でも、だからって退院後も君と一緒にいる理由にはならないだろ」
数拍遅れてどうにか食い下がる。すると彼女は、やれやれというように肩をすくめて返してきた。
「だから、やっぱりわたしが一番君と合ってるってことだよ。同じ境遇だしね」
そして言い終わると、ふと何かを思い出したような表情になり、すぐにそれは悲しみに塗りつぶされた。
「……鎮痛剤、そろそろ切れるね」
残酷な一言──ぼくの顔は曇り、彼女の顔は少しだけ晴れる。
汚らわしい微笑みがぼくを射ぬいた。
「今日も一緒に頑張ろうね」
***
ぼくらの闘病生活とは離れたところで、けれどどうしようもなく地続きに、戦争は続いていた。
戦火は日に日に拡大していき、遠くから聞こえる砲撃の音は少しずつ大きくなっていく。
病室に備え付けられたテレビでは連日、戦況やそれによる被害について報道されていた。
彼女は戦災による死傷者のニュースを見るときとても悲しそうな顔をしていて、ぼくにはそれが不思議で仕方なかった。
当然、現在進行形で戦っている自分の父親のことは気がかりだったけれど、知らない人間の生死なんてぼくは興味がなかったからだ。
「人なんて毎日あっちこっちで死んでるじゃんか。戦争に限らず」
そんなことを言ってみる。すると、
「よくそんな冷たいこと言えるね」
彼女の非難するような口調を受けて、少し屈辱的な気持ちになった。
「人の不幸は蜜の味、なんじゃないの?」
「わたしはただ対等でいたいだけ」
彼女はそう、簡潔に自分の主張を口にする。当時はただの戯れ言だと思っていた。
「さすがに、死んじゃうのは可哀想でしょ?」
まるで真っ当な人間であるかのように当たり障りない台詞を溢す彼女は、何だからしくないと思った。
「じゃあ、もし君が明日死ぬとしたらどうなの?」
ぼくはいつものお返しとばかりに、我ながら意地悪な質問をしてやった。
「そうなったら話は別よ。わたし一人だけが消えるのなんて絶対に嫌。わたしがいない世界なんて滅べば良いと思う」
恐ろしい答えが返ってくる。
「じゃあ結局、道連れが欲しいんじゃん」
「うーん……そうかもね」
***
そうして、苦しいながらもどこか気だるげな入院生活を彼女と続けていたある日。
あまりにも唐突に、それは訪れた。
ぼくを国外の病院に移すための手続きをしに役所を訪れていた母親が帰り道、戦時下における政治的なデモに巻き込まれて死んだのだ。
そして同じ日に、軍人である父親も戦死した。
それらを聞かされたとき、まるで意味が分からなくて、完全に頭が真っ白になった。
次いで、どこまでも落ちていくような感覚に支配された。
最低限これだけは無くならないと、希望的観測で思い込んでいた足場が突然消滅したような気分だった。
今後ぼくの後見人になるという親戚の人がやってきて何か話をしていたようだが、何一つ頭に入ってこなかった。何一つ実感が沸かなかった。
彼が居なくなった後もぼくはしばらく呆然としていて、やがて両親の顔が脳裏に張り付いたように思い浮かび、知らないうちに涙が溢れてきた。
思考が追い付かないまま、感情だけが先走ったように爆発してしまった。
ぼくは泣きながら、起こったらしいことを脳内で整理していた。涙は加速するばかりだった。
それから、時間はとてもゆっくり進んだようにも、あっという間だったような気もするが──やがて。
数時間が経って、ぼくの涙はようやく少し落ち着いた。
そして、それを見計らっていたかのように、彼女が声をかけてきた。
「悲しい、よね……? 分かるよ」
そのときのぼくは、こんな状況ですら相変わらずの彼女に本気で殺意さえ覚えたものだった。だから、最大限声音に憎しみを込めて言葉を返してやった。
「……空気読んでよ。今そういうのやめて」
だが、相手の反応は想像とは違っていた。
「わたしもね、同じなの。……って言っても、わたしが赤ちゃんのときのことだけど……」
彼女はとても悲しそうにそう言葉をこぼしていた。思わず振り向くと、目が潤んでいるのが窺えた。
しばらくその目を見つめていると、彼女は自分の生い立ちを話し始めた。自分を生んだことが原因で母親が死んでしまったこと──そして、そのことにより父親から疎まれてきたことを。
「だからね、わたしずっと要らない子だったの。みじめでしょ? 笑っていいよ、わたしの不幸」
彼女はいつの間にかぼくのベッドに座り、大粒の涙を流していた。
「だから、わたしより悲しまないで……わたしのこと置いてかないで……」
その様子を見ているとぼくも余計に悲しくなり、さらに泣いた。
