振り出しに戻る
晴れない気分のまま酒場に入り、酒を注文した。
飲みながら、今回のことでさすがのエルヴィラも逃げ出すだろうと考える。これでなお留まっていたら、エルヴィラは本当の馬鹿だ。
……それに、そもそも自分には無理やり女をどうにかする趣味などないというのに、なんであんなことになったのか。
まったくもって気分が悪い。
全部、あの馬鹿女が悪い。
僕はひとつ息を吐いて、リュートを膝の上に置いてぽろんと鳴らす。
弦の張りを確認するように2、3音鳴らすと、そばの席の男が酒をあおりながら、「兄さん、詩人か?」と声を掛けてきた。
「そう、何かリクエストがあるなら聞くよ」
「んー、なんかこう、楽しいやつを頼む」
ちゃりんと銅貨を投げてよこす男ににっこりと笑って、「承りました」と少し気取った風に返す。祭の舞踊にも使われるような陽気な曲を奏でだすと、すぐに次の曲を注文する者が現れた。
そうして、次から次へと曲の注文を聞きながら酒を飲み、料理を摘む。
領主や貴族に請われて改まった場所で演奏するのもいいが、こういう雑多なひとびとの集まる酒場であれこれ言葉を交わしながらの演奏は、また、違うものなのだ。
堅苦しいことを気遣う必要もなく、いっときの娯楽を提供しつつ、他愛もないお喋りに興じる。酒場で軽く交わされる単なる噂話に、重要な情報が混じっていることもある。領主や貴族のサロンで聞いた話が形を変え、あるいは元の形を留めたまま、聞こえてくることもある。
それに、貴族受けのする耳当たりがいいだけの曲ばかりでなく、気ままに指の赴くままにリュートを奏でたいことだってあるのだ。
少しばかりの硬貨と引き換えに、僕はいろいろな曲を奏で、お喋りに興じる。
「あ、やっぱり昨日の詩人さんでしたね」
聞き覚えのある声に顔を上げると、簡素な神官服に身を包んだ太陽神教会の教会長だった。にこにこと笑う彼の後ろには、今日はすっきりとした騎士服に剣を下げた奥方も控えている。
「教会長さんか」
「ここに座んなよ」
僕が何かを応えるよりも早く、周りの客たちが口ぐちに声を掛けた。
僕の目の前の椅子を勧められて軽く会釈をした教会長と奥方のふたりは、すとんとそこに腰を下ろす。
「ミーケルさんは、こういうところでも歌うんですね」
「ええ、はい」
給仕に酒と料理を頼む奥方の横で、教会長がきょとんと首を傾げる。
「領主ですとか、貴族ですとか、そういう高貴な方々のところにお呼ばれして歌うばかりと思ってました」
教会長の言葉に、僕もくすりと笑い返す。
「そう仰る教会長殿こそ、このような店にいらっしゃるなんて」
「私は司祭の家系ですけど、そもそも平民ですし。ミーケルさんのほうが、よっぽど高貴なお方のように見えますよ」
「そうですか?」
ね、ラシェル、と奥方に同意を求める教会長に、僕は肩を竦めた。
運ばれてきた麦酒のマグを受け取ると、教会長と奥方は周りのひとたちに軽く掲げてみせてから、口を付ける。
「教会長殿、何かリクエストはありますか?」
「そうですね……」
教会長は首を傾げてちょっと考える。
「“ふたりは末長く幸せに暮らしました”で終わる物語がいいですね」
「承りました。では……」
仲睦まじいふたりのようすは、僕が以前聞いた、遠い昔の、あのふたりの話を思い起こさせる。
「ご夫婦仲のよろしい教会長殿とその奥方に、僕のとっておきの話でも」
「それは、とても楽しみです」
わくわくとした顔で目を輝かせる教会長は、こうしてみると、まだ少年を脱したばかりの年相応の表情を浮かべていた。
「エリー、袖に気をつけてください」
嬉しそうに少し身を乗り出す彼の前から、邪魔な皿を除けて注意を促す奥方は、教会長よりも5つばかり年上だと聞いている。正義神教会と縁の深い家から、なぜ彼女が太陽神教会の護衛になり妻となったのか、少しだけ興味が湧いた。
そんなことをつらつらと考えながら、僕は、詩人として旅に出て間も無い頃に仕上げた物語を語り始める。
東の荒野の中にある不思議な森に暮らす、歌姫と護り竜。
今は誰も住むことのなくなった荒野の真ん中の、なぜかそこだけが穏やかな、時の流れに取り残されたような小さな森。
