新たなる夫候補を
「どこにも葡萄の肉なんてないじゃないか」
「本当に信じるとか、君、チョロいってよく言われるでしょ」
「騙された。クソ詩人の言うことなんて、信じちゃいけなかったんだ」
流麗な文字で書かれたメニューの一覧を睨みながら、エルヴィラが唸る。
どうやら、道中に語った“葡萄の肉”のことをずっと信じていたらしい。
僕が受け取ったメニューをいきなり取り上げると、嬉々としてめくって確認したが、どこにも“葡萄の肉”など見つからなかった。あたりまえだ。ないものが載っているわけがない。何度も何度も繰り返し確認するうちに、期待が空振りに終わったことを悟り、エルヴィラはみるみるうちに落胆していった。
その表情の変化は少しだけ面白くて、少しだけ僕の溜飲を下げた。
ともかく、普通に考えて、そんなものがあったら都の魔術師が放っておくわけがない。都で噂のひとつも聞かなかった時点で気づけばいいのに、やっぱり馬鹿だ。
「クソ詩人の言葉を信じるなんて、エルヴィラ・カーリスの名折れだ。一生の不覚だ。これじゃ、爺さまにも兄上にも申し訳が立たない」
「ほら、気が済んだらそれ貸して。注文は適当にこっちでするから」
「もう何でもいい。食べられるものなら何でも食べる」
剥れたエルヴィラはそれきり黙り込んでしまった。まるで我儘な子供のように。
僕は肩を竦めて給仕を呼び、前菜やメインなどを選んでは次々に注文していった。もちろん、この町自慢のワインもだ。
この店に来る客は、ほとんどが裕福な平民だ。貴族を相手にする店よりもずっと固苦しさはないが、下町の酒場のような騒がしさも無い。落ち着いて、気楽に寛げるようにと専属の楽団とも契約している。広く開けた場所では、ゆったりとした音楽に乗って、ダンスに興じる者もいる。
運ばれた料理を食べ始めてようやく“葡萄の肉”を諦めたのか。エルヴィラは、相変わらず剥れながらも料理に感心するという、器用な楽しみかたをしている。
とりあえず、食べている間は文句を言うつもりはないらしい。
「なあ、ミケ」
「だから、僕はミーケルだ」
「ミケ、これ普通の肉と違う。鳥っぽいのになんだか香ばしいんだ。塩も効いてるけど、それだけじゃなくって……チーズが入ってるのはわかったけど、あとは何だ?」
だから本当は“葡萄の肉”もあるんだろうという期待を込めてか、目を輝かせて尋ねるエルヴィラに僕は呆れた。どれだけ諦めが悪いのだ。
「そりゃそうだよ。これは、この辺りでたくさん飼われてる鳥の胸肉に燻製肉とチーズを挟んでカツレツにしてるんだ。この町の郷土料理みたいなものだね」
「じゃあ、このソースは?」
「ああ、この季節に取れるキノコを使ったクリームソースだ。旬なだけあって、キノコの味が濃くておいしいだろう?」
「ああ! クリームもすごい。しっかりクリームって感じがする!」
しっかりクリームってなんだろう。
言わんとしたいことはわかるけど。
「葡萄の肉が嘘だったのは残念だが、このカツレツで勘弁してやる」
「なんだよそれ」
いったい誰が勘弁しろなんて言ったのかとやっぱり呆れるが、やたら機嫌よく肉を口に放り込む姿に、まあいいかと思い直す。
「お腹いっぱいだ」
エルヴィラは、ふうっとひと息吐いた。
どの皿も結構な量だったはずなのに、すべて食べ切るなんて驚きだ。“聖女の町”でも思ったが、騎士にしたってよく食べる。
だけど、これで終わりじゃないのにな。
「まだ本当のメインが残ってるよ」
「なん……だと?」
本当のメインだと? と目を瞠るエルヴィラを笑って、僕は給仕に合図を送った。
「“葡萄の肉”か? 本当はあったのか?」
「だからなんでそうなるんだよ。それに、まだ肉を食べようっていうのか」
「あとひと切れくらいなら平気だぞ」
「……どれだけ食べれば気が済むんだ」
「食べられるときに食べておくのも騎士の仕事なんだ」
もっともらしいことを得意げに言うが、単なる大食いじゃないのか。
「ほとんど旅できっつい鍛錬なんかしてないくせに。いい加減限度を知らないと、腹が出て段になるよ」
