前編
――…鈍い音がした。
それと同時に、かつて味わったことのない感触が手の中に染み渡る。
どれほどの時間、其処に佇んでいたのだろう。
目の前に広がる光景を、数少ない家具と一体化したかのように眺めていた。
小さな窓から差し込む月明かりだけが、部屋一面を蓋い尽くしている。
いや、それ以上に。
鼻を衝く血の匂いが室内に充満していた。
どこかで犬の遠吠えが聞こえる。
それを合図に、俺は夜の街に姿を眩ませることにした。
◆
初めて計画を実行したのは、その日のことだった。
別に前もって日にちを決めていたわけじゃない。
(――…抜け出そう)
たまたまその日に、そう思っただけ。
だからこんなにも穴だらけの計画は、始めから成功するはずがなかった。
耳に入る周りの音は、いつもと変わらないけれど。
それでも、私にはとても恐ろしく聞こえた。
今の私にとって、外の世界は文字通りの別世界。髪を優しく撫でる風にさえ、ビクビクとおびえていた。
右手にある新しい「体の一部」を強く握って、慎重に一歩ずつ足を踏み出していく。
ポケットの中にあるカッターナイフだけが、唯一の心の拠り所だった。
◇
コンクリートに囲まれた地下道を歩く。
すぐ頭上では、線路を走る私鉄が音を立てて遠ざかっていった。
もうどのくらい取り替えられていないのか。今にも切れそうな電灯は、汚れた地面のタイルを仄暗く照らしている。ただ一つの足音だけが、古臭い壁に反射して辺りに響いていた。やがて反芻していた響きも、瞬く間にどこか虚空に吸い込まれていく。それは実体のないものの特権であろうか、自分もふと空間の狭間に入り込んでしまいたくなる。
(もう慣れたはずなのに…)
一つ肩で息をする。
――心配はない。今まで大丈夫だったのだ。
そう自分に言い聞かせ、薄暗い地下道を進んでいく。途中、会社帰りのサラリーマン三人と擦れ違ったが、こちらには目もくれない。所詮こんな世の中だ。隣近所の付き合いさえも軽薄、ましてや外を行き交う他人などに関心を持つわけもない。
自然と安堵の笑みがこぼれる。周囲にこだまする自分の足音さえも、明るく聴こえてきた。
…が、次の瞬間世界が凍りつく。
心臓の鼓動が早くなるのを感じた。取り囲むコンクリートの壁は、異常なまでの圧迫感を感じさせる。自らの足場すらも歪んでいるかのようだ。けれども視線はただ一点を注視するのみ。これまで幾度となく目にしてきた、壁に貼られたモンタージュ写真。
「――――……!」
高いのか低いのかも判別できないような声。
あのおぞましい記憶が体の底から蘇える。それを振り払うかのように、俺はその場から逃げ出そうとした。
「きゃあ!」
しかし、何かに足をとられ数mもしないうちに地面に転がる。目の前では黒髪の少女が同じように地べたに尻餅をついていた。
「痛て…」
一瞬何が起こったかわからなかったが、すぐに脳が現状を把握し始める。とりあえず埃を払いながら立ち上がった。
「すまない。大丈夫か?」
そして巻き込まれてしまった少女に謝罪を述べる。どうやら急に走り出したせいでぶつかってしまったようだ。
「立てるか?」
反応のない相手に向かって手を差し伸べる。
背中まで伸びたストレートの黒い髪。その色と対称な真っ白なTシャツ、下は濃い青のジーパン。最近の女の子にしては飾り気がない気もするが、どこにでもいる少女だった。
けれども、どこか様子がおかしい。まるで今自分の身に何が起こったのか理解できないかのように、驚愕の表情を浮かべながら辺りを確認している。
「あ…、あ…」
「どうした?平気か?どこか痛むか?」
覗き込むように顔を近づける。
視線がこちらを向いた。
(綺麗な瞳…)
何故か場にそぐわない事を考えてしまう。しかし少女の目は、かつて出会ったことのないぐらいに美しかった。
一秒か、五秒か、それとも一分か。どれくらいの時間見つめ合っていたかわからなかったが、意識が現実に舞い戻ってくる。
(駄目だ…!)
瞬間、弾かれたように距離をとる。いつの間にか治まっていた心臓の鼓動が、思い出したように脈打ち始める。
見られた。
顔を、見られてしまった。
まだ当惑の色を拭えない目の前の顔を凝視する。
半年前の記憶が蘇えってくる。
また、あの悪夢を繰り返さなければならないのか。しかし、そうしなければこの危うい日常の中にすら身を置く事ができなくなってしまう。
意を決して、日頃から懐に忍ばせていたバタフライナイフを握り締める。
(いつから俺はこんな物騒なものを持ち歩く人間になってしまったのだろう…)
柄を握った掌は汗をかくこともなく、妙に心は落ち着いていた。見渡すまでもなく、人通りの少ない地下道。多少の叫び声ならば、すぐ上を走る電車の轟音が掻き消してくれるだろう。
取り出した得物で、まさに少女の体を突き刺そうとした、その時。
「すいません、私、ぶつかってしまいましたか?」
見当違いな台詞が、この場に静かに響き渡る。
その響きが回りの壁に吸い込まれていった時、すでに殺意の衝動はどこかに消えていた。そして先ほど、自分が何に足をとられて転倒したのかに気が付く。
少女が座り込んでいる、やや右斜め前。
視力障害者の白い杖が、ポツンと転がっていた。
◆
痛くなかった。
そう言えば、ウソになる。
だけど、その時は驚きのほうがでかかった。
まず、なにが起きたのかわからなかった。それから数秒おいて、自分がなにかにぶつかったのだとわかった。
「どうした?平気か?どこか痛むか?」
低いけれども、どこか透き通るような男性の声が、私を心配してくれた。
(―――あぁ…)
人気のないところで、誰にも迷惑をかけたくなかったのに。
何の考えもない脱出劇だったから。
深いため息とともに、そんな浅はかだった自分に嫌気がさす。
でも。
この出会いがあったことを考えると、私の脱出劇はある意味成功だったのかもしれない。
◇
地下道から階段を登って地上に出る。するとすぐ目の前に、大きな公園が姿を現した。
公園の中心では噴水が水を絶えず吹き出しており、それを囲むようにベンチが点在している。俺達はそのうちの入り口から一番近いベンチを目指した。
年齢はまだ十代ぐらいだろうか、まだ幼さの残る顔つきを見ているとそう思えてくる。身長は俺の目線の高さくらい、特別小さいわけでもなく、長身なわけでもない。少しだけ華奢な体つきは、やはりどこにでもいる女の子だった。
けれども、確かにその右手には、視力障害者の証が握られていたのだ。
「大丈夫か?」
ベンチに座ろうとしていた少女にそう問いかける。だが少女は右手の白杖を駆使して、自分自身の力でベンチに腰をおろした。
噴水の近くに設置された時計台の針は、もう七の数字を指そうとしていた。数週間前まではこの時刻くらいならまだ辺りは明るかったが、季節の移り変わりはいつだって早く、もう夜の闇が迫ってきている。しかしまだまだ蒸し暑さは拭いきれない。
「何か飲み物でもいる?」
「いえ、平気です」
まだ見知らぬ俺に警戒しているのであろうか、こちらのほうに顔を向け二、三度首を振ってそう応える。
「そうか」
なぜこのようなことになったのか。
気付くことはなかっただろうが、少女に向けられた自らの汚らわしい衝動に、俺はその場に居られなくなるほどの恥ずかしさを感じた。そして気が付けば、自分でもわからないまま少女を連れてこの公園に来てしまったのだ。
「さっき、怪我とかしなかったか?」
今更ながらに容態を気遣う。
「あ、大丈夫です。あの…あなたのほうこそ怪我とかされなかったですか?」
「はは、そっかそっか。俺なら別に問題ないよ。それにぶつかった責任はこっちにあるしさ。ちゃんと前見てれば良かったよ」
「いえ…。私のほうこそ、すいませんでした」
そうしてしばらくの沈黙が続く。耳に入ってくるのは、噴水から吹き出る水しぶきの音のみ。「もう帰ろうか」という言葉をどれだけ口にしようか迷ったが、自分からこんな公園にまで連れ出しておいてそれは失礼すぎるだろうと思い、却下した。
そういえば…。
「今日は何か予定とかなかったの?どこかこれから行かなければならないとか、誰かと待ち合わせしているとか」
ふと頭に浮かんだ疑問を出してみる。だとしたら、俺はとても悪いことをしてしまったのではないか。
少女は一度こちらを見、首をうだなれうつむいてしまう。指先で持っていた白い杖を、軽くいじっていた。
やっぱりそうだったのか。そう感じて謝ろうとした時、彼女が口を開いた。
「どこにも行く予定なんかありません。だって、私、逃げてきたから」
そんな響きが静かな公園に広がっていく。その言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかった。
「逃げてきたって、何処から?」
とりあえず頭を整理してから尋ねる。家出でもしてきたのだろうか。
「…施設からです。何もかもが嫌になって、気が付いたら飛び出していました」
