火曜日 3
何となく、成哉に押しやられるように、玄関を出て、バス停に向かった美織は、更に後悔する。
何で、昨日あったばかりの男を家に置いたまま、会社に行ってるの?
あの男が、どんな男かもわからないのに。
今は、記憶がないから、ぼんやりしているけど、記憶が戻ったら、何をしでかすかもわからないのに。
素性も、何もかもわからない男を、よりにもよって、自宅に置きっぱなしにするなんて。
しかも、冷蔵庫の中のもん食べていいなんて、どうして、そんなこと許してるの?
大変なことをしてるんじゃないかという感情と、会社に行かなければならないという気持ちがごちゃごちゃと交錯している。
考えれば、考えるほどごちゃごちゃになってくる。
ごちゃごちゃ考えるけど、考え過ぎると、パチンとヒューズが飛ぶように切れて、真っ白になってしまう。
そうなると、それ以降、考えることができなくなる。
結局、頭の中は、考えでいっぱいなのに、それ以上、進むことができずに、習慣づけされた身体が勝手に動いてしまうのだ。
今もそうだ。
美織が、脳内でパニくっている間に、身体は、勝手にいつもの習慣通り、いつもの時間通りに、バスに乗り、電車に乗り、更にバスに乗って職場に着く。
気付いた時には、職場に着いてしまっていた。
ざわざわした気持ちのまま、ロッカーに全ての荷物を入れ、いつものデスクに座る。
パソコンのスイッチを入れ、いつもと同じ作業をはじめる。
美織の仕事は、コールセンターのオペレーターだった。
総員は、何人いるかわからない。
担当する職種によって、部屋が仕切られている。
入社3か月になる美織は、いくつもある、コールセンターの業務の中では、比較的、楽なグループに入っている。
受注勤務Aという9時から6時までの受注業務だ。
3か月前後までの新人の入る部署になる。
コールセンターが請け負った商品について、全国からの注文に対応する。
いずれは、前夜勤のグループや後夜勤のグループ、更に営業のテレアポにも回されていくことは、間違いない。
乙羽美織は、28歳。
まあまあの大学を卒業し、大手の会社の事務に就職した。
全ては、予定通り、順調な人生を歩んでいくはずだった。
辞めたのは、半年前のことだった。
そのあと、いくつかの面接に落ち、年齢、経験を問わないという募集内容に惹かれて、考え過ぎた挙句に、この会社に入社してしまった。
しかし、ここは、最悪の職場環境だった。
研修期間は、わずかに1週間。
その間に、パソコンの入力のしかた、応対のしかた、口座の引き落としの説明等、商品以外の全てが詰め込まれる。
当然、初心者にとっては、過酷な詰め込みになるが、1週間後には、見切り発車で、現場にかり出されてしまう。
「何だ?浅野は無断欠勤か?」
幹部社員の怒鳴る声がする。
無断欠勤は、少ない事ではない。
パート、派遣、正規も含めて、社員は、斬り捨てありきの要員でしかない。
過酷な労働条件に、ついていけなければ、やめればいいのだ。
来るものは拒まず、去る者は追わない。
職に困っている人材はいくらでもいる。
無断欠勤も日常茶飯事で、ケロッと数日後に復帰する社員もいれば、そのまま退社してしまう社員もいる。
モラル違反に、眉をひそめる社員はいても、それが、モラル強化につながらないのは、社員が、皆、この会社で、自分達が、ただのコマにしか過ぎないことを知っているからだ。
いつ辞めても、交替はいくらでもあるのだ。
そういう会社だった。
時間通りに、ヘッドセットをつけ、気が付くと、昼休みになる。
デスクからの持ち出しは一切禁止だ。
情報漏えいに関しては、極端に厳しい。
ロッカーは、少し離れた位置にあり、携帯や弁当なども、デスクに持ってくることは許されない。
会社は、街中から少し離れたところにあるため、歩いてコンビニに行くことはできない。