「なに! 私の腹筋はちゃんと割れてるぞ、馬鹿にするな!」
「服をめくるな! 見せなくていい!」
そこへ、カチャカチャと小さな音を立てて、少し変わったティーセットのような食器を持った給仕が現れた。
「これは?」
「いいから。黙っておとなしく見てなよ」
しっかりと足までついた背の高いカップに、給仕が小さく固めた砂糖の塊をころんと入れた。手早く小さな瓶の蓋を開け、そこに少しだけ酒を注ぐ。ほんのりとした葡萄と強い酒精の香りが立ち昇り、エルヴィラが目を丸くする。
「酒? でもワインじゃないぞ!」
「そう。ブランデーだよ。この地域のワインを蒸留して作ったやつだ」
「はい。当店ではこのために用意した品を使っております」
給仕はにっこり笑って頷くと、次に、炭壺の中から小さな火箸のような道具で炭のかけらを摘み上げた。ゆっくりとカップの中へと差し込み、酒を含ませた砂糖の塊に近づけて、ぽっという音とともに炎を灯す。
「わ、あ」
ゆらゆら揺れる青みのある炎に、エルヴィラはたちまち見入ってしまう。「どう?」と笑って尋ねても、上の空だ。
やはり、こういうものをあらかじめ教えてしまうのはつまらない。
きらきらと目を輝かせるエルヴィラの目の前で、給仕はタイミングを見計いポットを掲げ持つ。ひたすらじっと見つめるエルヴィラに微笑ましげに目を細め、炎の灯るカップへといっきに黒い液体を注ぎ入れた。
「カフェだ!」
カフェが注がれ炎の消えたカップからは、甘さと香ばしさの入り混じった、なんとも言えない香りが漂う。
南方特産の豆を炒って煮出した“カフェ”は、以前からこの辺りではよく飲まれている飲み物だ。最近、ようやく都でも見かけるようになったが、まだまだよく知られているとは言えない。
それにしても、この芳しい香りを吸い込むと、もう満腹のはずがまだ食べられそうだと思えてしまうから不思議だ。
大騒ぎのエルヴィラににっこりと微笑み、給仕はカフェをゆっくりとかきまぜる。最後に、しっかりと泡立ててふわふわの、しかしこってりと甘いクリームをたっぷりと乗せて、僕たちの目の前にカップを差し出した。
ようやく、“葡萄の町風カフェ”が完成したのだ。
「どうぞ」
一礼して立ち去る給仕に目をやって、僕はほくほくとカフェの香りを吸い込んだ。
カップから立ち昇るクリームと葡萄とカフェの混じった香りは、ここでしか味わえないものだ。
「この町で“カフェ”って言ったらこれなんだよ。この地方特産のワインから作ったブランデーを砂糖に染み込ませて、火をつけて酒精を飛ばすんだ。そこにカフェを注ぎ入れて、甘いクリームと合わせて出来上がり。
この店が最初に始めたんだってさ」
「へえ」
エルヴィラがスプーンを取って、少しだけクリームを舐めた。それから下のほうからカフェも掬い取って舐めて……いきなり顔を顰めてしまう。
この“葡萄の町風”で使うカフェはかなり濃く煮出しているから、きっとものすごく苦かったんだろう。
思わず噴き出して、笑ってしまう。
「馬鹿だな、ちゃんと混ぜて飲まなきゃ苦いに決まってるだろ?」
「念のため、確かめただけだ」
笑いながら、僕はじっくりとカフェのクリームを混ぜ始める。
負け惜しみのようにじろりと睨んで来るエルヴィラは構わずに、少しずつクリームを崩してはカフェに溶かしていった。こんもりと高く盛られているのに、いっぺんになんて溶かそうとしたら、崩れてこぼれてしまう。
クリームに集中している僕をじっと見ていたエルヴィラが、「なあ、ミケ」と急に首を傾げた。
「なんだよ。あと、僕はミケじゃなくてミーケルだって言ってるだろ」
「ひとつ気になってたんだが」
いったい何が気になってるんだろう。僕が顔を上げると、至極真剣な顔で、エルヴィラが口を開いた。
「お前、次に行く町ってどう決めてるんだ?」
「なんだそんなことか。適当だよ。気分だね」
だけど、質問はかなりどうでもいいことで……僕はすぐにカフェへと視線を戻し、クリームがよく混ざったことを確認して、こくりとひと口飲みこんだ。
ああ、やはりここのカフェがいちばんだ。
