さあ、好きなほうを選ばせてやる
エルヴィラが水平に剣を構えて突撃をかける。アライトは自分の鱗の固さによほどの自信があるのか、それを正面から受けて立つ。
待ち構えていたアライトが、走り来るエルヴィラを鋭い爪で薙ぎ払う。しかしエルヴィラは速度を落とさず身を低くしてそれを躱し……ガツン、と、まるで金属がぶつかり合ったような音とともに火花が見えた。
アライトの肩口の鱗が何枚か割れて欠片が散る。
会心の笑みを浮かべたエルヴィラが、「たいしたことがないな、クソ竜」という言葉を吐いて、そのままアライトの懐に飛び込んだ。
軽く瞠目したアライトはようやくこの戦いが一筋縄ではいかないことに気づいたのか、「なかなかやるじゃないか」と目を細めた。
「俺のはほんの体慣らしだ、人間」
「さっそく負け惜しみか」
にぃと笑ったアライトが、いきなりエルヴィラに牙を立てようとする。けれどエルヴィラは紙一重でそれを避け、横とびにごろりと転がった。
エルヴィラの利点は、身体が小さい分小回りが利くことで、アライトの利点は全身を覆う硬い鱗と身体の大きさによるリーチの長さか。
エルヴィラは大剣の平や鎧の装甲をうまく使ってアライトの爪と牙を避けつつ、斬撃を入れていく。
けれど、アライトの固い鱗は、エルヴィラの一撃をなかなか通さない。
アライトも負けじと追い立てるが、エルヴィラはあの重そうな全身鎧を纏っているとは思えないほど、鋭い爪も牙もひょいひょいと躱していく。
僕は、目の前の戦いをじっと見つめた。
自分の三倍はある大きさの竜を相手に、エルヴィラは負けていない。心も力量も、まったく負けていない。
そして、エルヴィラの武具の誂えをトゥーロに頼んで良かったと、心の底から思う。あれが並の品であれば、きっと戦いの最後まで持たなかっただろう。
竜の爪も牙もたいていの鋼を突き通すくらい鋭いのだ。鱗も、並の鉄と力量では割ることすら叶わないほどに固い。
けれど、黒鉄で誂えたトゥーロの鎧はアライトの爪と牙をよく弾いてくれているし、鋼と黒鉄を混ぜて鍛えたという刃は、竜の鱗に何度打ちつけられても刃こぼれひとつできていない。
これなら……と一瞬考えるけれど、それでも能天気にエルヴィラが当然勝つなんてことは言い切れない。
ここに僕の歌があれば、勝敗の天秤は確実にエルヴィラへと傾くだろう。
しかし、公正な立場での立会人として誓いを立ててしまった以上、どちらかに加勢することはできない。
何よりもエルヴィラ自身がそれを許さないだろう。
もどかしさに、つい唇を噛み締めてしまう。
双方とも、じわりじわりと傷を増やしている。
どれも軽症だが、たとえ擦り傷程度であっても数が増えるほど消耗はする。
このまま戦いが進んだその先で、立っていられるのははたしてどちらなのか。体力という面を思えば、天秤は竜であるアライトに傾くのではないか。
ふたりが打ち合う重い金属音に、咆哮や叫びが混じる。
このまま長引けば長引くほど、戦いはエルヴィラに不利になるだろう。その時、僕にはいったい何ができるだろうか。
エルヴィラはきっと誓いを違えない。なら、僕がどうにかするしかない――エルヴィラがそれを善しとするなら、だけど。
「絶対無理か」
エルヴィラは良くも悪くも素直で、戦いや誓いに関しては非常に真摯だ。そもそも腹芸ができるような性格なら、こんなことにはなっていない。
なんて面倒臭いんだ。
「クラーケンの時も思ったが、あんた人間のくせに結構やるな」
「感心したか? 降参ならいつでも受け付けてやるが?」
いったん離れて体勢を立て直しながら、ふたりはそんな言葉を交わす。エルヴィラもアライトも息が上がり、大きく肩が動いていた。
それでも戦意の衰える気配はない。
まだまだやれるという意思表示か、相変わらずの不敵な笑みは浮かべたまま、エルヴィラは中段に剣を構えた。
アライトもじっと目を細め、油断なく低く身構えた。牙を打ち鳴らして威嚇の音を立て、エルヴィラににやりと笑い返す。
鬨の声と共に、ふたたびエルヴィラが走り出す。
充分に速度の乗った突撃は、竜であっても逸らし切れなかったらしい。アライトの肩口から首にかけての鱗が割れて、結構な血が流れる。
そしてエルヴィラも、アライトの爪を完全には避けられなかった。薙ぎ払う爪に引っ掛けられ、一撃を入れた直後、横に吹き飛んでしまったのだ。
それでも完全に倒れ込むことなく、たたらを踏んでどうにか踏みとどまりはしているが――お互い、とても無傷とは言えない格好だった。