その森の中に住む、歌の精のような歌姫と、彼女を護る竜の物語。
“大災害”よりも遥か昔、世界がまだ穏やかで東西の行き来も盛んだった頃、ふたりが出会ってから今に至るまでの少し長い話だ。
「……ずっとふたりでって、いいですよね」
まるで恋物語にうっとりする貴族令嬢のように、教会長が溜息を吐く。
「私も、その竜みたいにラシェルを護って……」
「エリー、それじゃ逆ですよ。私があなたの護衛なんですから」
呆れたように言ってのける奥方とちょっと剥れた顔になる教会長に、ラシェルさんは町でも五指に入るくらいに強いから、と誰かが笑う。教会長さんのほうが姫だよな、などと他の者も囃し立てる。
嬉しそうに奥方の自慢を始める教会長と照れたように真っ赤になる奥方のようすから察するに、このやり取りはいつものことなのだろう。
あまりに奥方を讃える教会長に、僕もつい笑ってしまう。
「それは、ぜひ、教会長殿と麗しの奥方との出会い話もお伺いしないと」
「はい、もちろんです。ぜひラシェルの歌も作ってくださいね」
話をさし向ければ、にこにこと、しかし臆面もなく流れるように、教会長は奥方と初めて会った日から結婚を了承してもらうまでを語りだした。どうにも語りたくてしかたなかったというようすで。
教会長の「ラシェルは女神なんです」と言う言葉に、奥方は真っ赤になったまま「エリーは少し目が悪いんです」などと呟くだけだ。
「教会長殿は奥方専属の詩人になれそうですね」
僕が笑ってそう言えば、教会長も嬉しそうに「そうですか?」と笑う。
「と、ところで、ミーケル殿」
もういい加減話題を変えたくなったのか、奥方が大きく深呼吸をした。
「はい、なんでしょうか」
「その、護衛のエルヴィラ殿は、カーリス家のお嬢さんだと伺ったのですが」
「ああ。奥様はご存じでしたか」
頷く奥方は、カーリス家と並ぶ都の騎士家の名門、イフラクーム家の出身だ。
「私は直接の面識はないのですけど、上の兄が何度かカーリス家のご長男と手合わせをしているんです。あちらのご兄弟は全員がかなりの剣の使い手と聞いてますし、御祖父上も戦神の司祭らしく、かなりの猛者だったとも」
「ええ、そうですね」
たしかに、エルヴィラのカーリスという家名はそのカーリスだ。脳筋教会に仕える、生粋の脳筋一家のカーリス家。
……それにしても、と僕は改めて教会長の奥方を見やった。
同じ護衛騎士なのに、彼女とエルヴィラの差はなんだろうか。やっぱり頭の出来なのだろうか。
護衛を専門にする騎士家の出身であり、貴族をはじめ高貴なひとびとの護衛を請け負うことが多いというだけあって、奥方の所作は洗練されているし、言葉遣いも態度もそれに相応しいものだ。
比べて、エルヴィラはどうだろう。
いちおう侯爵家の姫の護衛をやってたはずなのに、この違いはなんなのか。騎士っていうのは、剣だけ凄ければいいってものじゃないはずだ。
「エルヴィラ殿は、今日は一緒ではないのですか?」
「え? ああ、彼女は部屋で休んでいますよ」
「ミーケル殿さえよろしかったら、この町にいる間、エルヴィラ殿にいちどお手合わせをお願いしたいと思っているんです」
「では、伝えておきますね」
「よろしくお願いします」
けれど、にっこりと微笑む奥方は、いろいろなものがエルヴィラと違って見えるのに、やっぱり騎士なのか。
それからもあれこれ話をして、適当なところで切り上げて宿へと戻った。
エルヴィラはまだいるだろうか。
しかし、さすがの彼女でも、あんな目に遭わされてなおも自分が帰るまで留まっているなんて、とても思えなかった。きっと既に出て行ってしまっただろう。きっと部屋はもぬけの殻だろう。
はあ、と溜息を吐いて夜空を見上げる。
やってしまったことは仕方ない。
案の定、部屋には荷物は残っていたものの、エルヴィラの姿は消えていた。
これでまた、気楽なひとり旅か。
ベッドに転がって、次はどこへ向かおうかと考える。
町を出てから棒でも倒して方角を決めようか。この季節に名物が旬を迎えるのは、どのあたりだったか。
――前日からずっとろくに寝ていないし、身体だって疲れている。なのにあまり眠たくならない。くさくさした気分は続いたままで、うつらうつらとしては目を覚ますことを繰り返す。
