闖入者
気配と視線を感じていたのは少し前からだ。
悪意は無さそうだし……と放っておいたのだけど、エルヴィラはどうにも気に入らなかったらしい。「少し出てくる」と言い残して席を立ち、戻ってきたら手に小さなネズミ……いや、リスを握りしめていた。
「ミケ、こいつクソ竜だ」
「どうでもいいけど、言葉どうにかしなよ」
「だってクソ竜はクソ竜だ。しかもヘタレなんだぞ」
「――もう料理は来てるんだよ」
つまり、このリスは“水路の町”のアライトとか名乗る青銅竜が変身したものなのか。たしかに、青銅竜には小さな動物に姿を変える能力があるけれど……まさか、わざわざ変身してまでついてきたということか。
僕は小さな溜息と一緒にふたりにともかく座れと促した。せっかくできたて熱々な海鮮たっぷりのパエージャが冷めてしまうからだ。
わかった、とエルヴィラがリスを掴んだまま腰を下ろす。
テーブルの上には両の手のひらを広げたよりもずっと大きな浅鍋に、配膳されたばかりのパエージャが湯気を上げている。
殻付きの大きな海老や貝は、既に店員が解して混ぜ込み済みだ。もう少し早く戻ってくれば、じゅうじゅうとお焦げのできる音や浅鍋からこぼれ落ちそうなほどにいっぱいの海鮮も拝めたのに、そんなの放っておけばよかったんだ。
――と、エルヴィラの手の中で、リスのお腹が小さく鳴った。
見れば、リスはじっと浅鍋を見つめてごくりと唾を飲み込んでいる。
「な、なあ! 俺にも少しわけてくれよ!」
「なんだと。お前、クソ竜のくせにずうずうしいぞ!」
「いいから黙って。君も、その身体に見合う分だけなら食べていいから、おとなしくして。大声を出すのはやめるんだ」
「おう……」
ようやく黙ったふたりに、僕はパエージャを取り分ける。
米も海鮮もたっぷりと……何しろ一番大きな浅鍋で、大のおとな三人がかりでも満腹になるほどの量なのだ。
ふたりとも、神妙な顔で差し出された皿を受け取り、ぱくりと一口目を口に入れたとたん、声に鳴らない声とともに顔を真っ赤にして悶え始めた。
「み、ミケ……うまい。これ、うまいぞ」
「なんだよこれ。ただの米じゃないのかよ。俺、海老とか蟹とか毎日食ってたけど、こんなにうまくなかったぞ」
「この町一番のパエージャなんだよ。当然だろう?」
僕はにやりと笑い返す。
ここを訪れたことのある者なら、必ず一番にここの名前をあげるほどに知られた名店なのだ。他と一緒にしてもらっては困る。
「米と海鮮と香草と……あとは香辛料なんかをスープと一緒に炊き込むパエージャっていうのは、この辺りじゃ結構昔からあった料理なんだよ。
この辺りは暖かくて、小麦を作るよりずっと簡単にいい米ができるからね
で、この店を開いた初代はとにかくパエージャが好きで、世界一おいしいパエージャを作ろうと研究に研究を重ねて秘伝のレシピを作り上げたんだ。
もちろん、レシピばかりじゃなくて料理人の腕もいいからこその、この味だ」
「そうか! すごいなミケ! いくらでも食べられるぞ!」
「うめえ!」
僕が話す間にもどんどんと浅鍋のパエージャは減っていく。
エルヴィラはもちろん、このリスのどこにその量の米が入っていくのか不思議でならない。竜の身体の中は変身した後も竜のままなのか。
少し呆れた顔で観察してみると、心なしか……いや、明らかに、リスの身体の大きさが倍くらいになっているように見えた。
パエージャを堪能した後は、“バル”と呼ばれる形式の店へ移動する。
カウンターでちょっとした軽食と酒を買い、その側にある小さなテーブルで立ったままそれらを楽しむという立ち飲み屋だ。
