出奔
部屋に戻ってからも、エルヴィラは塞ぎ込んだままだった。
「――“変容”を起こすほどの“邪悪の真髄”に触れた者って、少ないんだよ」
「そうなのか?」
エルヴィラが、小さく首を傾げる。
実際、たいていの者がすぐに思い浮かべる、ひとの身体を作り替えてしまうほどの大きな力といえば、高位の魔術か神術だ。けれど、それらは使い手の「変えよう」という意思があってはじめて力を振るうものである。
偶然存在していたそれに、偶然触れただけ――
その程度でひとの身体も何もかもを変えてしまう力の塊なんかが、そこらに転がっていることなんて、まず無いと言っていい。
魔法嵐だって、それほど力を持つようなものは稀だ。
「伝説に語られているのも数えるほどだよ。しかも、“変容”させられた者は皆、漏れなく“悪堕ち”してる。君みたいに身体が変わっただけで踏みとどまってる例なんかない。神官たちは、だから判断しかねているんだろうね」
「そっか」
黙り込んだまま、エルヴィラはまた溜息をひとつ吐いた。
しばしそのままじっと床を見つめて……それから顔を上げたエルヴィラは、何かを決心したように、その目に光が戻っていた。
「ミケ、今日はひとりで寝たい」
「珍しいね」
「うん」
僕もまた溜息をひとつ吐く。
あの岩小人の町からずっと、僕が否と言っても断固として共寝をやめなかったエルヴィラが、自分から「ひとりになりたい」なんて――ろくなことを考えてないことは明らかだ。
「わかったよ」
しかし、彼女がそうと決めたら絶対に曲げないことは、すでに知っている。
なら、僕が何を言ったところで無駄なんじゃないか。
「それじゃ、明日」
「――ああ」
部屋はふたつあてがわれていた。
エルヴィラを置いてそのもう片方に入る僕の肩から、いつの間にか乗っかっていたアライトが、ひょいと床に飛び降りた。
「なあ、兄さん。いいのか?」
「よくないと言ったところで、聞き分けるわけがないだろう」
「――しかたねえな」
リスの姿のアライトまでが、大きな溜息を吐く。
全員が何かというと溜息ばかりだ。
「兄さんの出自って、あれ、本当なのか?」
「嘘ではないね。少なくとも、うちに伝わってる話が本当ならって意味だけど」
「……護森の古竜シェイファラルっていったら、俺でも知ってる有名竜だぞ。先にそう言えよ。俺たち青銅竜は年長者には敬意を払う竜なんだから」
「僕は彼本人ではないよ」
「いちおう血筋じゃねえか。血筋の若いやつなら、年長者がちゃんと面倒見るのもスジってものなんだよ」
「今更?」
くすりと笑う僕に、アライトはまた小さく溜息を吐く。
「エルヴィラ、あいつ、絶対なんかやらかすつもりだろ」
「君にも判った?」
「わからねえわけがねえよ。ここまで関わったんだぞ。しかたねえから、兄さんはだめでも俺があいつについて見張っててやるさ」
「そりゃ心強い。でも、まあ……任せきりにはしないけどね」
「だと思った」
ヘッと笑って、アライトはまたこっそりとエルヴィラの部屋と戻る。
その夜遅く、僕は部屋の外で待ち伏せていた。
エルヴィラの部屋は二階だけど、その程度の高さなら難なく出てくるだろう。部屋の窓の下、植え込みの影になった場所で待っていたら、予想通りだ。
ひょいと窓から飛び降りたエルヴィラの背に「こんなことだと思った」と声を掛けたら、びくんと飛び上がるようにして驚いていた。
「ミケ!」
「君の考えそうなことが僕にわからないわけないだろう?」
決まり悪げに視線を巡らせて、エルヴィラは困ったように眉根を寄せる。
「見縊らないでくれるかな。それで、どこへ行くつもりなんだよ」
「――決めてない」
本当に、ここまで予想通りだとは思わなかった。
呆れのあまりについ息を吐いて、「あのねえ」と僕は続ける。
「無計画にひとりで出て行って、君みたいな箱入りが生きていけるの?」