お昼は、弁当を持ってくるか、食堂に行くか、コンビニで買ってくるかのいずれかになる。
美織は、買ってきたコンビニ弁当を持って、外のベンチに腰掛けた。
唯一頑張っていた同期の社員は、先月辞めた。
これで、一緒に入ってきた社員は、もう美織だけだ。
1か月単位で、10人くらいがまとめて入社してくる。
それは、1か月単位で、10人くらい辞めることも意味している。
常に、新人を抱えるため、作業効率は良くはない。
常に辞めた社員の穴を埋める必要があり、オーバーワークの残業が待っている。
バスと電車で1時間弱の通勤時間がかかる美織の、帰宅時間は、常に9時を過ぎている。
もし、このまま、ここに就職し続けるつもりなら、今のマンションを解約して、もっと、近い場所に移った方がいい。
けれども、労働条件の悪さが、美織を踏みとどまらせている。
できた友達も、すぐに、皆、辞めてしまった。
まともな人間が、長く勤められる会社じゃないのかもしれない。
この会社のメリットは、入社条件に、年齢、スキルは関係ないこと、給料がいいということだけだった。
辞めるわけにはいかない。
もし、辞めることを決めたとしても…。
前の職場を辞めてから半年の就活時期が、美織のトラウマになっていた。
条件が、前の会社並みで選んだ職場は全て落ちた。
失業保険をもらえた最終月に、考えた末に受けてしまったこの職場が最後の砦だったのだ。
給料以外はかなり妥協した。
けれども、給料がなければはじまらない。
美織は、辞めるわけにはいかなかった。
前の職場にいる時は、こんな生活がずっと続くと思っていた。
勘違いしていたのだ。
衣食住のうち、全く興味のない食以外には、お金をかけてきた。
入ってくるものが、とぎれるなんてことを、若い美織は考えもしなかった。
仕事を辞めて痛感した。
今のうちに貯金もしておかなければ…。
あ…貯金。
唐突に、美織は思い出した。
通帳も、印鑑も、全て、マンションに置きっぱなしだ。
ここで、成哉に、全財産を持ち逃げされたら、美織には、何もない。
もし、マンションに帰った時、成哉が、全て、持ち去っていたら…。
美織は、目を閉じた。
どうして、全て、置きっぱなしで出て行ってしまったんだろう。
いくら、まだ、頭が痛いと言っても、部屋で動きまわることはできるのだ。
物色しているうちに、通帳と印鑑を見つけられたら…。
成哉は、携帯を持っていなかった。
勿論、マンションに、固定電話などつけていない。
いるかいないか、確認さえできないのだ。
何も、できない。
一気に、背中が寒くなる。
けれども、あと、数時間、拘束時間がある。
受注業務は、6時までだが、そのあとに、時間内で処理し損ねた入力をし、商品を送る手配をパソコンに打ち込まなければならない。
それが、毎日、約2時間ほどの残業になるのだ。
受注を受けて、相手の住所等の情報を聞き、パソコンに打ち込んで、商品を探し、その商品を、相手の指定場所に届くよう手配し、代引き、銀行引き落とし、クレジットなどの、処理をするのだが、その処理が終わるまで、次の電話をとらなくていいのは、最初の2週間だけだった。
3週間めからは、相手の電話が切れると同時に、新しい顧客の電話につながってしまう。
そういうシステムになっていた。
最初の客の情報を、全て入力しきれないうちに、次の顧客との取引の電話になってしまう。
そのため、処理が途中までの客の情報を、規定時間後に、入れ込まなければならないのだ。
入社当時の残業は、日に4時間はかかっていた。
このあたりで、この会社に見切りをつける者は多い。
3か月後の今は、それでも2時間の残業だ。
ミスをするわけにはいかない。
美織は、焦る心を必死で落ち着かせながら、パソコンを操作し続けた。