軽食といっても、一口大の薄切りパンに塩漬けの肉や魚、野菜にチーズに果物と、いろいろなものがいろいろな組み合わせで乗った、それなりにボリュームのあるものだ。マッシュした芋のフライや白身魚のフライだって、かなり腹に溜まる。
この“三つ首竜の町”は港町で、ここは港に近い。
こういうバルはもともと、仕事の合間にちょっと小腹を満たしたいという、船の荷下ろし人夫たちを相手に始めたものでもある。
だから、軽食に見えて実はボリュームがあったりするものなのだ。
ちなみに、パエージャは八割方をエルヴィラとアライトに食べられてしまった。
さすがに少し足りないし、ならここに寄ってみようと考えて立ち寄ったのだから、エルヴィラとアライトはせいぜい酒を少しくらいの見込みだった。
なのに、ここでもエルヴィラとアライトはうまいとあれこれ摘まんでいる。
いったいどれだけ食べるのか。
こいつらの胃袋は底無しか。
カウンターから、また皿にいろいろ乗せて戻ってきたエルヴィラが、チーズとオリーブを乗せた小さなトマトをじっと見つめ、ぱくりと口に入れた。
「――うまいものをたっぷり食べた後は、ミケといちゃいちゃして締めくくろうと思ってたんだ」
「急に何を言い出してるんだよ、君は」
「なのに、なんでこいつがいるんだ」
「もしかして、酔ってる?」
いきなり何かと見れば、エルヴィラはなぜだか涙ぐんでいた。
泣き上戸か。
いつの間にそんなに飲んだんだ。
「すごくおいしいのに、なんでこいつがいるんだ」
うっと声を詰まらせて、今度は小さな魚のフライを口に放り込んだ。
香草の効いた少し濃い味の白身魚だ。エルヴィラが今飲んでいるワインには、きっととても合うだろう。
エルヴィラは、それからもうっうっと泣きながら、次々料理を食べていく。
「いい加減、泣くか食べるか飲むかのどれかにしなよ」
「そうそう」
さすがに呆れて僕がそう言えば、テーブルの上でちびちびチーズを囓っていたアライトも頷いた。
カチンときたのか、エルヴィラは「このクソ竜」と呟いてぐいと目を擦る。それからグラスのワインをひと息にあおると、いきなりアライトを掴み上げた。
「え、ちょっ!? 何すんだ!」
アライトはもちろん必死に暴れるが、リスの姿のままではエルヴィラの握力に抵抗のしようがない。
エルヴィラは店の入り口を開け放つと、外へ向かって渾身の力でアライトを放り投げた。キィ、というリスらしい悲鳴を上げたアライトが、夜空を飛んでいく。
「どうせまたすぐ戻ってくるから無駄なのに」
「あいつ邪魔だ。あいつがいると、ミケに気兼ねなくくっつけないんだぞ」
酒精にほんのり赤らんだ顔で、エルヴィラが口を尖らせた。さすがに飲み過ぎだと、追加であおったワインのグラスを取り上げて、テーブルに置く。
「そろそろそのくらいにしておきな」
「なあミケ、あいつ殺しても大丈夫かな」
口を尖らせてちらちらと扉を伺うエルヴィラが、ぶっそうなことを口にし始めた。よほど、アライトが気に入らないらしい。
「たしかに、殺したところであんまり影響ないと思うけどね」
「むぅ、なら……」
逃さず確実に仕留めるためには、などという検討まで始めるエルヴィラを、僕は「今はそんなの置いといていいから」とこちらに向かせた。
放っておいたら本気でトドメを刺しにいきそうだったが、すぐにアライトのことなんて忘れたようにおとなしくなる。
ほらと唇をつつくと、無防備にぱかんと口を開ける。色気も何もないどころか、鳥の雛のような間抜け顔だ。
その口に傍らのチーズを入れると、もぐもぐおとなしく食べ始めた。
