火曜日 4
仕事が、終わり、いつも通りの時間で帰宅する。
美織は、大きくため息をついた。
帰るのが怖い。
帰った時、あの男の変貌を想像するのが怖い。
もし、記憶が戻っていたら?
美織は無事でいられるんだろうか?
もし、手癖の悪い男だったら?
通帳と印鑑を置きっぱなしで出てきた事を、美織は激しく後悔していた。
帰ってきて、部屋に入ると、通帳も印鑑も、それどころか、家財道具全部なくなっていたら?
想像は、どんどん悪い方へ膨らんでいく。
美織は考える。
いつも、考える。
けれども、考え、考え、考え過ぎると、途中から、それ以上、考えることができなくなる。
考えがどんどんふくらんで、真っ白になってしまった頭で、3階の自宅に帰ってきた。
帰ってきてしまった。
恐る恐るドアを開けると、奥のワンルームには、電気が、ついている。
まだ、居る?
それは、朝と変わりない風景だった。
とりあえず、美織は、ホッとする。
想定した最悪の状態ではなかったからだ。
家具も全て、朝のままだった。
けれども、姿が見えない。
やや広めのキッチンは、美織が、朝出勤する前より若干片付いている。
そして、そのキッチンテーブルの上には、どうやら、ピラフらしきものが存在し、ラップでくるまれていた。
美織は、そろりと、部屋を覗く。
部屋は、左手にベッド、右手にこたつがあるが、こたつが一部こんもりしている。
「御堂、成哉くん?」
そっと、耳を澄ますと、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「それまで、寝てていい?」
と、朝、言っていたことを思い出した。
本当に寝ていた。
どうしたら?
これから、どうしたら?
成哉は、朝と同じジャージ姿だった。
多分、部屋から出てはいないのだろう。
鍵は、当然、渡していないし、オートロックだから、一度出たら、戻ってこれない。
成哉が熟睡していることを確かめて、美織は、急いで鍵の予備と通帳と印鑑を取り出すと、風呂場に行き、通帳を確認し、全ての貴重品を鞄にしまい込んだ。
トイレに行くにも鞄と一緒だった。
自分の家でありながら、こんなに警戒している自分が情けない。
トイレから鞄と一緒に出ると、
「あ、美織さん、おかえり。」
ようやく、気配に気が付いたのか、成哉が大きく、伸びをしながら起き上ってきた。
「ホントに、9時なんだ。大変だね。何の仕事?」
何事もなかったように、普通に、呑気に聞いてくる。
「コールセンターのオペレーターだけど…。」
素直に答え過ぎる自分を、また、反省する。
「ふうん。」
けれども、それを聞いても、成哉は、あまり反応を見せなかった。
コールセンターのオペレーターという職業に、あまり馴染みがないせいなのかもしれない。
いや、そもそも、記憶喪失だし…。
「あなた、記憶は?」
のんびりと笑顔を見せている成哉に、核心を聞いてみるが
「なかなか、思い出せないもんだね。」
と、他人事のように、首を傾げた。
「何も思い出さないの?怪我した理由も?」
「うーん。酒、飲んでたみたいだよね。」
「そうよ。お酒のにおいがプンプンしてた。」
「あそこらの居酒屋で、酒、飲んで、酔っぱらって、どっかに頭、ぶつけたのかな?」
「そうかもしれないわね。」
「じゃ、怪我が治ったら、あそこらへんで、俺を見たことないか、聞いてまわった方がいいのかな?」
「そうね。怪我が治ったら、そうした方がいいのかもね。」
と、のんびり答えて、美織は、成哉のペースになっていることに気づく。
怪我が治ったらって、何?
怪我が治るまで、ここに居すわる気?
何で、こんなに、平和にのんびり語る空気になってんのよ?
とにかく、いつまでも、こんなとこに、置いて行くわけにはいかない。
だいたい、本当に、この男が記憶喪失なのかどうかすらも、わからないのだ。
演技をしているだけかもしれない。
ベッドに腰かけ、じっとり成哉を観察しようとすると
「美織さんて、脚がきれいなんだね。」
と、いきなりかまされる。
こたつに座っている成哉の目線の高さに、丁度、ベッドに腰掛けた美織の、短パンから見える脚がはいりこんだのか、素直に感嘆している。
「馬鹿なこと、言わないで。」
と、思わず立ち上がる美織は、頬が赤らんでしまっている。
こんなに素直に褒められたのは久しぶりかもしれない。
けれども、騙されてはいけない。
こんなに、安直に、人を褒めるなんて、軽い男のすることだ。
だいたい、こんな状況で、こんなに呑気になれるなんて、おかしくない?
成哉のいう事を信じるならば、わかっているのは、名前だけ。
着の身着のままで、荷物もない。
昨日、高架下にいたということ以前の記憶は何もないというのに、どうして、この男は、こんなにのんびりできるんだろう?
「不安じゃないの?」
「何が?」
こたつに入ったまま、ニコニコしながら無邪気に見上げる成哉の顔は妙にあどけない。
そのペースにつられて、また、ほっこりしそうになる美織は、心の中で、ブンブンと首を振って、気持ちを引き締めた。
正体は、わからないのだ。
「自分が何者かもわからないのに…。」
「そうだね。」
と、言いつつ、成哉は、全く動じる気配もない。
こいつ、無双のポジティブなのか?
それとも馬鹿なのか?
「俺が何もんなのかって、不安は、ないこともないけど、今、考えてもしょうがないでしょ?凄く悪い奴なんだとわかったら、落ち込むだろうし、凄くいい奴だとしたら、喜ぶことになるんだろうね。今は、わかってないんだから、無駄なリアクションは必要ないんじゃない?」
「???」
美織は愕然とする。
思考パターンが全然違う。
何だ?この、異常なまでの楽天的思考は?
記憶喪失なんだけど。
「記憶喪失なのよ?それとも、実は、そうじゃないの?」
怪しむ美織に、成哉は明るく笑った。
「記憶がないってことは、事実だから、記憶喪失じゃないの?」
美織は、大きくため息をついた。
「ねえ、人が人であるのを認識できるのは、記憶があるからじゃないの?記憶があるからこそ、人は人だって言えるんじゃないの?生きてきた記憶がなくなるって、そんなに軽いこと?」
成哉は、目を丸くする。
「難しいこと言うね。美織さん。」
純粋に、驚いた顔だ。
けれども、成哉は、笑いながら反論する。
「生きてたって記憶はあるよ。」
「どういう意味?」
「ご飯食べたり、風呂入ったり、食事つくったりできるってこと。これは、身体が覚えてる。今まで、生きてたって記憶だよね。」
「…。」
「だから、俺は、少なくも、今まで、普通に人間として、暮らしてきてたんだ。」
「そうか。」
と、うなづきかけて、慌てる美織。。
納得するんじゃない。
そうこうことじゃないでしょ。
「テレビのつけ方も、こたつの使い方も、シャワーの浴び方も、包丁の使い方も分かってる。多分、俺は、普通に、人として、過ごしてきてたんだと思うよ。」
「そういうことじゃなくて…。」
言いかける美織の言葉を
「そうだ!!」
と、成哉は、急に思い出したように、遮った。
「ピラフ作れたんだ。俺、多分、自炊してたんじゃないかな?美織さんのも作ったんだ。食べてみてよ。」
「あ?」
あれ、私のだったんだ…。
「わりといけるよ。」
成哉は、そう言って、にっこり笑った。