愛を囁き潜む者
彼が最初に感じた異変は、勘違いで済ませられるような些細な物だった。たとえば風呂から上がって自分の部屋に戻った直後や、電気代の節約にと電気スタンドで机だけを照らして作業してる最中や、布団に入ってから眠りに就くまでの僅かな時間。そんな時に、彼――小塚三琴は、誰かが自分を凝視する様な気配を感じるのだ。
両親が事故で亡くなり、それ以来ずっと一人暮らしを続けてきた。自分以外に誰かが住んでいる訳もなく、加えて視線を感じる時は常に部屋が暗い時である。三琴は最初こそ気の所為と考え意識していなかったが、決まった状況で毎回同じ事が起これば、嫌でも記憶に残ってしまう。そんな事が、数週間に渡って続いた後のことである。
ある日、三琴が買い物に出掛けて帰ってきた時の事。最寄りのスーパーマーケットへは徒歩で五分もかからず、買い物の時間を含めても一時間弱で家に帰ったであろう。そう、家を留守にしていたのはその程度の時間だった筈なのだ。しかし、自分の部屋に戻った瞬間に三琴は強烈な違和感を抱き、なぜ違和感を覚えたかを理解した瞬間に思わず部屋を飛び出した。
朝起きて乱れたままになっていたベッド、読み終えてからも本棚に仕舞わず机の上に積まれていた漫画本、床に放置された通販サイトのダンボール。それらが全て、考えうる限り最も綺麗な形へ整えられていた。まるで、誰かが部屋に入りそれらを片付けたかのように。否、もうそうとしか考えられなかった。
三琴は恐怖心を抑えながら再び部屋を覗き込み、あの視線を感じるかを確かめる。照明を付けずに部屋へ入れば、なるほど、やはりあの視線が自分に向けられている。電気のスイッチを押した途端に消えるそれが彼は恐ろしくて堪らなかった。何かが家の中に居る、そう確信するには十分な出来事である。
しかし彼は、ここに至って恐怖心とは別に冷静な分析力を持ち合わせていた。そうなると浮かんでくるのは、その「何か」とは一体、誰なのか、という当然の疑問である。不気味に整頓された部屋でノートパソコンを開き、三琴は自分の現状に近い体験談が存在しないかと、インターネットの掲示板サイトを見て回った。サイトにはオカルト関連の話題を専門に扱ったスレッドも多く存在し、一晩では読みきれない程の情報が溢れている。暗闇で視線を感じるという異変は幽霊に関わる話であれば当然の様に通過するシチュエーションだが、逆に部屋が掃除されていたなんて体験談は一つも見当たらない。三琴は期待を裏切られたような気分になりながらも、連日連夜、部屋の照明を一度足りとも消すことなく情報を集め続けた。
ところで、彼は元々それほど活発な男ではない。それが幽霊騒ぎで部屋に籠もり始めると、せいぜいトイレと食事で止むを得ず外に出る程度になっていた。しかしそれが数日も続くと、三琴は風呂も入らず歯も磨いていない自分の不潔な状態に耐えきれなくなった。幸い明かりの下では視線を感じない事が分かっていた事もあり、恐怖心よりも不快感が勝った彼は風呂場へ向かい、およそ半週ぶりにシャワーを浴びて身を清めたのだ。だが彼は、風呂場を出て体を拭いている最中、いつもの視線とはまた違った違和感を感じた。明かりは点いている、では何が。しかしここまで来たら、歯も磨かなくては気分が悪い。鏡を見るのは少し怖かったが、三琴は歯ブラシを手に取り水で濡らし、歯磨き粉を塗って入念に歯を磨いた。鏡に誰かが映る様子も無い。口をゆすぎ歯ブラシを元の場所へ戻し、また部屋へ戻ろうと、そう思った瞬間である。彼は自分の感じていた違和感の出処に気がついた。
歯ブラシが多い。どうしてさっきは気が付かなかったのか、自分が使った歯ブラシとは別に黒無地の歯ブラシが一緒に置かれていた。三琴の物よりも少し短く、しかし子供用というほど小さくはない。そしてそれに気付いた瞬間、家の至る所に異変が現れている事に、彼はようやく気付いた。
箸が増えていた、やはり黒無地で少し短い。
マグカップが増えていた。これも黒無地だ。
茶碗が増えていた。艶もない程に黒一色である。
リビングを少し探した程度でこの有様。三琴はいよいよ身の危険を感じ始めた。そして同時に思ったのだ。これは本当に幽霊の仕業なのだろうか、と。
まるでもう一人の住人が居るかの様に増えた生活用品。何者かに整えられた自分の部屋。眠る間際に自分へ向けられていた視線。まるで、そう、この所業はまるで、ストーカーのそれではないか。そう考えた三琴は、むしろ幽霊の仕業と考えていた時よりも恐怖を抱いていた。仮にこれらの異変が生きた人間の仕業なら、それこそ大事件である。だが同時に、妙な憤りも湧き上がってくるのが三琴には分かった。こんなに俺を困らせやがって、そんな苛立ちが無かったと言えば嘘になる。だからだろう、彼はひとまず荷物を持って家を出ようと考え自分の部屋に戻ったのだ。
部屋の照明は消えていた。点けっぱなしで放置していたパソコンの画面が辛うじて部屋を照らしている。その中に、輪郭のぼやけた人影を三琴は確かに目撃した。否、目撃している。その靄とも言えるような影は、直感的に肩から下だけが見えていると確信出来た。三琴の帰還に全く動じず、微動だにしない。その顔にあたる部分は、光が当たらず未だ影になっていた。
三琴は動けなかった。電気のスイッチに手を伸ばせばあの影は消えるかもしれない。だがそれすらも行動に起こせなかった。目を離してはいけない、そう本能が叫んでいた。
その次の瞬間である。パソコンの画面がスクリーンセーバーに切り替わったと同時に、一気に部屋から光が消えた。三琴は反射的に乱暴な動作で電気のスイッチを押し、部屋の照明を点ける。その点灯の直前、三琴は確かに、目の前で光に照らされ消える女の顔を一瞬だけ直視した。その目はまるで恋する乙女。倒錯的で恍惚とした、いかにも狂気的で薬物に蕩けたような表情だった。
呆然としたまま立ち尽くしていた三琴は、我に帰り部屋に飛び込んだ。すぐに荷物を持って家を出よう。とにかく今は、この家に居てはいけない。そう感じて大急ぎで荷物をまとめ、部屋を出ようとしたその時。彼は電源を入れっぱなしにしたパソコンに気づき、電源を落とすためにスクリーンセーバーを解除した。そこに映っていたのは、彼が起動した覚えの無いメモ帳。ただ一言、「どこに居ても一緒だよ」と、まるで恋人が囁く様な言葉が全画面表示のメモ帳を埋め尽くしていた。