泣きながら笑った。
涙の相乗効果が起こった、目が痛くなる夜だった。
心が活性化していくのを感じていた。散々泣いたはずなのに涙が止められなかった。
どこまでも落下していた自分の身体が、彼女に抱き止められたような気がした。ぶつかった反動で凄まじい痛みを感じているものの、それの内包する温もりは奇妙な心地よさを含んでいるような。
温かな痛み。
彼女の──彼女という人格の持つ温もりだった。
彼女はぼくを抱き締めてくれた。
ぼくも彼女を抱き締めていた。
お互いの苦痛を貪り合いながら、同じベッドで眠った。
看護師に見つかったら大目玉を食らうことは明白だったが、そんなことは当時のぼくらの頭になかった。
ぼくはあの夜に、はっきり堕落したのだと思う。彼女の主義主張を理解し、実感し、彼女と同じものになったのだ。
ぼくにはこの子がいる。
だからもう、この子が居ないと生きていけない。
きっと、それはずっと前から薄々気付いていて、けれど目をそらしていたことだ。
彼女のおかげで、あの夜に気付けた。
だから身勝手にも、ぼくは今でも彼女を恨んでいる。ぼくの性根を腐らせたことを。ぼくを彼女なしで生きられなくしたことを。ぼくを──互いの肉を食べ合って飢えを凌ぐような──あのグロテスクで悪辣な人間関係を心から尊ぶ人間にしたことを。
そして、ぼくの前から居なくなったことを。
ぼくを置いていったことを。
***
翌朝、ぼくらは凄まじい轟音と衝撃の連続に目を覚ました。
病による苦痛と彼女の温もりが混じった寝覚めに、さらに現状に対する驚愕が追加され、主観的にも客観的にも混沌とした朝だった。
起きてからすぐに女性の看護師が病室に飛び込んできて、まずぼくらの状態を見て度肝を抜かれた様子を見せる。だが今はそれどころではないとすぐ思い直したようで、外に出るようにと喚いた。
隣国の侵攻が当局の見立てよりも早く、この町が無差別攻撃の標的にされている、ということらしかった。
一階のロビーには医者や動ける患者が集まっていて、軍人らしき人物の姿もちらほら窺えた。動けない患者を移動させるためか、看護師たちは忙しなく動き回っている。
ぼくらは軍人たちに先導され、裏口から外に出た。
ぼくと彼女はどちらからともなく手を握りながら歩いていた。
彼女の速まった鼓動が伝わり、恐怖を抱きながらもそれは相手も同じであることをリアルタイムで知ることができた。彼女も同じだっただろう。
こんな状況でも、独りじゃないというだけで人間は温かさを感じることができるらしい。
軍人の指示に従って、病棟の近くに停まっていた装甲車へと歩を進める。
──瞬間、装甲車の付近に砲弾が着弾した。
その場にいた誰もが無音と錯覚するほどの大音響に聴覚を奪われ、前を歩いていた人たちの身体が消し飛んだ。衝撃でぼくと彼女も病棟の外壁近くに吹っ飛ばされた。
当然、繋いでいた手も離れてしまう。
ぼくがどうにか身体を起こしたのと同時に、さらに数発の砲弾が近くに落ちたようだった。
凄まじい揺れ──落下していくような衝撃が身体を貫いた。
病棟の外壁が軋みをあげる。
混乱の中、ぼくは圧倒的な、どうしようもない力を肌で感じ取った。誰の人格も、どんな感情も超越した無造作で無作為で物理的な力に、自分は抗いようがないのだと無意識に屈していた。病気を診断されたときととてもよく似た、静かで冷たい諦めに心が満たされた。
やがて、病棟の外壁が砕け、瓦礫がぼくらの上に降り注いだ。
ぼくはどうしたらいいか分からなくて、恐怖と混乱の中、ただ彼女の温もりだけを求めていた。だからそちらに手を伸ばした。彼女も同じことをしていた。
だが、目的が違った。
彼女の手は咄嗟に、といった調子でぼくを突き飛ばしたのだ。
彼女は唖然と──まるで、ついうっかり、何か致命的なミスを犯してしまったような顔をしていて、そのうち表情が諦めに塗りつぶされた。
──ごめんね。
──病気、良くなってね。
──一緒に元気になりたかったね。
耳も聞こえず、読唇術なんて使えるわけなかったけれど、なぜかその時に彼女が口にしたことは理解できた気がする。
彼女の身体に、瓦礫の雨が降り注ぐ。
すぐに、ぼくの視界は赤に染まった。
もう、どれだけ痛くても一緒に泣いてくれる相手はいない。
呆然としていたぼくは軍人たちに引きずられながら装甲車へと乗せられていく。
彼女は最期に笑っていた。とても寂しそうに。
こんな笑顔を見るくらいなら、どれだけ汚くても、ぼくの苦痛を笑ってくれていた方が余程マシだったな──と、壊れる寸前の心で、思った。