木曜日 1
慣れは恐ろしい。
結局、昨日は、朝、寝ている成哉と、夜、寝ている成哉しか見ていない。
そして、今朝も、成哉は寝ている。
起こさないように、配慮して、そのままでかけようとしている自分が可笑しい。
そして、財布の中身を確かめている自分が可笑しい。
帰りに、24時間スーパーで、何か、食材を買おうとしているのだ。
何のため?
成哉が、料理するのを期待して?
美織は、ため息をついた。
考えすぎるとおかしくなる。
いつも、そうだ。
どうして?どうして?と、自分に問いかけていくと、自分が追い詰められて、おかしくなる。
深く考えない方がいいのだ。
成哉のように、流されるままに、生きた方が、人は、幸せなのかもしれない。
その時、小さなうめき声がして、
「あ、美織さん、おはよう。」
と、成哉が、こたつから、顔をだした。
「今日は起きれたんだ?」
「動くと、まだ頭痛いから、昨日も、一日、ほとんど寝てた。」
「記憶は?」
成哉は、だるそうに身体をおこしながら、
「全然。」
と、ゆっくり首を振る。
「何も思い出せない?」
「まったく…。」
そして、美織は、成哉が、ずっと、美織のジャージを着ているのに気がついた。
美織にとって、大きめな男性用Mのジャージは、成哉にとっては、若干小さめのようで、袖が手首まで届いていない。
「あなた、下着は?」
「はいてるよ。」
「当たり前じゃない、バカね。昨日と同じ下着、はいてるの?」
「もちろん、一張羅なんで。」
こともなげに、成哉は答える。
「気持ち悪くないの?」
「臭う?」
若いから、加齢臭のようなにおいはしないけれど、3日目になる。
「下着だけでも、替えた方がいいんじゃないの?」
「そうだね。」
成哉は、否定はしないが、神経質とは、対極に属するタイプらしい。
それが、元々の気質なのか、記憶を失ったことによる弊害なのかは、わからない。
「帰りに、スエットと下着を買ってきてあげるわ。他にいるものない?」
と、聞いた自分に、また、びっくりした。
人がいいにも、ほどがあるんじゃないか?
「ありがとう。美織さん、じゃ、歯ブラシと剃刀が欲しいな。」
答える成哉も成哉だ。
ずっと前から、この家に居付いているような自然な態度だ。
「剃刀って?」
「ひげそり。」
ひげは、濃い方ではないようだが、3日目になると、さすがに、無精ひげがはえていた。
「そりゃあ、いるわよね。」
美織は、自分自身に、言い聞かせるようにして、マンションをあとにした。
成哉の傍にいるときは、これが普通のことのように感じてしまう。
けれども、成哉から離れて、職場に行くと、やっぱり、これが普通じゃないと感じてしまう。
自然体の成哉は、美織のマンションに転がり込んでいることに、何の疑問も持っていない。
独身の女性のマンションに、ただで、居座っているというのに、罪悪感すら感じていない。
自分の昼食兼用の夕食を、美織に作っておくのが、唯一の恩返しと思っているのかもしれない。
が、それも、使命感などでもなく、ただ、自然にやっているだけのような気がする。
成哉の持つ自然に流されると、怪我をして、記憶を失っている男の面倒をみてやることすら、自然な行為だと思えてしまう。
けれども、一歩、その空間から外に出ると、やっぱり、おかしいんじゃないかとも思えてくるのだ。
職場のギスギスした空気を、直接、肌で感じると、世の中の人間は、いい人間ばかりじゃないと痛感する。
記憶喪失が演技だってことも十分ありうるのだ。
もし、本当に記憶喪失が演技だったら、成哉はどう言い訳するんだろう
もしかしたら、いきなり豹変して、暴力をふるってくるかもしれない。
襲われて、恥ずかしい写真を撮られて、それをネタに脅迫されるかもしれない。
美織を、思い通りに動かすために、ありとあらゆることを、やってくるかもしれない。
もはや、どこまでが妄想で、どこまでが一般的な、普通の危惧なのか、その線引きがわからない。
考えて、考える。
それでも、身体は、いつも通りの仕事をして、いつも通りの作業をこなしている。
幹部社員が、美織に声をかけた。
「乙羽美織さんね。明日から、私が担当になったから。」
木谷という幹部社員は、成哉と同じくらいの、20代前半の女だった。
この会社では、数字をあげるものが幹部になる。
高卒だろうが、中卒だろうが、学歴、経歴、関係なく、数字をあげさえすれば、幹部になれる。
彼女の場合は、高校中退だと噂で聞いた。
けれども、営業能力は、入社当時から非常に高く、人の1,5倍の受注を処理し、人の倍もの商品を売りつける。
仕事を初めて3年で、幹部になった、この会社内でのエリートだ。
営業能力が高いから、人間がえらくなったわけではない。
ここの幹部は、たたきあげられていない分、人間ができてはいない。
自分よりはるかに年上の社員を解雇できる権限を持つため、総じて上から目線だ。
めんどくさそうに、グループ分けの一覧表を見ながら、美織に伝える。
「一昨日までが試用期間だったのね。昨日からは、正式採用になってるから、受注Aグループの仕事は、もうすぐ終わり。来週からの時間のシフトは、とりあえずそのままだけど、グループが変わるから、そのつもりでいて。」
「はい。」
いよいよ夜勤業務と違う職種が入ってくる。
どの業務が先になるかわからないが、ますます厳しい環境になっていくはずだ。
営業が入ると、今以上に数字にシビアになっていくだろう。
けれども、美織には自信があった。
時間さえもらえれば、普通の人達に負けはしない。
絶対、数字をあげてみせる。