「でも、施設の人たちとか、心配しているんじゃないのか」
「はい、おそらく。自分勝手な行動だっていうのはわかっています。だけど、それでも耐え切れなかったんです」
ふと、彼女の目がこちらを見る。いや、その黒い瞳に実際は誰の姿は映ってはいないのだ。しかしその視線が助けを求めていることだけは、感じ取ることができた。
こんな俺でも、昔は人と同じようにまっとうな仕事に就いていた。中学生、高校生向けの個別指導を主に行っている塾だった。其処の講師として日々指導している中で、学問以外の相談を持ちかけられることが何度かあった。それは進路だったり、家庭や友人関係の問題だったり。
隣から伝わってくる視線は、その時の生徒たちのそれと全く同じだった。だからだろうか、少女の抱えている悩みを共有し、解決してあげたかった。
「耐え切れなかったって、施設の生活にかい?」
しばらくの無言の末、「いいえ」と小さな声がする。
「耐え切れなかったのは、自分自身に対してです」
「自分自身っていうと、その、目が見えないこととかか?」
それを口に出すのはとても抵抗があったが、当の少女本人は気にした風もなく、
「…そうです」
と、少しの間をおいて静かに答えた。
「私、つい半年くらい前まではちゃんと周りの人と同じように視力もあって、他人となんら変わりない生活を送っていました」
一言本音を出してしまえば、後は早かった。彼女は堰を切ったように語り始める。
「朝起きて洗面所に行けば、鏡に眠そうな顔をしている自分の姿が、当たり前のように映って。学校に行けば、当然のように友達の顔を見てくだらない話とかをして、黒板に書かれた文字も簡単にノートに写せる。放課後は一人で何の苦労もなく家に帰って、テレビでやっているドラマの再放送を眺めている。夜は宿題をしたり、友達とかとメールして、また目覚ましをセットしてベッドの中で眠りにつく」
それは、もはや俺だけに語りかけているわけではなかった。もう戻らない日常。それを懐かしみ、羨ましがっている少女がそこにいた。
隣に聞こえないよう、そっとため息を吐く。座っていたベンチにもたれかかるように体を崩した。見上げた空はすでに闇に支配され、気がつけば月が輝いていた。
――答えが、見つからない。
…何と声をかけてあげれば良いのかも、わからない。
たとえ慰めの言葉を紡いだところで、大した効果にならないだろう。所詮、目が見える者にとって、少女の悩みや恐怖は理解できないのだから。
無言でいた俺に構うことなく、少女は続ける。
「でも、もうそんな当たり前の生活はできなくなりました。鏡の前に立っても、見えるのは同じ色の世界。登校して友達と会っても、声だけが聞こえる。その人がどんな顔だったか、はっきりと思い出せない自分がいる。一人で家にも帰れなければ、テレビは音を発するラジオと同じ。メールなんて、できるはずもない」
そして、自嘲気味な笑い声が聞こえてくる。俺はただその一連の芝居を見守る、観客のようだった。果たしてそれが本当に演技だったとしたら、どれだけ救われたことだろう。
けれども。
次に少女の口から出てきた台詞は、まぎれもない現実。
「…私、生きている意味あるのかな」
表情を変えることなく、そっと呟く。それは俺に向けられたものなのか、自分自身なのか。息をするのさえ困難なほど、辺りの空気が重くなったのを感じた。
そこには、どんな感情が渦巻いていたのか。
しばらくの時間、流れてくる風に身を任せていた。噴水の向こう側、水のカーテンを隔てた所にあるベンチには、一組のカップルが座っているのが見て取れた。
今まで生徒らの悩みを解決してきた自負があったが、こんなにも深刻な問題に携わったことはなかった。つい昔の癖で、安易に相談に乗った自分が愚かに思える。
それにこんな時間に公園のような場所に居ては、誰かに見つかってしまうかもしれない。適当な言葉を見つけてこの場を立ち去ってしまおう、そんな考えさえ頭をよぎる。
「ありがとうございます」
不意に少女の声がする。一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「ありがとう、ってなにが?」
感謝されることなど、何一つしていないはずだ。そう思い、尋ねる。
「見知らぬ私なんかの話を聞いてくれたからですよ。今まで世話をしてくれた施設の人にも、周りの心配してくれている友達にも話せなかったです。こんな話、世話をしてくれている人や心配している人達には言えないから。だから、ちょっと気分が楽になりました」
「でも、根本的な解決にはなってないだろ」
そう。一時気持ちが晴れたからといっても、また同じように悩んで、施設から逃げ出すことを選ぶはずだ。
「かも…しれませんね」
そのか細い声は夜の闇に溶け、消えてしまいそうだった。
「いいよ。俺でよければ、いつでも話を聞いてやる」
ほんの少しの空白を置いて、なぜかそう答えていた。
今の自分に、そんな他人の悩みを聞いている余裕があるのだろうか。
だが。
「本当ですか?」
世界をもう映すことのなくなった瞳が、輝いて見えた気がした。その満面の笑みを見ていると、俺の些細な考えはどこかに流されて消えていく。
初めて見た、少女の笑顔。
「私、飛田めぐみって言います」
「あぁ。俺は…山根昌平だ」
一瞬ためらいながらも、俺は本名を告げた。遅すぎた自己紹介が終わる。
噴水から吹き出る水しぶきに、月明かりが綺麗に反射していた。
◆
その人の名前は、山根昌平。
どんな顔しているのか、どんな髪型なのか、どんな体型なのか。
…そのときの私にはもう確かめる手段はないけれど。
だけど山根さんの低い声のなかには、優しい響きが含まれていた。
だからなのか。
あの時の私は、いつになくお喋りだった。
日ごろ誰にも打ち明けることのできなかった悩みを、見ず知らずの他人に話していた。
話をして、どうするつもりだったのだろう。なにを彼に求めていたのだろう。
うぅん。
なにも見返りなんて欲しくなかった。
同情だってしてもらいたくなかった。
ただ、誰かに話を聞いてもらいたかっただけ。
じゃないと、潰れてしまいそうだったから。
その相手が、たまたま偶然にも山根さんだったのだ。
でも、私はあの時、一つだけウソをついていた。
逃げ出したのは、耐え切れなかったから。
…これはホント。
耐え切れなかったのは、自分自身に対して。
…うん、これも間違いない。
目が見えない、自分から。
…違う。
それは、ウソだ。
今でも覚えている。
ポケットの中、ずっと左手で握り締めていたカッターナイフが冷たかった。
『いいよ。俺でよければいつでも話を聞いてやるよ』
その言葉が耳に入ってきたとき、左手にあった冷ややかな感触は、突然どこかに消えてしまった。
代わりに、冷たい水の噴き上げる音が聞こえてきた。
その音で私は、初めて目の前に噴水があるのだということを知った。
◇
翌朝、ここ半年以上鳴ることのなかった携帯が着信を知らせる。
電話の相手は、狭山と名乗る年配の女性だった。その名前に聞き覚えがなかったのは寝起きだからだろう、そう思い目をこすり今一度思考を巡らしてみるが、やはり記憶にはない。
「昨夜はご迷惑おかけしました。視覚障害センター『サクラ』の者ですけれども…」
その声で意識がはっきりとする。記憶にないはずだ。電話の主は、昨晩初めて会った人物であるのだから。
昨日、そのまま公園から一人で飛田めぐみと名乗る少女を帰すのも忍びなく、結局俺は彼女を施設まで送り届けたのだった。視覚障害者の身で遠くに行けるはずもなく、逃げ出したと言っていた施設は徒歩で約十分の所であった。
「なんだ、こんなに近かったの。私、一時間くらいかけて歩いて来たのに」
情けないように笑うその姿が、どこか悲しかったのを覚えている。
閑静な住宅街のさらに奥。ゆるい坂を登りきったその先に、それはひっそりと佇んでいた。
施設というよりも、一見しただけでは小学校と間違ってもおかしくないような、そんな白い四階建ての建物。もう消灯時間を過ぎているのだろうか、施設には数箇所の部屋にしか、灯りは点けられていない。閉ざされた門の横には『視覚障害センター サクラ』と書かれたプレートが立て掛けてあった。
街中で幾度となく見掛けたことはあっても、実際に関わることになるとは夢にも思わなかった。しかし今、すぐ横にその存在がある。
「あぁ、また戻って来ちゃった」
たとえ逃げ出したとしても、自分の戻る場所はもう此処にしかないのだ。まるでそんな諦めを含んだ、ため息交じりの声が聞こえる。
何か声をかけてやりたかったが、言葉が見つからなかった。
すると施設の入り口から、二人の女性がこちらに向かってくるのが視界に入る。
「誰か来るぞ」
「たぶん、施設の人たちだよ。心配かけちゃったからな」
彼女らが到着するまでの短い時間、俺らはただそこに佇んでいた。
「めぐみちゃん!こんな時間まで何処行っていたの?」