「アライトは青銅色だ。悪い竜ではないと思うよ」
「でも、あいつ邪魔なんだ」
次々放り込まれるチーズの欠片を食べながら、エルヴィラは眉尻を下げた。
「邪魔なんかしねえよ」
と、いつの間に戻ってきたのか、アライトがふんふんと鼻をひくつかせながら、ちゃっかりと魚のフライに手を伸ばしていた。
「俺は分別のある竜だから野暮なことはしないし、あんたのことだって馬鹿にしていない。むしろすげえと思ってるよ」
「だいたい、巣と町はどうしたんだ」
「鯖折りされそうになって逃げたってあんだけ広められたら、ちょっと居られないって。めちゃくちゃ恥ずかしかったんだぞ。
巣もきれいに引き払って、次の巣穴探しからやらなきゃならなくなっちまった」
じろりと睨むエルヴィラから逃げるようにグラスの陰にかくれて、アライトは殊勝げな顔でそんなことを言う。
あんなに粋がっていたくせに、ずいぶんと変わるものだ。
エルヴィラはまだ信じがたいのか、信用できないなんて呟いているけれど、彼のようすでは本気で考え直したのだろう。
「お前がヘタレなのは事実だ。事実を広めて何が悪い。それが嫌なら私の騎竜になればいいのに、それも絶対嫌だと言ったんじゃないか」
「嫌っていうかさ……あんたを背中に乗せると、その、折られそうになったの思い出して、変な汗が出て心臓が苦しくなるんだよ。
頼むからほんとそれだけは勘弁してくれよ」
へこへこと頭を下げまくるリスは、本当に変身した竜なのかと疑いたくなるような情けなさだ。だいたい、竜にこうも言わせる人間なんて、エルヴィラくらいではないか。
「騎竜にもならないんじゃ、私がミケにくっつくのを邪魔してるだけじゃないか。役に立たない竜なんかいらん。帰れ。どこかに消えてしまえ」
「やだ」
なんで、と目を剥くエルヴィラから、アライトはついと視線を外す。
「貴様、まさか私とミケのいちゃいちゃを邪魔するつもりでついてきたのか」
「僕は別に邪魔じゃないけどね」
「なんだと!」
カッと目を見開いて、エルヴィラはアライトを睨む。
アライトはしばし視線を泳がせ、観念したように「怖いんだ」と肩を落とした。
「あんたみたいなのがまた来たらと思うと怖いんだよ。だから、あんたにくっついて歩けばヤバイのに会っても安心かなって」
「お前……とことんヘタレなんだな」
あまりの理由に、エルヴィラは呆れた顔になる。ここまで怯えるなんて、アライトはエルヴィラの鯖折りがそれほどまでに恐ろしかったのか。
僕は噴き出さないように堪えるだけで精いっぱいだ。
「あんたの邪魔するつもりはないからな。少し付いて歩くくらい勘弁してくれよ」
リスを凝視するエルヴィラは無言で皿の軽食を平らげると、「おかわりを買ってくる」と言い残してカウンターへ向かった。
まだ食べるのか。
「君さ、そんな理由でついて来るので本当にいいわけ?」
「――まあな。あいつ少し乱暴だけど、悪い奴じゃないだろ。戦神の信徒だし、むちゃくちゃだけど筋が通ってないこともない」
「へえ」
青銅竜は、大体において公正さと正義を重視する竜だ。おまけに、数ある善竜の中でも戦いを好む脳筋寄りの竜でもある。
なんだかんだいって、アライトはエルヴィラの戦いぶりと性格は気に入ったということか。
「あ、あいつ、兄さんの番なんだろ。さすがの俺も、手を出す気はもうさらさら無いからな。そこは信用してくれよ」
「誰が番だって? そんなわけないだろ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
