03 愛の力でなんとかなる話〜そして殴打
叶愛梨は、そういえば、たしかに、隣のクラスに寺生まれの人がいると聞いたことがあった。
全てが片付くと、本山みどりさんは、
「悪を滅しに行かないと!」
と叫び、凄い勢いで走り去ってしまった。後に残されたのは、浄化され普段どおりの昼休みに戻りつつある教室と、気が動転しているどぶちゃんだった。
「どうしたの?どぶちゃん。ゆっくり、落ち着いて言ってみて」
「しゃ、車輪くんが、滅されちゃう!」
……つまり、どういうことなんだろうか。
「みどりさんは、強い善の力だけで争いを止めてた……。あんな善のオーラに当てられたら、悪の塊である車輪くんは、消滅しちゃう!」
どぶちゃんは、断定口調で言い切った。正直、あまりに突飛な発想で、理解出来たとは言い難い。しかし、どぶちゃんがそこまで言うのなら、それなりの根拠があってのことだろう。
ひとつ、疑問に思った点を聞いてみる。
「車輪くんって、そんなに悪い人なの?」
「あ、そっか!愛梨ちゃんは知らないかもしれないけど、車輪くんは悪魔のような人なんだよ!悪の塊!悪という概念そのもの!」
またも言い切った。普段は自信なさげな口調のどぶちゃんがここまで言うとは、車輪くんどれほどの悪行を積み重ねてきたのだろうか。
友人がここまで必死になって訴えているのだ。わたしは信じる以外の選択肢はない。
「わかったよ。それで、どぶちゃんはどうしたい?」
わたしは、どぶちゃんと車輪くんの関係について、深くは知らない。けれども、その複雑さについてはある程度察しがつく。
どぶちゃんは車輪くんの危機を訴えて、そしてどうするつもりなのか。
「どうって……探しに行かないと!」
どぶちゃんは即答した。悪だと断定した人間を助けることに、迷いも躊躇いもなかった。であれば、わたしも迷う必要は無かった。
「わかった。行こう。急ぐなら手分けして探した方がいい」
「うん!」
わたしたちは、それぞれ反対方向に走り出した。
✳︎
溝川どぶ子は、廊下を走りながら一つ一つの教室をしらみつぶしに覗いていた。覗き込み、隈なく目を滑らせ、走る。
正直、自分でも、どうしてこんなにも必死で走っているのかわからなかった。
誰よりも車輪くんを知っていて、誰よりも車輪くんの悪行を知っている。疑いようのない悪だと知っている。
助けたいと、思ったことは一度もない。ただ、走らずにはいられなかった。
昼休みの廊下を、人を避けながらジグザグに走る。車輪くんが普段どうしているかなんて知らない。車輪くんを昼休みに見かけたことはない。けれど、分かる気がした。
違う。ここじゃない。もっと、人の少ないところ。人気の無い、それでいて高い所。
三階へと続く階段を一気に駆け上がる。
目指すは三年の教室ではなく、音楽室や理科室など、特別教室の並ぶ廊下。
かくして、行事ごとでしか使わない空き教室に、車輪くんは居た。
「車輪くん!」
がらがらがら、と勢いよく扉を開け、中に飛び込む。
「……あ?うるさい。どっか行け」
寝転がっていた車輪くんは、嫌々起き上がってこちらを見た。やはりいた。屋上は封鎖されているから、一番高い所といえば三階だ。思えば初めて会った時も、車輪くんは高いところにいた。
「あのね!大変なの!みどりさんっていう、隣のクラスの人が!えっと、寺生まれなんだけど」
どこから話せばいいのやら、気が動転していて、うまく話をまとめられない。車輪くんは眉間のシワを深くしていて、明らかに伝わっていない様子だ。早くしないといけないのに――。
ばん!