「そうよ、誰にも連絡しないで。一人で外に出たら危ないでしょ」
やって来たのは若い女性と、少し年配の女性の二人だった。「ごめんなさい」と、隣で飛田めぐみが小さく呟く。
「でも良かったわ、何事もなくて。すごく心配して探し回ったんだから。もうこんなことしないでよ」
走ってきた為だろうか。呼吸が乱れたまま、年配の女性はそう胸を撫で下ろした。
その心底安心したようなため息を聞くと、どれだけ彼女が心配していたのか一目瞭然だった。
「迷惑かけてすいませんでした」
もう一度、少女は深く頭を下げた。
重たそうな金属の門が、音をたてて開かれる。静寂を保っていたあたりの空気に、それはやけに大きく響き渡った。
もう一人の施設のスタッフが、飛田めぐみの手を軽く引いて誘導してくれる。去り際に、少女は俺のほうを振り向いたが、結局一言も発せずに施設の中へと帰っていった。
門の前には、俺とその年配の女性だけが取り残される。
もう用は済んだ、と帰ろうとしたところを呼び止められた。
「あの…あなたは」
申し訳ないような、そしてどこか訝しい表情で見つめられる。人通りの少ない閑静な住宅街。辺りには電柱などはなく、施設内からこぼれる灯りと月のみが唯一の光源だった。
その為、俺の顔をはっきりと見られる心配はない。
けれども、目が見える人間に顔を凝視されるのは避けたかった。こんな些細なことが原因で、この一年を無駄にはしたくない。だから自分の名前と簡単な経緯を伝えて、足早にそこを去ることにした。
「そうだったんですか、それはご迷惑おかけしました。わざわざめぐみを此処まで連れて来ていただいてありがとうございます」
「あぁ、いえ」
人から感謝されるのも久しぶりだったが、今は一刻も早くこの場を立ち去りたい。そんな思いに駆られていると、目の前の女性はなおも追い討ちをかけるように話しかける。
「今度改めてお礼をしたいので、できれば連絡先を教えていただけないでしょうか」
結局話を切り上げるため、急いで自分の携帯番号を教えてその場を後にした。
今、その電話番号に昨日の女性から電話がかかってきたのだ。
(随分と早いな…)
改めて礼を言いたいとは言っていたが、昨日の今日、ましてこんな朝早くに電話をよこすとは思わなかった。窓から差し込む光は、つい数時間前に昇ったくらいだろうか。部屋の時計を見上げると、時刻はまだ八時前だった。
「あ、どうも。おはようございます」
やはり寝起きのためか、頭がまだ充分に回転せずに、口から出た言葉はただその一言のみだった。しかし相手は、呑気に朝の挨拶を交わしている余裕はなかった。
「あの、つかぬことお聞きしますが…」
狭山と名乗った女性はそう前置きをする。電話越しでも施設内が慌ただしい様相に包まれているのが聞き取れた。
「めぐみちゃんが何処に行ったかご存知ではないですか?」。
事の顛末は単純だった。
昨晩施設に帰ってきた少女は、夜遅いこともあり事情を問い詰めるのは明日の朝起きてからにする予定だったそうだ。
しかし翌朝、施設の人々が起こしに行った時にはすでに布団は蛻の殻。またもや飛田めぐみは施設を逃げ出したのだ。
「そうですか、わかりました。わざわざ朝早くからすいませんでした」
俺も行方を知らない事を知ると、狭山はそう言って電話を切った。おそらくこれから施設の周りを捜索するのだろう。
一体何をやっているのだ、あいつは。やっぱり昨日は、納得して施設に帰ったわけではなかったのだろうか。
そして少女の身を心配している自分に気が付く。
(俺は何を考えているんだ…)
昨日出会ったばかりの、全くの他人。偶然地下道でぶつかり、ひょんなことから公園で少し話した程度の仲だ。
実際、そんな他人に構っている暇も余裕もない。
しかし。
『本当ですか?』
あの時の笑顔を思い出すと、昔の癖なのかどうしても放って置けなくなってしまう。それに飛田めぐみは、世間ではまっとうに生きていけない俺を頼ってくれた、唯一の存在。
開かれたカーテンの向こう側には、青い空が広がっている。太陽がまだ世界を支配している時間に起きたのは、何ヶ月ぶりだろうか。
手元にあった帽子を目深に被る。靴を履き玄関のドアを開けると、そこには木漏れ日の眩しい世界が待ち受けていた。
◆
今考えても、あの日の自分には驚いている。
前日の晩に失敗した脱出劇に、また挑戦したのだ。
でも、目的は違った。
相変わらずポケットの中にはカッターナイフが入っていたけれど、別に使うつもりはなかった。あの頃の私は、ただそれを持っているだけで安心できたのだ。
目指す場所だけがはっきりしている。
頼りになるのは、昨日自分が歩いてきた道の匂いと、あの噴水の水しぶきが上がる音。
時計が見られないので正確な時間はわからない。
それでも、肌で感じた柔らかい日差しと肌寒い周りの気温から、まだ早朝なのだと判断できた。
(慣れって、おそろしいな…)
昨日のたった一回の脱走で、妙な自信がついたみたいだ。乳白色の世界の中を、昨晩の記憶だけを頼りにどんどん進んでいく。
…うぅん、慣れだけじゃなかったのかもしれない。
確かな目標が、あの日の私にはあったから。
朝の香りを運んでくれる柔らかい風に、気持ちいいと感じる余裕すらあった。
◇
「何やっているんだ?また施設の人たちに迷惑かけて…」
近くまで歩み寄って、そう声を投げ掛けた。飛田めぐみは目の前にある噴水の音に耳を傾けながら、ベンチに一人佇んでいた。
そう。此処は俺達二人が出会い、昨日の夜ずっと話をしていた公園だった。
「あ、山根さん…ですか?」
声のした方角を見上げる少女。暗闇に一筋の光が差したように、その表情は明るくなる。視線の先は俺の肩越しの空に向かっているが、気にせず応えることにした。
「そうだ。朝早くに施設から連絡が来て、ビックリしたんだからな。おまえのこと、みんな探しているぞ」
それが説教にでも聞こえたのだろうか。飛田めぐみは昨日の夜と同じような、申し訳なさそうな表情を浮かべ、そのまま俯いてしまった。仕方なく俺は、ベンチの隣に腰を下ろすことにする。
「…どうした?まだ納得していないことでもあるのか?」
「いえ、そんなことないです。ただ…お礼、したかったんです。昨日はちゃんとできなかったから」
「――それは構わないが、それでも黙って抜け出すのはなぁ」
「それに…また私の愚痴を聞いて欲しかったから」
俯いたまま、消え入りそうな声でそう呟く。今まで誰にも悩みを言えなかった分、蓄積されてきたものが、淀んでいるのだろう。
俺は施設を抜け出したことを注意するのも忘れて、少女の話に耳を傾けることにした。
それは、他愛のない将来の夢の話。この年頃の子が思い描くような理想の高い夢ではなく、ごくごく平凡なありきたりの日常。飛田めぐみはそれを望んでいたのだった。
「別に家は広くなくてもいいな。ただ幸せな結婚をして、仲の良い家庭で毎日が楽しければ。私は家族の中で一番早起きしてまず朝食を作るの。起きてきた夫や子供がそれを食べて、会社や学校に行くのを見送って、それから片付けや家の掃除を始めるの。昼間はちょっと休憩してテレビなんか見て、夕方になったら近所のスーパーで夕飯の買い出し。夜は家族団欒をしながら、また明日っておやすみをするの」
昨日の夜と同じ、まるでそれは独り言のよう。「そうか」と、俺は相槌を打ちながら聞いていた。
「そんなに贅沢な夢じゃないと思っていたのになぁ」
一つ大きく息を吐き出して、空を仰ぐ少女。
誰もが思いを馳せる自分の未来。彼女も例外なく、それに対して強い憧れを持っていた。
「…普通に暮らしていれば、手に入るものだと思っていたのに」
けれども、飛田めぐみの未来は突如行方不明になった。
時刻は日差しが柔らかい平日の昼間。この公園には、時折散歩する老人らの姿だけが目に映る。その姿すらも、隣の少女は認識することができないのだ。
「でも、不思議ですね」
突然、口調を変えて同意を求められる。俺には何のことかわからなくて、聞き返すことしかできない。
「今まではこういうこと考えると、まるで暗い穴のなかに一人で閉じこもっている気がして辛かったです。けど今は話を聞いてくれる人がいる、ただそれだけで一人じゃないって思えるんです」
「だから昨日も言っただろ。俺に話をするだけでも気分が楽になるなら、いつでも聞いてやるって。でもその時はちゃんと施設の人に言うこと。狭山って人は俺の連絡先を知っているから、話をしたくなったらいつでも呼べ」
自分でも何故ここまで肩入れするのかわからなかった。ただその言葉を聞いて、さっきまで曇っていた飛田めぐみの表情が、陽に当たったように晴れ上がった。
「あ、そうだったんですか。なんだ、私もう二度と会えないのかと思っていた」
そう言って吹き出す。噴水が湧き出る音を掻き消すような、明るい笑い声だった。
「また怒られるかな」
横を歩く飛田めぐみが心配そうな声を出す。「当たり前だ」その手を引きながら俺は言い放った。