苦みと甘みとほのかなブランデーの香りと、それから、炎では完全に飛ばなかったアルコールのぴりっと鼻に抜けるような刺激のバランスがなんとも言えない。
この町に来てよかった。
ゆっくり口の中で転がして味わって、僕は、ほうと吐息を漏らす。
「まあ、強いて言えば、これが飲みたかったから今回はここに来たんだ」
「ふうん。どうりで行く場所に一貫性がないと思った」
一貫性がないとはどういう意味だ。
エルヴィラの言葉に、僕の眉が上がる。
「僕はこれでずっとやってきてるんだ。文句は言わせないよ」
「別に文句を言うつもりはない。ただ、そうかと思っただけだ」
「……あ、そ」
まったく物おじしないエルヴィラの態度に、カフェを飲みながら、僕はやりづらくなったなと考える。
少し前までは、なんだかんだと子犬のように素直に言うことを聞いてたくせに、妙に突っ掛かるようにもなったのだ。
端的に言えばひと言多くなったというか。
本当に、“聖女の町”で、なにがあったのだろうか。どうして自分はエルヴィラの“初志貫徹”を了承してしまったのか。
知らず、溜息が漏れてしまう。
「これ……」
上がった声にちらりと目をやると、エルヴィラがもうひと口、もうひと口とカフェを飲んでいくところだった。
ようやくこの美味しさがわかったのか
「すごいな。混ぜただけで美味しくなったぞ!」
「さすが元祖の味だろう?」
「たしかに!」
夢中で飲み進めるエルヴィラに、そうだろうと僕は頷いた。あっという間にごくごくと飲み干して名残惜しそうにカップを覗く顔にも、つい笑ってしまう。
「そんなにいっきに飲むものじゃないだろ。もっとゆっくり味わって飲めよ」
「だって、すごく美味しかったんだ……」
いつまでも残念そうに、エルヴィラはカップを覗いていた。
「まだしばらくこの町にいるんだ。また飲めばいいだろう?
それより、この町での仕事だけど」
カフェを堪能し終わったところで、僕は切り出した。
この店へ入る前、馴染みの酒場に立ち寄り、挨拶ついでに仕事はないかとも聞いてあったのだ。
「この町でもいちばんの高級なワイン酒場での演奏だよ。ちょっと奥まった場所にある、会員制の、貴族の出入りもある店だ」
「そんな店があるのか!」
驚いた顔できょろきょろと周りを見回すエルヴィラに、ミーケルはくすりと笑う。もちろん、いかにオープンなテラス席に座っているとはいえ、この店からすぐに覗けるような場所にあるわけがない。
「ここへ来る前に寄っただろ? まあ、そうは言っても、君は護衛騎士として演奏中の僕の側に控えることになるから、あまり期待はできないだろうね。誰が来るのかまではわからないし、話をする暇ができるとも思えない」
エルヴィラは至極真面目な顔で頷いた。前回ほどの大騒ぎはしないんだな、と僕は軽く首を傾げる。
「貴族の側付や護衛に近づく機会はあるかもしれないけど、運と君次第かな」
「わかった」
こくんと頷き、カップの底にわずかに残ったカフェをじっと見るエルヴィラのようすは、“聖女の町”の時とはやっぱり違う。
とはいえ、今回ばかりはさすがの僕も、うまく誰かを捕まえられるなんて思っていない。何せ、演奏中ずっと僕の後ろに控えるのだ。ああいう酒場で演奏中の詩人に寄ってくる者はいないし、こちらが寄っていくこともないのだ。
「それと、夕方は早めに店に行くから。宿に戻ったらすぐ、貴族の前に出てもおかしくないような用意はしといてよ」
「もちろんだ」
エルヴィラはステーキの4〜500g程度なら、前菜スープ等も一緒に普通に食べきれます。
■チキンのカツレツ
要するに、鶏胸肉でチーズとベーコン挟んで揚げたチキンカツ(だが衣は唐揚げ並に薄い)
胡椒とベーコンの香ばしさで美味かった。
正式名称がなんかあったはずだが忘れてしまった。
ドイツのリューデスハイム付近の料理、だった記憶がほんのり。
■リューデスハイマーカフェ
本文にある通りの作り方をするブランデー入りウィンナーコーヒー……とでもいう飲み物。
うまそうだったが運転があったので飲んでない。
次の機会があったら絶対飲むぞと決めている。
 