とうとう朝を迎えて、いい加減気分を変えて仕切り直そうと起き上がったところに、キィ、と小さな音を立てて扉が開いた。
顔を向けると、扉の影から鮮やかな赤毛の頭がひょこんと覗き込み、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
「戻って来たんだ?」
すぐに視線を外して、僕はそれだけを言う。
荷物を取りに来ただけだという返答を予想していたのに、エルヴィラは何も言わなかった。ただ、部屋へ入るなり、すっと背を伸ばすと、夏空のような青い目で真っ直ぐに僕を見つめる。
「なに?」
控えの間に行かず、いったい何を始めるのか。訝しむように見ていると、エルヴィラは、ひとつ、大きく深呼吸をした。
「薬、もう、切れてるって」
「ふうん?」
ああ、“惚れ薬”のことか。
やっぱり解呪を頼んだのか、それとも昨日の件で効果が消えたのか。
「神官様にちゃんと見てもらったから、間違いないぞ」
「そう。じゃ、どうするの?」
関心なんてまったく無いという態度のまま尋ねる僕に、エルヴィラはぐっと顔を上げて、ふふ、と不敵に笑ってみせた。
「決まってる。初志貫徹するんだ」
「へえ?」
思わず視線を向ける僕を、エルヴィラは真っ直ぐに見返した。
昨日までとは違う表情に、あれ、と内心で首を捻る。
「じゃあ、まだ僕に付いてくるっていうこと?」
「ああ、最初の約束通りだ」
エルヴィラがきっぱりと言い切った。
いったい何があったらこんな風になれるんだ。
明らかに昨日までの態度とは違う。
「もう奥の手はないから、自分でがんばるしかないよ」
「わかってる。それに、もう薬はいらない」
「あ、そ」
妙にすっきりとした顔で笑うエルヴィラが気に入らない。
あんなに怯えて震えて泣いていたくせに。
「それにしても、また僕と一緒で本当にいいんだ? 昨日のこと、忘れたわけじゃないんだろう?」
「もちろんだとも。だが、私だってもう黙ってされるがままにはならないぞ。昨日は驚いただけで、本当は体術だって使えるんだ。2度目はない」
「……いいけどね」
鼻で笑う僕を、エルヴィラはやっぱり正面からじっと見据えて肩をそびやかす。
つい昨日まで、あんなに小動物のようにびくびくしていたくせに。
おもしろくない。
「お前に付いていくのは、私の夫探しに利点があるからだ。お前がいれば、この町の領主家みたいなよい家に出入りする機会も増える。
……とことんまで利用してやるからな、お前こそ覚悟しろ!」
おもしろくないが、受けて立とうじゃないか。
そこまで言うなら、エルヴィラがぐうの音も出ないほどの適任者を見つけて、さっさと夫としてあてがってやる。
「君こそ、ずいぶんと大口叩けるようになったんだね? 昨日は小鼠みたいに震えてたのにさ」
「うるさいな。私だってちゃんと考えてるし、大人になってるんだ!」
頬を膨らませて、けれど、目の光の強さはそのままに、エルヴィラは笑った。
その顔がなぜだかまぶしく見えて、僕は視線を外す。
「ま、いいや。ついてくるのは構わないよ。けど、それならまた僕の護衛騎士役はこなしてもらうから。もともとそういう約束だしね」
「ああ、任せろ」
エルヴィラが僕に向かってびしりと指を突き付け、高らかに宣言する。
「戦いと勝利の神の名と輝ける太陽に掛けて、このエルヴィラ・カーリスがしっかりとお前の護衛をしてやるぞ。ヘタレクソ詩人は、せいぜい私の背に隠れておけ!」
「ヘタレ……?」
眉を顰めて振り返ると、エルヴィラが愉快そうに笑っていた。
■エリファレット教会長
そろそろ19になる太陽神教会の高司祭。
奥方ラブ過ぎてつらいお年頃で、審美眼がどう考えてもどこかおかしい。
結婚までの彼の努力については、拙作「神官殿が残念で」をご参照ください。
■ラシェル
教会長の奥方。24歳。
都では騎士の家系と名高いイフラクーム家の出身のバランス型脳筋。
彼女の上の兄は、都の侯爵令嬢にこき使われたり悪魔混じりの詩人にからかわれたりという、心労の絶えない職場に勤めている。