「二日連続で施設を抜け出して、お咎めなしで済むわけがないだろう?」
「そっかぁ。そうですよね」
はぁ、と一つため息を吐く。その仕草が少し可愛らしかった。
昨晩も歩いた道筋を、再び辿りながら目的の場所へと到達する。昨日とは打って変わり、今日は施設の中でたくさんの人々が活動していた。グラウンドでスポーツをする者もいれば、その雰囲気を楽しみながら雑談している者もいる。施設内にもまだ人の気配は多く感じられた。
しかし、それらの人たちは皆、隣にいる少女と同様のハンデを持った者たちだ。こんなにも多くの視覚障害者がいたことに、今更ながら驚きを隠せない。
「めぐみちゃん!?」
突然、施設の中からそう呼ぶ声がした。その声のした方角に視線を向ける。少女も同じように首を動かしたのが見えた。
「めぐみちゃん!」
再度同じ名前を叫んで、施設の中から一人の女性が飛び出してきた。今朝電話をした、狭山という名の女性だ。
「あ…あなたは」
近くまで駆け寄ってきて俺の顔を見る。目深に被っていた帽子を、そっと手で深く被りなおした。
軽く会釈を交わした後、狭山は飛田めぐみのほうに向き直る。
「また抜け出して…昨日あれだけ注意したのがわからなかったの?まだ歩行訓練も完璧に終わったわけじゃないのだから、一人で外に出たら危ないのよ」
「ごめんなさい」
少女の肩を両手で掴み、その体に刻み込むように言い聞かせる狭山。それに対して少女は昨日と同じく首をうなだれてそう呟く。
「あなたも、わざわざこの子を探してくれたの?迷惑かけて本当にごめんなさいね」
「いえ」
そう返事をしながらも、内心はこの場を立ち去りたい一心だった。こんな昼間から人と顔を会わせることは、都合が良くない。
「じゃあ、もう大丈夫だな。俺はもう行くよ。また何かあったらこの人にちゃんと言って、黙って抜け出すなんてことしたら駄目だぞ」
少女にそう言い残し、立ち去ろうとする。しかし。
「せっかくですから、ちょっとお話でもお聞かせください。お礼もまだきちんとしていないですし」
狭山の有難迷惑のような好意。「いえ、お礼なんて…」そう出かかった言葉を遮るように、今度は飛田めぐみが口を挟む。
「そうですよ。この施設を案内しますよ」
今すぐにも逃げ出したい衝動に駆られた。けれどもあからさまに拒否するのも、かえって怪しまれるのではないか、という懸念を抱く。
そんな不安に苛まれている内に、俺は施設内の応接室のような部屋に通されてしまった。
◆
まさか本当にもう一度会えるとは思わなかった。
目的の場所になんとかたどり着いて、ベンチに座れたのはいいけれど。それでも来るはずのない人を待つのはアホらしかった。
だから、あの低くてどこか優しい声が聞こえたときは、一瞬信じられなかった。
また話を聞いてもらえる。
山根さんには迷惑だったかもしれないけど、私にはそれはとても重要なこと。
…重要?
なぜ?どうして?
あのときの私には、まだその理由はわからなかった。
ただ、これだけは確かに言える。
彼に話を聞いてもらっている時の私は、背負っていた荷物を降ろしたような、そんな楽な気持ちになれるのだ。
◇
軽く経緯を述べるだけのつもりが、すでに時計の長針は二周ほどしてしまったのだろうか。窓の外の日差しは、昼下がりのものになりつつあった。
応接室と言っても大層なソファーがあるわけでもなく、パイプ椅子が数個あるだけの質素な部屋だった。目の前には紙コップに入れられた緑茶と、被っていた帽子だけが長いテーブルに置かれている。さすがに室内でも目深に帽子を被るわけにはいかないだろう。
「そうですか。あの子がそんなことを」
テーブルの向かい側、同じパイプ椅子の上には狭山が座っている。
年配の女性だというのはわかっていたが、こうして間近で見ると実に温和そうな雰囲気を漂わせている人物だった。聞く話によると、この施設では「園長」と呼ばれて慕われているようだ。
「…めぐみちゃんから、どのくらい話を聞きましたか?」
しばらく考えてから、狭山は神妙な面持ちでそう尋ねてきた。
当の本人はもうこの部屋にはいない。なにやら訓練の時間だとかで、先ほど他の施設の人に連れられて退室していった。
「どのくらい、というと?」
「視力障害のことについてです」
「…いえ、ほとんど聞いていません」
昨日今日と話したのは、飛田めぐみ本人の悩み事などについてだ。とくに視力障害自体の話をされた覚えもなければ、聞きたいとも思わなかった。
「彼女のようなケースを、中途失明と言うのはご存知ですか?」
そう疑問を投げかけられたが、そんな言葉は耳にしたことはない。だがなんとなく、その意味は理解できるような気がした。
それから狭山は、少しだけ視力障害について話をしてくれた。
簡単に言えば、同じ視力障害者でも二つのパターンに分けられるらしい。生まれながらや乳幼児の時に失明し、物を見た記憶のない人を「先天盲」と呼び、ある程度社会経験を積んだ後に失明した人々を「中途失明」と称するのだという。
飛田めぐみが後者のほうだというのは、一度本人からも聞いたことがあった。
「先天盲と中途失明。どちらが良いかとは、一概には言えません。でも中途失明者は、今まで目が見えていただけに、それを失った悲しみや絶望で、自殺を考える人も少なくないことは、確かです」
ゆっくりと、穏やかな声でそう告げる。ちょうどその時、部屋のドアを施設の関係者がノックする音が聞こえた。どうやら客が訪れたらしい。
「ちょっと失礼するわね」
そう言われ、一人その部屋に取り残される。窓から聞こえてくる喧騒が大きくなった気がした。
『私、生きている意味あるのかな』
昨晩の少女の言葉が、脳裏に浮かびあがる。
今まで当たり前のようにあったモノが、突如消えてなくなる恐怖。その正体不明な影にあいつは怯えていたのだろうか。
(あぁ、そうか…)
そこでようやく気が付いた。自分と飛田めぐみが酷似しているということに。
一年前のあの日から、俺は「日常」という、今まで目の前に空気のように存在していたものを失くしてしまった。それは、視力というありきたりのものを失った少女と、同様の苦しみ。
だから。そう、だから俺は無意識のうちに、同じ境遇のあいつに世話を焼くようになっていたのだ。昔の講師をしていた時の癖などではなく、自分と似た傷を持つ者を求めていたにすぎなかったのだ。
いつしか窓の外の騒がしい声は静まり、室内には時計の針の音だけが充満している。
だがその静寂の空間も長くは続かなかった。来訪者との面会を終えたのか、狭山が再び部屋に戻ってきた。
「お待たせしてしまって、すいません」
「いえ」
もうそろそろ頃合いだな。そう思い、テーブルの上に置いておいた帽子に手を伸ばす。しかし次に狭山が口にした言葉が、俺の手を止めた。
「今いらしていたの、刑事さんだったのよ」
一瞬、穏やかな年配の女性の顔が、この世のものとは思えないほど恐ろしいものに見えた。
(ばれた…)
だがそれは早計だったことに気がつき、平静を装って尋ねる。
「…刑事が、一体此処に何の用だったんですか?」
「あぁ。まだめぐみちゃんのこと、全部話していなかったわね。本当はこういうことは部外者に話してはいけないのだけれど。あの子を探してくれたあなたを、無関係というのも失礼よね」
長い前置きの末、狭山はまた先ほどのパイプ椅子に腰をかけ、目の前の緑茶を一気に飲み干した。
「めぐみちゃんが失明してしまった原因はね、一家心中にあるの」
それは、予想すらしてなかった真実。
今まで失明しているという結果ばかりが頭にあって、その原因を深く考えたことなどなかった。
いや、それよりも。
一家心中。飛田めぐみの家族がもうこの世に存在しない、という事実がなぜか信じられなかった。
俺は勝手に、視力を失った原因を病気か何かだろうと勘違いして、家族もあいつのことを支えているとばかり思っていた。
混乱している頭で少女との会話を思い出す。確かに、家族の話は一度も出てきていない。
「一体、どうして…?」
「さすがに全部を話すわけにはいかないのだけれど…」
そう言って狭山が語ってくれた少女の背景は、あの華奢な体一つでは支えきれないものであろうことは、間違いなかった。
飛田めぐみの家庭は、決して裕福ではなかったらしい。だがそれでも、家族三人で慎ましいながら幸せな生活を送っていたようだ。しかしある日、詳しくは教えてくれなかったが、父親がある事件に巻き込まれたらしい。
その為父親は亡くなり、少ない保険で母子二人が暮らすには無理があった。そして悩んだ挙句、母親がとった行動が……無理心中。
奇跡的に助かった飛田めぐみも、心中の際に目を傷つけてしまった為に、視力を失ってしまったという。
「それでね、先ほど尋ねてきてくれた刑事さんは、めぐみちゃんのお父さんの事件に関わっていた人なの。なんでもまだ解決してないらしくてね。めぐみちゃんのことを気に掛けてくれているのよ」
