母の哭 第二ボタンきつく締め
憂鬱な帰路を辿り、建て付けの悪く重い戸を開ける。
鼻につくウイスキーの香りと煙草の煙。
僕はウォークマンのイヤホンを耳に付け、そそくさと自分に部屋に向かった。
「おい、酒買ってこい」
ドアノブに掛けた手でゆっくりと片耳のイヤホンを外した。
「だから前も行ったけど買えなかったんだって……」
「誰に向かって口聞いてんだ!あ゛ぁん!!」
不貞腐れ気味に言った事が癇に障ったのだろう。
怒鳴り声と共に左に頬に鈍痛が襲った。
「ごめんなさい……」
小さく震えた声が漏れた。
いつからだろう、父を恨む様になったのは。
いつからだろう、自分が無力だと痛感したのは。
いつからだろう、母の帰りを待つ様になったのは。
それが日常となっていた頃には、ただ時が過ぎる事だけを望んだ。
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黒服を纏う大人たち。
その神妙な顔文字を貼り付けた様な、のっぺりとした相貌に嫌気が差した。
「なぁ──くん、それ、ダサいよ。
しっかり上まで締めてきちっとした方が格好良いんだ。
大人になったらわかる」
白髪混じりの伯父が僕に向けて言う。
正直どうでも良いと思った。
でも、この伯父の顔だけは今でも鮮明に覚えている。
唯一話し掛けられた人だったからじゃない。
ただ穏和で憂わし気な顔がはっきりと見えていたからだと思う。
僕はボタンは無くして付けられない、と適当な理由を言って逃げる様にその場を去った。
本当は首元まで止めるのが鬱陶しくて、一番上のボタンだけ自分で外したんだ。
生徒指導で注意されても同じ様な文句で切り抜けられる様に。
それが当時の学生のデフォルトで自分もそれが当たり前だと思っていた。
暫くして親族が一同に会した。
目元が赤く腫れた母の姿も見れる。
もう何度と見た、棺を覗き涙する母を。
最後の別れ。
火葬炉へと運ばれて行く棺。
凭れる様に棺にしがみ付いた母を優しく静止する伯父が映る。
そして力なく膝から崩れた落ちた母の慟哭が聴こえた。
壊れてしまうのではないと思う程の号哭が、僕の胸の奥をぎゅぅっと締め付ける。
悲しみはない。けれど込み上げる涙が不思議だった。
母の背中を摩った。
柔らかくてすごく熱かった事を覚えている。
それから幾分が経っただろうか、母は「もう大丈夫よ……」と俯いたまま囁いた。
そして僕の名前を何度と呼んだ。
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母に代わり涙に濡れた喉仏を納めた。
収骨を最後に葬儀を終えた。
中学を卒業したら就職しようと胸に思う。
早く大人になりたかった。
母を安心させたかった。
僕は第二ボタンを締め直した。