「う……なんとか、なる」
「なんとかって、どうなんとかなるのさ」
そう。エルヴィラは箱入りだ。
確かに戦いで後れを取ることはないだろうけど、それ以外はからっきしなのだ。このままひとりで飛び出したところで、良くて騙された挙げ句に身ぐるみ剥がされるか、最悪人買いにでも捕まって剣奴だのにされてしまうんじゃないか。
「なんとかならなくても、なんとかする」
「何を……」
「だから、ミケとはここでさようならなんだ」
言いかけた僕の言葉を遮って、エルヴィラが一歩踏み出した。
身構える間もなく、いつか喰らったよりもずっと重い一撃が鳩尾に来る。とっさに腹を引き締めたのに、そんなもの関係ないほどの衝撃だ。
どうしてこういうときばかり、ひとの急所を正確に突いてくるのか。
「馬鹿、力……どう……て、そんなに、馬鹿なんだ……」
むせるのと同時に、気が遠くなる。
膝から力が抜けてくずおれる僕を、エルヴィラが抱き留めた。
「ミケ、ごめん」
視界の中で、それだけを残して立ち去ろうとするエルヴィラの姿がぼやける。
そこに、慌てたような、「おい、エルヴィラ!」というアライトの声が聞こえた。
「なんだ、止めるならお前も……」
「止めねえよ! 誰がそんな危ないことするかよ!
そうじゃなくて――首、俺の首に触らないって約束するなら、背中に乗せてやってもいいんだけど、どうするかって訊きにきたんだよ!」
エルヴィラが息を呑んだ。
思ってもみなかったアライトの申し出に、すぐに声を弾ませる。
「やった! わかった、触らない! だから乗る!」
「おう、わかった。じゃ、乗れよ」
その直後、ばさりというはばたきと、強い風を顔に感じて――
ハッと気づくと、エルヴィラもアライトも姿を消していた。
身体を起こそうとして、未だに膝に力が入らなかった僕は、急いで小回復の魔法を使い、どうにか立ち上がる。
「――吟遊詩人ミーケル!」
建物を回り込んできたルイス高神官が現れたのは、ほぼ同時だった。
* * *
「なぜ、エルヴィラ・カーリスを逃したのだ」
「逃した? 人聞きの悪い。僕は彼女の正当な権利を守っただけだよ」
教会長と大神官、それから聖騎士長に、遅れて来た王太子と、付き従う魔術師長に騎士団長……ずらりと並んだ面々を相手に、僕はにこりと笑い返した。
教会に隔離のうえ要観察というのが、太陽神教会が出したエルヴィラの処遇に対する結論である。しかし、それに反対した僕が、アライトを使ってエルヴィラを逃してしまったと――昨夜の出来事は、そういう筋書きになっていた。
「――そもそも、僕は、君たちの要求を呑むことに諾と言った覚えはない」
「だが、彼女は“堕天”に触れられて“変容”したのだ。この先、彼女が悪堕ちしないという保証はないのだぞ!」
「その“堕天”だけど」
僕はちらりと王太子に視線を投げる。
「エルヴィラが言うには、あの広場の戦乙女と、同じ顔だったらしいね」
「何をいい加減な――」
「王太子殿下、いい加減な世迷言だと思うなら、それでも構わない。
だが、僕は、オスヴァルト・ミーケル・ストーミアンの名と僕に流れる血にかけて、嘘は言っていないよ」
「しかし、彼女が偽りを述べていたらどう……」
「何のために? それに、エルヴィラにそんな嘘を吐けるほどの深謀遠慮があるとは思えないね」
王太子が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
この“太陽の国”を統べるゴーティア王家の始祖である、聖なる戦乙女が実は“堕天”だった……なんて、王家の根底と威信を揺るがすスキャンダルになりかねない。
しかも僕は吟遊詩人で、噂を広める手段なら百は知っている。
本当なら、僕のことなどさっさと始末してエルヴィラに追手をかけたいのだろうが、僕の血筋とアライトの存在がそれを許さないというわけだ。