そう最後に話してくれたが、すでに俺の耳には入ってこなかった。
時を刻む針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
◆
長い訓練の合間、ようやく休憩時間がきたので、少し山根さんと話をしようと思った時だ。
応接室の前まで手探りでやって来た私を迎えてくれたのは、二人の話し声だった。
――裕福ではない家庭。
――けれども、それでも幸せだった家族。
――突然の事件。
――一家心中。
考えなくても園長が誰の話をしているかは、はっきりしていた。
(――……)
唇が緩くなる。
思わず笑ってしまいそうになった。
だって…。
一体誰の話をしているのか、私にはわからなかったのだから。
◇
長い間使っていなかった時計のアラームが、部屋に鳴り響く。煩わしい、というよりはむしろ懐かしいその響きに、自然と目が覚めた。
窓の外は昨日とは変わって、薄暗い雲が空を覆っていた。まるで今にも泣き出しそうな世界。その為一見しただけでは時刻がわかりにくいが、止めたアラームの時計を見ると、まだ朝の八時であることが明らかになる。
なぜこんな朝早く起きなければならなかったのか。その理由を探るべく、昨日の施設でのやりとりを思い出す。
始まりは、飛田めぐみが訓練を終えるのを待っていた時だった。
「仕事は何をされているのですか?」
狭山の些細な質問。しかしそれは触れられたくない事実でもあった。
「今は、失業中なんです」情けないような笑いを浮かべてそう答える。
勤めていた個別指導の塾は、昨今の少子化問題の影響か、経営不振で潰れたのだ。すぐに他の再就職先を決めようにも、この景気ではなかなかに厳しかった。溜まっていた貯金も底をつき、生きるための金が俺には必要だった。
――…だから俺は、取り返しのつかないことに手を染めてしまったのだ。
「あら、今は求職中なの?だったらこの施設で、アルバイトとして働いてみない?」
「え…」
予想外の言葉に、どんな反応をすれば良いのかわからない。
「いえ、やっぱり失業中だと生活も大変でしょう?実は此処も人手がたりなくて、困っていたのよ」
「いや、でも」
確かに、一年前のあの日に手に入れた金はもう手元になかった。一生を生き抜くために必要な金など、そう容易く入手できるものでもない。まっとうな仕事などにもう二度と就けるはずもないので、適当に足がつかないバイトでも探すしかない。そう思っていた矢先の話だった。
けれども、此処は不味い。何時この狭山や施設の人々に気付かれるかもわからない恐怖には、耐えられそうになかった。
「せっかくですけど」そう断ろうとしたが、狭山の声にかき消される。
「それにね、私自身としてもあなたには、めぐみちゃんの側にいて欲しいの。私たち施設の人には一度も悩みなんかを話してくれたことなくて、ずっと一人でふさぎこんでいたのだと思う。さっきも話した通り、中途失明は失うものが大きすぎて耐えられないことが多くあるのよ。だからあの子にとって、あなたが近くにいてくれることは心の支えにもなると思うの。」
もう二度と光が差し込まない、飛田めぐみの二つの瞳が思い起こされる。
「ほんの数週間でもいいの。お願い、あの子の力になってあげて下さい」
そう言って、頭を深々と下げられる。
結局、半ば強引に押し切られて、渋々了解したのだった。
昨日に引き続き、もう浴びることのないと思っていた日差しを一身に受ける。
こんなにも世界が眩しかったことを、俺はすっかり忘れていた気がした。
施設に向かう途中、少女と話した公園を通り過ぎる。行き交う人々もまばらで、立ち止まることなく、ただ目的の場所へと歩いていく。では、俺は一体どこに向かって進んでいるのだろうか。
噴水から吹き上がる水しぶきが、風に流されて顔を濡らした。
今まで逃げることしかできなかった俺が、果たしてあいつの力になどなることができようか。同じような傷をもつ少女。その傷跡を舐め合うことはできても、其処から救い出すことは、俺には到底不可能な気がした。
意識が現実に戻ってくると、視覚障害者センター『サクラ』の門の前で佇んでいる自分がいた。
とりあえず、園長である狭山の元へと挨拶に向かう。
施設内に設置された時計を見上げると、時刻は九時をすでに回っていた。この時間帯はすでに朝食も終え、訓練の時間が始まっているようだ。
「おはようございます」
『園長室』とプレートが掲げられた部屋をノックして、一歩中に入る。そこには昨日と同じ、穏やかな表情を浮かべた狭山が、机の向こう側に座って出迎えてくれた。
「はい、おはようございます」
そう言って二、三言葉を交わしてから、仕事の内容に入る。
「まずこの施設はね、主に視覚障害者の更生訓練所のような場所なの。目的は彼らの社会復帰だったり、一般的な日常生活が送れる程度のレベルだったりと様々だけど…。とりあえず此処では、そんな人達の為に、朝の九時から夕方の四時まで訓練があるの。その間に昼休みとかの休憩時間はあるんだけど、施設で働いている職員には、その休憩時間も労働時間と変わらないわ。訓練が終わってからも、仕事が終わるわけじゃないし。夕飯や点呼までの自由時間の最中でも、彼らは目を光らせていなければならないから」
「…はぁ、大変そうですね」
「ふふ。でもみんな、この仕事が好きでやっているからね。…話を戻すわ。実はこの自由時間っていうのが、拘束されていないだけに一番危険が多いの。実際にめぐみちゃんが施設を抜け出したのも、この時間帯だったようだし」
「なるほど。それで、俺の仕事っていうのは?」
「えぇ、これから説明するわ。だからね、いつもそんな状態だから、職員たちがようやく一息つけるのは、みんなが寝静まってからなのよ。でもそんな一日の中で、炊事とか洗濯、施設内の掃除とかを両立させるのは、とても厳しいの」
つまり、何の資格も持たない俺の仕事というのは、その雑用全般を指していた。
「…不満かしら?」
少しだけ申し訳なさそうに、狭山が尋ねる。
「いや、大丈夫ですよ」
本音だった。不平不満などを洩らせる立場に、俺はいないのだ。
「そう。良かったわ。じゃあ、今日からよろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ」
そして俺は園長の指示の下で、洗濯や施設内の掃除をこなしていくこととなった。
全ての仕事が一段落つき、ようやく腰を休める時間が来たのはその日の夕方だった。
この辺りは住宅街からも少し隔離されているのだろうか、周りにはまだ自然が少し残っていた。山の向こうに沈む夕日を、肌寒い空気の中で眺めていた。夏が終わり、秋が近づいてきたことを実感する。
「山根さん?」
ふと背後から声をかけられる。
首だけを振り向かせると、視界に映ったのは飛田めぐみの姿だった。
「あぁ、そうだ」
「やっぱり。園長がさっき、山根さんなら此処にいるって教えてくれたんです」
白杖を片手にそう微笑む少女。夕日が反射して神秘的に見える彼女の瞳が、人工の義眼だったと聞かされたのはつい昨日のことだった。
「訓練、大変そうだな」
素直な感想を洩らしていた。今日一日、視覚障害者の人々の生活を見てきたが、白杖を駆使した歩行訓練や様々な日常訓練の辛さは、俺の想像をはるかに超えていた。
「そうですね。でもこれから家庭に復帰したりする人には、必要なことだと思いますよ」
どこか他人事のように、そう呟く。ふと、今朝の園長の言葉が脳裏に蘇った。
『基本は今説明したとおりの業務を行ってもらいます。後、これは私からのお願いなん
ですけど、昨日も話したとおり、余裕があったらめぐみちゃんの相談役になってあげてくれないかしら?』
中途失明者は、その哀しみや絶望感から自殺する可能性が高い。目の前の少女も、おそらく考えたことがないわけではないだろう。しかし、この世界に絶望しか残っていないとわかっていたら。今まであった日常が、もう戻らないのだと理解してしまったら。
果たして、そこから前向きに生きるということができるのだろうか。
俺自身がそうであるように。
こいつも、逃げることしかできないはずだ。むしろこの一年間逃げ隠れしてきた俺が、それを諭すなど矛盾もいいところだ。
「今日は何時まで仕事があるんですか?」
黙りこんでいた俺に、少女が質問してくる。
「たぶん、夕飯の片付けを終えるまでじゃないかな」
どこか上の空で答える。
「じゃあその後、散歩しましょうよ」
「ん、あぁ、別に構わないけど。また勝手に抜け出す気か?」
「まさか。ちゃんと施設の中だけですよ」
頭上を覆う空同様に、赤く染まった飛田めぐみの顔が、柔らかい笑みを浮かべていた。
◆
「山根さん、これから毎日施設に来て働いてくれることになったわよ」
そう園長に聞かされた時、飛び上がるくらいに嬉しかったのを覚えている。
一日の終わりに山根さんとする会話は、唯一の楽しみになった。
