後編
◆
あの日のことは、今までで一番よく覚えている。
初めて山根さんと二人で外出した日。ピクニックなどと言っていたけれど、本当はただ単に、自分の作った料理を食べて欲しかっただけ。
でもいざ男の人と二人で出かけるとなると、やっぱり前の日の夜は少しどきどきしていた気がする。着ていく服もいつものようなものでなく、少しオシャレしたつもりだ。私は視力がなくなる前も、男友達が多いほうではなかったので、あんな体験は初めてだった。自分が作った料理を人に食べてもらうのが、あんなにも緊張するものだったなんて知らなかった。
料理を食べてもらったら、次に私はもう一つの目的を達成しなければならない。
お礼を言う。
山根さんが話を聞いてくれなかったら、たぶん私は潰れていた。
「良心の呵責」というやつに、だ。
私は、赦されたかった。
あの出来事があってから、私は罰を受け続けた。それだけでも足りないと思ったから、生きていることすら責任を取って辞めようと思った。
でも。
人に話したことで、自分が罪を償っていることを確認できた。
そして、山根さんは私の料理を食べてみたいと言ってくれた。
家庭で仕方なしに作っていた料理を、今度は私自身の意志で作れる。
それはつまり、あの両親達から解放されたということ。
だから、私は死ななくていい。そう思ってしまった。
赦されたのだ、と。
「おまえ、犯人が見つかったらどうするんだ?」
そういえばあの日、山根さんが私にそんな質問をしたことを思い出す。
お父さんをあんな目にあわせた犯人が、もし見つかったら?
そんなこと、当の昔に答えは出ていた。
だから私は言った。
努めて冷静に。
ただ、ありのままの事実を。
「殺すよ…」
と。
◇
飛田めぐみを施設に送り届け、事務的な仕事が終わった頃には完全に日が暮れていた。
空からの淡い月光が、閑静な住宅街を包み込む。
この季節、日が暮れてしまえば辺りの気温も決して暖かいとは言えなくなってきている。俺は持参していた長袖のシャツを上に羽織った。
目の前に作り出された長い影が、歩く度に怪しく揺れる。降り注ぐ月明かりを背に受けたまま、ただその闇だけを見つめていた。
『殺すよ…』
耳の奥。飛田めぐみが先ほど口にした台詞が蘇える。
俺はまだ、その言葉の意味を理解できずにいた。
無論本気でそう思ってはいないだろう。しかし犯人に抱いている憎しみは、殺意にまで膨れ上がっていることは、疑いようのない事実であった。
「―――……」
幼さの残る、あの屈託のない笑顔には、そのようなことは無縁だと思った。しかし現実に、彼女はそう確かに言ったのだった。
気が付けば、目の前には私鉄の券売機が立ち並んでいる。住宅街を抜け、いつのまにか俺は駅前までやってきたようだった。自分が一体何をしたいのかわからない。けれども俺の指は、迷うことなく一つの駅までの切符を購入していた。
会社帰りのサラリーマンや、部活帰りの学生で詰まった電車に揺られること約十分。目的の駅の改札を抜けた頃には、駅前に設置された時計台の針は九時を回っていた。
かつて、一度も訪れたことのない街。けれども、何故かこの街には嫌悪感しか浮かび上がってこなかった。ズボンの後ろポケットに、乱雑に押し込まれていた一枚の紙切れ。そこには施設を出る際に園長から聞き出した、昔飛田めぐみが住んでいたという家の住所が明記されている。
行き交う人々がそれぞれの家路に着く中を、理由のない目的で彷徨っている自分が、滑稽で仕方なかった。
止むことを知らない喧騒に包まれた駅前を抜けて、歩くこと数分。月と街頭のみが照らし出す一本道だけが、目の前に伸びている。線路に沿って伸びたその道路は、電車が通過する以外には静かすぎる空間だった。
流れてくる風は涼しいというよりも、どこか肌寒い。もう秋なのだと、闇に包まれた空が教えてくれている。ほのかな白い光を発する電灯の下、先ほどの紙切れを広げて再度確認する。目的の場所は、もうすぐ其処まで来ていた。
果たして俺は何をしようというのだろうか。飛田めぐみが昔、まだ視力も失われておらず、家族と幸せに暮らしていた時期に住んでいたという家を訪れて、何が変わるというのだろう。
(…目的はもう達したじゃないか)
夜空に浮かぶ雲を見上げ、俺ではない自分にそう言い聞かせる。
あいつは、生きる希望を見出せるようになってきている。これ以上は自分の出る幕ではないだろう。
けれどもやはり脳裏に浮かぶのは、彼女のものとは思えないほどの冷たい声。あいつには、そんな感情を抱いて欲しくはなかった。純粋にそう思える。
何が変わるかはわからない。いやむしろ、何も解決しない確率のほうが高いであろう。だが、何もせずに佇んでいることだけはできなかった。
だからだろうか。
こんな無意味とも思える行動をしているのは…。
悩みを払拭させたくて、一つ大きな息を吐いた。遠くから伝わってくる列車の振動。ふと、立ち止まる。すぐ隣を通過していく満員電車は、辺りの静寂だけ奪い去り、突風だけを跡に残して夜の闇に消えていった。
線路沿いの道を右に曲がると、そこは完全な住宅街へと容貌を変えていた。
先ほどまで街を仄かに照らしていた月も、今では雲に隠れて一層世界を闇の中に落とし込んでいる。
終着点に近づくにつれ、ある一つの言い知れぬ不安を覚えた。簡易な手書きの地図によれば、目的の場所まではあと数分の距離だろうか。一度も踏み入れたことのない空間。そう思っていたことに間違いはなかったが、何故か今の俺にはそう断言できる自信がなかった。
立ち並ぶ軒先から流れてくる家族の団欒と温かな電灯の光。宵闇の中、風に揺れる街路樹が不吉な音を立てている。その景色を作り出す事物の一つ一つが、初見のものとは思えないことに今更ながら気が付く。
どこで見た情景だったであろうか?
(…あれは、たしか)
記憶の糸を紡いでも、その先にある答えは、雲に隠れた月よりもおぼろげだった。
ありふれた日常の一コマだ。既知感のように、曖昧な記憶がそう見せているだけに違いない。だが、そう明言することができない自分に戸惑いすら感じる。
手元の地図に導かれるように、最後の曲がり角をゆっくりと左折した。
「此処は…」
思わず漏れる言葉。
其処には、最も思い出したくなかった記憶の中の映像が、そのまま投影されていた。
◆
嬉しかった。
今まで背負っていた荷物がなくなっただけなのに、世界が全く違って見えた。
その日を境に、私は本当の意味での幸せが訪れるものだと信じていた。
私は赦され、近くには山根さんがいてくれる。確かに目は不自由だけれども、それは私が自分に課した罰なのだから、もう切り換えはできている。
施設のベッドの中で、翌日から訪れる明るい未来を信じて疑わなかった。
そう。その時は…。
◇
気を抜けば、その場で即座に発狂してしまっただろう。そんな自分を残された気力で抑え込み、なんとかアパートに帰り着いた頃には日付が変わる時分だった。
そこでちょうど意識が途切れている。
どうやら眠ってしまったようだ。フローリングの上に直接寝てしまったからか、体の節々に鈍痛が走る。だがこんな時であろうと、睡眠を摂ることを忘れていない自分の体が羨ましい。
ふと顔を上げる。あれからどれほどの時間が経過したのだろうか。雨戸が締め切られた密閉された空間で、ただ佇んでいるだけの俺にはもう時間の感覚すらない。
もはや時計を確認する気力さえも失われていた。いや、時の流れの中に生き続けている自分自身すら、おこがましく感じられる。
完全なる闇。世界を照らす太陽の日差しすらも、この部屋には侵入できない。それは月明かりとて例外ではなかった。
俺に、光を浴びる資格などない。
『ありがとう』
脳裏に蘇える、少女の声と無垢な笑顔。
その感謝の言葉さえも、今の俺にとっては自由を奪われた足枷にすぎない。言ってしまえば、それこそがこの苦しみの元凶でもあるのだろう。
(…なにが「ありがとう」だ)
あいつは俺のおかげで、もう一度生きる希望が沸いたという。
俺がいたから、救われたと―。
「違う!」
辺りの空気が揺れる。しかしその振動さえも、時の流れと共に元の無音の闇に戻っていく。
…あれは、体の芯まで凍えるような夜風の吹く、真冬の夜のことだった。
瞬く星すら見えない暗がりの中で、一度も訪れたことのない街角を漂浪する。目指す場所などは存在しない。けれど、目的だけは揺らぐことなく体内で息を潜めていた。
途中で三叉路に差し掛かったのを覚えている。ただなんとなく、俺は一番右手の通りを選択した。
(もしあの時、違う道を選んでいたのなら…)
――いや。今さら悔やんでも、決定された過去の行動を変えることなどできはしない。遅すぎたのだ、何もかも。
それからどのくらいの時間彷徨っていたのだろうか。気が付けば線路沿いの小道の上を歩いていた。今日という日が昨日に還っていく。そんな時刻に、レールを軋ませるような電車は存在しなかった。同じような形をした家々も、夜更けの空気に包まれて寝静まっている。寂寥たる住宅街。月さえもひっそりと雲に隠れている。
次第に、呼吸が激しくなっていた。
初めての体験だった。今まで真っ当に生きてきた俺にとって、他人の家に忍び込み、金品を奪って逃走するなど考えられなかった。でも、仕方がなかったのだ。この国で生きるためには、それなりの金銭が必要不可欠なのだから。
どこをどう曲がったのか、もう覚えてすらいない。ただ高まる鼓動が身体を縛り付ける不安を上回った時、丁度目の前に建っていた家が「其処」だった。
二階建てのいたって平凡な、どこにでもあるような住居。正直、何処でも良かったのだ。知識も経験もない俺が四の五の言っている余裕はない。ただ決心した瞬間、即行動に移しただけ。それが、たまたま飛田めぐみの家だったのだ。
今思い直せば、何故もっと綿密に計画を練らなかったのか疑問に感じる。住人が、ほぼ確実にいると思われる深夜に忍び込むことほど、愚鈍なことはない。
だが所詮は素人。しかも切羽詰っていたあの状況で、そこまで冷静になれるはずがなかった。ガムテープを貼り付けた窓ガラスを数回殴打し、割れた隙間から手を入れ、鍵をはずす。なんとか侵入には成功したが、鳴り止まない心臓の鼓動で住人が目を覚まさないか心配だった。
極力音をたてないよう細心の注意を払い、事を進める。
あっけなかった。思ったほど複雑でも難しい作業でもなかった。侵入してから数分足らずで、俺は目的のモノを探し当てた。金銭の入った少し大きめの財布、カード類、貯金通帳。
(これで贅沢さえしなければ、当分の生活に困ることはない)
あんなにも緊張していた自分自身が可笑しく思えるほど、簡単すぎる仕事だった。
だからであろう。その家の住人が起きだしたことに気が付くことなく、反応できた時にはすでに「彼」は背後まで忍びよっていた。
――…それからの出来事は、もう思い出したくもない。
悪夢の中を漂っていた感覚から解放されたのは、アパートに帰り着いた頃だった。あそこから自宅まではかなりの距離があったはずだ。果たして俺は走ってきたのだろうか、それともなんらかの交通手段を用いたのか。それすらも今では闇の中に霞んでいる。
なかなかに治まらない胸の動悸を落ち着かせるため、フローリングの上に倒れこむ。左手には先ほど奪ってきた金品だけが強く握られていた。
(殺すつもりなどなかった…!)