と、後ろから、扉を強く開く音が鳴った。
「む。悪の気配がするの!」
最悪のタイミングで、一番聞こえてはいけない声がした。
ぎぎぎ、とぎこちなく振り返ると、そこには、やはり、みどりさんが居た。教室に入ってきたみどりさんが、此方を見る。みどりさんの視線が、強く車輪くんを射抜く。
「悪!」
みどりさんが断罪する。私は、死刑判決が下された人のような心境でそれを聞いた。
ああ。車輪くんは、やはり、みどりさんのような人に断定されてしまうような悪なのだろうか。みどりさんのような正しい人に、断罪されてしまうような。
私は、車輪くんのことをどう思っているんだろう。自身で悪だと言い切りながら、そうであってほしくないと願っているのか。助かって欲しいと願っているのか。ああ、それももうわからなくなってしまう。
私は、絶望的な気持ちで、ゆっくりと振り向いた。
「あ?」
車輪くんは、髪の先からさらさらと粒子になって消滅していた。本人は、何が起こっているのか理解できないように口を開いている。酷い光景に、息を呑む。
酷い。あんまりだ。苦痛がないのがせめてもの救いか。
「天誅!」
みどりさんが外見からは想像もできないほど力強く、よく通る声で叫ぶ。
私には、止める理由なんて一つもなかった。けれども、何か分からない感情が湧き上がってきて、分からないままに叫んだ。
「車輪くん!!!」
「えっ?」
「あ?」
半分ほどが消滅していた車輪くんの頭が、すぅっと元の形へと戻っていく。
みどりさんも、車輪くんも、驚いていた。私も何が起こっているのか理解できず、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。一番最初に状況を理解したのは、みどりさんだった。
「全てが悪というわけでは、なかったみたいなのね。みぃもまだ、修行が足りないの!精進しなくては!二人ともごめんなの!」
え?悪じゃなかった?
私はますます理解ができなかった。車輪くんと一番長く居たのは私だと、確信を持って言える。そして、車輪くんは完全なる悪だと、確信を持っていえたはずだ。それが、どうして。
「愛の力、なのね!」
みどりさんは教室から出る直前、そう言った。そして、
「悪を探しに行かなくては!」
と、止める間も無く走り去った。みどりさんは、本当に嵐のように去っていった。
『愛とは、一体どういう意味ですか』それは聞けないままであった。
「…………で。何だよ、これ。」
車輪くんがぽつりと呟く。
一番訳がわかってないのは、間違いなく車輪くんであろう。
✳︎
煉瓦造責務は、夜の町を静かに歩いていた。真っ黒な夜空は、地平線の向こうがほんのりと赤みを帯びていた。駅前から大分離れた居住区域は街灯がほとんど無く、1メートル先も満足に見えないほどだった。
高校生である彼は、当然18歳未満であり、とっくに家で寝ていなければいけない時間である。特に、殺人鬼が出没するかもしれないこんな夜は。煉瓦造責務は、上下とも暗い色の服を着ていて、一見するとその存在が分からないほど夜の闇に溶け込んでいた。
彼は電柱の陰で一度立ち止まり、ちらりと後ろを見た。闇と、無人の町がある。ポケットからスマホを取り出すと、闇に彼の顔が浮かんだ。すぐにスマホをしまい、もう一度歩き出す。
何度か立ち止まりながら彼が辿り着いたのは、とある廃工場だった。端の方が錆びた『△△工場』の看板が街灯の光を反射してほの光っていた。錆びた赤茶色のトタン壁には見たことのない種類の蔦が絡み付いている。よく見ると、伸び放題の草の中に、不法投棄された自転車が転がっていて、これもまた赤褐色の錆に覆われていた。
長く放置されていたであろう建物に、彼は躊躇いなく入っていく。
小さな窓がいくつか付いているだけのその工場の中は、きっと月の光もほとんど落ちない真っ暗闇だろう。
数分後、彼の足元には血に濡れた死体が転がっていた。
✳︎
煉瓦造責務は、うつぶせに倒れた死体をじっと見下ろしていた。スキニージーンズに赤いスニーカー、MA1を着た、どこにでも居そうな死体だった。
俺は暗闇の中、じっと死体を見下ろして、微動だにしなかった。
ジャリ、と砂を踏む音がした。
俺は、ぴくりとも動いていない。
つまり……。
後ろを振り返ると、口を開いて固まっている叶愛梨が立っていた。愛梨は、顔は動かさないまま眼球だけを動かして、視線を下に向けた。
俺は、反射的に誤解されたと思った。
俺は、死体と愛梨を交互に見る。愛梨も、死体と俺を交互に見ていた。冷や汗が頬を伝う。愛梨は、眼球以外動かなかった。俺も、一歩も動けなかった。きっと、俺たちの心は一つだった。
何度目かに死体を見た時、俺は工場の機械の近くに、重そうな箱が落ちているのに気づいた。丈夫そうで、持ち手が二つ付いていて、目測約30センチ四方の持ちやすそうな箱。死体にでも愛梨にでもなく、俺の目は箱に釘付けになった。
決めるなら、迷ってはならない。即座に行動しなくてはならない。
首だけで振り返ると、愛梨と目が合った。愛梨の顔が引き攣る。俺は今、どんな顔をしているのだろうか。口元の筋肉がこわばっているのを感じる。
ジャリ、と愛梨が、一歩下がった。
俺は素早く箱を掴み、泣きそうになりながら振り上げた。
箱は、過たず愛梨の頭を打った。