毎日繰り返される訓練も、意味がないとわかっていても耐えることができた。
涼しげな夜風を顔に感じながら、カッターナイフを持った右手の親指に、軽く力をいれる。なんとも言えない奇妙な音は、刃が伸びたことを実感させた。
そして今度は、押し出した親指を元に戻す。同じような、けれどもさっきとは少し違った音。
何度も何度も同じ動作を繰り返し、その不快な旋律を充分楽しんでから、またポケットにしまう。
…あぁ、そうだ。あの頃、私はずっと考えていたんだっけ。
何のために訓練しているのか。
その理由がわからない。
――当然だ。
私は日常に戻ることを、許される人間ではないはずだから。
◇
それからというもの、生活は一変していた。
朝の九時から施設内での業務が始まり、夕食の片付けの手伝いなどが終わる夜七時過ぎに帰宅する。今まで日が沈む夕暮れ時から活動していた俺には、考えられない日々だった。
もう二度と手に入らないと思っていた全うな生活をしている自分に、戸惑いが隠せない。
飛田めぐみが生きる希望を見出せるまでの期間とはいえ、それはいつまで続くのだろうか。
今日も施設内で、少女の姿を時折見掛ける。
この施設での訓練の形態が、理療教育課程や生活訓練課程などに分かれていることも最近知った。飛田めぐみが受けているのは、一般的な生活ができるレベルに達するための「生活訓練課程」というものだった。主に歩行訓練などから始まり、点字や手話、ひいてはパソコンなども扱えるような内容の訓練。他にもコミュニケーション訓練と称して、ホームルームやレクリエーションなどが存在する。
朝から夕方までずっと訓練に励んでいる。しかしそこに自分の意思があるのかは、俺には読み取ることはできない。どちらにせよ、飛田めぐみと触れ合える時間など、夕飯後から点呼までの自由時間の僅かな時間しかなかったのだ。
そんな限られた時間の中で、少女は様々なことを話しかけてくる。歩行訓練の最中におきた出来事や、手話が難しくて覚えられないこと。
けれどもそれは、同年代の若者たちの日常でなされる会話とは大きくかけ離れていた。
「やっぱり辛いよ」
それは俺がこの施設に通い始めて一週間が過ぎたあたりだろうか。いつものように夕食後の会話の中で、突然飛田めぐみが言葉を洩らした。
「調理実習でね、自分たちのお昼御飯を作ったの」
少女は俺に対して敬語などを使うこともなくなり、くだけた言葉遣いで自然に話すようになっていた。
(まぁ、一週間も一緒にいれば当たり前か)
別にそれに嫌な気がするわけでもなく、むしろ距離が縮まったようで嬉しく思える。
「私、昔は結構料理得意だったの。お母さんの代わりによくお夕飯とか作ったりして、お父さんもおいしいって言って食べてくれていたの」
懐かしむように空を仰ぐ。今日の雲も夕日に照らされ、黄昏時であることを実感させられる。しかし少女には、その情景すらも認識できない。
「うまく作れなかったのか?」
そう疑問を投げ掛けると、「うぅん」と首を振る。
「作ることすらできなかった…」
「どういうことだ?」
「怖くて、包丁で食材を切ることも、油を敷いたフライパンを使うこともできなかった」
夕暮れ時の赤い空が目に染みたのだろうか、俺は目を閉じずにはいられなかった。
いや、違う。
むしろそう語る目の前の自虐を含んだ笑みが、見るに耐えなかったのだ。
「今まで、何気なくできていたことなのに…」
何も言わず黙ってしまった俺に、少女は構わず続ける。
「私、どうすればいいのかな」
それは誰に向けられた言葉だったのか。ただせつなさを孕んだ空気だけが、夕凪に吹かれて消えてゆく。
「逃げてしまえばいいんだ、そうすれば楽になる」喉の奥からそう声が出そうになるのを、必死で押さえた。
中途失明者の多くが解決策として選らんだ道。
死。
嫌な現実を忘れ、永遠に幸せだった過去の夢の中を漂い続けることができる、唯一の手段。
だが、それ以外にも方法はないのだろうか。
不意に、生き生きとした表情で訓練を受ける、視覚障害者の人々の顔が浮かんだ。それはこの一週間で、一番驚愕した事実でもあった。
彼らの中にも中途失明者は多くいるはずだが、何故彼らは絶望や悲しみを感じることがなかったのか。不思議に思い、その中の一人に差し障りのないように尋ねたことがある。
すると、
『私はね、視力がなくなってからというもの、ずっと妻に迷惑をかけていてね。いつも世話をしてくれているのだよ。だけれどそれが申し訳なくなってね、もし自分で少しでも身の回りのことができたら、妻の負担も減るだろうと思ってね』
もう四十代半ばを過ぎた男性だった。勤めていた会社もそのせいで辞めさせられてしまったらしい。決して楽な人生を歩んでいるわけではない、しかし。
『今はね、妻と一緒に外で散歩したりするのが、楽しみなんだよ』
そう微笑んだ彼の表情は、希望の光に満ち溢れていた。その表情が今も忘れられない。
「どうしたの?」
しばらく無言でいた俺に不安を感じたのか、少女が心配そうな表情を浮かべて尋ねてくる。
この施設で働く上で、園長から注意された事項を振り返る。視覚障害者と接する際には、決して無言になったり、頷くだけの返事ではいけないという。俺らのようなまともに目が見える人にはわからないが、彼らにとっては少しの無言でも不安になってしまうという。
「あぁ、ちょっと考え事をしていた」
「考え事?」
「…いや」そう言って話を遮り、無理矢理話を変えることにする。
「そういえば、おまえ料理が昔得意だったって言っていたけど…何が作れたんだ?」
「え、ん〜…だいたいレシピがあれば大概のものは作れたよ」
「本当においしく作れたのか?」
「本当だよ、馬鹿にしないで」
どこか拗ねたような声をあげる。それがおかしくて苦笑してしまう。
「なによ〜」
「いや、悪い。でもそこまで言うなら、おまえの手料理を食ってみたかったな」
「……」突如何も言わなくなってしまった少女を前に、自分の愚かさに気付く。
(しまった――…)
言った直後、激しい後悔の念に苛まれた。何気なく出たこの台詞は、残酷という言葉以外の何者でもなかった。
謝らなければ、そう思った瞬間。
「食べてみたい?」
意外なほど穏やかな声。むしろ相手の反応を伺うかのような、いつもと変わりない口調だった。
「あ、あぁ。そうだな」
戸惑いながらも、なんとかそう言葉を振り絞る。風に揺れる木の葉のざわめきが、どこか遠くに感じられた。
「そっか。食べてみたいか」
何故か納得したように首を二、三度頷かせる少女。けれどその声に、不快の色は含まれていないことだけは確かだった。
「じゃあ、もうそろそろ点呼の時間だから行くや。また明日ね」
満面の笑みで再会を約束する飛田めぐみ。俺だけがその真意を理解できずに、一人夕闇の中に佇んでいた。
◆
得意だったはずの料理まで、できなくなってしまった。
あの時は、すごく落ち込んでいたけれど。今考えると、本当は安心していたのかもしれない。
だって、辛い思いをしているって、実感できたから。
「おまえの手料理を食ってみたかったな」
山根さんがポロッと口にした言葉。
そういえば、初めてだった。
人に料理を作ってくれと頼まれたのは。
頼まれて作るのと、仕方なく作るのはワケが違う。
私はお父さんに料理を作ってあげたけれども、それは頼まれたからじゃない。
仕方なかったから。
だってそう。
お母さんはもうそのとき、料理をしなくなっていたから。
幸せな家庭だった。
そう誰かが言っていた。
幸せとは、周りが決めることなのだろうか。
その基準って、一体なんなのだろう。
当人たちがそう思っていなかったとしても、それは「幸せ」と呼べるのだろうか。
◇
それからだった。飛田めぐみの訓練に対する姿勢が、目に見えるほどに変化したのは。
狭山も「最近めぐみちゃんはよく笑うようになったわね」と、その変わりようを驚きながらも喜ばしく見守っていた。
確かにその様子を眺めていると、以前とは違い、施設内の人々とよくコミュニケーションをとるようになっていた。定例となった夕食後の談話の中でも、訓練の内容だけでなく、周囲の人々との兼ね合いもよく出てくるようになった。
「ありがとうね」
この施設に勤めることになって、今週で一ヶ月が経とうとしていた。忙しい業務の間のわずかな休憩時間。パイプ椅子に座って少し体を休めていると、突然狭山が話しかけてきたのだ。
「え?どうしたんですか?」
そう問い返す俺に、目を細めながら答える。
「めぐみちゃんのことよ。彼女、やっと希望が持て始めたみたいなの」
「希望、ですか?」
ここ数日の会話を思い返してみるが、特にそのような話題は出てこなかった気がする。果たして、中途失明の絶望や辛さを克服するようなことができたのだろうか。
「そう。私も長い事こういう仕事しているわけだけど、中途失明者は誰しも必ず最初は絶望感や挫折を味わうものなの。けれど、そこから立ち上がって前に進むことができるのは、他ならぬその人自身の問題」