本当に、手の出せない自分の立場がもどかしい。
エルヴィラの力量で僕の歌の後押しさえあれば、こんな戦い、すぐに決着は付いただろうに。
エルヴィラは無言で目を眇めて、もう一度剣を構えた。油断なく腰を落とし、頭の横に真っ直ぐ剣を立てる……剣術では基本とされ、攻撃と防御のどちらにもすぐに移れる、上段の構えだ。
アライトもシュウと息を吐いて、がちんと牙を大きく打ち鳴らす。パチパチと弾けるように火花が散るのは、体内に溜まった雷のせいだろう。
そこから、隙と間合いをはかりつつ、じりじりと回り込むように間を詰めていき――エルヴィラが鋭く一歩を踏み込んだ。刀身を滑らせるようにしてアライトの爪と牙を受け流し、その勢いは殺さずそのまま身体をくるりと捻らせる。
「させねえよ!」
それでも爪を完全に弾くことはできなかったのか、それともアライトにその動きを読まれていたのか、剣の柄からエルヴィラの手が離れてしまう。
アライトの爪に奪われた剣が、地面を転がっていく。
「エルヴィラ!?」
僕は堪らず身体を乗り出した。
「かかったなクソ竜!」
が、高らかに嘲る声とともに、エルヴィラはアライトの前脚を踏み台に、瞬く間にその背に乗り上げていた。
いつのまにか、鞘に入れたままの短剣まで手にしている。
「何!?」
驚きにか、アライトの動きが一瞬止まる。
その隙を逃さず、エルヴィラはアライトの首に手足を回し――腕の長さの足りない分は、その短剣で補うようにして、締め上げ始めた。
脚も首元に絡め、外れないようにがっちり挟み込んでいる。
エルヴィラはそのままアライトの首を背中側に反らすようにたわめていく。さすがの竜であっても、牙も爪も届かないその場所に陣取られては堪らない。
おまけに、首は容赦なく締め上げられ、たわめられていく。
「うわあ……」
エルヴィラがしてやったりという顔でくくくと笑い始めた。
僕は思わず自分の喉のあたりを確かめるようにさすってしまう。
「驕ったな、クソ竜」
「ぐっ……」
「貴様の慢心は呆れるほどだったぞ。私が貴様の半分もない大きさだと思って侮るからだ。このザマは、己の油断が招いたものだと知れ」
「な、なんてこと……」
アライトは、はくはくと喘いで目を白黒させる。
息を長く止められる竜にとって、呼吸を止められるのはさほど問題ではない。首の血流を止められることのほうが辛いだろう。
エルヴィラは、ぎりぎりと締め上げる腕と絡めた脚にいっそう力を込めていく。
いかに難しい体勢とはいっても、アライトが力任せに振り解けないなんて、どんな馬鹿力なのか。本当に人間か。
「負けを認めるなら今のうちだぞ、クソ竜」
「な――!」
暴れようにも暴れられず、アライトはどうにもエルヴィラの手足を外すことができず、もがくばかりだ。
「そうやって暴れるうちに、首が折れるかもしれんな」
エルヴィラが笑いながら低く囁いた。
アライトの身体がびくっと震えて動きが止まる。
こんな風に人間に締め上げられるなんて、これまで無かったんだろう。アライトの目に、恐怖が滲み始めた。
「これは爺様仕込みの締め技だ」
また、猛将ブライアンか。
孫娘にいったい何を仕込んでいるんだ。
「私が子供で、身体がまだ今の半分くらいのころから容赦なく叩き込まれたんだぞ。貴様なんぞに外せるわけがない」
さらにたわめられた首の骨が、ポキ、と嫌な音を立てる。
アライトは恐怖に大きく目を見開いたまま、ぐるぐると視線を動かした。なぜ、たかが人間から、自分がこんな目に合わされているのかわからないという表情で。
「さあ選べ」
エルヴィラはさらに声を低くアライトに囁きかける。
どっちが悪役だ、という顔で。
「このまま絞め殺されるか、おとなしく負けを認めるかを、選ぶがいい」
ぴくりアライトの身体が揺れる。
数度カチカチと牙を鳴らして――
「負けを認めるくらいなら死を選ぶというのでも構わんのだぞ?」
エルヴィラが追い討ちをかける。
「お前の誇りはきっとミケが余すところなく後世に伝えてくれるからな」
また、アライトの身体がカタカタと震えた。
エルヴィラがすうっと目を眇めて、口角を上げる。
「死にたいのであれば安心して死ねばいい。
どうするのだ、竜。死か敗北か、好きなほうを選ばせてやるぞ」
くつくつと不気味に笑いながら、エルヴィラの腕がさらに首をたわめる。首の骨が、音を立ててぎしぎしと軋む。