ただ金を手に入れたかっただけ。
だがあの充満した血の臭いは、確実な死を連想させた。
「――――……!!」
轟く咆哮。取り返しのつかない、後悔という名の重圧を振り切るかのように叫ぶ。
一年前のあの日、俺は殺人者になった。
…俺の「おかげ」でなく、俺の「せい」。
…俺が「いた」からでなく「いな」ければ。
そうすれば飛田めぐみは、悩み苦しむ必要すらなかったのだ。
昨日、彼女の家を目にした瞬間、頭の片隅に封印していた記憶が急速に蘇えっていくのを感じた。
鈍い音。
二度と味わえない、味わいたくないような感触。
その場に蔓延するような、鼻をつく――…血の臭い。
闇の中、視ることのできない自分自身の手を見つめる。
殺人者の、醜い手。
飛田めぐみの幸せを奪った、汚らわしい手。
「俺が、殺した…」
音も光も届かないこの場所で、誰にでもなく告白される真実。
紡ぎ出された言葉でさえ、今は闇に溶けて消えていく。
切り離されていた意識が現実に舞い戻ってきた頃、携帯の着信音が部屋中に鳴り響き渡っているのに初めて気が付いた。
◆
新しい生活が始まると信じていた日の朝。訓練が始まる時間になっても、山根さんはまだ来ていなかった。
(遅刻かな…?)
寝坊して慌てふためきながら、施設に入ってくる姿を想像しただけで、私は幸せだった。
あの時はまだ、山根さんが来てくれることを疑いもしなかったから。
だけど。
昼休みのチャイムが鳴っても、訓練が半分以上終わっても、そして消灯時間になっても、山根さんのあの穏やかな声は聞けなかった。
「もう何度も携帯に電話しているのだけれど…」
風邪でもひいたのかしら?そう心配している園長の声だけが、今でも耳の近くに残っている。
あの日の夜は、なかなか寝付けなかった。
時計の針の音と、周りの寝息だけがやけに大きく聞こえたのを覚えている。
◇
暗闇を覆うように鳴り響き続けた着信音が途絶える。唯一の光源だった携帯のバックライトも、やがて静かに闇と同化するように消えていく。
もう何度目になるのか。履歴を見ずとも、何処からの電話かは明らかだった。無断欠勤したのだ。施設から電話が来るのはわかっている。だが今の俺には、欠勤の連絡をする余裕すらも残されていなかった。
今更、あの施設に顔を出してどうしろと。
少女の前で一体どんな表情を作れば良いのだ。
どんな言葉をかけてあげれば良い?
俺が殺したのだ。
飛田めぐみの父親を、この俺の手で…。
もし…知ってしまったら。
自分が犯人だとわかったら、彼女は俺を恨むのだろうか。
(………)
当然だ。
くだらなすぎる自問自答。枯れきったと思われた涙が、また瞳から溢れ出す。
そんな愚かな行為をしなければ、今も飛田めぐみは幸せな家庭の中で、何不自由なく生き続けてこられたはず。両親を亡くし、視力すら奪われ、生きる希望までも失って。
あいつが苦労していた一番の原因は…。
他ならぬこの俺、山根昌平だった。
―――俺の…せいだ。
嗚咽交じりの独白は、もう声にすらなりえない。
時折雨戸を揺らす風音に驚き、その度に体が強張るのを感じる。まるで殺人犯である俺を責め立てるかのような、そんな猛々しい風圧。
どうすれば赦される?
何をすれば償える?
どんな罰を受ければ見逃してくれる?
強盗殺人罪は死刑又は無期懲役という重罪。そんなことはあの日からずっとわかっていた。だから俺は、今までその罰から逃げ回っていたのだ。卑しくとも、みすぼらしくとも生きていたい。この日常という世界に少しでもしがみついていたかったから。
でも、もし、仮に俺がこの命を贖罪とすれば、あいつは俺を赦してくれるのだろうか。
『殺すよ…』
いつかの少女の声が脳裏に響く。あれは何時だっただろうか。そう遠くない日、あの時はまだ自分の犯した罪の重さを本当の意味で理解していなかった。
俺は死んで償わなければならないのか?そうすれば、あいつの気が晴れるのだろうか?赦してくれるのだろうか?
けれども。
『だから、ありがとう。私がこうして此処にいられるのは山根さんのおかげだよ』
頭の奥底に引っ掛かっていた、あの時の言葉。
俺がいたから、絶望の淵から抜け出せたという。自殺することすら考えなくなったと。しかし彼女を絶望の淵に陥れた真犯人もまた、紛れもなくこの俺なのだ。
そう。例えこの命を捨てて罪を償おうとしても、飛田めぐみは救われないだろう。
先程よりも一層強い風が、雨戸を叩きつけていた。相変わらずの暗闇の中、風が立てる轟音だけが世界の全てに思える。
(赦される方法など、初めから存在しなかったのだ…)
あの純粋で無垢な笑顔を浮かべていた少女は。
もう二度と立ち直れないだろう。
◆
あの日は、こんな夢を見た。
寝付けなかったのも束の間、知らず知らずの内に眠りに堕ちていた。
私はもう目が見えないのに、夢の中では世界が視えるのが不思議だった。
それはとても嬉しいこと。だけどどこか寂しかった。
私は、昔住んでいたあの家のキッチンで、一人料理をしている。
リビングではお父さんが、プロ野球のナイター中継をビール片手に眺めていた。隣の部屋にはおそらくお母さんがいるのだろう。
狭い家の中に響くのは、私が野菜をきざむ音と、テレビから流れてくる観客の歓声ぐらいだ。
もう戻らない日々。
―――最悪の夢だった。
夢の中でチャイムが鳴る。ふと見れば、お母さんは近所に住んでいたおばさんと、仲良く玄関先でおしゃべりをしていた。それ以上に仲良さげに、お父さんがその会話に入っていく。
『いつも仲良しで羨ましいわ』
そんな気楽な声が聞こえる。
何も知らない、赤の他人ならではの台詞。
それに対して、お父さんとお母さんは声を揃えて微笑むのだった。
いつものように。ごくごく自然に。
それに苛立った夢の中の私は、持っていた包丁を乱暴に野菜に叩きつけた。
あぁそうだ。予想よりも大きなその音に、私は目を覚ましたのだっけ。
目を開けても、広がっているのは平凡なクリーム色の世界だったことに絶望した。
あの日は、久しぶりにつまらない夢を見てしまった。
お父さんとお母さんの演じられた夫婦仲。
(二人とも、プライドだけは高かったからな)
家が貧しいぶん、幸せな家庭とだけは周りから思われたかったのかもしれない。
「くだらない…」
今改めて考えても、それは滑稽で仕方なかった。
ポケットの中から取り出す、私だけの愛用の楽器。気分が優れない時には、その寂しげな音色が癒してくれた。
ゆっくりと前後に親指を動かして、いつもよりテンポの遅い音色を耳にしながら、また夢へと堕ちていった。
◇
「山根さぁん!」
いつものように屈託のない笑顔を湛えて、慎重に、しかし急ぎ足で俺のいる方角へと駆けてくる少女。
俺たちは未だかつて見たことも、訪れたこともない世界に二人で立っていた。遠く、地平線の彼方まで広がる平原。雑草の色は、緑というよりも枯れ木に近い茶色だった。そんな場所に疑問すら持たないのか、飛田めぐみは俺の顔を覗き込むように話を始める。
「今日はね、また料理の実習があったんだよ」
うまく作れたのか?
