水曜日 1
出勤時間に、わざと鳴らした携帯の目覚ましに、成哉は反応しない。
昨日は、夕食のピラフをつくってくれたけど、頭は、まだ、痛いと言っていた。
怪我のせいなのか、若いせいなのか、とにかく、ひたすら眠いらしい。
昨日も、ピラフを作った時間以外は、ほとんど寝ていたと言っていた。
眠っていたら、回復するのは、若者の特権だ。
病院に行く気はないらしい。
いや、もし、美織が、行けと言ったら、行くんじゃないか?
あまり、深く考えないで、流れのままに生きている、そんな感じだ。
出ていけと言ったら、もしかしたら、素直に出ていくかもしれない。
冷蔵庫を開けてみた。
平日は、あまり手をつけない食材は、まだ若干残っている。
美織は、ため息をついた。
後悔は、したままだ。
何で、連れ帰ってしまったのか、今でも後悔している。
けれども、昨日まで、感じていた不安や恐怖は、今の今は麻痺していた。
美織は、爆睡している成哉を、時間ぎりぎりまで凝視しながら、考えて、考えて、結局、起こすことなく、仕事場に向かってしまったのだ。
怪我人なんだから、仕方ない。
自分に対する、最大限の言い訳が、これだった。
職場に着く。
いつも通りの喧噪だ。
「川上さんも無断欠勤?あのクソババア。」
幹部社員が怒っている。
いつものことだ。
昨日、大きなミスがあったと聞いている。
その担当オペレーターが川上だった。
そのまま、退社してしまうかもしれない。
よくあることだ。
川上は、40代の主婦だった。
席が、近くだったので、子どもが私立大学に合格したばかりだと言っていたのを、そばで聞いたことがある。
あの年で、この会社並みの給料をもらえる職場を探すのは、難しいだろう。
これから、どうするのか、少しだけ同情する。
けれども、ひとごとではない。
自分だって、ひとつ山を越えたら、また、次の山が待っている。
道は、決して、楽ではない。
自分は、無能ではない、と、美織は思っている。
けれども、器用ではない。
自分に必要なのは、時間だ。
時間さえもらえれば、誰よりもできる女になってみせる。
その自信はある。
スロースターターなのだ。
前の会社でも、スピーディに仕事をこなす同僚を横目に、自分のペースで仕事をする美織は、当初、できない社員のレッテルを貼られかけた。
けれども、早くてもミスの多い同僚より、残業しても、自宅に持ち帰っても締め切りは守るミスの少ない美織の仕事ぶりへの評価は、少しずつあがっていった。
少しずつ、少しずつ評価を変えていく。
美織は、そのための努力を惜しまなかった。
こんなひどい職場でもそうだ。
正直、ここに骨をうずめる覚悟はなかったが、どんな職場でも、どんな職種でも、美織は努力を惜しむつもりはない。
自分の今できることを精一杯やる。
そして、不利な自分への初期の評価を必ず上向きに変えてみせると思うのだ。
そのためには、何でもやる。
毎日の残業で文句を言った事は無い。
地図帳も買ってきた。
時間があれば、全国の土地の地図帳を開いて見ている。
電話ごしのなまりがひどく、聞き取れない地名も、作業時間のロスになっている。
こんな地名があることを認識するだけで、電話がスムーズになるはずだ。
期間限定の商品の受注なら、必ず、その商品について、検索してみる。
どんなに便利か、どんなにお得か、確認している。
こんな職場だけど、今の美織にとっては、大事な職場だ。
矢のように過ぎる時間は、そのまま美織の給料になる。
今、辞めるわけにはいかない。
そのために、最大限の努力をしているのだ。
暮らしていくためには、お金が必要だと、失業期間中に激しく認識した。
昨日からは、美織の鞄には、通帳と印鑑と鍵のスペアが入っている。
盗まれたりしないよう、通勤時には、抱えるように持っている。
セキュリティの厳しいこの会社のロッカーに入れる時が、一番安全だと思えるのも、何か皮肉だった。
それでも、不安がこみあがらずにいられたのは、お昼になる前くらいまでだろうか。
昼過ぎた頃から、もくもくと、別の不安がこみあげてくる。
何だろう、この雲みたいに湧き上がってくるものは…。
通帳と印鑑は、自分の手の中だ。
美織の少ない財産を持ち逃げされる心配はない。
けれども…。
今は、甘え慣れたあの態度が気になってきた。
あの女の子のような顔立ちも。
ホストだと言っても、誰も嘘だとは思わないだろう。
もし、ヒモになるのが目的だったとしたら…。
美織の好意に甘え、ずっと、働きもせず、居付いてしまったら?
お金をせびるようになったら?
それより怖いのは、相手がお金が目的なのに、自分の方が、おぼれて、盲目になってしまったら?
そうならない自信は、美織にはない。
一緒にいることに対する免疫が、もうできてしまっている。
少なくとも、成哉と一緒にいるときには、それが普通のように、感じてしまっている。
彼ののんびりした自然体は、美織にとって、居心地の悪いものではなかったからだ。
彼の緊張感のなさが、美織のいつも疲弊しきった心と体には楽なものに思えるのだ。
一緒にいて、楽どころか、とても、リラックスしている自分も感じる。
でも、それは、不味いことのはずなのだ。
悶々としたまま、職場をあとにし、自宅マンションに帰り着いた。
エレベーターの前で、更に、考え込んでいると、あとから入ってきたバイト帰りらしい大学生が、不思議そうに
「乗りますか?」
と尋ねてきた。つい、
「乗ります。」
と、エレベータに乗ってしまう。
そのまま習慣で、ボタンを押し、3階の自分の階で降りる。
降りてしまった。
どうしよう?
と、毎日、続く、自分の悪い想像には嫌気がさすが、それでも、玄関をあける。
いつもの習慣で、身体が動いただけなのだが。
部屋の鍵を開けると、センサ―式の照明が玄関を照らす。
しかし、奥の部屋の照明は消えていた。
逃げた?
一瞬、背筋が寒くなる。
けれども、キッチンの照明をつけると、見えてくる景色に、朝との変化はない。テレビもビデオもパソコンも洗濯機も無事だ。
そして、キッチンテーブルには、空の皿とスプーンが用意してあるが、中身は何もない。けれども、キッチンに充満するにおいは、間違いなくカレーだった。
部屋の照明は消えていたが、朝と同じように、こたつがこんもりと山になっている。
「成哉くん?」
そっと、部屋を覗くと、やはり、規則正しい寝息が聞こえてきた。
鞄を持ったまま、洗面室に行き、脱いだ洋服で、その鞄を隠して、とりあえずシャワーを浴びる。
風呂から、出てきても、成哉は、起きてこない。
何て、よく寝る奴。
昼間も、寝てるんだろうか?
そして、キッチンで、成哉の作ってくれたらしいカレーを温めて、食べてみる。
人が作ってくれた料理って、何て美味しいんだろう。
あれだけ、一日、ざわざわと、心を騒がした自分に笑ってしまう。
美織は、自分の食べた皿を、そっと洗いながら、成哉を起こさないように、そろそろと動いている自分が可笑しかった。