プロローグ〜溝川どぶ子〜
溝川どぶ子は、真新しいぶかぶかの制服の上に分厚いコートを着込み、見知らぬ土地の駅前に立ち尽くしていた。
見慣れぬビル群、整備されたアスファルト。視界を覆う人工物の数々に、ぐらぐらと眩暈がした。ぎっしりと荷物の詰まった鞄が肩に食い込み、まだ冷たい三月の風が、肩までの髪と一緒になって頬を叩く。どぶ子は、ガーゼや絆創膏がベタベタと貼られた顔を顰めて、いかにも困ったように呟いた。
「車輪くん、どこ行っちゃったのかなあ……」
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あの日からもう二カ月か。と、どぶ子は振り返る。余りに濃密で、あっという間で、それでいて奇跡の連続のような二ヶ月間だった。
例えば、のどかな田園風景広がる田舎を引っ越し、人工の建造物立ち並ぶ都市部で一人暮らしを始めたこと。例えば、そこで高校に入学したこと。他にも、例えば……。
物思いにふけりつつ、公立せんたく高校へ続く通学路を歩く。さすがに、もう道にも迷わなくなった、と思う。多分、きっと、おそらくは。
「どぶちゃん、おはよ〜!」
「お、おはよう」
声のした方を振り返ると、愛梨ちゃんが笑顔で走り寄ってきた。愛梨ちゃんのサイドテールが、ふわふわと揺れる。
そう、例えば、友達が出来たこと。きっとこれが、私の人生における最大の奇跡だろう。
しかも、愛梨ちゃんは可愛くて、明るくて、頭も良くって、学級委員長で、責任感も強くて、それにすごく優しい。あと、背がすらりと高くて、スタイルもいい。私は、……もう少し痩せないと。こっそり腹の肉をつまんで自戒する。
「そうそう、あの映画すごく面白かったんだよ。今度地上波でやるらしくて――」
「あ、聞いたことあるよ!確か、漫画原作の――」
友達と、他愛ない話をしながら登校する。愛梨ちゃんの笑顔を見上げて思う。たったそれだけのことで、世界がこんなにも華やいで見えるなんて……。私は、ふと前方に目をやり、絶望して固まった。
ガンッ!
閑静な朝の住宅街に、派手な衝撃音が響く。
ガンッ!……ガンッ!……ガンッ!
少し前を歩くその青年は、何もかも気に入らないというように、目に入るもの全てを蹴飛ばして進んでいった。自販機、ゴミ箱、何かの看板。
私たちと同じ学校の制服に身を包んだ、よく見慣れた背中に、自分の体からすっと血の気が引いていくのが分かった。
(車輪くん……)
車輪くん、本名車輪くんは、私の幼馴染だ。彼は、私たちの故郷の田舎町で、問題児として名を馳せていた。そして私は、幼馴染だったがために、車輪くん係として扱われていた。揉め事の仲裁に入ったり、車輪くんに連絡事項を伝えたり……。気が付くと、私に近づく人間は居なくなっていた。オプションで車輪くんが付いて来るのだから当然といえば当然だろう。小さな田舎町だったから、結局、小学校でも中学校でも、友達は……。
「まーたイキり太郎か」
愛梨ちゃんの声で、はっと我に返る。前を見据える愛梨ちゃんの瞳は、少し冷たい気がした。
「どぶちゃん?大丈夫?」
愛梨ちゃんがこちらを向く。私を心配する声は、すごく優しかった。
高校でも車輪くんと同じ高校、同じクラスになってしまった私に、初めてできた友達。愛梨ちゃんは、車輪くんに臆することなく、真っ先にわたしに声を掛けてくれた。
「う、うん。大丈夫。何でもないから……」
胸の前で、ぱたぱたと両手を振って見せる。愛梨ちゃんは、うーん、と悩ましげにうなった。場の空気が軽くなって、ほっとする。
「それにしても心配だなあ、最近物騒だし……。今朝のニュース見た?また起こったらしいよ、『連続殺人』」
また起こったのか。テレビが無いから知らなかった。
そう、このせんたく市で起きている、『連続殺人』。例えばこれも、私の人生に奇跡のような確率で起こった出来事の一つだった。