そう訊かずとも、答えは満面の笑みを浮かべる少女を見れば明白だった。
「また、ピクニック行きたいね!」
「そうだな…でももう少ししたら冬になって、外に出掛けるのも億劫になりそうだな」
「あはは、じゃあ寒くなる前に行かないとね」
この世界の季節は何時なのだろう。それとも此処には季節という概念すら存在しないのだろうか。そう思わせるほどに、寒さも暑さも感じることはなかった。晴れとも曇りとも言い難い中途半端な天候の中、流れてくる風は、見上げた空に漂う雲を静かに運んでいる。
その風は、この世界が俺達二人だけのものだと謳っていた。
そしてこれが、もう二度と戻らない日常であることを教えてくれた。
そっと目を開ける。
(夢、か…)
気がつけばまた深い意識の底に身を沈めていたようだった。
しばらくの時間、虚ろな瞳のまま何もない空間を眺めていた。
悲しくはない。ただ、もう二度と飛田めぐみの笑顔を見ることが適わないという現実が、重く体に圧し掛かってきただけだった。
辺りには相変わらずの闇が室内を支配している。何物も視界に捕らえることができず、自らが何処に存在しているかも把握できない。
それはまぎれもなく飛田めぐみの世界と酷似していた。
恐怖だった。目の前に何があるのかわからない。安全なのか、危険なのか、それすらも判断できない。ただ己の聴覚だけを頼りに、周囲の情景を確かめる術もない。そんな世界に彼女を陥れてしまったのは、まぎれもなくこの俺だった。
ふと時を刻む針の音だけが、この空間を満たしていることに気が付く。その針を逆に進ませることで、犯した罪を書き換えることができるのならば。
何を愚かなことを。
過ぎた時間は戻らない。時という絶対的な力を持った重圧が、体に少しずつのしかかるのを感じる。
このままずっと、夢の中の世界で生き続けていきたかった。辛い現実が夢で、幸せな夢が現実だったならば、どれだけ救われただろう。
…もう、限界だ。これ以上は耐えられない。
罪という名の追憶の罰は、すでに眼前で喉元を切り裂くがごとく待ち伏せている。
(…息苦しい)
心臓の鼓動は部屋の静寂さと不釣合いなほどに、何かに抗うよう力強く脈打っている。
逃げ出したかった。
何もかも忘れて、遥かなる高みへと羽ばたきたかった。
…そうだ。逃げてしまえばいい。
今まで、ずっとそうしてきたではないか。自らが犯した罪から目を逸らし、ただ日常という世界に首の皮一枚で繋がっている不安定な生活を、ずっと続けてきたではないか。逃げることが「悪」であると、一体誰が決め付けたのか。逃げずに、ただこの場で佇んでいれば、俺は近い将来必ず喉元を切り裂かれることだろう。
もう関係ない。
一年前のあの事件も。
飛田めぐみも。
(忘れてしまえ、山根昌平…)
そうすれば、楽になれるのだから。
どこか遠くへ。此処での記憶が綺麗に流されて、忘却の彼方に飛ばされるくらい遠くへと旅立とう。深い闇の中に、一筋の光明が差した気がした。足に絡み着いていた鎖さえも、笑えるほどに重さを感じなくなる。
立ち上がる。一度決断してしまえば、後は早かった。持ち物など特に必要ない。要るのは最低限の金銭のみ。足早に部屋を立ち去る。意外にも軽かった玄関のドアを開け放ち、踵を踏んだままの靴で二日ぶりに外の世界と対面する。そう、たった二日なのだ。ただそれだけの僅かな時間で、俺の世界はこんなにも様相を変えてしまった。
…突如、目が眩むほどの陽射しが襲い掛かってきた。どこからか鳥の囀りも聞えてくる。見上げた昼下がりの空は、俺の気持ちとは裏腹に、どこまでも青く澄み渡っていた。
それ以前に、まだ昼間だったことに俺は戸惑いを隠せなかった。いや、考えによっては都合がいいのだろうか。もしこれが夜中だったならば、終電などもなくなっていたかもしれない。
宛てなどない。けれど一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
(逃げ出せる)
そう思った矢先のことだった。
「どこかにお出かけですか?山根さん」
背後からそう声をかけられる。聞きたくなかった、いや頭の片隅にも残っていなかった。
どうして、忘れていたのだろう。
なぜ、気が付かなかったのだろう。
「施設の方々が心配していましたよ」
丁寧語などが似合わない、野太い声色。振り向きたくもないのに、体は強制的にその方向に向いてしまう。
――…渡辺勝俊。
飛田めぐみの父親を殺害した犯人が俺だったのならば、この目の前の男が必死で追い回していたのも、他ならぬこの俺だったというに。
「少し、お話しましょうか」
その笑顔が、一瞬般若のような形相に思えたのは気のせいか。
眩しかった陽射しにさえ、俺はもう興味を失っていた。
◆
つまらない夢を見てしまった次の日。山根さんが無断欠勤をして二日目のことだった。
訓練をしていても、全然身が入らなかった。
(どうしたのだろう?)
チャイムが鳴り終わる頃、それが昼休みの開始を告げるものだとようやく気が付いた。
居ても立ってもいられなかった私は、昼食を摂ることも忘れて園長室に駆け込んだ。途中、焦りすぎたのか私は何度も転んでしまい、結局スタッフの一人に支えてもらいながら辿り着けた。
「大丈夫よ、めぐみちゃん。山根さんはたぶん、体調を崩されただけのようだから」
「連絡、取れたんですか?」
「……」
その沈黙が答えだった。丁度その時、園長に設置してあるのであろう電話のベルが鳴る。
「山根さん?」
反射的にベルの方角に駆け出そうとするのを、後ろに付き添っていたスタッフに優しく止められた。その間に園長が電話の受話器を取ったらしい。
「はい、こちら視覚障害者センター『サクラ』です。」
耳を澄ませば、相手の声が聴こえるのではないかと思った。
「…はい。…はい」
誰なの?山根さんなの?
今すぐにでも受話器を奪い取りたい。そんな気持ちが伝わったのか、私の肩を掴んでいたスタッフの手に力がこもる。
「…実は彼、昨日今日と無断欠勤なさっているんです」
園長の声が、はっきりと耳に入る。
それは紛れもなく山根さんのことだった。だけど、確実に電話の相手は山根さんではない。
(誰?なんで山根さんの話を?)
もう、それまでだった。耐えられなくなった私は、肩の上に乗っていたスタッフの手を振り切って駆け出した。
今では後悔している。
何故電話が終わるまで、自分を抑えられなかったのか。
「あ、めぐみちゃ…」
園長の声のおかげか、または私の勘だったのか。目の見えない私が受話器を一発で奪い取れたのは、ある意味偶然に近い奇跡だった。
だけどその奇跡さえ起きなければ、今、こんなにも辛い思いはしていないだろう。
『そうですか…』
もぎ取った受話器から聴こえてくる声音。何度も聞いたことのある低い声。
『やはり飛田めぐみちゃんの父親を殺害したのは、山根昌平に間違いないようですね』
電話の向こうの相手は刑事さんに間違いなかった。
けれども…。
彼が何を言っているのか、私には理解できなかった。
◇
「どこに行かれるおつもりでしたか?」
相変わらずの笑顔。一見すれば近所に住む者同士の他愛ない会話にも聞こえる。だが、俺は理解している。彼の笑顔の裏に潜む、獣のような表情を。
「…いえ、ただこれから施設に向かおうかと」
「そうですか、奇遇ですね。私も『サクラ』にちょっと用がありましてね。そうだ、せっかくですから車で一緒に送って差し上げますよ」
「…大丈夫ですから。申し訳ないですが、ちょっと一人になりたいんです」
「ははは。でもね、山根さん…。人の好意は無下に断らないほうがいいですよ。素直に受けておくほうが、賢明だと思うんですがね」
もう限界だった。この目の前の男は、確実に俺を逃がす気はないだろう。
一つ大きく深呼吸する。昼間独特の乾いた空気が肺を満たした。視線は、相手の眼球のみを直視する。
「俺に、何の用ですか?」
答えの出ている、下らない質問。無論本気で尋ねているわけではない。それは、渡辺との対立を明確にするための一言にすぎなかった。
「わかっているでしょうが。飛田めぐみの父親を殺害した件についてだよ」
先程とは全く豹変した、ドスのきいた重く低い声。それは、これまで潜ってきた修羅場の数を物語っているようでもあった。
「……」
「事件のあった夜、あんたを見たっていう住民がいたんだよ。それに出回っているモンタージュ写真を見ても、特徴などを考えれば似ているしね」
おそらく、俺の知らない間に顔写真を入手し、飛田めぐみの本宅の周辺で聞き込みをしていたのだろう。
もう逃げることはできない。
新たな生活への一歩を踏み出そうとしたのに。
(――…殺そう)
それしか、方法はない。
どこか遠くへ逃げるためには、邪魔者は全て排除しなければならないのだから。
そっと、後ろポケットに忍ばせていたバタフライナイフに手を伸ばす。
「ほう?刃向かいますか?いいですよ、いいですよ」
例え獲物を携えていようが、自分の勝利は変わらない。そう確信している眼差しのまま、渡辺は愉悦に浸っていた。
無機質な、柄の固さ。
不意にあの時の情景が思い出される。
…少女と、飛田めぐみと初めて出会った夜。あの日も俺は、こうして自分を守る為に相手を消そうとしていた。
自分を守る?