魔術師長がこめかみを揉み解しながら、「そうは言っても、直ちに追うべきであることには間違いなかろう」と後を継いだ。
「だから、何のために? エルヴィラには青銅竜が付いている。青銅竜は公正さと正義を重んずる竜だ。白金竜の軍勢に最初に加わった竜でもある。
エルヴィラがもしも悪堕ちしたなら、彼が見逃す道理がないじゃないか」
「しかし、一頭の竜に処遇を委ねるなど……」
「悪魔祓いの女王ウルリカと父祖竜シェイファラルの末裔である僕もいる。万が一エルヴィラが悪堕ちなどということになったら僕がこの手で引導を渡すと名と血に誓うけれど、それでも足りないと言うのかな?」
僕は芝居がかった口調と動作で、やれやれと首を振った。ハッタリだろうと何だろうと、要求を押し通すためには何だって使ってやるつもりだ。
「――それとも、“太陽の国”はストーミアン王家を信用ならないと言うのかな。もう、国も民も持たない元王家ごときの誓いなど、まともに取り合う気にもならないと」
僕の出自、つまり、かつて“嵐の国”という大国を治めていたストーミアン王家は、“大災害”で国を失った。
王族が生き残れたのは、たぶんいろいろな偶然が重なったおかげだろう。
それでも、民を護り導くのは王族の義務であると、僕の高祖父にあたる当時の王は残ったわずかな民を連れ、南の“深森の国”の縁戚を頼って移住したのだ。
たしかに、今や王家らしい権力などかけらも持たず、頼った縁戚の厚意で“深森の国”の一角に間借りして生きながらえているだけだ。
だが、それでもこの血に敬意を払うものは多く、何より、“護森”と呼ばれる古い森には父祖竜シェイファラルも健在である。
父祖竜は今や古竜として多くの青銅竜から敬意を集めている竜である。
その直系である僕を手にかけるというのは、つまり、ストーミアンに繋がるすべてが敵に回るということだ。
それに、なんといっても――
「わかった。そこまで言うなら、こちらは手を出すまい」
「殿下!」
「青銅竜がとても頑固な竜だというのは本当だな。お前の性質にも、よく現れているようだ」
「殿下も、さすが白金竜の末裔ですね。正当であることを重んじ善きものを守護する白金竜の末裔たる殿下なら、きっと善き王になられるでしょう」
「心にもないことを」
ふん、と王太子は面白くなさそうに眉を寄せた。
口ではそういうが、ゴーティア王家の直系が、代々名誉と正当さを重んじるというのは有名な話だ。
白金竜は皇竜神の落とし子とも言われる伝説の竜なのだ。その直系である彼が、善と正義、それから秩序と法を重んじる性質を受け継いでいないわけがない。
「青銅竜の末裔とはいえ、お前を信用したわけではない。だが、真の竜たる青銅竜アライトが付いているなら、心配はなかろうというのが私の判断だ。
彼であれば、もしエルヴィラ・カーリスが悪堕ちしたとしても、情にとらわれることなく確実に対処してくれると信用している」
王太子の決定に、太陽神教会もとりあえずは恭順の意思を示した。
* * *
話が済めば、もうここに長居する理由はない。僕はさっさと荷物をまとめると、面倒な人間が訪ねてくる前にと急いで町を後にした。
厄介ごとに巻き込まれた時はいつもそうするように、門を通らずに、だ。
――と、いきなり小鳥がピチピチと鳴きながらまとわりついてきた。
いったいなんだと追い払おうとしたところで、『おう、兄さん』と小鳥がアライトの声で喋り出す。
『俺らは北の荒地に行くから』
アライトの“伝令”だ。
そうか、青銅竜は、森の生き物との親和性が高い竜でもあったっけ、と思い出す。
「荒地か……荒地に行ってどうするつもりなんだ。まさか、冒険者でもやろうって?」
冒険者なんて、腕力以上に機転も要求されるっていうのに、エルヴィラにできると思っているのか?