これ以上は反らせないという限界に達したのか、アライトはとうとう完全に動きを止めた。このまま降参しなければ、エルヴィラは本当に首を折るだろう。
アライトはどうするつもりなのか……僕も固唾を呑んで勝負の行き先を見守る。
「う、あ……っ!」
「――なっ!?」
呻き声をあげるアライトの姿が、フッと歪んで消えた。
「どこへ行った、クソ竜め!」
エルヴィラがどすんと地べたに落ちた。
一瞬だけ呆然としてかり慌てて周囲を見回し、すぐに止まった視線の先には、大広間の片隅に逃げていく一匹の小さな蛇がいた。
「――まさか、貴様がクソ竜か」
エルヴィラは立ち上がり、悠然と蛇へ向かう。
手の短剣の鞘を払い、肩を怒らせるエルヴィラを、蛇が怯え切った顔で見上げた。大広間の壁に背を押し付けて、短剣の鋒を突き付けるエルヴィラを震えながら見つめる。
「あ……えーと、これは、エルヴィラの勝ちだ、ね――」
エルヴィラの勝利を宣言する……が、とうとう我慢できなくなって、僕は思いっきり噴き出してしまった。
「貴様それでも竜か!」
エルヴィラの怒号が響く。
どうやら、自分の勝利を今ひとつ納得しきれていないらしい。
「竜は誇り高い生き物じゃなかったのか! まさか変身して逃げ出すなどとは笑止千万だ! 貴様は今日から竜を名乗るのをやめろ!」
エルヴィラの剣幕に、アライトは蛇のままさらに震え上がった。手にした短剣でそのまま二枚に下されるんじゃないか、みたいな怯えようだ。
その怯えように思い切り顔を顰めて、エルヴィラはその首を素早く掴み取り、ぶらぶらとぶら下げる。ついと目を逸らすアライトの顔をしばし覗き込んでフンと鼻を鳴らすと、「ヘタレクソ竜め」と吐き捨ててぽいと放り捨ててしまった。
「もう二度と不埒なことを考えるなよ、クソ竜」
地べたに這いつくばったまま必死に頷く蛇に、エルヴィラは、ふと、何か思い付いたようににやりと笑う。
「今回のことはミケによーく広めてもらう。楽しみにしていろ」
「そっ、それだけはやめてくれ!」
ハッと目を見開いた蛇は、慌てて首をもたげた。
「何がやめてくれだ。貴様自身のしでかした所業だぞ。存分に広めてやる」
「反省してるから! お願いだ!」
「知らん」
「頼む! そんな格好悪い話……」
「貴様は実際ヘタレのクソ竜なんだぞ。事実を語って何が悪い!」
フン、ともう一度鼻を鳴らしたエルヴィラは、蛇を無視して僕を振り返った。
あまりにもあまりな結果に腹が痛いと、これ以上なく笑い転げる僕へ、「帰ろう!」と満面の笑顔で声を掛けて歩き出す。
すっかり日の暮れた海岸を、僕とエルヴィラはのんびりと歩いた。
町へ戻る間も、宿に帰ってからも、僕はずっと笑い通しだ。こんな“竜との決闘”なんて、これまで見たことも聞いたこともない。きっと、これまでもこれからも、こんな顛末に終わる“竜退治”の物語なんてないだろう。
「――君さ、先祖に巨人でもいるの? 竜を締め落とす人間の騎士なんて、さすがの僕も聞いたことないよ」
「爺様が、背後から首絞めて脅すと大抵の奴の心は折れるって言ってたんだ。
爺様の言葉は本当だったな!」
笑いながら話すエルヴィラは、実のところ、自分が本当に竜の首を折れるなんて思ってなかったし、本当に竜が脅されてくれるかも賭けだったんだと続けた。
「それにしたって、竜の首を締め上げたうえに折るぞって脅すなんて発想、ふつうのひとには無いよ」
「母上が小柄だから、私もあまり大きくならないんじゃないかって、爺様が心配して伝授してくれたんだ。
身体の大きな奴でも――大人が相手でも弱点を取れば勝つ方法はあるぞって」
「いや、それは人間同士の話だろう?」
きょとんと不思議そうに、エルヴィラは僕を見返す。
「だって、竜だろうが何だろうが、同じだろう? あいつは大きかったから、単純にやれば力負けするなと思ったんだ。
それに爺様は私が子供でも容赦なくしごいてくれたから、爺様のおかげだ」
――戦神教会の“猛将司祭”の逸話はかなり破天荒なものが多い。
だからこれまで、僕は大抵の英雄譚がそうであるように、猛将の逸話も、聴衆がより楽しめるようにと大袈裟に語られてるんだろうと考えていた。
でも、猛将の孫娘がこの調子なのだ。
もしかしたら、あれはすべて本当のことなのかもしれない。
「君の家って本当にむちゃくちゃだよね」
「そうか?」
どこがおかしいのだろうとしきりに首を捻るエルヴィラの横で、僕はいつまでも笑い続けていた。