――違う。俺は逃げていただけだ。その罪の重さも知らないで、ただ日常の世界に少しでもしがみつこうとしていた。そして犯した罪の重大さに気付いても、俺はまた逃げようとしている。
「どうしました?山根さん?いつでもかかってきていいんですよ」
不敵な笑みを浮かべながら、渡辺の口が動く。だがそれも耳にはもう入らない。
ふと、飛田めぐみの顔が脳裏に浮かぶ。
『ありがとう』
過酷な現実から逃げずに、それを克服した少女の笑顔。
何度現実の世界を捨てようと思ったことだろう。何回あのカッターナイフを握り締めたことだろう。けれども、最後は逃げなかった。俺なんかが想像すらもできない音だけの世界、それをあいつは受け入れたのだ。
「…どうすれば、いいんですか」
「はい?」
思いがけない台詞だったのだろう。渡辺は一瞬理解しがたい表情を浮かべる。その反応に苛立ったのか、俺は手にしていたナイフを地面に叩きつける。乾いた無機質な金属音が辺りを一瞬支配した。
「そうですよ!俺が殺したんです!飛田めぐみの父親を!だったらどうすればいい?何をすれば、俺はあいつに赦してもらえるんだ!?」
「……」
「謝るのか?逮捕されればいいのか?それともこの命と引き換えにして、自殺でもして詫びれば、俺は赦してもらえるのか!?」
身体全体が、内側から熱を帯びていくのを感じる。脳内も何かに支配されたように、ただ叫び続けることしか頭に浮かばない。そして視界すらも歪んでいく。目の前にいる刑事の姿さえも、蜃気楼の中にいるように揺れていた。
それが涙によるものだと気がつくのに、さほど時間は要さなかった。
「…どうすれば赦してもらえるか、だって?」
背広の胸ポケットから出された煙草とライター。渡辺はゆっくりと、しかし厳かさを感じさせる仕草で火をつけ、一度だけ大きく吸い込んだ。
「罪を償うことはできても、それが赦される方法であるとは限らんよ」
そして副流煙とともにそう呟く。吐き出された煙は、やがて空へと立ち上っていた。
高ぶった感情が、徐々に治まっていくのを感じる。柔らかな風が、汗ばんだ額を乾かしていく。
「あんた、赦されるようなことをしたと思っているのかい?」
――そうだ。俺はまだ、赦されようと思っていた。それでも赦されないとわかってしまったから、俺は逃げようとした。忘れようとした。
本当の意味で、俺は罪を償おうとはしていなかった。赦されることと、罪を償うことは同義ではなかったのに。罰を受ければ、赦されるのだと。
…とんだ勘違いだ。
昼下がりの優しい風が、濡れた頬を撫でる。体を支えることを忘れた両膝は、音もなく崩れていく。そのまま俺は無機質なコンクリートの上に倒れこむしかなかった。
「行きましょうか。罪を、償いに」
全てに終わりを告げるその台詞は、突如鳴り出した携帯の着信音に掻き消された。煙草をふかしていた手とは逆の手で、自らの胸ポケットを探る渡辺。もはや電話の内容に興味すら沸かなかった。
だが。
「…飛田めぐみちゃんが?」
まだ僅かに湿っている瞼が開かれる。
「わかりました。こちらでも捜索してみます」
見上げた渡辺の肩越しに、まだらな雲を浮かべた空が広がっていた。
「飛田めぐみが、施設から脱走したそうです」
◆
その頃には施設を抜け出してから、数時間が経っていた。
三度目の脱走。
でももう怒られる心配はなかった。
だって、おそらくそれが最後になるはずだったから。
これだけ脱走した人は、私が初めてかな。そう考えると自然と笑いが込み上げていた。
でも笑っている暇なんてないのだ。
そう。だって。
私には、全てを終わらせる前にしなければならないことがあったから。
『やはり飛田めぐみちゃんの父親を殺害したのは、山根昌平に間違いないようですね』
…違う。
視えない空を、仰ぎ見る。
(だって、私のお父さんを殺したのは…)
◇
景色が流されていく。遠くに浮かぶまばらな雲と比べて、手前の木々や建物はかなりの速さで通り過ぎていった。
「心あたりはありますか?」
車内に響くエンジン音に、低く野太い声が重なる。運転席に座りながら、渡辺は前方に顔を向けたまま尋ねていた。
「…そんなに遠くには行ってないとは思うんですが」
渡辺の隣。助手席のシートベルトに縛られた自分がいる。このまま警察に出頭かと思ったが、車を運転している刑事は飛田めぐみの捜索を優先してくれた。
目の前の信号が黄色から赤に変わり、ブレーキが踏まれる。
彼の話によると、どうやら少女は俺が犯人であるということを、偶然耳にしてしまったらしい。それは俺にとって受け入れがたい事実でもあった。だが助手席側のサイドミラーには、どこか諦めにも似た表情の男が映し出されていた。
(恨まれるのは仕方がない…)
だが飛田めぐみにとっては、この現実は諦めのつくようなものなのだろうか。
信号待ちをしていた車体が、またゆっくりとあてもなく動き出す。先ほどから同じような道を目的もなく彷徨っていた。
「とりあえず、一回狭山園長と合流しましょうか」
そんな渡辺の提案に、どこか上の空で答える余裕すらなかった。
無断欠勤をした僅か数日という時間は、其処にすでにもう自分の居場所がないことを感じさせた。昼下がりの空の下、四階建ての白い建物がただ悠然と立ち尽くしている。重量感が伝わってくる黒い施設の門は、まるでこの俺を受け入れまいとしているようだった。
そんな光景を、車内からフロントガラス越しに眺めていた。
「…ここで待っています」
そんな提案が受け入れられるわけがない。そうわかっていても、この施設に立ち入ることを体は拒んだ。
飛田めぐみに真実が伝わっている。それはつまり、園長やスタッフにも同様に俺の正体が知れ渡っているということ。彼女らと顔を合わせることなど、拷問以外の何者でもない。
「気持ちはわかりますがね、それは無理です」
門の手前に停車し、エンジンを切った車から出て行く渡辺。それを恨めしげに目で追う自分がいる。気軽に施設を出入りできる存在に、俺は嫉妬しているのだろうか。車体の前方から回って、助手席側の扉を軽く叩かれる。
「…行きましょう。山根さん」
できればこの車内のような、閉ざされた空間にずっと留まっていたかった。
「――ふぅ」
一度軽く息を吐き出し、ドアを開く。哀しいぐらいに穏やかな風が前髪を揺らした。
前を進む渡辺に続いて、もう二度と訪れることのないと思われた施設の中を歩く。綺麗に切り揃えられた草木やまばらに咲いている小さな花たち、施設の中心に位置するグラウンド、そしてそれらを取り巻く空気すらも、もはや別世界の存在に感じられる。
二日前まで自分が此処で生活していたことが、にわかに信じがたい。ここでも時間という、無感情で無慈悲な力を味あわされる。
気が付けば、とある部屋の前まで着ていた。
『園長室』
そう書かれたプレートが視界に入る。この扉の向こう側には、予想された現実が広がることだろう。カラカラっと、木製の扉を開く音がどこか遠くに聴こえた。
部屋の中には、奥の窓側に設置された一回り大きい机を囲んで、園長の狭山と数人のスタッフが立ち並んでいる。
「あ、刑事さん」
「わざわざお忙しいところ、ありがとうございます」
先に部屋に入った渡辺に、スタッフ達が口々にお礼を言う。しかしその言葉のどれもが、焦りや不安の色を含んでいた。誰もが皆、飛田めぐみの安否で頭が一杯なのだろう。
その瞬間。「…あっ」と、本当にかすかな驚きの声を上げるスタッフが一人。彼女の視線は、紛れもなく俺に注がれていた。時間にしてほんの数秒だろう。室内の空気が冷め、誰一人として声を発するものはいなかった。だがその一瞬でさえ、俺には数時間に匹敵する。
想定していたよりも辛い現実。まだ泣き叫ばれ、罵倒されたほうがマシだった。
「飛田めぐみちゃんから、何か連絡はありましたか?」
その緊迫された世界を打ち破ったのは渡辺の野太い一言。今ではその声に救われている。
「いえ、まだ何も…」
机の向こう側。少し上品な椅子に座っていた園長が立ち上がり、首を左右に振りながら答える。
「あんな状態で…一体どこへ…」
聞き取れないほどのかすれた声で、誰にともなく呟かれた悲痛の疑問。それに応えることのできる者など、今この場には一人としていなかった。先ほどとは種類の異なる沈黙がまた室内に充満する。そんな静寂の中、突如として部屋の奥に設置された電話が鳴り響いた。
「あ、私が…」
数人のスタッフが駆け出そうとした瞬間、一人の女性スタッフがそれを制し小走りに電話のもとへと駆けつける。