斜め前に置かれていたパイプ椅子を引っ張り出し、狭山も腰を下ろす。室内には俺と彼女の二人しかいなかった。まだ他の教室では訓練が行われているようで、時折声が聞こえてくる。
「私たちは、視覚障害者に対する完全なサポートを心がけているわ。理療教育課程や生活訓練課程などのコースごとに、その人個人にあった訓練に最善を尽くしているつもり。だけどね、訓練を受けようと思ったりするのはやっぱり、その人自身の気持ちの問題なのよ」
「……」
何も言わず、ただ流れてくる言葉に耳を傾けていた。
「もちろんこの施設でも相談やカウンセリングなどは対応しているわ。でも相手は人間だから、うまくいかない時だってたくさんあるの。だからめぐみちゃんの件に関しては、本当にあなたがいてくれて助かったと思っているわ」
穏やかな口調でそう告げられた。しかし俺にはどうしても腑に落ちない点があったため、それを疑問を口にする。
「さっき、あいつが希望を持てたと言っていましたけど。俺は特にそんな話はしていないと思うんですが」
そう。実際この一ヶ月近くの期間を共に過ごしてきたが、あいつを絶望の淵から救い出すようなことをした記憶はなかった。
けれども、そんな俺に対してただ微笑みだけを返す。
「あのね。人間なんて、結構単純なことで希望を持てることもあるのよ」
静かに語られた言葉は、しかしいつまでも耳の奥で反芻していた。
ちょうどその時、ドアをノックする音が聞こえる。施設のスタッフの女性だ。
どうやら狭山に面会したい人物が訪ねてきているらしい。
「あらそう。ならいいわ、ここに通して頂戴」
パイプ椅子に座りながら、そう女性に伝える狭山。
「じゃあ、俺は退室しましょうか」
「いえ、あなたも一度会ってもらいたい人なのよ」
そう言われて部屋に入って来たのは、くたびれたワイシャツを着た中年の男性だった。
「お久しぶりです、狭山さん」
「こちらこそ。最近はもうすっかり涼しくなりましたね」
そう挨拶を交わして部屋の入り口に立つ男。前髪はもう薄くなりかけているが、体格のほうはやや太ってはいるものの、そこらの若い者では適わないほどがっしりしていた。
その姿に、戦慄を覚える。
理屈などはない。しかし男の全てを見透かすような眼差しが、その人物像を物語っていた。
おそらく、この目の前の男性の正体は…。
「紹介するわ。このあいだお話したわよね。飛田めぐみちゃんの事件を追ってくれている、刑事の渡辺勝俊さんよ」
狭山がこちらに向き直ってそう説明する。
(――――……)
心の中でそっと舌打ちをする。あくまで目立たないように、軽く会釈をした。
「…この男性は?今まで此処で働いていましたか?」
「いえ、実は。飛田めぐみちゃんの相談役として、先月くらいから働いてもらっている山根昌平さんです」
名前を出されたことに、今まで抑えられていた鼓動が激しく脈打ち始める。
(落ち着け…落ち着くんだ)
そう。まだ俺の名前や正確な顔すら、警察はわかってはいないのだ。ましてや、この刑事は違う事件の捜査で手一杯なはず。
街中に張り出されている俺のモンタージュ写真だって、実際の俺の顔とは微妙に違っていた。
そう結論に至り、一回深呼吸をして渡辺のほうを見る。
「…よろしく」
「こちらこそ」
だが、男の物色するような視線には耐え切れなかった。その為、適当な理由をつけて、部屋から脱出することにした。
「片付けなくてはならない仕事があるので、失礼します」
一礼してドアを閉めようとする。だが、それを呼び止める声がした。
「山根くん…だったかな?」
渡辺の、野太く落ち着いた声。「はい、そうですけど」そう静かに答える。
「君は、飛田めぐみちゃんと知り合いだったのかい」
それが獲物を撫で回すような声調に聞こえるのは、俺の気にし過ぎだろうか。
「いえ、そういうわけではないですけど。たまたま出会っただけです」
「ほう?何処で」
男の表情は、すでに刑事のそれになっていた。これ以上はまずい、そう本能が告げている。
「すいません、仕事のほうがあるので。詳しくは狭山さんからお聞きください」
そして足早にその場を立ち去った。
あの曖昧なモンタージュ写真から、俺の顔が連想されたのだろうか。確かにあの男は、刑事の目で俺の顔を眺めていたのだ。
立ち去る俺の背中に、不快な視線が突き刺さっているようで気分が悪かった。
◆
この頃になると、もう私はわかっていたのかもしれない。
なぜ山根さんと話をしたかったのか。
悩みや愚痴を聞いて欲しかったわけじゃない。
うぅん、もちろんそれもあっただろう。
でも一番の理由は…。
赤の他人に自分を知ってもらうことで、確認したかっただけ。
私は今、これだけ苦労している。
私は、こんなに不幸になってしまった。
もう普通の生活には、戻れないの。
だから…。
ちゃんと「罪」を償っていますよね?
もう、死ぬ必要はないですよね?
と。
◇
「ねぇ、山根さん。ピクニック行こう」
そう飛田めぐみが誘ってきたのは、それからすぐのことだった。
「ピクニック?」
今日は珍しく施設での仕事が延び、業務が一段落ついたのは夜の八時を過ぎてからだった。あと少しもすれば、少女は点呼のために部屋に戻らなければならない。
「そうだよ。今度の祝日は訓練が休みだから、二人でちょっと遠出しようよ」
もうほとんど暦の上でも秋と呼べる季節になり、この時間帯に外で話すのはやや寒い。飛田めぐみも今日は長袖を羽織っていた。
「まぁ、特に用事はないだろうけど」
けれどもしかし、俺は昼間から外出などして平気なのであろうか。脳裏に浮かぶのは、数日前に出会った渡辺という男性の、突き刺すような視線。
とりあえず園長に外出の許可を出してもらおうと、二人で園長室まで向かうことにする。相変わらず街頭も何もないこの場所では、月明かりと施設からわずかに漏れた明かりだけが頼りだった。
目的の部屋の前まで来ると、室内から聞き覚えのある声がする。忘れるはずもないその野太い声は、数日前訪れた渡辺のものに他ならない。
「どうしたの?入ろうよ」
立ち止まっていた俺に、少女が催促してくる。だが、どうしてもその扉のノブに手をかけることができない。
するとドアの向こう側からノブが回され、中から渡辺の汚れたワイシャツ姿が現れた。
思わず一歩退く。その姿に気が付いた渡辺は、目だけを見開いて俺を凝視する。心臓の鼓動が、まるで体全身を震わせるように脈打っていた。
「あら、めぐみちゃんと山根さんじゃない。どうしたの?」
渡辺の肩越しに、狭山の明るい声が聞こえてくる。
「あ、外出許可を貰いに来たんです」
それに対して横にいた飛田めぐみが答えていた。しかしその会話や室内の情景、そして窓の外を支配する闇でさえも、どこか別世界のもののように感じられる。
俺の目の前に立ち塞がっている、この男を除いては。
どのくらい視線を交わしていたのだろうか。突如男は飛田めぐみのほうを向き直った。先ほどまでとは打って変わり、そこには相手を食い入るような眼差しは存在しない。
「飛田めぐみちゃん、久しぶり。刑事の渡辺だよ」
二人は顔見知りなのだろうか、当の少女も「あぁ、刑事さん」と顔を綻ばせている。
「刑事さんね、あの事件の犯人の目星が付いたらしいわよ」
少女に優しく語りかける狭山は、気が付けば渡辺の背後にまで来ていた。
飛田めぐみの父親が巻き込まれてしまった事件、その犯人が判明したという。
「本当ですか?」
その言葉に、今まで見たことのない表情で少女が答えていた。その声には、喜びというよりもむしろ、負の感情が含まれていたように感じられる。
どちらにせよ、それは喜ばしい知らせだった。犯人が逮捕されてしまえば、もうこの刑事は二度と此処には姿を現さないだろう。俺の正体がバレる心配もなくなる。
「えぇ、後は刑事さんに任せましょうね」
「…どうか、よろしくお願いします」
どこか神妙な面持ちで、そう頭を下げる少女。それに渡辺は、いつもの野太い声で答えていた。
「あぁ、もうすぐ犯人を捕まえてみせるよ。必ずお父さんをあんな目に合わせた罪を、その野郎に償わせてやる」
だけど何故。
どうしてこの男はその台詞を、飛田めぐみではなくこの俺を見ながら口にしたのだろうか。
それぞれの思惑が交錯した沈黙が、月明かりに照らされたこの空間を支配しているようだった。
◆
指の動かし方で、奏でる音が変わる。
それはまるで一つの楽器のよう。
死ぬ必要はないのかも。そう思ってはいても、カッターナイフを手放すことが、どうしてもできなかった。
まだ、不安になる。
この意味のない単音で形成されたメロディーを聴くだけでも、気分が落ち着く。
そんな親指一つで演奏される曲を耳にしながら、私はその日の出来事を振り返っていた。
犯人が見つかった。
刑事さんはそう報告してくれた。
彼は、事件以来ずっと私のことを気にかけてくれている。
良い人だ。