手についた脂を舐めながら、アライトはふーんと僕を見る。
「俺、勘は悪くないはずなんだけどな」
「それは自信過剰過ぎじゃないかな」
「――なんでミケとクソ竜が仲良くなってるんだ」
皿にいっぱい乗せて戻ったエルヴィラは、珍しく機嫌を斜めに傾けていた。
「ミケは竜のほうがいいんだ。私なんて無理やりミケについて来てても竜は――」
「君、飲み過ぎだ」
エルヴィラは、ぶつぶつ文句を言いつつも僕を伺う。目を潤ませて上目遣いに見るエルヴィラは――
「君はほんとうに馬鹿だなあ」
つい笑ってしまうと、エルヴィラは「だって」と顔を顰めてまたぱくぱくと食べだした。いくらなんでも、そろそろ食べ過ぎではないのか。
「ほら、こっちおいで」
腕を引くと、エルヴィラはおとなしく僕に寄りかかる。
アライトが、その隙を突いてエルヴィラの皿から肉を取ってかぶり付きながら、「兄さん、あんたさ」と僕を見上げた。
「やっぱ、そいつのこと気に入ってるよな」
え、エルヴィラはとたんに顔を輝かせて僕を振り仰ぐ。アライトは「俺が見てたかぎりだけどな」と、申し訳程度に付け足して、さらに肉を取った。
反射的に言い返そうとして――まあいいかと思い直した僕は、何かを期待する顔でじっと見上げるエルヴィラに視線を移す。
「おもしろいしね」
「な……ん、だと」
くるりと振り返って抱き付いたエルヴィラは、さっきまでの態度はどこへという満面の笑顔だった。
後ろ手で、アライトに皿を差し出してまでいる。
「ミケは私と一緒はおもしろいから私を好きだって言うんだな!」
「そこまでは――」
エルヴィラの耳に、僕の「言ってない」という言葉は届かなかった。
「クソ竜、お前、実はいい奴だったんだな!」
「そうだろ?」
真っ赤な顔で頭を擦り付けながら、エルヴィラは酒も料理もとアライトにどんどん差し出して行く。
アライトも、ちゃっかりとそれに乗っかって、さらにもりもりと食べ始めた。小動物に変身していても、身体の中はやはり竜のままなのか。
呆れてちらりと見ると、アライトは満足した竜のような顔で目を細めていた。
* * *
店を出てからも、エルヴィラはずっと浮かれたままだった。
付いてきても構わないが宿は別だと、アライトにしっかりいい含めながら、僕の腕にしがみ付いている。
しかしそもそも、彼らはどこまでついて来るつもりでいるのだろうか。
宿の前でアライトと別れ、部屋に入るなりエルヴィラが抱きついた。
いつもながらの馬鹿力で、力いっぱいに。
「力入れすぎ。食べたものが出ちゃうだろ」
「ミケが、私を好きって言った」
「言ってない。おもしろいって言っただけだ」
「でも、前はそんなこと言わなかった」
腕の力が強くなる。
緩めろと言ったのに、どうしてさらに締め付けるのだ。
「竜を鯖折りするほど馬鹿力なんだろ。加減してよ」
「いちゃいちゃしたい」
エルヴィラはぽそりとこぼして、しがみ付いた顔を僕の身体に埋めた。そのまま、匂いでも嗅ぐように息を吸う。
まるで動物だ。
これは、“好き”というより“懐いてる”じゃないのか。
「君、そんなに僕のことが好きなんだ?」
エルヴィラは頷いて、ぐりぐり頭を擦り付ける。
やっぱり動物のようだ。
「上、向いて」
顎に指を掛けて顔を上げさせると、エルヴィラが、真っ赤になったまま惚けたように僕をじっと見つめた。
その、半開きになった間抜けな唇に軽くキスをして、「しかたないから、いちゃいちゃしてあげるよ」と囁く。
とたんに、これ以上なく幸せだという笑顔に変わるエルヴィラに、僕もついつられて笑ってしまった。