「とりあえず、手分けして彼女が行けそうな場所を探してみましょう」
沈黙が破れたのを幸いにと、渡辺が当たり障りのない提案をする。しかしその声が女性の声で掻き消される。
「め、めぐみちゃん?今どこにいるの?」
その場にいた全員が、反射的に声のした方角へと首を振り向かせる。
部屋の隅。受話器を持った女性スタッフが、安堵と困惑にも似た声を上げている。ほんの僅かな空白を置いて、彼女は渡辺と目を合わせる。そして両手で持たれた受話器をゆっくりと差し出す。
「…刑事さんと、お話がしたいそうです」
◆
『お電話変わりました、刑事の渡辺です。…めぐみちゃんかな?』
受話器の向こう側。しばらくして聞こえてきたのは、私のよく知っている人の声だった。
『勝手に施設を抜け出しちゃ駄目じゃないか、みんな心配しているよ』
「……」
目が不自由になってから、初めて電話を掛けてみた。苦労して探り当てた公衆電話、初めての体験に、少しだけ新鮮味も期待していた。けれども相手の顔が見えない私にとっては、実際に会うのも電話で話すのも、同じであることに気が付く。
『さぁ、もう日が傾いてきた。じき冷え込んでくるよ、迎えに行くから一緒に施設へと戻ろう。今、何処にいるんだい?』
「――山根さんは?」
彼の言葉を遮って私は口を開く。刑事さんが息を飲んだのがわかった。
『…逮捕、したよ。自首してくれたんだ』
それだけではっきりした。その短い言葉が全て。
「そう、ですか」
『本当はね、隠しておくつもりだったんだよ。相当のショックを受けるであろうことは、わかっていたからね』
ショックじゃない、と言えば嘘になる。だけど何故か私は、素直にその現実を受け入れてしまった。
些細なことだから。
『…山根昌平を、恨んでいるかい?』
一息置いて、いつもの低く重い声が受話器から聞こえてくる。
恨んでいる?山根さんを?
彼が私の家に盗みに入らなければ、うちら家族は壊れなかった?
うぅん、違う。
強盗が誰であろうと、いつかはそうなる運命だった。
だって、あの家族はもうすでに壊れていたから…。
「刑事さん、一つお話したいことがあります」
彼の質問には答えずに、私は話題を変えた。これだけは伝えなければいけない。
『…えぇ、お訊きしましょう』
少しの沈黙の後、そう刑事さんが応じてくれた。
◇
――…山根昌平を、恨んでいるかい?
その言葉に対する、飛田めぐみの返答が怖かった。けれども、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
スピーカー、とでもいうのだろうか。渡辺は受話器を受け取る前に、この場にいる全員に会話が聞こえるよう電話機を操作した。
誰一人として声を出すことを堪えている。園長である狭山でさえ、今にも飛田めぐみの声を聞きたい気持ちを堪えて、ただひたすら自分の服の裾を握り締めている。
『…私の家に強盗しに来た人物は、山根さんで間違いないですね?』
会話が再開した。機械を通して飛田めぐみの声が流れてくる。この向こう側の世界に、あいつは今いるのだ。
「あぁ、本人も認めたよ。犯人は、山根昌平だよ」
その言葉に、何人かのスタッフが俺のほうをそっと盗み見るのがわかった。
『そうですか。でも、違うんです。』
「違うっていうのは、どういうことかな?」
まるで刺激することを恐れているかのように、優しく丁寧な言葉で接する渡辺。
そして、しばらくの沈黙。
周りからも小さく息を吐く音がいくつか漏れた。
「違うっていうのは、何が違うのかな?」
黙りこんでしまった飛田めぐみに対して、渡辺はもう一度同じ疑問を投げ掛けた。
軽く息を吸い込む音が、受話器から聴こえる。
『…私のお父さんを殺したのは…山根さんじゃありません』
その台詞に、その場にいた者全員がざわめく。
「――…え。それは、一体?」
直接話している渡辺すら動揺は隠せない。無論それは俺とて例外ではない。いやむしろ、この場で一番困惑しているのは俺自身だった。
(…どういう、ことだ?)
少しの間をおいて、少女の声が流れてくる。
『言葉通りです。山根さんは強盗犯かもしれないけど、殺人犯ではないです』
「ちょっと、詳しく教えてくれないかな?」
さすがに長年刑事をやっているだけあって、渡辺は一瞬見せた動揺をもう微塵も感じさせない口調だった。
『…あの日、確かに強盗犯はお父さんに危害を加えた。…だけど、それは致命傷にはならなかったんです』
◆
「…あの日、確かに強盗犯はお父さんに危害を加えた。…だけど、それは致命傷にはならなかったんです」
目を閉じると、広がっていた淡いクリーム色の世界は、すぐに墨を零したような闇に変わった。
リビングからの物音に逸早く気が付いたのは、他ならぬこの私だった。正体不明のその音が恐ろしくて、私は隣にある部屋へと静かに駆け込んだ。そこは父親と母親の寝室。だけど、二人の布団の間には見えない壁があるようだった。
『お父さん!』
その声に、間隔を空けて隣に寝ていた母親も目を覚ました。家族三人でリビングの様子を探りに行く。こんな時に不謹慎かもしれないけれど、私はその瞬間だけバラバラだった家庭が一つになった気がした。
――でも、それはただの錯覚にすぎなかったのだ。
『…あ、あ、…めぐ、み』
暗い部屋の中、苦しそうにそう私の名前を呼ぶ。
意を決して部屋に入っていった父親は、その強盗犯に返り討ちにあってしまった。
『お父さん!』
そう叫んで飛び出そうとする私を、後ろにいた母親が静止する。『警察を…』そう小さく呟いたのがわかった。
どうしてこの時、気付けなかったんだろう。
まず、一番に呼ぶべきなのは、救急車のはずなのに。
『警察を…』
そう言ったお母さんの真意を、私は全てが終わってしまってから知るのだった。
「お父さんを、父を殺害したのは…私の母親です」
一息に真実を告げる。
『どういうことなんだ?確かめぐみちゃんの家族は、とても仲が良かったはずでは?』
普段は冷静な刑事さんも、この時ばかりは少しだけ取り乱していたようだった。
「仲が良かったというのは、両親がついた嘘です。あの家庭は、もう随分昔から崩壊していましたから」
『何故、そのような嘘を?』
…何故。
そんなこと、私が知りたかった。つまらないプライドなのだ、としか言えない。
「あの日…」
刑事さんの問い掛けを流して、私は話を再開した。
警察に電話をしてリビングに急いで戻った頃には、もう全部終わっていた。
お母さんの両手には、赤と白の斑模様の花瓶。うぅん、違う。元々あの花瓶は白かったはず。生けられていた数本の花は、血で作られた水溜りの中に浸されていた。
『お母さん?』
窓から綺麗な月が見える。けれど、ゆっくりと振り返った母親の青白い顔は、それに匹敵するぐらいに美しかった。
そう。恐怖で身震いするくらいに。
『ねぇ、めぐみ…』
乾いた音がする。
『お父さんは、強盗犯に殺されてしまったの』
気付けば、床には割れた花瓶が散らばっていた。
『でも大丈夫。私たち二人で、暮らしていけるわ』
その台詞で、「あぁ。私はまだ殺されないんだな」と思えた。
よく考えれば、当たり前だ。
この二人は仲が悪かった。原因は父親の浮気が大半を占めている。もちろん母親のほうにも色々な欠点はあった。だから両親の仲は不仲だった。けれども、私に対しては良い父、良い母であろうとした。
そんな母が私を殺すはずがなかった。
『…うん』
あの時の私は、それ以上何も言えなかった。やがて警察が到着し、辺りは一気に騒然とした。事情聴取を受ける私ら母子。家の前にはパジャマ姿で駆けつけた野次馬たち。
―――そこで私の記憶は途切れている。
「…気が付けば、警察のソファーの上でした」
深く息を吐く。それに合わせて電話の向こうにいる刑事さんの短い息が聞こえた。
『それは、本当なのかね?』
まだ信じられない。そんな感じの口調。
「はい」
『山根昌平の罪を軽くするために、嘘をついているのでは?』
「あはは。それはないですよ。まぁ、もうこの世にお母さんはいないから、確かめる方法もないけれど」
『わかった。その話は直接また聞かせてもらうよ。とりあえず今は施設に戻ってこよう。迎えに行くから、今自分が何処にいるかわかるかい?』
「……」
しなければならないことは、これでおしまい。
あとは、最後に一つだけ。
全てを終わらせなければいけない。
『めぐみちゃん?聞いているかい?』
耳を離す。そして私は公衆電話の受話器を静かに置いたのだ。
カチャン、という能天気な音。
少し肌寒い秋の風が、濡れた頬を撫でていったのを覚えている。