だから、いつも会うたびに思う。
ごめんなさい、と。
犯人が発見されたという報告も、はっきりと見当違いだということはわかっていた。
だって。
…私はすでに、犯人を知っていたのだから。
◇
待ち合わせ場所は、二人が初めて語った噴水のある公園だった。
何故わざわざ待ち合わせる必要があるのか、施設から一人で来るという少女を嗜めたが、結果は変わらなかった。
いつかと同じベンチに座る。あの日からまだ一ヶ月近くしか経過していなかったが、公園を取り囲む木々の葉の彩りは、着実に秋の色に染まっていた。足元を埋め尽くすような落葉。それを踏みしめる独特の乾いた音をたてながら、飛田めぐみはゆっくりと歩いてきた。その姿に些細な変化が見て取れる。右手にはいつもと変わらず白杖が握られていたが、左手には小さなバスケットが下げられている。何よりもそれを持つ少女の服装は、普段の質素なTシャツとジーパンなどではなく、白のロングスカートに茶色のアンサンブルを羽織っていた。
「めぐみ」
俺は通り過ぎようとしていた少女を呼び止める。これが、初めて名前を呼んだ瞬間だった。
「あ、もう来ていたの?」
俺の声がした方角を向いて、驚きながらも微笑む。こうして施設の外で顔を合わせるのは久し振りだった。
それからしばらく公園内を散歩した。流れる風は穏やかで、空はどこまでも澄み渡っている。
途中、日溜りの草むらに座って昼食を摂ることにした。
「コンビニでなにか買ってくるか?」
そう訊いた俺に向かって、なにやら言いたげな表情を浮かべる少女。
「実は…」
左手に持っていたバスケットを膝の上に置く。そしていそいそと中身を取り出した。
「…もしかして、作ったのか?」
「うん。ほら、だって前に私の手料理食べてみたいって言っていたでしょ」
その言葉に「あぁ…」と呟くことしかできなかった。確かこいつは、包丁すら怖くて握れなかったのではなかったのか。目の前に並べられたタッパーの中には、卵焼きに始まり野菜炒めや肉じゃが、コロッケなどが歪に飾られている。
「全部自分で作ったのか?」
「そうだよ。見た目はどうなっているかわからないけど、とりあえず食べてみて」
そう言って「はい」と割り箸を渡される。とりあえず形が崩れていた卵焼きを口に入れて咀嚼してみる。その様子を飛田めぐみは見えない瞳でずっと眺めていた。
「…どう、かな?」
見た目とは裏腹に、それは美味しいと形容できるものだった。
「うん、うまい」
「本当?」
先ほどまでの神妙な顔つきから、一転して輝かしい笑みを浮かべる。
「じゃあ次、肉じゃが。食べてみてよ」
綺麗に、とまではいかないが丁寧に切られたジャガイモを箸で挟む。最初、包丁で切ることすら困難だった少女が、たった一ヶ月足らずでここまで成長するものなのだろうか。
口の中に入れた肉じゃがは、味が染み渡っていて素直に美味しいと思えた。
「ごちそうさま」
タッパーの中身を全て空にした俺は、しばらく草の感触を背に感じながら、目の前に広がる青空を眺めていた。
横には同じように寝転がっている少女の姿がある。
「風が気持ちいいね。今日はきっと雲一つない空なんだろうな」
まばらに雲が点在している空に向かって、その言葉は舞い上がっていきそうだった。
「あぁ、そうだな」
果たしてその台詞はちゃんと届いたのであろうか。突然少女は起き上がり、俺のほうを向き直った。
「ありがとう」
「なんだよ、突然?」
「私、山根さんにすごく感謝している」
まるで姿が見えているかのように、その瞳は俺の顔を凝視していた。どんな言葉を返せばわからなかった俺は、ただ次の台詞を待つことしかできなかった。
「山根さんがいなかったら、あの時出会ってなかったら、私はたぶんこの世界から逃げ出していた」
そう言って傍らに置いてあったバスケットの中から、一本のカッターナイフを取り出した。どこにでもあるような、平凡なカッターナイフ。おそらく施設から持ち出して来たのだろうか。
「施設を抜け出したあの日、本当は私、死ぬつもりだった」
穏やかな気候とは裏腹に、飛田めぐみの言葉は氷のように冷たかった。
「………」
中途失明者が行き着く中の一つの結論。
自殺。
何も言えずに、ただ少女の顔を眺める。
その瞳は、真っ直ぐに俺を捉えていた。
「…今はどうなんだ」
背中についた草を払いながら起き上がり、その視線を正面から見返す。
「今もまだ、おまえは死ぬことを考えているのか」
俺は一体、何を諭したいのだろうか。もし仮に「自殺を考えている」と言われたとしても、果たして止める権利はあるのだろうか。
同じように日常という枠から弾き出され、逃げることを選択したこの俺に。
「…わからない」
そう呟いて、少女は空を仰ぐ。その視界にはおそらく、いや確実にこの青空は映っていない。
「けどね」
紡ぎ出した言葉と同時に、先ほどのタッパーを手に取る。中身はもう俺が平らげてしまった。それをとても大切なものを扱うかのように、両手で優しく包み込む。
「山根さんが私の料理を食べてみたいって言ったでしょ?その日から一人で作れるように頑張ったの。その時間は、自分が死のうなんて思っていたこと忘れられた」
不意に、施設で出会った中途失明者の男性が脳裏に浮かんだ。
彼も失明という大きな痛手を背負いながらも、挫けずに真っ直ぐ進んでいるのは奥さんとの散歩という平凡すぎる目標の為だった。
『あのね。人間なんて、結構単純なことで希望を持てることもあるのよ』
いつかの園長の言葉が蘇る。
あんな些細な願いで、こいつは希望を持てたというのだろうか。
飛田めぐみがゆっくりと、どこか納得できない様子の俺に向き直る。
「だから、ありがとう。私がこうして此処にいられるのは山根さんのおかげだよ」
日溜りの中、屈託なく笑う。
そこで俺は初めて気が付いた。
頭上に広がる青空を、少女が視ることは一生叶わない。けれどもしかし、其処から降り注ぐ日差しを浴びることは、皆と変わらずに可能なのだということに。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
柔らかな色合いを見せ始めた日差しは、すでに時刻が午後であることを感じさせる。髪をたなびかせる風も、しだいに冷たくなってきた。
ふと視線を横に移す。同じように草の上に横たわりながら、穏やかな寝息を立てている少女。
「風邪、ひくぞ」
誰にともなくポツリと呟いて、小柄な体の上に自分の上着をそっと掛けてやる。
さすがにこの季節になると、上着なしでは少し肌寒かった。飛田めぐみが持参したバスケットの中から、少し大きめの水筒を取り出す。中には程よく温まった紅茶が入っていた。
立ち昇る湯気を眺めながら、辺りに人気がいないことを実感する。平日の昼間。こんな時間に公園でゆっくり時間を潰している者などいるはずもない。
俺たちのような、日常という世界から弾き出された人間以外は…。
『ありがとう』
先ほどの感謝の言葉が蘇る。
(俺は、本当に感謝されるほどのことをしたのだろうか?)
まだ幼さの残った寝顔。それを見ると、少女に降りかかった悲劇に憤りすら感じる。どうしようもない不運な出来事が、飛田めぐみという女の子の日常を崩壊させてしまったのだ。
(こいつは、何一つ悪いことをしていないというのに…)
父親が巻き込まれたという事件。それさえなければ、この少女は幸せに暮らせたというのに。その事件の犯人が、とても憎くてしかたなかった。
では…。
それならば、俺はどうなのだろうか。
俺が犯した罪も、見ず知らずの他人をこうして苦しめているのだろうか。答えの出ない疑問は、風に舞い上がり空へと還っていく。
「…山根さん?」
少女の声が聞こえた。どうやら目を覚ましたらしい。
「山根さん、そこにいるの?」
どこか怯えたような、弱々しい声。
(あぁ…そうか。)
俺はこんなにも近くにいるというのに、こいつには確認する術がないのだ。
「大丈夫、ここにいる」
そう静かに応えた。安心したような微笑が、目覚めたばかりの顔に広がる。
しばらく二人で、流れてくる風に身を任せていた。空はしだいに夕暮れの色に包まれていく。そろそろ施設に戻らなければならない頃合だ。
「なぁ、めぐみ」
その前に、俺はどうしても訊いておきたいことがあった。
「うん?」
かねてから感じていた一つの疑問。口にすることは憚られて、今まで聞きそびれてきた。
「おまえ、犯人が見つかったらどうするんだ?」
周りを包んでいた穏やかな空気が、一瞬張り詰めるのを感じる。
犯人の目星がついたと刑事に告げられた時の少女の表情は、普段からは想像もできないくらいに冷たかったことを覚えている。
あの刑事が本当に犯人を捕まえたら、こいつはどうするのだろうか。
少しの時間、二人の間に流れる沈黙。
その緊張を破ったのは、他ならぬ飛田めぐみ本人の言葉だった。
あの時と同じ、背筋が凍りつくような冷たい眼差しのまま。
「殺すよ…」