◇
単調な電子音が室内を繰り返しこだまする。傾きかけた日の光は、大きめの窓ガラスを通して部屋に差し込んでいた。
「…くそ」
部屋の隅で、誰にともなく舌打ちする渡辺。所々でも不安の声が上がる。
「めぐみちゃん…」
「あの子、いったい何を…」
もちろん俺も少女の居場所を突き止めたかった。だがそれ以上に、あいつが語った言葉の真意が気になっていた。
あいつは俺を恨んではいないのだろうか。…いや、そんなはずがない。でもならば何故、俺を弁護するようなことをわざわざ渡辺に伝えたのだろうか。
「飛田めぐみちゃんは携帯電話などを持っていましたか?」
受話器を少々乱暴に元に戻し、振り返り様に狭山へと問いかける。それに対し、彼女は言葉を発さず首を横に振る。
「ということは、おそらくどこかの公衆電話などから掛けてきた可能性がありますね」
「この辺りにどこか公衆電話なんかあったかしら」
「考えていても仕方ないわ。とりあえずまた手分けして探しましょう」
スタッフ達は各自部屋を出て行く準備を始める。今まで放心状態に近かった狭山も、気を取り戻したかのように行動を再開した。しかし誰一人として俺と目を合わせようとはしない。
おそらく、この場に飛田めぐみがいたとしても例外ではなかっただろう。そのような扱いに耐え切れず、そうなってしまった自分自身が哀しくも許せなかった。
「山根さん。一応、今飛田めぐみちゃんが言っていた話を再度聞いてみたいと思っています。場合によっては、あなたの罪が軽くなることもあるでしょう」
殺人ではなく、未遂。確かに受ける刑罰は変わってくることだろう、だが結局それまでだ。俺が罪を犯したということに、なんら変わりなどないのだから。
――…赦されたわけではない。
「でも、あの子があなたの罪を軽くしようと嘘をついている可能性も充分ありえます。決定的な証拠などがない限り、今の話を鵜呑みにするのは難しいでしょう」
あいつが、俺の罪を?そのようなことが、ありうるのだろうか。少女の家庭環境がどうであろうと、その生活に変化を与えてしまうきっかけを作ったのは、他ならぬこの俺だというのに。仮に先ほどの話が真実であろうと、隠し通すこともできたはずだ。そうすれば、俺は極刑を免れなかったというのに。
何も答えず、黙り込んでいた俺にさらに渡辺が喋りかけてくる。
「まぁ、まずは飛田めぐみちゃんを見つけ出さないことには始まらないですがね。山根さん、あんた何処か心当たりないですかね。彼女の知っていそうな場所、あの体でも行けそうな所。なんでもいいです」
先ほども車内で同じことを訊かれた。あの時はまさかと思っていたため口には出さなかったが、一箇所だけ、俺と少女しか知りえない場所があることは確かだった。
だが、本当にあいつは其処にいるのだろうか。俺のことを恨んでいたのならば、もう二度と近づきたくないはずだ。
目を瞑る。
「――一つだけ、心当たりがあります」
◆
目を開けた。
と言っても、私には何も視ることはできないのだけれども。
「ふぅ…」
一つため息を吐く。
過去を振り返るのは、もうこれくらいでいいだろう。
どこかでカラスが鳴いている。一匹か、もしくは二匹。空を飛んでいるのか、それとも電線に小さな可愛い足を乗っけて休んでいるのか。
耳をすませば、いろんな音が聞こえてくる。
私は目が不自由だけれど、それでも世界は広がっている。少し遠くを走る車のエンジン音、風で揺らされた木々のざわめき、すぐ目の前からは水を噴き出す噴水の音。
山根さんとの思い出の場所は、いつもここだった。
先ほどの公衆電話から、それほど時間をかけることなく辿り着けた。全てを終わらせるための最後の場所は、やっぱり此処しかない。もう一度、深いため息。
右側のポケットから、片時も手放すことができなかった心の拠り所を取り出す。
(…結局は、赦されてなんかいなかった)
そうじゃなければ、こんな苛酷な現実が目の前に現れるわけない。
視力が失われたぐらいで赦されると思っていたなんて、自己満足も甚だしい。
(――…やっぱり、きちんと罪を償わなきゃダメなんだね)
カッターナイフの刃を右手の親指でゆっくりと押し出す。
「何をしているのかな」
その無機質で寂しい音に、誰かの声音が重なる。
それは、さきほど受話器越しに耳にしていた声だった。
◇
「何をしているのかな」
ベンチに座っていた飛田めぐみに向かって、渡辺はどこか嗜めるようにそう疑問を口にする。一ヶ月前、こいつはこの公園まで一時間近くかけて辿り着いたことがあった。けれども施設から車で飛ばせば、数分とかからない距離でしかなかった。
涼しさが増した夕焼け空の下、俺は二人から少し距離を置いてやりとりを眺めている。
いつぞやの公園。ここで少女と初めて言葉を交わした。辺りにはベンチが点在し、目の前にはあの時と変わらず水の絶えない噴水がある。ただ一つ違うのは、傾いた夕暮れの日差しのせいで、世界が赤く染まっていることぐらいだろう。
飛田めぐみがベンチに座っていたのを見つけた時、不覚にも安堵の笑みをこぼしてしまった。
(俺を恨んでいるのならば、この公園には近づかない)
けれどもそれは、愚かすぎる甘美な夢物語だった。
この一ヶ月、二人で此処を訪れたのはわずか三回ほど。それ以外に外出した記憶もない。 振り返ってみれば、それはとても少ないものだったのかもしれない。だが俺たちが足を運べる場所など、施設を除いてはこの公園ぐらいのものだった。
だから施設を脱走し、飛田めぐみが行き着く場所は、最初から決まっていた。
「どうして…ここがわかったんですか?」
少女の手の平の中。いつか見たカッターナイフが、刃を剥き出しにしたまま握られている。
思い返せば、最後に二人で此処に来たあの日。こいつは確かに「死」という呪縛から解き放たれたはず。新たなる希望も、見出したはずだった。
――俺の、せいだ…。
犯した罪の重さと、狂わせてしまった少女の一生が、嫌でも目の前に突きつけられる。当の本人はその行為に悪ぶれた感じもなく、ただ平然と渡辺の顔を見据えていた。その視線がいつかのように虚空に向けられている様が、哀しくてせつなかった。
「山根昌平が教えてくれたんだよ」
俺の名が出された刹那、少女の顔には形容しがたい表情が浮かぶ。果たしてそれは憎しみか、恨みか。どちらにせよ、現実は夢のように都合よくできてはいない。
「…山根さんは、今どこにいるんですか?此処に、来ているんですか?」
ほんの少しの間をおいて、複雑な表情のままそう尋ねる。その言葉の裏に隠された彼女の真意は、前髪を揺らす秋風のように計り知れない。
「彼は、もういないよ。さっき、一緒に警察に自首しに行ったところだよ」
嘘だった。先ほどの車内での渡辺の言葉が脳裏に蘇える。
『山根さん、一つだけ提案というかお願いがあるんですがね。もしこれから行く公園とやらに飛田めぐみちゃんが居たとしても、あなたは一切口を開かないで頂きたい。あの子が今、あなたに対してどのような感情を抱いているかはわかりませんが、やはり最悪の状態を想定して、早めに手を打っておいたほうがいいと思いましてね』
少女の目が不自由であるからこそ可能な、罪深い嘘。けれども異論はなかった。それがもっとも妥当な案であると、俺自身が一番理解していた。
「そう、ですか」
首を俯かせて、そう小さく声に出す飛田めぐみ。その心の内は安堵か、それとも。
確実に言えるのは、少女の世界の中にもう俺は存在してしないということ。足を踏み出せば、数秒とかからずに触れられるのに。普通に声を出せば、会話だってたやすくできるというのに。
けれども俺と飛田めぐみの距離は、あの空の向こうに浮かぶ赤い雲よりも、遠く感じられた。
「めぐみちゃん。一つ、聞いていいかな?」
俯いた顔を覗き込むように、渡辺は自分の顔を傾ける。
「…はい」
先ほどよりも、ややはっきりした返事が聞こえる。
「お父さんを殺害した犯人がお母さんだと、君はさっき言ったね?それについてちょっと腑に落ちない点があるんだ」
「なんですか?」
ゆっくりと、顔をあげてそう問い返す少女。
「実際に夫婦仲が悪かったのかどうかというのは、まぁこの際置いておこう。でも、もし本当にお母さんが君と二人で暮らしていくためにそのような行動を起こしたとしたら、おかしくないかな?」
渡辺が施設を出る際に口にしていたことだ。おそらく彼は、飛田めぐみが俺をかばうために虚言を語ったと考えているにちがいない。
(自分の家庭を壊す一旦を担った人物を、どうしてかばう必要がある?)
そんなこと、ありえないというのに。夕日に照らされた刑事の背中を、軽く目を細めたまま見つめていた。
「なにが、おかしいんですか?」
飛田めぐみの義眼は、ただ渡辺のみを捉えていた。彼女の顔も、今は赤く染まっている。
「うん。私が気になったのはね、これから二人で暮らしていこうっていう人間が、その相手と心中しようと思うのだろうかってことなんだよね」
「……」
「少し、矛盾していると思わないかい?」
「……」
言われてみれば、そのように考えることもできるのかもしれない。だがその程度のことに、今の俺は興味を持つ余裕すらない。
気が付けば、不自然な静寂が辺りを包み込んでいた。流れていく風は、公園を取り囲む木々をかすかに揺らし、噴き出す水しぶきはまた飛沫となって水面へと還っていく。
「ははは」
突如、奇妙な笑い声が沈黙を破る。例えるならカラクリ人形。まるで糸が切れたようなそれは、今まで其処にあった世界の空気すらも一瞬で塗り替えてしまった。それが飛田めぐみの口から漏れ出したものであることを、理解することができなかった。もし仮に俺が盲目であったのならば、少女の発した声だとは信じなかっただろう。
「当たり前じゃないですか」
そしていつもの口調でそう呟く。その変わり様が、逆におそろしかった。
「だって…」
夕陽に照らされた表情に、さっと影がさした気がした。
「私が殺したんですから」
◆
「私が殺したんですから」
いいの?本当に言ってしまってもいいの?
心の中で、私じゃない誰かがそう訴えていた。
…大丈夫。もう、終わらせるって決めたから。ただ、順番が逆になっただけ。
そう誰かじゃない私は言う。
今でも覚えている。
事件が起こってから約一ヶ月が経とうとしていたあの日。
整理され、がらんとした室内。もう割れた花瓶の破片すら残っていない。だけど私は、いつもあの時の血の匂いを思い出さずにはいられなかった。
『どうして、殺したの?』
電気すら点けていない部屋の中で、そう問い詰めたことまでは、はっきりと覚えている。
――…そして。
一段落着いた頃には、目の前でお母さんだった人が、意識を少しずつ失っていくところだった。
「なんでそんなことを…」
あの日の私と同じように、刑事さんはその行動に理由を求める。
なぜ人は、誰かが殺人を犯すと、その動機を知りたがるのだろう。
原因を追究したところで、決して結果は変わらないのに。
お母さんのことは、別に嫌いじゃなかった。
――いや、むしろ大好きだった。家庭のことは全部私に任せっきりで、何一つしてこなかったけれど。でも、それでも大好きだった。
右手にあるカッターナイフを強く握り締める。
それこそ、壊してしまうぐらいに。
(だけど…)
「同じくらい大好きだったお父さんを殺したことが、どうしても許せなかった…」
浮気ばかりで、家庭を顧みなかったお父さん。それはひどいことだと思う。
それでもお母さんの行為は許すことはできなかった。
…けれども、それ以上に。
お母さんに手をかけた自分自身が、憎くてしかたなかった。
だから――私はその罪を償うために、自分の命を手離そうとした。
でも、やっぱり死ぬのは怖くて。もう息をしなくなった自分の母親を、ただ見ているのが嫌で。気が付けば、私は自分の両目を潰していた。
「本当、なのかね」
耳に入る低い声に、私はただ頷いた。果たして刑事さんは、今どんな目で私を見つめているのだろう。汚らわしい、殺人者の私を。
(そう。人を殺したのだ、私は)
その罪を、償わなければならない。
時折聞こえるカラスの鳴き声。それに合わせたかのように、顔を撫でていく夕暮れの風。
強く握られた小さな楽器は、変わらずに冷たい感触を漂わせていた。
◇
真意を確認する渡辺の言葉に、ゆっくりと頷いた少女。その心の内を読み取ることは、俺には適わなかった。
秋の終わりを感じさせるような風が、飛田めぐみの長い黒髪を、せつなげに揺らしている。まるでそこに答えがあるかのように、夕凪の行き着く先を目で追ってみるが、姿を現わしたのはいつもと変わらない夕暮れの情景だった。
「罪って、別に償わなくても生きていけるんですね。犯した行為への責任だとか、被害にあった人達から赦されたいと思わなければ、罪なんて感じることはないんですよね」
頭上を流れる夕焼けと同じくらい自然に、少女は語り始めた。
「でも、赦されたいとか、責任を取りたいと思ってしまった時点で、その人は罪を償わなきゃいけない気がするんです」
(……)
同じように償うべき罪を背負っている俺は、ただ流れる言葉に耳を傾ける。
「私は、お父さんやお母さんに赦してもらいたかったです。だけど、もうあの二人は言葉を喋ることも、目の前に現われることもなかったから。赦されることなんて、一生ないって思いました」
「……」
「視力を失ったぐらいでは贖罪にならないのなら、今度は死のうと思いました。命を捨てて、二人に赦してもらおうと」
何かを伝えてやりかった。ただ優しく触れてやりたかった。そう思うほどに、少女は小さく、儚く見える。けれども、俺と飛田めぐみに間にある不可視の壁は、ただ同じ場所に居ることしか許してくれなかった。
俺と同じものを感じたのだろうか。ベンチに腰掛けた渡辺が、無言で少女の肩を抱く。微かに揺れた前髪の間から、零れる雫が頬を濡らしているのが見えた。
「そんな時、私は山根さんに出会ったんです。」
仄暗い地下道の片隅。偶然か、それとも必然か。俺と飛田めぐみは、あの日に出会ったのだ。
「山根さんと会話を繰り返すうちに、自分がもう赦されているのだと、そう思うようになってしまったんです。新しく、幸せな生活を歩んでもいいんだって」
右手に強く握られた、剥き出しの刃のカッターナイフ。それが少女の言葉に合わせて小刻みに震えている。それこそ、壊れてしまうぐらいに。
「――…でも、罪を償ってなんかいなかった」
その視線の先には、一体何があるのだろうか。俺や渡辺には想像もできないような、決して手の届かないものが其処に存在しているのかもしれない。
「…どうして、そう思ったのかな?」
飛田めぐみの肩を優しく包み込みながら、同じくらい穏やかに疑問を口にする。
「本当に償ったのなら、こんなにも苛酷な現実が目の前に現われることなんてなかったはずだから」
その答えは、耳に触れる木の葉のざわめきよりも小さく聞こえた。けれど、その言葉の意味するところは、宵闇よりも早くこの世界に冷たく伝わっていく。
「もし私がちゃんと自分の罪と正面から向き合っていれば、きっともうこの場にいなかったはず。だから、恨むべき強盗犯である山根さんと、あんなにも親しくなることもなくて、こんなに苦しむこともなかったはずなんです」
そして少女は、自身の周囲にある空気をほとんど揺らすことなく、ベンチから立ち上がった。横に立てかけてあった白杖には手も触れず、ただその右手にカッターナイフだけを握り締めて。
「だから、私は、罪を償わなきゃならないんです」
ふと、脳裏に蘇える言葉。
『施設を抜け出したあの日、本当は私、死ぬつもりだった』
それは何時だったであろう。今ならわかる。あの台詞は、中途失明者である彼女が発したものではなかった。殺人という、罪を犯した人間が、贖罪の意味を込めて呟いた独白。
少女の人差し指ほどの長さに伸ばされた刃が、沈みゆく陽に照らされて、異様な色彩を放つ。
(やめろ――…!)
駆け出そうとした、その瞬間。
飛田めぐみの手にあったそれは、意外なほどゆるやかな弧を、藍色に変わりゆく空のキャンパスに描いていた。
そして僅かな空白をおいて、どこか遠くに感じる近さから、軽い水しぶきの音が上がる。
静かに振り返った先には、不器用な格好で右腕を振り下ろした少女の姿があった。
◆
ぽちゃん。
意外なほど、単純で滑稽な音が聴こえた。
それが今まで私を捉えて離さなかった、心の拠り所の最期。
あっけなかった。
こんなにも簡単に終わらせることができたのに。
私は、どれだけ時間を使ってきたのだろう。
あの冷たい感触を味わうことは、もう二度とない。
静かに、ゆっくりと、余韻の残る手のひらを握り締める。
「…めぐみ、ちゃん」
不思議そうな声が、背中から聞こえてくる。
当たり前か。急にカッターナイフを噴水に投げ入れても、刑事さんには意味もわからないだろう。
別に構わない。
知って欲しいとも、理解して欲しいとも思わない。
ただ、終わらせたかった。
あんなものをいつも持ち歩いていることで、罪を償おうとしているフリをしていた自分自身を。
本当の意味で、私は罪を償いたいと思ったから。
◇
気が付けば、黄昏時を象徴していた夕焼けは、その姿を山の端の向こうに潜めていた。公園に均等に設置された街頭が、先ほどまで赤く染まっていた世界を、ぼんやりと照らしている。
少女の投げ入れたカッターナイフは、水面の上に波紋を作り出し、輝き始めた月を怪しく揺らしていた。
「視力を失ったぐらいで、罰を受けただなんて、ただの自己満足にすぎなかった」
夜風になびく黒髪を、左手で軽く押さえながら、飛田めぐみは迷いのない眼差しで視えない世界を見つめている。
「だから、死ぬことで罪を償うことも違うと気付いた。だって、この世からいなくなったら、罰を感じる体すらなくなってしまう。それはきっと、赦されたわけじゃない。ただ罪の重さから逃げ出しただけ」
あれは何時であっただろう。あの時と同じように、少女は誰にでもなく自分に語りかけていた。
「罪を償うことが、とても難しいことだって初めて知った。私は、今まで自分が納得できれば、それで終わりだと思っていたから」
左手を静かに下ろし、そっと握る。音もなく、後ろを振り返った飛田めぐみ。果たして今は、どんな表情をしているのだろうか。
「きっと、周りの人全てが赦してくれたとしても、その罪はなくならないんですね」
改めて渡辺に話しかける少女。
「そうだね。誰もが皆、誰かの『赦し』を欲しがっている。けれども、赦されたぐらいで、犯した罪が消えるわけでもない。赦されることと、罪を償うことは同じではないのだから」
今まで何度も、罪を犯した人間を捕らえてきた渡辺。彼の経験が少女の言葉に、静かに賛同する。
――…赦し。
俺自身、自らの罪を感じた時、赦される方法を闇の中で模索し続けた。けれども、赦される方法など存在しなかった。
そう。当然だ。
赦されるための償いなど、ありえないのだから。
目の前にいる少女は、それを悟ったのだ。
ふと噴水の中に目をやる。身勝手な罰を具現化したそれは、月明かりに照らされ、静かに水面を漂っていた。
「…山根さんは、罪を償いに行ったんですよね?」
不意に自分の名が出されたことに反応する。飛田めぐみの口からその単語が出るのを、俺は心の奥底でおびえていたのだろうか。
「――うん。彼は、自分の罪を認めたよ」
座っていたベンチから立ち上がり、渡辺がそう口を開く。
思い出したかのように吹く夜風が、少女の細い背中には寒そうだった。
しばらくの沈黙。
辺りには、相変わらず噴水の水しぶきの音だけが広がっている。
月が作り出す飛田めぐみの影は、俺の足元まで伸びていた。
その影も徐々に形を変え、やがて消える。
ふと夜空を見上げると、流されてきた雲が、月をおぼろげに包み込んでいた。
その寂寥とした世界に、ただ一つの声が静かに響き渡る。
「私は、お母さんを殺しました」
◆
永かった夜が、ようやく白み始めるのを感じた。
「めぐみちゃん!」
突然、後ろの方で私の名を呼ぶ声がする。
こんな罪深い私を、ずっと見守ってくれていた人の、優しい声だ。
「…園長」
声のした方へと振り返る。たった今辿り着いたのだろうか。地面を駆ける音がして、誰かが私を抱きしめた。その穏やかな匂いだけで、園長なのだとわかる。他にもすぐそこに、何人かのスタッフの声がした。
「心配したんだからね」
「すいません」
いつかのように、迷惑をかけたことを詫びる。
「もう、二度とこんなことしないでね」
「…はい」
私はもう、あの施設から脱走することすらできなくなるのだ。
だから、そう返事することにした。
そして。
「ごめんなさい」
今までの私を、謝罪した。
園長は私の顔に自分の頬をすり寄せて、何も言わずにただ首を振る。震える体から、彼女が涙を流していることに気がついた。
「渡辺さんも、本当にありがとうございました」
私の体を解放し、刑事さんにお礼の言葉を述べる。
「いえ、無事見つかって良かったです。めぐみちゃん。また後で施設に寄るから、それまでゆっくり休んでなさい」
「はい」
それは、彼の優しさなのだろう。残されたわずかな時間を、施設の人と過ごすことを許してくれた。
「最後に、握手でもしようか」
冗談交じりに、けれどどこか真面目な色を携えた声でそう言う刑事さん。
「え、あ、はい」
その言葉に戸惑いながらも、ゆっくりと手を差し伸べる。
ほんの少しの空白の後、がっしりとした、けれどどこか優しいぬくもりを感じさせる手で握られる。
(……)
あぁ。そうか。
途端に、私は唇の端が緩くなったのを感じる。
すぐ近くにあるのであろう噴水からは、今も変わらずに水しぶきの音が奏でられていた。
◇
小さくて、強く握れば折れてしまいそうな、そんな指だった。
『最後に、握手でもしようか』
そう提案した渡辺は、俺の右腕を引っ張って、差し出された飛田めぐみの手を握らせた。もう二度と触れることのできないはずだった少女に、俺は今、確かに触れている。
言葉を交わすことも、存在を知らせることも適わない。けれども、今はそれだけで満足だった。
不意に、飛田めぐみが微笑んだ気がした。
一体それは、誰に向けられたものであろうか。
最後に、少しだけ力を込めた。まるでその白い華奢な手のぬくもりを、いつまでも忘れないようにと。
そして、ゆっくりと指を離す。
「じゃあ、また後で施設に顔を出しますんで」
それを見計らって、渡辺が声を上げる。
少女のぬくもりを逃がさぬよう、俺は右手を固く握り締める。
(そう。今は、これでいいんだ)
飛田めぐみが俺に対してどのような感情を抱いているかなど、知る必要はないのかもしれない。
数本の街頭に見送られ、俺と渡辺は公園の入り口に停めておいた車に乗り込む。その後を、間隔をおいて、施設の人達がついてきた。
助手席のドアに伸びかけた左腕を、ゆっくりと思いとどまらせる。
「……」
静かに後ろを振り返り、俺は頭を下げた。そのまま施設のスタッフらと顔を合わせないよう、助手席に乗り込んだ。
「刑事さん!」
同じように運転席に乗り込もうとした渡辺を、飛田めぐみの声が制する。
「どうしたんだい?めぐみちゃん」
「さっき電話で、刑事さん、私に尋ねましたよね。山根さんを恨んでいるのか?って」
自分の感情とは裏腹に、半開きのままのドアを、俺は閉じることができないでいた。
「…あぁ。そうだね」
やや困った声が、そう答える。
そして辺りを支配する、しばらくの沈黙。近くに街頭がないため、少女の表情は俺にはわからなかった。
「正直言って、私にもわからないです。山根さんは、私の家庭や生活を奪う原因を作った人。だから恨んでいないと言ったら、嘘になるかもしれないです」
流れる雲のように、静かに語られる言葉に耳を傾ける。
「だけど。視力を失い、生きる意味もわからなくなっていた私を、ずっと近くで支えてくれていたのも、山根さんでした」
隣にいた狭山が、少女の震える肩を優しく包み込む。
「だから、伝えておいて欲しいです」
突如、先ほどまで雲におぼろげに隠されていた月が姿を現す。宵闇の中に、一筋の月明かりが辺りを照らし出した。
「今の私が此処にいるのは、山根さんのおかげです。本当に、感謝しています」
それは偶然であろうか。
少女の義眼は、まっすぐに俺の瞳を見つめている。
そして、最後にその眼差しのまま。
「だから…あなたを、赦します」
ブレーキランプが揺れている。
頬を伝う温かなぬくもりを拭い去ることもできないまま、ただ目の前にある情景を眺めていた。
わずかな振動を残して、車が停まる。
「……」
胸ポケットから取り出した煙草をくわえ、手馴れた手つきで火をつける渡辺。
「――…飛田めぐみは、赦してくれましたね」
吐き出された言葉と同時に、漂う紫煙。
「…えぇ」
遠くに見える信号に点灯された赤は、やはり滲んでいる。
「これで、罪は償えたのですかね?」
飛田めぐみは、確かに俺を赦すと言った。
けれど。
「いえ、まだです」
脱力している自分の体とは対称に、俺の言葉ははっきりと車内に響く。
「まだ、俺は罪を償っていません」
「ほう。何故そうお思いになるのですか?」
その言葉に答えることなく、俺は窓を開け放つ。
ゆっくりと瞼を閉じた。
何もない世界。それでも世界は、果てしなく広がっている。
罪を償う先にも、何か別の答えがあるのだろう。
「――…俺が、犯人です」
目を開ける。
煙草の灰を落とす渡辺の横顔は、しかしどこか満足げであった。
滲んでいた赤が、青に色を変える。揺れていたブレーキランプが消え、車はまたゆっくりと動き出す。
「行きますか」
月明かりに照らされた景色が、次第にスピードを上げて流れていく。
車内に入り込んだ肌寒い風が、前髪を揺らし、全てを洗い流していく。残ったぬくもりだけは逃さぬよう、俺は右手を強く握り締めた。
「――罪を、償いに」




